英語教育において「評価」はしばばしば矮小化されている。
世間ではしばしばTOEICの点数だけが話題にされる。学校関係者の中には文部科学省の評価の方針ばかりを金科玉条のように考える人も多い。いずれもそれらだけで思考停止し、「評価」とはそもそも何で、何のために行うのかを考えない。
テスティングに関しては良心的な研究者が多い。だが研究の多くは以前として数量的なものが多く、テストの社会的な影響力に関しては近年ようやく研究が本格化したばかりである。
テストや評価の心理的次元をきちんと考察している人はまだ少ない。学習者個人の心理だけでなく、学習集団の相互作用的心理までも捉えて「評価」を考え直し、テストや評価を再設計している人はさらに少ない。
この点で最近有名なのが田尻悟郎先生だろう。著書『(英語)授業改革論』にまとめられている実践は、評価を根源的に考え直し、授業を根源的に改革したものである。素晴らしい本だが、私はある媒体に既に書評を寄稿したので、ここには書かない。
■ 15年前からの寺島隆吉先生の「評価」実践
だが英語教育で「評価」を根本的に考え直し実践を再設計したのは、もちろん田尻先生が初めてというわけではない。この本は2002年の刊行だが、元々の原稿は寺島隆吉先生が1995-6年に研究社『現代英語教育』に連載していたものである(津田正さんが編集者だった時代だ!)。
寺島先生は、自らの実践を振り返り再構築しながら、「両端を掴み、両端を絡み合わせる」という原則(27ページ)などで学習集団を作り上げる。
そういった試みの中で寺島先生は、「評価」を捉え直す。以下は、その論点のいくつかである。
・評価とは実は「生徒に対する評価」ではなく、「教師が自分自身の力量に対してくだすもの」(35ページ)
・「関心・意欲・態度」で評価されるべきなのはまず教師自身(47ページ)
・教師の仕事は点数化し生徒を序列化することではなく、学習意欲を引き出し、さらにそれを発展させること(117ページ)
・もっと言えば、教育とは「自己と他者の発見」を用意してやることであって序列化ではない。(118ページ)
・「ここで確認しておきたいのは「本来、評価は他者にしてもらうものではなく自分でするものである」という点である。すなわち他者と比較しながら、何が自分の美点であり、何が自分の弱点なのかを知り、今後の到達目標を設定していくこと、言い換えれば「自己評価」こそが本来の評価であるべきだということである。」(119ページ)
もちろんこういったことを言うだけの人なら他にもいる。しかし寺島先生は、一つ一つの実践を、学習者の声を丁寧に(システマティックに)拾い上げながら、徹底的に考え直して作り上げていった。この実践報告から学べることは実に多い。
■ 「実践報告」とは何か
上に「実践報告」と書いたが、この本の第三部はまさに「実践報告」をどう書くかについてである。
寺島先生が論証しているのは、
などである。私は曲がりなりにも教師の語り(ナラティブ)を研究しようとしているが、啓発されること大であった。
上に「実践報告」と書いたが、この本の第三部はまさに「実践報告」をどう書くかについてである。
寺島先生が論証しているのは、
・実践報告が教師を育てること
・「失敗した実践」こそ分析して報告すべきこと
・「生徒による授業の成果」「実物」をできるだけ添えること
・実践報告でも文献情報はページ情報も含めて正確に記載すること
・可能な限り生徒の「顔」が見えるようにすること、
などである。私は曲がりなりにも教師の語り(ナラティブ)を研究しようとしているが、啓発されること大であった。
■ もっと「古典」を大切に
この本のよいところの一つは、板倉聖宣先生や大西忠治先生といった教育実践の「古典」を大切にすべきことを痛感させてくれることである。
「板倉聖宣」や「大西忠治」などといった名前を聞くと、「古い」とか「英語教育でない」と否定的な反応が返ってくることもしばしばであるが、そのように「新しい」「専門的」なものばかり求め続けることによって、英語教育界は井の中の蛙が驚嘆すべき忘却力でもって流行り廃りばかりに一喜一憂している状況に陥っているのではないか。
英語教育実践で評価をきちんと考えたいのなら、ぜひとも読んでおくべき一冊だろう。
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【広告】 というわけで教育実践を根源的に考え直すためには『リフレクティブな英語教育をめざして』と『危機に立つ日本の英語教育』もぜひ読んでね(笑)。
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