知恵を出そう。汗を出そう。勇気を出そう。
子どもには希望を伝えよう。
そのために、大人は真実を語り合おう。
この本については既に大津由紀雄先生の紹介やanfieldroadさんの紹介も出ているので、私なりに注目したところだけについて書きます。
■<意味順>とは
<意味順>とは単純に言い切ってしまえば下の図です。
ただし[だれ・なに]の「・」(中黒)は"A and/or B"(両方とも、あるいはどちらか一方だけ)を意味しますし(107ページ)、うえの要素の他にも(この地の文の[ ]表記は上の図の□表記を意味します)、[どのように(して)]と[なぜ]の要素が加わります(168ページ)。
この本ではこの<意味順>を手引きにして、中高生に、既に習った(あるいは現在習っている)英文法の全体像を理解させようとするものです。中学生だとまだ少し難しいかもしれませんが、高校生だと面白く読めるでしょうし、何より英語教師は、指導の参考になるでしょう。
また、この<意味順>の説明を理解した上で、この記事で紹介した「意味順ノート」で指導・学習することはきわめて有意義かと思います。この本と共にお薦めです。
■例外的な事例もうまくカバー
「こんなのはよく見るものではないか」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、田地野先生はこの<意味順>をうまく使って主語の位置にくるitやthereも(60-62ページ)、否定文・疑問文・感嘆文も(第6章)うまく説明します(田地野先生はとりあえず8割程度理解して全体像を理解することを優先させています (vページ))。この本一冊を通して、英文法全体に関するそれなりの統一的な説明が得られるというのがこの本の魅力です。(さらに「姉が一人います」といったこの<意味順>では扱いにくそうな例もきちんと説明しています(52-53ページ)。あるコラムでは"The kettle is boiling"といったメトノミー(換喩)についても説明して読者の知的関心を引いています(68ページ))。
■<意味順>の多段的展開
さらにこの<意味順>は多層的というか多段的に展開します。端的な例が有名なマザーグースで、次のように整理できます。
その他の様々な展開の詳細はぜひ本書を御覧ください。
■不必要なのは日本語でなく、わかりにくい文法用語だけ?
この<意味順>は非常に明快で、上にも述べましたように「意味順ノート」といった媒体でも実現可能です。この<意味順>に従うことで、学習者は英作文の大まかな指針を得ることができます。それにこの<意味順>では文法用語はあまり使われていません。ですから教師は、この<意味順>に習熟させる説明を日本語でした後、生徒に「意味順ノート」などで指導をすれば、学習の大きな助けとなります。
話題を読んだ新学習指導要領の「授業は英語で行なうことを基本とする」ですが、排除すべきは不必要でむやみに長い日本語の説明・解説であり、この<意味順>や他の簡明な文法事項については簡潔な日本語説明が、学習者の利益に適うことは現場教師の多くが同意してくれるものだろうと思います。
■規則と規則に従うこと
他にもこの本には巧みな比喩やエピソードの提示(86、93ページ)などの優れた特徴がありますが、ここで私の論点を付け加えますと、学習文法とは、それ自身の価値(体系の整合性や無矛盾性など)で評価されるべきものではなく、それがいかに学習者によって活用されうるかという点で評価されるべきということです。つまり学習文法の価値はそれ自身になく、それの使用にあるということです。
ウィトゲンシュタインは、「規則」と「規則に従うこと」の違いに関する論考で、例えば「→」といった単純な道しるべ(規則)に従う際(規則に従うこと)にも私たちの慣用・慣習の働きがあることを論じました(『哲学探究』198節以降)。
極論に聞こえるかもしれませんが、例えば政府に騙されるのが常の国などでは上のような道しるべ(規則)をみても、必ずその矢の方向とは反対に進むことを「規則に従うこと」とする人々がいるかももしれません。
そこまで極端な話にせずとも、ある規則体系(英文法や数学公式)を必ず誤って(あるいはしばしば誤って)使ってしまう学習者は存在します。ここで大切なのは規則自身ではなく、規則の使用(学習者が正しく英語や数学に習熟すること)なのですから、大切なのは規則が使用されやすいように作られているということです。学習文法においては、科学文法の厳密さが犠牲となっても「使いやすさ」(「わかりやすさ」を踏まえてそれよりも一歩進んだ概念です)が優先されるべきと信じるゆえんです。
ま、当たり前のことを述べているに過ぎないのですが(笑)、「規則だけがある行動を決定することはできない」「規則に従うには、その規則を一定の方法で解釈し、その解釈に基づいた形で行動するという過程が必要である」といったことについてウィトゲンシュタインは次のように言っています(Philosophical Investigationsから原文と英訳を引用しそれに拙訳を加えます。
Unser Paradox war dies: eine Regel könnte keine Handlungsweise bestimmen, da jede Handlungsweise mit der Regel in Übereinstimmung zu bringen sei. Die Antwort war: Ist jede mit der Regel in Übereinstimmung zu bringen, dann auch zum Widerspruch. Daher gäbe es hier weder Übereinstimmung noch Widerspruch. (201)
This was our paradox: no course of action could be determined by a rule, because every course of action can be brought into accord with the rule. The answer was: if every course of action can be brought into accord with the rule, then it can also be brought into conflict with it. And so there would be neither accord nor conflict here. (201)
私たちのパラドックスとはこうである。「ある行動を規則だけによって決定することはできない。なぜなら他のどんな行動もその規則に適うものとすることができるからである」。その真意とは次の通りである。「もしどんな行動も規則に適うものとすることができるのなら、どんな行動もその規則に適わないものとすることができる。ゆえにここには規則に適うとか適わないということについて語りえないとなろう。(201節)
学習英文法の例に強引に引き寄せて言い換えるとこうなりましょうか。
所定の英文を、英文法規則だけを覚えさせるだけで学習者から確実に産出させることはできない。なぜなら学習者は他の非文もその英文法規則から導き出せると規則を誤解・誤用する可能性があるからだ。だからこうも言える。「英文法を学習者はどのようにも誤解・誤用しうるとなれば、ここでは『英文法に従う』ということが無意味になりかねない。
ウィトゲンシュタインはさらに次のように述べます。有名な「規則に<私的に>従うこと」に関する箇所です。
Darum ist 'der Regel folgen' eine Praxis. Und der Regel zu folgen glauben ist nicht: der Regel folgen. Und darum kann man nicht der Regel 'privatim' folgen, weil sonst der Regel zu folgen glauben dasselbe wäre, wie der Regel folgen. (202)
That's why 'following a rule' is a practice. And to think one is following a rule is not to follow a rule. And that's why it's not possible to follow a rule 'privately'; otherwise, thinking one was following a rule would be the same thing as following it. (202)
だからこそ「規則に従う」というのは一つの実践である。自分は規則に従っていると思い込んでいることを、規則に従っていることと同じとしてはいけない。だから規則に「個人的に」従うことは不可能なのだ。もし規則に「個人的に」従うことが可能ならば、自分で規則に従っていると思い込むことと、規則に実際に従っていることが同じことになってしまうではないか。(202節)
再び学習英文法の例に強引に引き寄せて言い換えます。
だから「英文法に従う」というのは、単なる暗記を超えた、行動込みの一つの実践である。学習者が英文法を暗記したのだから、その学習者が英文法に従った行動ができると考えてはいけない。学習者は他人には不可解なやり方でその英文法に「個人的に」従うことがありうる。だから「英文法に従う」ということは、学習者個人の頭の中だけで完結する事と考えてはならない。「英文法に従う」というのは、学習者が他の英語話者のいる前で実際に自分で英語を使ってみる実践である。英文法を学ぶということを心的なことだけで完結させて考えてはならない。「英文法に従う」には「英文法に従う」共同体の中での行動が必要である。もちろんその行動においては、学習者は英文法から少しずれる・大きく離れる行動をも行いながらなんとか英語を使っていると他人に認められるにすぎないだろうが、それこそが実践の姿である。これは程度の差こそあれ母語話者にも当てはまることを忘れてはならない。
と、最後に蛇足を加えましたが、読みやすい本です。ぜひご一読を。そして生徒さんにも薦めてあげて下さい。
⇒アマゾンへ『〈意味順〉英作文のすすめ』 (岩波ジュニア新書)
Tweet
0 件のコメント:
コメントを投稿