2011年4月2日土曜日

鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫

渡米中時差ぼけで充分に睡眠が取れないまま学会に参加し、帰国したら3.11以降の疲れが一気に出たのか風邪をこじらせ、本日は一日中寝ておりました。本来は学会報告を書いたり、数々のメールに返事を書いたり、授業準備をしなければならないのでしょうが、どうも今日はそういう気になれず、帰りの飛行機の中で読んだ鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫)について今こうしてまとめようとしています。このまとめが終わったらまたひたすら寝ようと思っています。


この本は昭和19年の初めに書かれ12月に出版されたもので、第二次大戦の勃発当時から日本の敗戦を必至とみなしていた著者が、戦争・敗戦を超えて保持するべき思想としてこの「日本的霊性」という言葉を使ったと考えられます(解説274ページ)。

今回の震災でかけがえのない生命を失ってしまったご遺族の方々にはもう何と申し上げてよいかわかりません。私のように今回は被害を免れた地域の者の言葉がそういった方々の心を逆撫ですることを私は何よりも恐れます。

しかし、そうお断りを申し上げた上で、敢えて次の二つを申し上げます。


・今回の東日本大震災に匹敵する(あるいはそれを凌駕する)災厄を人間は歴史上数々経験している。

・人間は生まれたならば必ず死ぬ。


この二つの冷徹な事実にも関わらず人類は生き続けてきました。この二つからすれば希望なんて持ち得ないと考えることができるにもかかわらず、人間は子どもを産み、日々の暮らしを楽しいものにしようと努力を重ねてきました。

こういった災厄の時に、私たちはこれから人間の醜さと高貴さの両端を見続けるでしょう。人間の生が問われるのでしょう。そしてその答えのない問いかけこそが、人類を成熟させるのでしょう。


鈴木大拙は「鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即ち霊性の生活に目覚めたと言える」(51ページ)と言います。

鎌倉時代とは、約390年続いた平安時代の文化的成熟・爛熟を経ての大転換の時代でした。


鎌倉時代に、それまで長いあいだ外国との交通が途絶していたのが、また始められたという事実は、日本文化の発展史上決して見逃すべきでないと思う。平安時代が政治上に崩壊的気勢を示し、文化的に爛熟期をすぎて頽廃期に入ったとき何かの衝動が与えられないと、民族精神は萎靡(いび)不振、ついに取返しのつかぬほど腐敗するのであった。
そこへ大地の声が、農民を背景とする武家階級から上がって来た。そこへ南宋を圧迫した勢いで、日本の西辺を侵しきたらんとする蒙古民族の猛進が頻繁に伝わってくる。入宋の僧侶たちは新しき大陸の空気を呼吸して帰ってくる。今まで沈黙を守るよりほかなかった庶民階級の思想と感情が、武家文化 ―大地精神― を通じて開かれるようになる。何か日本民族の霊性そのものの響きがこの間に鳴りわたらなけばならぬのである。
果然、武家階級は禅道に入り、庶民階級は浄土思想を創案した。武家文化はさらに公卿文化を統摂することによりて、禅精神をして日本人の生活および芸術の中へ深く浸透せしめていった。一方、浄土系思想は日本霊性の直接的顕現として大地に親しむものの中に結実した。(78-79ページ ただし読みやすさのために改行を加えました)


鈴木大拙は鎌倉時代における日蓮宗神道五部書を蒙古来襲に対する重要な反応として指摘しながらも(51-52ページ)、浄土系思想と禅を日本的霊性の現れとしています(20ページ)。

この鎌倉時代の日本的霊性について鈴木大拙は次のように言います。


七百年後の今日に至るまで、大体において我らの品性・思想・信仰・情調を養うものになってきた。こんご恐らくは、こうして養われたことが基礎となって、その上に世界的な新しきものが築かれることと信ずる。ここに今日の日本人の使命がある。(51ページ)


鈴木大拙が「今日」とここで言う時、それは敗戦色濃厚な時節であったことは上にも述べた通りです。鈴木大拙は日本人が「霊性」を自覚し大切にすることこそが戦後に必須のことと考えていたのでしょうか。

浄土系思想(浄土教浄土真宗)とに関する説明は他所に譲るとして、そもそも「霊性」とは何でしょう。

鈴木大拙の解説によれば、精神(または心)を物(物質)に対峙させたものとするなら、霊性とは精神と異なります。霊性は、精神(心)と物(物質)という対峙する二つを包み、二つが実は一つであり、また一つであってもそのまま二つであることを見るものとしています(16ページ)。


今までの二元的世界が、相克相殺しないで、互譲し交歓し相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。いわば精神と物質の世界の裏にいま一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながらしかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直覚または自覚によりて可能になる。(16-17ページ)


このあたりの説明は禅的な語法ですので現代の私たちには少しわかりにくいかもしれません。西洋近代的な語法を使うなら、心と物を相互排他的に措定するデカルト的な二元論を否定する一元論でありながら、物的一元論ではなく、便法としての心身二元論的見方を排斥もしない見地と言えましょうか。(あるいは端的に現代日本語でいうところの「スピリチュアリティ」(spirituality)と言えるのかもしれません。)

心身二元論というのは西洋近代の根幹ですから、これを(西洋近代の枠組みで)議論して超克するのははなはだ困難です。しかし思いっきり日常的に(非科学的に?)考えるならば、例えばこの人間という存在も、私たちは物理的存在であると同時に心理的存在であり、この両側面は共に入り組み合って存在していると考えてはいませんでしょうか。人間は物的存在であり心理的存在であり、その両者を統合する意味で霊的な存在であるというわけです。

日本的霊性を鈴木大拙は次のようにも表現します。


明き心、清き心というものが、意識の表面に動かないでその最も深き処に沈潜していって、そこで無意識に無分別に莫妄想(まくもうぞう)に動くとき、日本的霊性が認識せられるのである。日本的霊性の特質は、その莫妄想のところに現れるのであるから、日本的生活の面にもおのずからそれが読みとられる。(26ページ)


「莫妄想」すなわち「生死、善悪、是非、勝敗など、二つの相対する概念を作り出し、その一方に執して苦しみ迷う」という意味での「妄想」を断つということが日本的霊性の現れだというわけです。

在日20年以上で現在は米国に帰ってしまった私の友人の米国人は、よく「日本にはなぜ超越的概念がないのに秩序が保たれているのだろう」と言っていました。この問いは、日本には善悪を分かつ西洋的な宗教がないのにどうして徳が保たれているのかという新渡戸稲造が『武士道』で紹介したある西洋人の問いにつながります。あるいは今回(も)世界が驚いた、災害時に日本ではなぜ整然とできたのだろう(少なくとも大規模な略奪はなかったのだろう)という問いにつながるかもしれません。

私たちはこれからも執着なき「明き心、清き心」を保てるのでしょうか(ちょうど『もののけ姫』の主人公アシタカが、もう誰も何が何だかわからなくなってしまった状況を「曇りなき眼で見定める」ことができたように)。

原発、復興、報道(上杉隆氏の告発に注目)を始めとして、これから私たちが対処しなければならない問題は山積しています(何度も言いますが3.11以前の日本の諸問題は悪化こそすれ消滅はしていません)。しかし、私などはウォルフレン氏が『日本 権力構造の謎』で指摘した構造の中に住み給料を貰っています。そのような人間が執着なき「明き心、清き心」を保ち、錯綜した現代社会を「曇りなき眼で見定め」、何より行動できるのでしょうか。

これから日本再生の営みが始まる中で、私たちは自らが善であり悪であり、是であり非であり、勝者であり敗者であるような思いを何度もするでしょう。そうして死ぬのが定めながら精一杯に生きるという根本矛盾を抱えながら生き続けてゆくでしょう。

その中で私たちは「明き心、清き心」あるいは「曇りなき眼」を保てるのか。複雑で複合的になってしまい誰にも最適解がわからない近代社会の構造の中で、私たちは人間らしさをどう実現してゆけばいいのでしょうか。

この際、日本の伝統文化は力になるのでしょうか。私はなると信じます。禅はもちろんのこと、念仏を唱える際にも「念仏する時は下腹に力を入れて姿勢を正して」と言い、茶道においても「お茶も矢張り胴の坐り」という日本文化(192ページ)には、近代の私たちが忘れてしまった心身一如の霊的な存在である人間についての深い洞察があるのではないでしょうか。


昨年の尖閣諸島問題に続き、今年のこの東日本大震災は、「文化的に爛熟期をすぎて頽廃期に入った」とさえも言える現代日本人に大きな衝撃を与えました。鎌倉時代の先達はこの混乱から、後年の世界各地の人々が讃える日本文化を創りあげました。21世紀の私たちは新たな文化を創りあげられるのか。

一週間の米国滞在から日本に帰ってきて違和感を覚えたことの一つは、NHKニュースのアナウンサーの、平安貴族と言うべきかあるいは現代の草食系男子と言うべきか、まるで他人事のように淡々と放射能被害について報道する態度でした。この冷静さはNHKの良さの一つでしょう。しかし上述した上杉隆氏の告発から考えるならある意味不気味ともいえるような思いに私は一瞬かられました。(もちろん私は扇情的な態度がよいと言っているわけではありません。念のため)。

日本の権力構造のできるだけ上に組み込まれようとしていた私たちは、いつのまにか、莫妄想(まくもうぞう)とは似ているようでまったく異なる、自らの安寧だけを願う思考停止の輩になっていたのではないでしょうか。そうして日本の権力構造の端にいる人、そこからはじき飛ばされそうになっている人の「大地の声」 ―権力構造を保とうとする人々にとっては耳障りな声― を有形無形の手段で抑圧していたのではないでしょうか。

しかし「日本のメディアが変わった10日間 小さなメディアの大きな力」の記事がまとめるように、今回の震災は、民衆 ―というより「多でありながら一であり、一でありながら多である」マルチチュード ―の「大地の声」をツイッターやブログで表現し、それらが「マルチチュードメディア」として誰も否定できない権力となったことを示しました。

鎌倉時代の日本人が平安時代の「あわれを知ること」という基盤の上に武士の潔き気風を育てた(110ページ)ように、現代の日本人は平成の文化的爛熟に基づきながらも新しい気風を注ぎ込むことができるのでしょうか。サムライを、西洋近代化を経たポスト近代において再生することができるのでしょうか。

未来は誰もわかりません。日本は再生し世界に対して新たな貢献ができる国となるのか、それとも衰退し誰もが憐れむ国と成り下がるのか ― わかりません。しかしこのように混迷すればするほど、私は先人の知恵に倣い「日本的霊性」を大切にしながら、道を見出したく思います。




⇒『日本的霊性 (岩波文庫)』

⇒『日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)』

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