知恵を出そう。汗を出そう。勇気を出そう。
子どもには希望を伝えよう。
そのために、大人は真実を語り合おう。
昨日の記事の記事の下に追記を7つ書きました。
そこでも書きましたが、北陸電力は志賀1号機臨界事故で「事故後に、所長以下関係者が発電所へ集まって対応を協議しましたが、約2ヵ月後に控えていた2号機着工などに影響があると考え、最終的に所長が外部へ報告しないことを決断しました」と告白しています。(http://www.rikuden.co.jp/shika1rinkai/jijitsu.html)
自民党の河野太郎氏は、日本の切り札であるはずの「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEED I)については、官邸も文部科学省も原子力安全委員会もどれも誰がSPEED Iのデータを開示できるかわかっていないということを暴露しています。(http://www.taro.org/2011/03/post-957.php)
しかもこれらのことがわかるのがマスメディアではなく、「ガジェット通信」といったいわば「キワモノ」メディアを通じてです。(http://getnews.jp/cat/%E7%B5%8C%E6%B8%88)
本日さらに知ったことは、台湾大震災当時の総統・李登輝氏は、地震発生1時間後に10万の軍の出動を命じ、翌早朝には自らヘリに乗り込んで被災地に入り、現地の自治体の首長に自由に使える相当額の現金を渡して、いかように使っても自分が責任を取ると言明したことでした。(http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110404/219295/?P=1)
これらのことから、私はやはり日本の「エスタブリッシュメント」である官僚・政界・財界・報道・学界などの複合体である「既得権益体制」は―私はその片隅に寄生し禄を食んでいます!―、多くの場合、身内の顔色を伺うぐらいの行動原理しかもたず、これまでの体制を保持・固持することはできても、現実的な決断や行動においてはほとんど無能である、と思わざるをえません。
チェルノブイリ原発事故後の被曝治療にあたったロバート・ゲイル博士は、日本の実際の対応をそれなりに評価しながらも、そのことを説得力をもって国民に説明できる人間が政府内にいないことが問題だと指摘しています。(http://diamond.jp/articles/-/11772)
ゲイル博士のそれなりの評価を考慮に入れるなら、日本の権力複合体(「既得権益体制」)の大きな問題は、明解・簡潔で合理的なコミュニケーション ―理性的であれば誰でも納得できるコミュニケーション― ができないことと解釈できるかもしれません(この合理的コミュニケーションの力にはコミュニケーションに必要な科学的知識も含まれています)。
あるいは日本の問題は、そういった合理的コミュニケーションが日本の「偉い人」の間では組織的に抑圧され続けているので、ついには日本の「偉い人」は、身内以外の人にはまともにコミュニケーションが取れない人ばかりになったと解釈するべきかもしれません。
明治維新と第二次大戦後に比する日本の大改革が必要だという「第三の開国」論は長年語られてきましたが、ついぞ本格的に動き出すことはありませんでした。
しかし、今回の震災および原発問題で、日本が自己改革できなかったら、もうこの国は衰亡を待ち、他国からは憐れみをかけられるだけの国となりかねません。
ところがこの「第三の開国」は、少なくとも第二次大戦後よりもはるかに困難な課題です。第二次大戦後は、いい意味でも悪い意味でもアメリカ主導で改革が進められましたから、日本はその大手術に受身的に耐えて経済的に復興するだけですみました(そして政治的・軍事的・社会的・文化的成熟に失敗したことはご承知の通りです)。
しかし今回の改革は、自己改革であり自己手術です。自らの手で、自らの身体にメスを入れなければなりません。しかも麻酔なしで。
ですから「第三の開国」は、第二次大戦後より、明治維新に比されるべきでしょう。
私は出張の飛行機の中で津本陽『小説渋沢栄一』(幻冬舎文庫)を読みましたが、その中で改めて学んだのは幕末から明治維新へ、そして国民国家の形成が、どれだけの大激動だったのかということです。
本当に日本はいつ新生国家として失敗してもおかしくなかった。何もかもが五里霧中で、誰が敵で味方かわからなくなりながら、日本を自己破壊し自己再生させるというのは、本当に国民がしっかりしていないとできることではありません。明治維新が世界史上の奇跡だと呼ばれることがよくわかりました。
さて平成の私たちは、それに匹敵するような自己改革ができるか。
そのためには、誰かがどこかで日本を新生させてくれるなどといった他力本願を捨て、極端に言えば国民一人ひとりが国のために何ができるかを考え、日本を作りかえるしかありません。幸い日本は民主主義です。民主主義は衆愚政治にも陥りますが、国民が覚醒していればこれほど可能性をもった政体はありません。
まずやるべきことは、日本の既得権益体制の人々に、徹底的に合理的なコミュニケーションをさせることでしょう。
といっても、できないことは何でも糾弾するというのでは決してありません。世の中で不可能なことはたくさんあります。不可能なことは(これこれの理由で)不可能であると明言させる。そして一般市民も幼児的クレーマーのようにそれについてヒステリックに騒がず、説明が合理的なら受け入れるだけの成熟さを育む。
そうして現在、考えられる最悪のシナリオとは何でありそれを避けるためには何をしているのか、また最良のシナリオは何でありその実現可能性はどうなのか、第二・第三の代替案とは何であり、どういう場合にその代替案を使うのか、といった徹底的に合理的で理性的なコミュニケーションをする ― 徹底的な自己改革にはこの方法が最上だと私は考えます。「偉大なる指導者」が登場してすべてを魔法のように解決してくれるのを待つことなどは決して選びたくありません。
ですからこれからは、日本の公益に関わる者には、徹底的に合理的なコミュニケーションを求める。
同時にお互いに、理性的であることを厳しく求め、決して幼児のようなクレーマーにはならない。
そうやって日本の公権力が発動する過程をどんどんと国の内外に開いてゆけば、人々は、日本が現実世界の中で自分なりの最善を果たしていることを理解するでしょう。そうすれば私たちは自分たちに誇りを取り戻すことができます。外国の方々からの敬意も取り戻せるかもしれません。
幕末から明治初期にかけては、驚くほど率直で合理的なコミュニケーションが行われたと私は理解します。平成の私たちがやるべきことは、その明治の社会文化から謀殺・暗殺といった暴力を取り除き、それに現代の科学的知識を加えて、率直で合理的な言語コミュニケーション文化を新生させることです。
その言語コミュニケーション文化の新生の際に、英語使用がこれまで以上に重要になることについては多言を要しないでしょう。
私は職業人としては大学・大学院で、合理的な言語コミュニケーションの力の育成のために努力します。市民としては既得権益体制にかなり組み込まれてしまっているマスメディアだけを信じることなく、多くの声に耳を傾け、自分なりに勇気をもって発言し、日本の公権力が理性的に行使されるよう努力します。
第三の開国とは、日本の権力構造の相互作用状況を国の内外に開くことです。。そのための合理的な言語コミュニケーション文化形成のために全力を尽くしたいと思います。
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