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以下は、ある学部ゼミ生による卒論の下調べのための読書記録です。
(1)柳瀬尚紀(2000)『翻訳はいかにすべきか』岩波新書
(2)鴻巣友季子(2008)『翻訳のココロ』ポプラ文庫
のまとめ
H.K.
(1)の本は、翻訳にあたって注意することを書いている。(2)の本は、翻訳を様々なこと(日常生活・武道など)になぞらえて、翻訳の性質を帰納的に見出すことを目的とした本である。二冊の本から読み取ったことを、三項目にまとめて以下に示す。
1. 翻訳は細部に至る
柳瀬は、「翻訳は細部の積重ね」であるという(p.9)。細部にこだわり、原文の意味するところを100%移し得たものが翻訳である。もちろん、言語を変える以上、100%同じものを作ることはできない。しかしそれでも、「可能なかぎり原作のもつ本質的なものを、あくまで移そうとするのが当然であろう」(p.68)と言う。これを怠れば、誤訳・訳殺を招いてしまう。つまり、“訳し間違い”や“直訳は出来ているが、原文の良さ・原文の本質を上手く訳出できていない”という要素を含んだ“直訳文”になってしまう。
1.1. 細部に至る「読み」―精読―
鴻巣が言うには、翻訳は「一字たちとも読み飛ばすということのない超・精読の作業」(鴻巣 p.27)であるという。 翻訳家は、“作品の構成”や“その作品から受ける感動・悲しみなどの感情”までも、すべてそのまま「彫り出して」表現しなければならない。そのためには、作品を細部まで読み込み、その感動を味わわなければならない。
つまり、翻訳する作品は、「超・精読の作業」をした作品であり、訳者が「何らかの形で動かされたのでなければ」ならない(柳瀬 p.119)。
1.2. 翻訳と原文の関係
翻訳には必ず原文がある。翻訳は、原文を翻訳文に書き換える作業である。鴻巣は、この“翻訳と原文(原典)の関係”と“翻訳までの過程”とをそれぞれ、“合気道”・“彫刻”になぞらえて説明している。以下は、鴻巣の例を私なりにまとめた物である。
1.2.1. 合気道における「原典」と「翻訳」
翻訳を合気道にたとえたとき、原典と翻訳文はそれぞれ“相手の力”と“演武”に置き換えることができる。合気道の演武では、相手の力を100%自分のものにして“技”を繰り出す。そこに自分の力は加わっていない。翻訳においても、原文のエッセンスを100%活かして日本語にし、そこに訳者の無理な解釈は入っていない。そして両者とも、上達に伴って、より「美しく、正確に」なる(鴻巣 p.59)。
1.2.2. 彫刻における「原典」と「翻訳」
ミケランジェロが言うには、彫刻は石を彫って作るのではない。石がもう形を持っているので、それを彫り出してやるのだそうだ。つまり、原典は“石”であり、石がもつ形をそのまま取り出した“彫刻”が翻訳文である。原文から「エッセンス」を取り出す、これが翻訳である。何か作ったり付けたしたりするのではなく、原文が最も伝えようとしている事を、あるがままに取り出す。あえて回りくどい言い方をしているならその通りに、韻を踏んでいるならその通りに、ジョークならその通りに訳す。この、「何も加えず」というのが難しい。
2. 「捨てる作業でもある」翻訳
細部に注意して100%移すことが翻訳の理想の形ではあるけれど、言語を変える実際の翻訳においては移しきれない点も出てくる。そこで重要になってくるのが、“取捨選択”である。翻訳においては、“何を訳すか”と同じくらい、“何を犠牲にするか”が重要である。
翻訳は「エッセンス」を取り出すものだと言った。エッセンスとは、韻文ならその“韻律”、ジョークならその“ジョーク”などの、「いちばん訳されたがっているパーツ」(鴻巣 p.69)である。原文の持つ意味・内容・ユーモアなどは、何が何でも翻訳文につぎ込まなくてはいけない。つまり、何かを犠牲にしてでも、柳瀬によるなら「言葉を曲げてでも」エッセンスは取り入れなければならない。
2.1. 書かれてある内容を曲げる
内容を曲げてしまっては元も子もないような気がするが、翻訳においては必要な場合がある。それは、“韻律詩”や“ジョーク”、“暗号”などを翻訳するときである。例えば韻律詩。何より重要な“韻”を活かすためには「リンゴがバナナになるのも、お許し願うこともある」(鴻巣P.67)。
2.2. 翻訳に使う言語を曲げる
要するに、“新語・造語”をつくる、また“「英和辞典の訳語を切取って貼付けただけの訳文」(柳瀬 p.80)にしない”ことである。これらは、原語の新語・造語の訳においてはもちろん、原語の特徴的な言い回しを表す時に使う必要があるだろう。
2.3. メッセージを曲げる
同じ原作からでも“読み方・受け取り方・訳し方”によっては様々な“翻訳”が得られることになる。読み方・受け取り方は、人間の価値観の違い・それまでに出版された「文学作品」などが影響するため、時代を経るごとに変わってくるだろうと鴻巣は主張する。ここでのエッセンス(メッセージ)は、「いまの時代に『読まれたがっている部分』」(鴻巣 p.144)とも言いかえることができる。つまり、時代によって訳が変わることもある(鴻巣は "The Catcher in The Rye"の村上春樹訳の"you"の訳し方を例に挙げている)。ただし思うに、不必要なバイアスをかけて訳すのではなく、“そういう読みも可能だ”という範囲においての話であろう。
3. 日本語としての翻訳
柳瀬は、この点に関して(1)の本で終始触れている。以下は、柳瀬の言わんとするところを私なりに解釈してまとめたものである。
外国文学を訳した文章とはいえ、翻訳語の文章は日本語である。いくら原文の単語の意味を一つ一つ忠実に訳しても、日本語としておかしいものは“翻訳文”としてもおかしい。原文を大切にするのはもちろんだが、大切にしすぎて日本語がおかしくなってしまっては本末転倒である。
しっかりした翻訳にするには、日本語と外国語の違い・文化の違いも知らなければならない。例えば、原文に代名詞があるからと言って、日本語にも代名詞を付ける必要はない。そのような「省略」は、「粗漏」ではない。原文にある「文字」を漏らさず訳すのではなく、原文の「本質」を日本語に移し替えるのである。以下に、おかしい日本語を生み出してしまう要因を3点にまとめる。
(a) 時制
言語によって、時制についての感覚はことなる。英語なら英語の、日本語なら日本語の時制の感覚がある。原文と翻訳文の時制を無理やりに合わせようものなら、不自然な翻訳文が出来上がってしまう。
(b) 省略
日本語は、主語・目的語・所有格などをよく省略する言語である。翻訳においても、これらすべてを訳出する必要はない。『彼のかばんを彼の肩にかけて、彼は出て行った』という風な直訳の文を見たことはあると思う。この文の「彼」をすべて消すと、『かばんを肩にかけ、出て行った』となる。前後の文脈さえあれば、「誰が・誰の」は言わずとも分かるだろう。それに何より、日本語らしい。
(c) 身体の捉え方
言語間において、身体の部分の捉え方が異なる場合がある。例えば、「鼻」に関して。日本では、人間にも象に「鼻」がある。しかし英語では、人間の鼻はnose、象の鼻はtrunkである。このような感覚の違いを知らずにいると、思わぬところで変な日本語に出くわすことになる。
以上述べてきたように、言語を変えたり、取捨選択等を通したりしてつくられるのが翻訳である。このことから翻訳文は、それだけで独立した一つの作品であり得るということが分かる。つまり、「原文にない厚みが加わっている」分、「意味の累積みたいなものが起き」ている翻訳文は、原典の「二倍楽しめるんじゃないか」(鴻巣 p.195)と考えることができるのではないだろうか。
⇒柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』岩波文庫
⇒鴻巣友季子『翻訳のココロ』ポプラ文庫
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