2010年11月9日火曜日

Bachman and Palmer (2010) 'Describing language use and language ability' in "Language Assessment in Practice" (OUP)







ここではBachman and Palmer (2010) Language Assessment in Practice: Developing Language Assessments and Justifying Their Use in the Real World (Oxford Applied Linguistics)の第三章である'Describing language use and language ability'について気がついたこと、特にFundamental Considerations in Language Testing(1990)やLanguage Testing in Practice(1996)と異なるところを書き残しておきます。



■基本的な考えは1990年から変わらず、Language Ability = Language Knowledge x Strategic Competence

この本での「言語力」(language ability)の基本的な考えは、Language Testing in Practice(1996)と同じと言ってもいいかと思います。

その1996年の考えも、基本的にはFundamental Considerations in Language Testing(1990)と一緒で、それはLanguage Ability = Language Knowledge x Strategic Competence つまり「言語力とは言語知識をうまく活用することにより生じる」とまとめられるかと思います。

この考えはWiddowson (1983) Learning Purpose and Language Useで展開した"capacity"(私は「活用力」と訳しています。詳しくは拙論「コミュニケーション能力論における「能力」関連諸概念」をお読みください)の考えに基づきます。Bachmanがいう"strategic competence"はCanaleやSwainなどが使う"communication strategies"の意味と違い、Widdowsonの"capacity"概念を発展したものだと考えられます。

ともあれこの本での「言語力」(language ability)―私は1990年のように「コミュニケーション的言語力」(communicative language ability)と呼んだ方がすっきりすると思うのですがそれはさておき―は次のように説明されています。



In this chapter we describe language ability as a capacity that enables language users to create and interpret discourse. We define language ability as consisting of two components: language knowledge and strategic competence. Other attributes of language users or test takers that we also need to consider are personal attributes, topical knowledge, affective schemata, and cognitive strategies. (p.33)


つまり「言語力」(language ability)の本質的要因は「言語知識(language knowledge)と「方略的能力」(strategic competence)だが、その他の要因として「個人的特性」(personal attributes)、「トピックに関する知識」(topical knowledge)、「感情の組成」(affective schemata)、「認知ストラテジー」(cognitive strategies)があるというわけです。



■2種類のinteraction

このように言語力には本質的要因として二つ、その他の個人的要因として四つがあります。これら六つは相互作用をおこしながら言語力となります。さらにその言語力は、言語使用の課題と状況(language use task and situation)―この中にはコミュニケーションの相手も含まれます―という外部要因とも相互作用をおこします。BachmanとPalmerは前者の個人内での相互作用と、後者の個人外での相互作用を区別します。


Language use, as we have defined it, involves two kinds of interactions: (1) those among the attributes of the individual language users, and (2) those between the language user and the characteristics of the language use situation, including other language users. (p. 34)


個人内でおきる相互作用は「内的に相互作用的」(internally interactive)、個人外でおきる相互作用は「外的に相互作用的」(externally interactive)と呼ばれます。後者のうち、複数の言語使用者が関わっている状態は「互変的言語使用」(reciprocal language use)、一人の言語使用者しか関わっていない場合は「非-互変的言語使用」(non-reciprocal language use)と呼ばれます。(p.34) この本の38ページには「互変的言語使用」が、36ページには「非-互変的言語使用」がそれぞれ図で表現されています。








■Cognitive strategiesの新設

言語力の個人内要因の非本質的要因に「認知ストラテジー」(cognitive strategies)があげられていますが、これは1990年の本にも1996年の本にも出ていなかった概念です。説明は以下の通りです。


Cognitive strategies are what language users employ when they execute plans, so as to realize these in language use, either in comprehending information in the discourse, or in co-constructing discourse with another interlocutor. (p,. 43)


これに続く本文でも、57ページの注3でも、この概念に関する本格的な議論はこの本の手に余るので、以下の本を参照されたしとあるだけで、きちんとした説明はこの本ではなされていません。

Bialystok, E. 1990. Communicative strategies. Cambridige, MA: Basil Blackwell.

Cohen, A.D. 1998. Strategies in Learning and Using a Second Language. New York: Addison-Wesley.

Oxford, R. 1996. Language Learning Strategies Around the World: Cross-Cultural Perspectives




■Strategic competenceは1990年以来の考え

もう一つの言語力の個人内要因の非本質的要因である「方略的能力」(strategic competence)は従来と同じ規定です。


Strategic competence can be thought of as higher-order metacognitive strategies that provide a management function in language use, as well as in other congitive activities. We view strategic competence as a set of metacognitive strategies. (p. 48)


具体的には次の三つの機能を果たすとされています。


Goal setting (deciding what one is going to do)
Appraising (taking stock of what is needed, what one has to work with, and how well one has done)
Planning (deciding how to use what one has) (p. 49)


つまり、「方略的能力」は、目的設定・見積り・計画の観点から、自らの言語知識(文法的知識(grammatical knowledge)とテクスト的知識(textual knowledge)からなる構成的知識(organizational knowledge)と、機能的知識(functional knowledge)と社会言語学的知識(sociolinguistic knowledge)からなる語用論的知識(pragmatic knowledge)をうまく活用し、他の認知的活動(たとえば認知的ストラテジー)とも協働させる、知のマネジメントであるというわけです(彼らはここで「メタ認知的ストラテジー」という用語を使っています)。「方略的能力」が言語内的資産である「言語知識」と言語外的資産である「認知的ストラテジー」を統合的に活用するという考えかと思われます。



■「四技能」(four skills)の枠組みを使い続けるのは思考の怠惰と惰性


この本のもう一つの特徴は、読む・書く・聞く・話すの「四技能」(four skills)を言語使用を考える際の理論的枠組として考えるのは止めようと提案するものです。これは遅すぎる提案と言えるぐらいで、私も正直、英語教育といえば四技能と言うのは、思考の怠惰であり惰性であると言えるかとも思います。

BachmanとPalmerが「技能」を理論枠組として使うことに反対する理由は、第一に「一つの技能」として一括りされる言語使用には大きな差があること(例、メモを取ることも論文を執筆することも「書くこと」である)、第二に同じように見える言語使用課題(例えば一人で本を黙読する)でも、そのトピックや読書の目的などにより様々に異なるというものです。(55ページ)これら二つの理由を受けて彼らは次のように主張します。


We would thus conceptualize "language skills" as the contextualized realizations of the capacity for language use in the performance of specific language use tasks. We would therefore argue that it is not useful to think in terms of "skills," but rather to think in terms of specific activities or tasks in which language is used purposefully. Thus, rather than attempting to define "speaking" as an abstract skill, it is more useful to identifiy a specific language use task that involves the activity of speaking, and describe it in terms of its task characteristics and the areas of language ability it engages. We would thus argue that the concept that has been called "skill" can be much more usefully seen as a specific combination of language ability and task characteristics. (p. 56)


「技能」とは特定の状況下で成立しているものであり、「技能」を抽象的に考えるのは有効ではないというわけです。

以上を第三章の簡単な報告とします。


関連記事:「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

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2010年11月2日火曜日

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性 (HTML版)

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性





広島大学 柳瀬陽介






1 序論


1.1 背景

 学校教育の「英語」に関する議論の特徴の一つは、それが世間の耳目を引く大きく単純な言い方で語られることである。小学校英語教育も、狙いや詳細が不明瞭なまま導入という基本路線だけが決定された(大津 2004, 2005, 2006, 2009)。2008年12月に公示された高等学校新指導要領でも「授業は英語で行なうことを基本とする」という文言はマスコミの注目するところとなり、多くの全国紙がこれを第一面で報道した。しかしこの指示が、高校英語教育の様々な状況を軽視した短兵急なものであることは多くの関係者に最初から認識されていたことであり(寺島 2009) 文部科学省も翌年の解説でトーンダウンした表現をとった。単純で一気呵成的な英語教育言説は研究者からも提示される。その一例として、英語支配を告発し批判する「言語帝国主義」(linguistic imperialism)批判言説(Phillipson 1992, 2010) がある(批判の対象はもっぱら英語支配なので、以下は「英語帝国主義批判言説」と呼ぶことにする)。英語帝国主義批判言説の論旨は明快で批判の舌鋒は鋭い。だがその反面、その批判を受けての現実的改革になると、言説が登場して約20年がたつ現在でも具体案は現れない。
 
 
1.2 目的

 あまりに単純な言説は極論から極論への振り子現象を招く(大谷 2007)。振り子現象は現実的な教育実践者の徒労感を招き、有効な現実改革をかえって遠ざける。言説の過度の単純化は阻止されるべきである。
 
 本稿は単純化がもたらされる要因の一つとして、言語使用に関する分析不足を仮説として掲げる。近代言語学は、言語体系の形式的分析に長足の進歩をとげたが、言語使用に関する分析は語用論や談話分析だけではまだ十分だとはいえない。言語使用をより大きな「コミュニケーション」や「社会」といった観点から分析したメディア論や社会学理論は英語教育研究にまだ統合されていない。本稿は、メディア論と社会学理論(社会分化論)を言語使用の分析概念として検討し、近年の英語教育言説の単純性を明らかにすることを目的とする。本稿の論証により、この目的が(部分的にせよ)達成されたなら、仮説として掲げた言語使用のコミュニケーション・社会的分析の妥当性が確認され、英語教育言説の現実化に貢献できる。
 
 これまでの研究では、Pennycook(2001)が、旧来の批判理論(Critical Theory)の教条性を指摘し、批判理論に対して批判的になる論考(いわば「批判的批判理論」)の必要性を説いている。本稿はPennycookに基づきながら―すなわち自らの立論に対する批判性を保ちながら―も、言語使用を従来よりも長い歴史的射程(メディア論)と広い理論的包括性(社会分化論)で検討する点で独自性をもつ。



2 分析枠組

2.1 メディア論

 メディア論は、「メディア」(=ある形式を伝達するための媒体)が変わることが、伝達の速度や分量といった量的側面だけでなく、伝達内容といった質的側面、ひいては人間の能力面にも大きな変革をもたらすということを歴史的に明らかにしている。新しいメディアは新しい文化を創出し、それまでの文化を再編成する。以下、ルーマン(1993/95, 柳瀬ホームページ記事, 2009 柳瀬ブログ記事12)、Ong(2002翻訳書))、大黒(2006)、Jaynes (1975/2000), Strate (2009)などに基づきながら、大きな時間枠組で言語コミュニケーション・メディアの変遷を総括し、6つの類型を提示する。
 
 
(1) 原初的音声活用力(Primary Orality)

 約10万年から5万年前に人類は音声を一定の形式に従って使用するコミュニケーションを行うようになった。「言語」の始原は一元的に規定できないが(ジャッケンドフ2006)、この頃に人類は原初的なやり方で音声言語をうまく使用する力を獲得しはじめたといえる。この力を原初的音声活用力(Ong (2002)の用語である"primary orality"の訳語)と呼ぶこととする(注)。原初的音声活用力は、現在の私たちの音声言語によるコミュニケーション力とは異なる。この時代、音声言語は行動に補助的に伴うのみであった。現代の言語は書記言語によって可能になった莫大な数の語彙と複雑な構文を使い、過去・現在・未来、現実・仮想世界などの事柄を自由に表現できるが、原初的な音声言語は身振り手振りだけのコミュニケーションによる意味のゆらぎを低減できた程度であった。
 
 
(2)原初的書記活用力(Proto-writing Literacy)

絵文字(pictogram)や表意文字(ideogram)の使用が新石器時代(7000 BC頃)から始まり、言語コミュニケーションに視覚メディアが加わった。ただしこの書記活用力も、現代の書記言語活用力とは異なる。原初的書記活用力ではせいぜい記憶補助としての文字使用に限られており、原初的音声活用力を部分的に補強しただけであった。


(3)筆記活用力(Manuscript Literacy)

 シュメール人の楔形文字(3500BC頃)やエジプト人の象形文字(3200BC頃)が、本格的な文字使用の始まりである。当初は収支の記録などに使われ、名前、数字、計量単位、可算名詞、いくつかの形容詞などしか表現できず、今でいう電報調の表現しかできなかった。しかしこれらの文字は、粘土板やパピルスといった可搬可能なメディアに書かれることにより、言語が「今・ここ」の制約から離れることを可能にした。とはいえコミュニケーション文化が一気に変わることはなく、この時代の使者は、遠隔地への伝達の際に文字の書かれたメディアを持ち運んでもそれを補助的に参照するだけで、伝達はあくまでも口頭でおこなわれた。だが、ことばを書き残すという選択肢が普及すると、ある事柄を「書き残す」か「書き残さないか」という社会的決定が生じるようになった。わざわざ書き残された事項は社会的に重要なもの(例えば法典)となり、古代帝国成立にも寄与した。
 
 文字は表意文字から表音文字に進化するにつれ、文字数が少なくなり、文字の普及が進んだ。文字普及に決定的だったのは、それまでの子音だけの表記に母音表記まで加えたギリシャ・アルファベットの創出であった。読解の容易さが、ギリシャ・アルファベットの普及を促進した。
 
 筆記活用力は個人のあり方も変えた。語られるやいなや消え去る音声言語と異なり、書かれた言語は残り、対象化され、反省(reflection)を促す。「意識」を、「知覚」(awareness)するといった「原初的意識」(primary consciousness)ではなく、「知覚していることを知覚している」(awareness of awareness)といった「高次の意識」 (higher-order consciousness) として捉えるなら(Edelman 2005)、「自己意識」(self-consciousness)という高次の意識は、筆記活用力により本格的使用により誕生したものと考えられる。
 
 文字の台頭が人々の思考様式を特に揺さぶったのが古代ギリシャ(800 BC - 146 BC)であり、プラトン(428/427 BC - 348/347 BC)はその一例である。プラトンは、定型表現や繰り返しの多い朗誦(音声言語)で人々の心を動かす詩人を批判する一方、「文字は問いかけに答えることもない非人間的なものであり文字の使用は人びとの記憶力の低下につながる」と書記言語も批判している。もちろん古代ギリシャは音声言語によるレトリック文化を誕生させたわけであり、音声言語は文字により駆逐されたわけではない。音声言語は変容した。レトリックが"speech art"として確立していったのは、音声言語を一旦文字で表記して対象化することによって、言語使用を長時間観察し吟味し考察できたことによる。つまり文字言語で対象化されることにより、音声言語は考えぬかれた技巧として使われるという新たな役割を獲得した。

  
(4)活字活用力(Print Lieteracy)

 活字活用力は、グーテンベルクが1455年に最初の活字印刷書籍(ラテン語聖書)を完成したことに端を発する。活字による正確で大量の本の出版は、人間のあり方をまた大きく変えた。ヨーロッパでは市場の成熟に助けられ自由な出版活動が盛んになった。筆写では難しかった詳細なデータや図表の複製も活字印刷では容易であり、これが科学と技術の発展へとつながった。活字印刷書籍が市場により広まったため、出版人はより広い読者層に読まれる言語を望み、読者も強力な言語を習得することを望んだ。この市場と個人の私的共軛関係に重なったのが、国家と学校の公的共軛関係である。治世を安定させようとする国家は「標準語」の普及を求め学校設置を促進し、学校は「標準語」を教えることによって国家権力の強化に貢献した。かくして同じ「国語」を共有する「国民」という「想像の共同体」の感覚が作り上げられ、国民国家(nation-state)という大規模政体の礎となった。
 
 国民国家言語による書籍が普及することにより、文化は広範囲・高密度で発展した。それまでラテン語でしか表現できなかった知的内容(例えば神学や哲学)も表現できるようになった。加えて国民国家言語は、それまで宗教が総括的に担っていた役割が分化されて生じた新しい文化である政治・経済・科学・文学なども表現する力を獲得し、これらの新しい文化が一層進化することを促した。
 
 文学のジャンルとしての小説はきわめて近代的な文化である。小説は、古代の叙事詩が大きな出来事の記述を主にしていたのとは対照的に、個人の意識を詳細に描出する。自意識の存在と役割が大きくなった一つの理由は、小説という「新しい語り」(novel)の登場に求められるだろう。小説においては、執筆者が個人の意識を延々と書き連ねる文化を発展させ、また読者も、連帯感を強く覚える音声言語共有と異なる、黙読という個人的な知的活動を体得した。個人主義の台頭は小説文化と無関係ではないことは、それまで共同体的経験であった死者の弔いがフロイトにより私的で個人的な経験であると記述されるようになった時期が、小説の隆盛期と重なっていることからも推測できる(O'Rourke 2010)。
 
 自然科学の書き物は、知的に高度で複雑な内容を書き手と時空を共有しない読み手に理解させることを要求し、書記言語は一層高度化した。書き手は、言語の文字通りの意味だけで、整合的で無矛盾であり因果性を的確に表現するという、これまでにない言語使用を学ぶようになった。社会科学の書き物は、複雑極まりない世界の有り様を、複数の見地からそれぞれに整合的・無矛盾的に描き出すという文化をもたらした。この多元的な記述により、世界を多様に見る文化が広まった。
 
 
(5)電子マスメディア活用力(Secondary Orality)

 語られるやいなや消えざるをえなかった音声言語を記録・伝達できる電子マスメディアである20世紀前半のラジオ・映画の普及は、学校制度の普及だけでは困難であった国民国家言語の音声的普及を促進した。また、ラジオや映画によるニュース配信という新しい文化は、活字活用力で開拓された高度な表現を、音声コミュニケーションでも可能にする新しい音声活用力である電子マスメディア活用力(“secondary orality” Ong 2002)を進化させた。20世紀後半にテレビが普及すると、音声だけでなく視覚をも共有する「国民」の連帯意識はさらに強くなった。また音声言語による説明を不要とする映像の配信は、国境を超えて伝えられ、マクルーハンの「地球村」(Global Village)ということばまで生み出した。しかしこれらはあくまでもマスメディアであり、メッセージの作り手・送り手はごく一部の職業人に限られた。多くの人々はメッセージの受け手に留まらざるをえなかった。
 
 
(6)マルチチュードメディア活用力(Multitude-media literacy)

90年代に普及し、着々と通信環境が向上しているインターネットという基盤構造は私たちのあり方を大きく変えている。情報の汎用記録・大量保存・高速検索・連結化が可能になり、知識の構造化・偏在化が進行している。どんな情報もデジタル化されたならば、高密度と大容量で電子保存(そして複製)される。さらにGoogleに代表される検索技術は、情報の大海を瞬時に検索語によるヘテラルキー(heterarchy)あるいはリゾーム(rhizome)に変える。ブログやミニブログ(Twitter)はこれらの連結を人力でさらに有意味化している。これからのSemantic Web技術はこの連結化を自動化しさらに大量の情報が活用されるだろう。情報活用の進化は知識の進化につながり、知識は構造化され偏在化する。高価な紙媒体であった百科事典は、90年代中頃からのCD-ROM化を経て、現在はWikipediaにより無料でどこからもインターネットアクセスできるものとなった。専門機関・専門家のサイトも含めるならば、少なくとも英語では、信頼できる知識がどこからでもアクセスできる。とてつもない変化への"The Big Switch"(カー 2008)が入ったと言えるだろう。

 インターネットは「マス」(mass = 一塊として捉えられた大衆)のメディアではない。ICT (Information Communication Technology)の進展により情報発信の技術的・金銭的障壁は非常に低くなり、これまでには考えられなかったほどの多くの人々が情報の発信を始めた。活字・電子マスメディアでは情報の受け手にしかなれなかった人々が情報の発信を始めた。マスメディアでは伝達の対象とならかなった特化した情報も流通し始めた。情報は「マス」ではなく、特異な差異をもつと同時に他の人々と多種多様なやり方で接続している人―つまりは「マルチチュード」(multitude)(Hardt and Negri 2005 柳瀬のブログ記事)―によって発信され、受信されている。インターネットでのコミュニケーションは、すべてがネットで結ばれているという点で「一つ」であるが、その中は高度に分化し複合化しているという点で「多」である。「一にして多、多にして一」とはマルチチュードの規定であるが、その意味でインターネットはまさにマルチチュードメディアである。進化の要素を、変異・選択・再固定化とするなら、インターネットはこれまでは不可能だった「変異」を知識の生態系にもたらし、さらにはその変異によって生じた有効な可能性を「選択」し「再固定化」して、知識の進化を促進している。促進される進化は、自己触媒化し、さらに進化が加速する 。
 
 既に私たちの社会認識も大きく変わっている。「知らしむべからず。由らしむべし」だった権力構造が、説明責任や可視化などの「開かれていること=公共性」 (Öffentlichkeit)へと動いている。私たちの社会は次々に開かれ、コミュニケーションの連鎖は果てなく続き、社会は一つの「世界社会」となった。しかしこの世界社会は共同意識・均質性・単一性とはかけ離れた、極大化した複合性(Komplexitat/complexity)をもつ、マルチチュードの社会である。そしてその社会の動力は、マルチチュードメディア活用力 (Multitude-media Literacy) である。 
 
 
2.2 社会分化論

 以上、言語コミュニケーション・メディアの変化の観点から、人間はどのような力を進化させてきたかを概括した。今度は社会の観点から、人間と社会のあり方の変化を概括する。メディアの観点からの分析に重ねて、社会の変遷を歴史的に分析することで、私たちは現在人類が到達した社会のあり方をより的確に理解できる。その的確な社会理解こそは現実的な英語教育を考察する際の基礎となるだろう。以下、ルーマン(2009)の社会学理論に基づきながらダイアモンドの分析(2000)なども補いつつ、社会がどのように内部に差異を抱きながら全体として統一性保っているかを、四つの「分化」(differenzierung/differentiation)類型を通じて考察する。
 
 
 (a)環節分化
 
 社会が環節分化(segmentaere Differenzierung/Segmentary Differentiation)されている状態とは、端的には相互の行き来がほとんどない原始的な部族社会であり、それぞれの部族社会は内部で互酬性原則・感謝・扶助などを通して安定している。部族社会は家柄や階級による身分差がない平等な社会である。労働の分化もほとんど進んでおらず、専門的技芸はあまり育たない。一つ一つの部族社会は数百人の成員を上限とする。成員がそれ以上になると、単なる環節分化では内部の複合性に対応できなくなる。成員増加により複合的に悪化する葛藤は制御困難であるし、社会的な意思決定そのものすらも難しくなる。かくして環節分化は何らか別のより複雑な分化へと進むか、単に分裂し、再び環節分化に適した少人数に落ち着く。(参考:環節分化の部族社会の暮らしぶり、およびそういった部族社会と近代西洋文明の出会いについてはぜひ「ダンス・ウィズ・ウルブス [DVD]」を見てください。「コミュニケーション」についていろいろと学べます)。

 
 (b)中心/周辺分化
 
 中心/周辺分化(Zentrum/Peripherie Differenzierung/Center-Periphery Differentiation)した社会は、コミュニケーションの可能性が拡張されたことの副産物であり、水平的分化である。中心には人口や権力が集まり、その中心からのコミュニケーションが届く縁が周辺とされる。規模としては数千人の「首長社会」から数万~数十万人に至る古代帝国までがこれに含まれる。ただ中心が大規模になると、階層化が、古いタイプの小社会よりもはるかに可能となり、階層分化をもたらす要因となる。  
 
 
 (c)階層分化 
 
階層分化(stratifikatorische Differenzierung/Stratifactory Differentiation)した社会では、社会が垂直分化している。社会が位階秩序として確立されるようになり、位階の差異抜きに秩序を表象することができなくなる。人々は集権化された政治的支配や聖職者によって司られる宗教支配を受け入れる。階層化は人々の間に生じる不平等を、エリート階級による武力および法権力の掌握、イデオロギーや宗教によるエリート階級の正統化、富の再分配システムの確立などにより制御する。しかし階層分化社会が発展するにつれ、次の分化を招く要因が芽生え始める。例えば経済は、価格や利子といった経済システム固有の手段を用いて、経済の作動を再発生させてゆき、エリート階層とは別の権力を持ち始める。経済はますます、階層を通して掌握される資産源から独立していく。こうしてエリート階層が社会をあまねく統括することが困難になり、社会はさまざまな機能をもったシステムをシステムの中に分出(Ausdifferenzierung)し始める。


 (d)機能分化
 
 機能分化(funktionale Differenzierung/Functional Differentiation)した社会では、政治、経済、宗教、学術、教育などのそれぞれ異なる機能をもつ複数のシステムによって社会が多次元的に分化される。機能分化した諸システムは相互に独立を保ちながらも、観察において相互依存関係にある(ルーマンの用語なら、諸システムは「オートポイエーシス・システム」であると説明される)。例えば政治システムは、経済システムに多大な関心をよせ租税や関税を変更するかもしれないが、経済システムを直接に動かしているのは経済システムの中の動き(支払いというコミュニケーション)だけである。あるいは政治システムに統治の危機が生じた場合には、学術システムは学術的言説を生み出すが、その言説が実際の政治権力に取って代わるわけではない。教育システムに対しても、他の機能システムは影響を与えようとし、政治システムは教育立法や教育予算決定、学術システムは科学的知見の提示など、それぞれのシステムを作動させるが、根本のところで教育システムのあり方を定めているのは教育システムの自己再生産である。
 
 このように、あるシステムは他のシステムに対して間接的な影響を与える経路(ルーマンの用語なら「構造的カップリング」)はもっていても、システムはオートポイエーシス・システムとして自己の作動で自己を再生産するだけである。諸システムは相互依存的に相互観察しているが、作動においては自律的である。複数のこのような機能システムに分化した社会では、システムの自律的な動きは機能特化で高速化する。さらにシステム間の間接的影響関係は直接的な因果関係では把握できない。加えてそれぞれのシステムは機能が高まるにつれ内部に子システムを分出する。機能システムが多次元的に存在しているこういった社会全体の複合性はきわめて高くなり、社会全体に対する予測は極度に困難になる。機能分化社会とは、高度に機能的でありながら、全体を通しての計画がきわめて立てにくい社会である。
 
 機能システムは自らの機能が働く限りにおいての広がりを持つ。したがって言語や国境の壁は機能システムを必ずしも分断しない。支払いというコミュニケーションで成立する経済システムは言語や国境の壁を超える。真理の探究というコミュニケーションを行う学術システムには言語によってある程度の障壁ができてしまうが、文書の翻訳によりこれらの障壁は乗り越えられているのは古代からのことである。各国の施策や立法という政治システムの作動はしばしば言語や国境を越えた反応(すなわちコミュニケーション)を引き起こす。宗教や芸術のコミュニケーションも言語や国境の壁を容易に越える。教育システムも、そもそも教育内容が多くの場合他の地域や国から伝播されたものであり、言語や国の枠に縛られているわけではない。さらに近年は、高等教育では国境を越えた就学が増加し、初等・中等教育でもPISAなどの国際的な評価システムにより言語や国境の壁を越えてますます結びついている。現代社会は、言語や国を越える諸システムの機能により多元的かつ複合的につながり世界社会となった。
 
 世界社会は、あまりに多数で多様なものがひとつに結びついている社会で、その結びつきはコントロール不可能な複合性を有する。これは脱中心的・脱領土的なグローバルなネットワークであり、支配的な国民国家、巨大多国籍資本、超国家的諸制度、その他のグローバルな諸権力も、ネットワーク内部の結節点にすぎない。Hardt and Negri (2000)は、ルーマンフーコーなどに基づき、この世界的なネットワークを<帝国>(Empire)と呼び、これを主権の新しい形だと考えた。この主権的ネットワークには、すべてを支配する単一者はいない。世界でのコミュニケーションの総体があまりに複合的なので、単純な支配が不可能だからだ。この世界的なネットワークは、多様な社会的行為者が各々の差異を表明しながら、システム全体の均衡をコミュニケーションによって創出している自己組織システムである。多様な社会的行為者は、一括した塊として捉えられる「大衆」(mass)でもなく、国家により統合される「国民」(people)でもなく、かといってつながりなく雑居する「烏合の衆」(crowd)でもない。お互いの間に多様な差異を持ち、さらに自らの内部にも(複数の機能システムに属することによって)様々な差異をもつマルチチュードである。
 
 このマルチチュードによる<帝国>は、近代に発展した帝国主義国家とは根本的に異なる。近代帝国主義は支配的な国民国家の主権を基礎とし、外国の領土に国民国家的主権を拡張した。しかしどの近代的帝国主義国家も世界の一部を支配できたにすぎない。だが多数の世界的な機能分化のコミュニケーションにより、領土に縛られず単一の中心ももたないままにつながっている新たな<帝国>はあまねく地球を覆おうとしている。私たちは今や世界社会というコミュニケーションの複合の中に生きている。この新たな<帝国>にすべてを支配する権力者である王は存在せず、すべてを統括する原理である宗教もない。<帝国>はコミュニケーションの複合によって自己を再生産するだけである。<帝国>は「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」をもった「多数多様性」である一つの全体である。世界社会は、その機能分化された複合性ゆえに、単一的に支配もされないし、どのような単一者もそれを支配できない。「私たち」は単一の支配者なしの支配構造に支配されている。しかし「私たち」はかつてないほどに開かれ、多種多様であり、複合的につながっている。「私たち」は、予測不可能な複合性を経ての「私たち」の支配者である。それは想像できないほどに間接的な自己回帰的支配であるが、「私たち」は各種のコミュニケーションを担い続ける限りにおいてマルチチュードとしての主権者である。



3 考察


3.1 現代日本が必要としている英語使用

 以上の概念を使い、現代日本が必要としている英語使用について考えてみよう。メディア論からは、現代の言語使用は活字活用力を基盤としていることが確認できた。音声言語を使用するにせよ、その音声言語は原初的な音声活用と異なり、書記言語(特に活字)が開拓した表現を取り込んだものである。活字活用力の表現とは、個人意識を基にして構成され、「今・ここ」を離れたコミュニケーションを可能にし、さらに整合性・無矛盾・因果性を重視するものであり、さらに事象の多元性も許容するものである。さらに電子的マスメディアの発達を経てインターネットというマルチチュードメディアを得た現代人は、より広い範囲の人々を理解し、その人々にも理解される発信を、インターネットが可能にしているさまざまな様態(電子メールや(ミニ)ブログの小文、PDFやホームページでの本格的な文章、音声や図表や動画、およびそれらを編集総合した表現)で行うことが求められている。外国語という学習と使用のコストの高い言語においては、特にこういった言語使用の現代的性格(活字活用力を基盤にしながら、電子マスメディア活用力で洗練された言語使用を、個人で行うマルチチュードメディア活用力)を自覚して言語を学習し使用することが求められる。
 
 社会分化論からは、言語使用が特化された機能システムでコミュニケーションできるものでなければならないことが確認された。地球上に数千あると呼ばれる言語の中で、英語は確かに英語を母語とする内円(inner circle) という中心から英語を第二言語とする 外円(outer circle)そして外国語とする拡大円(expanding circle)という周辺に広がろうとしている最上層に属する言語ともいえるかもしれない(Kachruの論)。英語は中心/周辺分化でも階層分化でも捉えることができるかもしれない。しかし中心・上層にある英語の使用は一枚岩ではない。英語使用が必要とされている主な機能システムだけでも、学術システム、経済システム、政治システムなどに分化している。さらに学術システムでも、内部でさらに分出し、理系/文系の分出から、科学/工学の分出、さらには生命科学/物質科学の分出、基礎医学/臨床医学の分出などがある。さらにそれらの分化・分出した機能システムの中でもコミュニケーションの様態はさまざまにありうる。一口に「実用的に英語が使える」といっても、それはFAXで発注業務ができることから、エンジニアとして工場員に口頭で説明ができる、さらには生理学の論文が書ける、あるいは尊厳死についてのシンポジウムで討議できるなどと、その実態は千差万別である。私たちは英語教育を考える際にも、このように機能分化した現代社会でのコミュニケーションの実態を考慮しておかなければならない。
 
 
3.2 英語帝国主義批判言説の批判

 上に英語は中心/周辺分化でも階層分化でも捉えることができるかもしれないとしたが、英語帝国主義批判言説のようにあまりにも中心/周辺と階層を強調することは危険である。多極化した現代において「米帝」が世界の中心であるという認識はもはや時代錯誤である。仮に「米帝」に支配力があるにせよ、米国の英語話者が、英語を母語とするだけで世界を支配しているわけではない。この意味で、成層分化を強調することは危険である。例えば近代以前の王侯・貴族であるなら、成層分化の上層として、その一握の人々が権力を統括的に掌握していたであろう。しかし人は英語を母語とするだけで(近代以降に分化した)政治・経済・宗教・学術・教育などの諸システムの権力を統合的に獲得するのではない。権力の獲得は一つ一つの機能システムのコミュニケーションに参画することによりはじめて可能になるものであり、英語の母語話者が、英語を母語とするだけで自動的に様々に分化した世界社会での強い権力者となっているという認識は、外国語としての英語使用者の被害妄想と無力感を助長するだけになりかねない。むしろ「下層」にいるはずの英語を第二言語あるいは外国語とする者の方が、属する機能システムでの働きのゆえに単なる英語母語話者より強大な権力を獲得することは多々ある。英語は重要な知的資源であるが、その知的資源もただ母語として―例えば原初的音声活用力として―使えるだけでは強力な権力とはならない。英語を母語とすることが人を世界に君臨する王(あるいはその臣民)にするわけではない。英語を話すという文化は世界を統括する宗教ではない。<帝国>には絶対的な王も宗教も存在しない。
 
 また、英語帝国主義批判論者は、英語という言語を、かつての植民地宗主国になぞらえている。植民地宗主国には国民国家として制度化された統一性があった。しかし現在の英語には国民国家的統一性がない。複数の国家が英語を母語としているのに加えて、さまざまな第二言語話者と外国語話者がそれぞれの機能システムにおいてそれぞれに英語を使っている。現在の英語使用に統一性ということばを適用するにせよ、それは単純性ではなく複合性で捉えられる統一性である。現代の英語使用は<帝国的>であっても「帝国主義的」ではない。英語帝国主義批判言説は、英語母語話者を一枚岩の存在として考え、それを世界の単一的支配者と考えることから生じているように思える。少なくともPhillipson (2010)の、英語を「万能薬か疫病か」(panacea or pandemic)と問いかける枠組みは、たとえ世間の耳目を引くにせよ、英語使用をあまりに単純に二律背反的に捉えすぎており、学術的にも現実的にも妥当とはいえない
 
 
3.3 結語

本稿はメディア論と社会分化論により、現代の英語使用の多元性と複合性を明らかにした。他の複合的な現象と同様、言語教育も単純にしか語らないことは非生産的である。21世紀の英語教育を考察するにあたっては進化の速度を増すメディアと複合性を増す社会に対する理論的基盤が重要である。学術言説としての英語教育の論考は、単純すぎる語り方を避けなければならない。

今後の課題としては、本稿のような原理的考察を、具体的記述・分析によって補完することが求められる。例えば、ライティングでは、自己意識・個人・一般的他者・現実の多元性といった観念の理解、さらにはテクストの整合性・無矛盾性・因果性へ向けての推敲などが具体的に指導されるべきだろう。あるいは現代デジタル表現文化で私たちが多種多様であり、開かれて複合的につながっていることを実感させ、世界社会の市民として英語を使用するよう指導することも具体化されるべきだろう。





"Literacy"ということばは元々「読み書き能力」を意味するが、近年では概念が拡張され「活用力」を意味するようになった(例、computer literacy, media literacy)。そのためここではメディア論での"literacy"(およびその類概念の"orality")を基本的に「活用力」と翻訳することにする。


参考文献

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Hardt, M. and A. Negri (2000). Empire. New York: Harvard University Press.
(ネグリ、A.・ハート、M.著、水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳(2003)『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社.)

Hardt, M. and A. Negri (2005). Multitude: War and Democracy in the Age of Empire. London: Peunguin.(ネグリ、A.・ハート、M.著、幾島幸子訳(2005<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)).『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 上・下』NHK出版.)

Jaynes, J. (1975/2000). The Origin of Consciousness in the Breakdown of theBicameral Mind. New York: Mariner Books. (ジェインズ、J.著、柴田裕之訳(2005).『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』紀伊國屋書店.) (柳瀬のブログ記事

Ong, W. (2002). Orality and Literacy. London: Routledge. (柳瀬ブログにいくつかのまとめ記事がある

O'Rourke, M. (2010). Good Grief: Is there a better way to be bereaved? The New Yorker. February 1, 71.

Pennycook, A. (2001). Critical Applied Linguistics. London: Routledge.(柳瀬ブログでのまとめ

Phillipson, R. (1992). Linguistic Imperialism. London: Routledge.

Phillipson, R. (2010). Linguistic Imperialism Continued. London: Routledge.

Strate, L. (2009). The Future of Consciousness. ETC: A Review of General Semantics.66, 1. 66+

大黒岳彦(2006).『<メディア>の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界』東京: NTT出版.

大谷泰照(2007).『日本人にとって英語とは何か』東京:大修館書店.

大津由紀雄(編著)(2004).『小学校での英語教育は必要か』東京:慶応義塾大学出版会.

大津由紀雄(編著)(2005).『小学校での英語教育は必要ない』東京:慶応義塾大学出版会.

大津由紀雄(編著)(2006).『日本の英語教育に必要なこと』東京:慶応義塾大学出版会.

大津由紀雄(編著)(2009).『危機に立つ日本の英語教育』東京:慶応義塾大学出版会.

カー、N.著、村上彩訳 (2008). 『クラウド化する世界』東京:翔泳社.

ジャッケンドフ、R.著、郡司隆男訳(2006).『言語の基盤』東京:岩波書店.

ダイアモンド、J.著、倉骨彰訳(2000).『銃・病原菌・鉄 上・下』東京:草思社.

寺島隆吉(2009).『英語教育が亡びるとき ―「英語で授業」のイデオロギー』東京:明石書店.

ルーマン, N.著、佐藤勉監訳 (1993/95).『社会システム論 上・下』 東京:恒星社厚生閣.

ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京:法政大学出版局.











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2010年10月31日日曜日

村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋

村上春樹の物語論については約1年前にも少し引用したが、最近彼のインタビュー集である『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を読んだので、そこから少し抜き書きをする。

なお私のもっている、物語あるいはナラティブへの関心は、教師が自らの実践を語ることについての研究に由来している。その研究に関しては、昨年はシンポジウムを開いた。来年も何かやりたいと思っている。今年はメディア論神経科学の意識論などからナラティブについて考えているが、その一方で小説家の物語論もわずかながら読もうとしており、小川洋子の物語論も面白く読んだ。あるいは神話論も興味深く読んだ。だから以下に書く文章も、教師ナラティブに引き寄せたものになるかと思う。どうあっても正当な村上春樹研究ではない。

ちなみにナラティブと物語は、私は今のところ次のように使い分けている。


ナラティブ:広義の用語で、何かを語る過程と結果の両方を意味する。語る過程とは語る行為のことで、語った結果とは語られたテクストのことである。

物語:語られたテクストの中で、ある程度の長さと複雑性を有したもの。多くの場合で「ストーリー」と同義。物語というほどには長く複雑でないものは(狭義の、語られたテクストとしての)ナラティブと呼ばれる。



意識の奥底にある物語

村上春樹にとって、物語とは、間違いなく彼自身の手によって書かれるものであるが、彼の意識の奥底に起源をもつものであり、彼の明晰な意識が行うことは、その前意識的・潜在意識的・無意識的―なんと言えばいいのだろう―な物語を損ねないように書くということだ。彼の物語は、脚色や演出あるいは計画や計算などとは程遠いところから来ている。


自分の中の物語性のようなものは、僕にとっては、これまで生きてきたごく普通の人間としての日常とは別なところで、一種の神秘的なものとして存在しているんです。神秘的ではあるけれど、こんこんと湧いている確かな実感がある。

僕の中にもう一人の僕がいて、その二者の相関関係の中で物語が進んでいく。さらに言えばその進み方によって両者の位置関係が明らかになる。だから、物語を使って何ができるかについては、僕は非常に意識的に考えています。そのために大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。(55-56ページ)



物語は自己表現ではない

村上春樹にとって物語とは「自己表現」ではない。村上が言う「自己表現」とは、近代社会が私たちに求める自らの「セールスポイント」といったものだろうか。少し前に「ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンでありさえすれば」といった歌が流行った。ナンバーワンになる競争のプレッシャーから人を解放する意図で歌われたのかと思われるが、考えてみればオンリーワンであること、それを他人に証明することは存外に難しい。私の内面を見ても、それほどに特異なものは見出しがたい。

話をどんどん逸らしてしまうようだが現在「就活」をしている若者も自分が「オンリーワン」であることを証明しなければならない状況に追い込まれているのだろうか。しかしナンバーワン同様オンリーワンであることを示すこと、この物的証拠・数量的データを偏重する社会で明示すること、は簡単ではない。

それならば物語を語れないだろうか。自分を前面に出して、「自己表現」として自分だけを描こうとするのではなく、むしろ自分がその一部に過ぎない状況を語れないだろうか。自分が巻き込まれ、逃げ出すことができず、同時に逃げ出してはいけないとも妙に思えて、自らが変容させられれ、他者が思いもよらぬ言動をし、出来事が誰の予想も超えたように展開する物語を。たとえ大きな物語や珍しい物語でなくてもよい。あなたの物語を丁寧に語れば、そこにあなたの直接的な描写はなくとも、聞く人はあなたを理解できるのではないか。そして不思議なことにあなたもこれまでになかったようにあなた自身を理解するのではないか。


今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。(中略)にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。

僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなものをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」という罠を脱することができる。(107-108ページ)




私は私の物語を語る。なぜなら私は私の人生を生きているのだから。

だからこれは偉大な物語を語るとかいう話ではない。あなたは不世出の英雄である必要はない。それどころかあなたは稀代の語り手である必要もない。あなたに求められていることは、あなたが生きている人生において誠実にことばを見つけ、丁寧に語ることだ。流行のことばや概念に惑わされず、定型句や常套表現でごまかしてしまわずに、あなたの人生を、あなたが日常的・表面的に思っていた以上に深く広く見つめ、それをことばにすることだ。

偉大な文学作品が出尽くしたとも思われる現代において文学を書く意味について尋ねられた村上は次のように質問を変えて答える。


バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正統な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。(177ページ)




ナラティブはノンフィクションではない

村上は小説(フィクション)を書く以外に、『アンダーグラウンド』のようなナラティブの聞き取りとその集大成も行う。『アンダーグラウンド』で村上が聞いたナラティブは地下鉄サリン事件の被害者のものだ。これらのナラティブは言うまでもなく実際に起った事件に基づいている。だが村上はノンフィクションライターやジャーナリストほどには「事実の裏取り」(裏付け証拠の確保)に重きを置かなかった。村上は「客観的な事実」よりも「当事者にとっての真実」を大切にしたのだ。



ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブを尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めなかったのはそういうものなのです。批評家の中にはそのことで僕を批判する人もいました。何も実証していないし、事実とフィクションを区別してもいないと。でも僕が集めたかったのは、ただ正直なナラティブだったのです。彼らの語ったことはすべてが真実である必要はありません。もしかれらがそれを真実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。事実と真実は、ある場合には別のものです。(中略)彼らのナラティブのうちのもあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォーメーションを総合したものが、その相対が、一つの広い意味での真実を形成するからです。(340-341ページ)




1Q84 Book 3という物語の中での物語の扱い

こういった考えをもつ村上は最近の『1Q84 BOOK 3』でも、かなり自覚的に物語を語っているように思える。主要登場人物である青豆はBook 3で身体トレーニングにより自らを保っていたものの、事が次第に展開するにつれ、自らの物語―別名、希望―に自らを託し始める。だが物語は、自分の意識が計画や計算によって自由に書き、書き換えられるものではない。物語を語るということは、自らが自覚していなかった意識の奥底からの導きによる物語に巻き込まれながら生きるということだからだ。物語が、自らの意識が制御できない意識の奥底と、他者と事物が多くを支配する外世界に根ざしている以上、どうして小賢しい自分の意識が物語を自由にできよう。青豆はこういった物語の物語性を自覚した上で次のように認識する。


これが生き続けることの意味なのだ、青豆はそれを悟る。人は希望を与えられ、それを燃料とし、目的として人生を生きる。希望なしに人が生き続けることはできない。しかしそれはコイン投げと同じだ。表側が出るか裏側が出るか、コインが落ちてくるまではわからない。そう考えると心が締めあげられる。身体中の骨という骨が軋んで悲鳴をあげるくらい強く。(93ページ)



しかし私たちは無力なのではない。私たちは自らの物語の支配者ではないが、登場人物ではある。登場人物として私は何ができるのか。何が可能で何が不可能なのか。登場人物は物語の中でどのようなことを成しうるのか。あるいは物語自体を書き換えることすらできるのか―思い通りではないにせよ、何とか自分なりに―。青豆は彼女にとって重要な天吾について考える。


私たちはひとつに結びつけられているのだ。おそらくは同じ物語に共時的に含まれることによって。

そしてもしそれが天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのなら、私にもその筋を書くことはできるはずだ。青豆はそう考える。何かをそこに書き添えることだって、あるいはまたそこにある何かを書き換えることだって、きっとできるはずだ。そして何よりも、結末を自分の意思で決定することができるはずだ。そうじゃないか?

彼女はその可能性について考える。

でもどうすればそんなことができるのだろう?

青豆にはまだその方法はわからない。彼女にわかるのは、そういう可能性がきっとあるはずだということだけだ。それは今のところ、まだ具体性を欠いたひとつのセオリーに過ぎない。彼女は密やかな暗闇の中で唇を堅く結び、思考を巡らせる。とても大事なことだ。深く考えなくてはならない。(477ページ)


私たちは自らの物語を支配する自由は持たない。しかし物語の登場人物として行動する自由はもつ。そして支配者として外から物語を書き換えるのではなく、登場人物として内から書き換えることすら・・・できるのかもしれない。結果はわからない。ただそういう可能性はきっとあるはずだ



教師として、いや、教師ナラティブに話を限定する必要もないのかもしれない、人間として―有限の力しか持たずに無限ともいえる不確定な世界に放り込まれた人間として―私たちは物語を語ることを必要とする。

私たちは意識の奥底に正直に、大胆に降りていくことができているのだろうか。物語を起動することばやイメージを見出すために。

私は近代社会の「セールストーク」に縛られていないだろうか。「セールストーク」が自らの物語だと思い込んでいないだろうか。

自らの物語を語ろうと決意しても、自分は英雄的な生涯を送っていないし、小説家のような表現力ももっていないと尻込みをしていないだろうか。自らの人生を見出すことから逃げていないだろうか。ナンバーワンやオンリーワンといったことばに惑わされて。

あなたは一人の人間であるという事実において、個人としての単独性と人類としての普遍性を有する。オンリーワンであったとしても、それは他の人々がオンリーワンであるのと同じ意味であり、あなたは特段に特殊な存在ではない。あなたがあなたの物語に見出すのはあなたの生であり、それは他の人々につながる普遍性を有した生である―私たちは人間なのだから―。

丁寧に物語を紡ぎ出そう。自らの生に誠実に向き合い、慎重かつ大胆にことばを選び、読者に向けて―それが聞く耳をもった他者にせよ、未来の自分に過ぎないにせよ―物語を語ろう。丁寧で誠実であることは必ずしも厳密に科学的でなければならないことは意味しない。だがそれは恣意奔放に語っていいことも意味しない。私たちは丁寧で誠実であろうとする限りにおいて事実を尊重する。だがそれは科学的証拠を必要とするとか、誰から見ても文句がでないほどに記述を骨抜きにするとかを意味しない。私たちは自らにとっての真実を求める。丁寧に、誠実に。その限りにおいて事実は真実と共起する。やがて事実が科学的という呼称を求め、客観的な事実と人格的な真実が袂をわかつにせよ。

物語は私たちに希望を与える。だがそれは失望と裏腹の希望である。しかしそれが人生である。私たちは神のような世界の支配者ではない。とはいえ石ころのような物体でもない。万能ではないが無力でもない。私たちは人間である。

だから私たちは物語を語る。



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