2010/06/26の学会発表(メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性・複数性 ―英語教育言説の単純性への批判―)の音声をアップロードしました。ご興味のある方は下をクリックしてください(パスワードはありません)。
上記の音声録音には質疑応答の部分が含まれていませんので、以下に質疑応答の要旨を簡単にまとめます。
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Q1: 今日の話で、英語教育推進論と英語帝国主義論がなぜかみ合わないかがわかったように思う。そのあたりをもう少し補足してもらえないか。
A1: 両者は、自らが見たいと思っている一側面のイメージだけで「英語」を単一的に捉え、英語が実際にもっている複雑・複合的な部分や錯綜した部分を見ようとしていない。推進派は英語を「善きもの」として、反対派は「悪しきもの」単純化して立論を繰り返し、それぞれがそれぞれが想定する以外の英語の側面を取り上げた反論や批判などを「わかっていない」「ナンセンス」などと退けてしまっている。
無論それぞれがまったく間違っているというのではない。推進派にも帝国主義論者にも「一理」ある。しかし自らの「一理」にあまりにも拘束されてしまっている。それぞれ自らの「一理」から解放される ―あるいは自ら己の一理を「脱構築」する― 必要がある。
さもないと両者は永遠にかみ合わないままの不毛な対立を続けることであろう。
しかしもっと怖いことは、このような「単純な知性」 ―きつい表現をお許しいただきたい― が何らかの拍子や偶然で意見を一致させる時である。その時、彼/彼女らはおそろしく専横的になるだろう。「全体主義」とは「単純な知性」の権力奪取の別の謂である。
Q2: しかし人間はあまりの複雑性・複合性を前にすると、それに耐えきれず、単純な見解を求めるのではないだろうか(One-phrase politicsはその例と言えないだろうか)。
A2: 人間にはそういった心性があるだろう。しかし、教育や啓蒙の重要な一側面は、そういった現実の過度な単純化を戒め、人間が扱える範囲の適度な複合性(complexity)で物事を捉えることを学ばせることにあるのではないか。
単純な「ギロン」というのは、何の分析も勉強もなしにひたすら延々と続けることができるから、感情のはけ口としては有効だろう(また、それ以外に楽しみを見い出せない人には格好の遊戯だろう)。しかし、知的には、あるいは現実の社会改革には有効ではない(というよりしばしば害悪となる)。
もし「英語教育研究」が学問であろうとするのなら、そのような単純な「ギロン」を戒め、適切な抽象枠組に支えられた具体的な分析記述を促進する必要がある。
過度に単純化した「ギロン」に抗する知的忍耐力を私たちは必要としている。
具体的に例示してみるなら、「主要科学論文で英語が使われているからといって、日本の街で英語で道を聞かれて答えられないと恥ずかしい」というギロンに説得されてはいけないということだ。
私たちは「英語」あるいは「英語コミュニケーション」の多種多様な「ジャンル」あるいは「言語ゲーム」を丁寧に観察し区分することが重要である。
同時にそれらのジャンル・言語ゲームは、ウィトゲンシュタインが述べたように様々なところで重なり、様々なところで異なる錯綜体であることを理解しなければならない。同階層の要素が相互排他的で、かつぜんたいとしては包括的な階層構造(ツリー構造)でジャンル・言語ゲームを考えてはならない。
Q3: 複合的な現実に単純に対抗してはいけないという意味で「マルチチュード」としての対応はどうあるべきなのだろうか。「マルチチュードとしての英語教育界」というのは考えられるのか。
A3: 英語教育界も「マルチチュード」として、複合的な現実に複合的に対応すべきだと考える。
たとえばESPなどは多くの大学で、理学部・工学部などの科学者・エンジニアが主導して推進されている。これらの動きを、この学会の親母体である「全国英語教育学会」やその他の英語教育界のいわば「本丸」の学会の「英語教育学者」は十分には追えていないが、私はそれがむしろいいことだと思う。
複合的な「日本の英語教育」の現象すべてに対して包括的に責任をもつ単一体など考えがたい。というよりも考えたくもないし、そのような存在は拒絶すべきではないか。そのような単一体が存在し実権をもつとしたら、それはおそろしく粗雑で単純な権力行使をしてしまうだろう。
「日本の英語教育すべてに責任をもつ団体」が、「中心/周縁分化」的に中央から指示を出す、あるいは「成層分化」的に上から指示を出すことが有効であるほど、日本の英語教育界は ―いや現代社会の事象は― 単純ではない。しかし私たちはしばしばそのように古く単純な枠組みで社会をとらえがちである。ここに危険がある。
かといって日本の英語教育のさまざまな側面を考える諸グループが、相互作用なしに孤立(環節分化)するべきではない。そのような分化でも複合的な事象に対応できない。
「日本の英語教育学界」というのを想定するにせよ、それは様々な学術的アプローチにより機能的に分化、あるいは多次元的に分化したものとして考えなければならない。ある一人の「英語教育研究者」がいるとしても、その人は様々な英語教育の諸グループに属し、それぞれのアプローチで英語教育の異なる側面に対応することを学ぶべきだろう。
再び、全体として包括的で、同層の構成要素を相互排他的とする階層構造について述べるなら、英語教育研究をそのように捉え、例えば英語教育をEGPとESPに峻別し、ESPを医学英語、薬学英語、化学英語・・・と細分化することはまったくの誤りであると考える。そのような体制は、例えば「自分は医学英語の○○の専門家であり、それ以外のことは一切わからない、医学英語でも△△はわからないし、ましてやEGPのことなど皆目見当がつかない」といった自称「専門家」の集団を作るだけだ。
包括的で相互排他的な階層構造の学界は、上記のような「専門家」が論文を量産するには効率的でお互いにとってとても心地良い体制だが、社会からすればそれは役立たずの養殖場を維持経営しているようなものだろう。
一人ひとりの「英語教育研究者」も自らを多元的に捉え、「複数の自分」を育てるべきではないのか。多元的な複数の共同体に属することが、英語教育といった複合的な現実に対応するために必要だろう。「自分は○○一筋の研究者です」といった自己既定は、現実的には有効ではないと私は考える。
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以上です。いつもにもまして表現がストレートなので不愉快に思った業界人も多いかと思いますが、私は自分の考えを正直に書きました。この私の見解に対する反論や討論の機会 ―オープンでフェアな機会― は歓迎しますが、「単純なギロン」はご勘弁ください。「単純なギロン」には私は一切反応しません。
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