2019年1月30日水曜日

向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院


当事者研究や心理療法といった領域はある意味、究極の人文系の知恵の宝庫かなとも最近思っています。自然科学のように割り切って (rationalに)知識を伝えることができませんが、容易には割り切れないこと (the irrational) を丁寧に語る人文系の書物は、読者にテクストの意味の可能性を感じさせ想像させ、さらには(疑似)追体験させ、読者に徹底的に考えさせます。ですから人文系の書物は、速読することができません。読者は、語られたことばを丁寧に読みながら自分自身の積極的な解釈生み出してゆきます。

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その意味で、この本も速読を許さない本でした。私はずいぶん前にこの本を読んで沢山のハイライトも引いていたのですが、ブログ記事にはまとめていませんでした。他の本と同じように多忙の中でまとめる時間を失ってしまったというのがその理由でしょうが、ひょっとしたら当時の自分はきちんとまとめることができなかったのかもしれません。ソーシャルワーカーとしての向谷地先生の実践が、安直なまとめを許さない深いもので、読者としての私にそれなりの経験や想像力を必要とするからです。

もちろん学会発表のために読み直した今回の読解でも、私はこの本を十分に消化したとは言えません。むしろ読めば読むほど、これまで「そんなに深刻に考えずとにかくやってみれば?」ぐらいに思ってきた当事者研究の奥深さを感じました。

以下のまとめは、当事者研究の表面をひっかくようなものにすぎませんが、学会発表の準備の一つとして、そして私なりにも実践を深めるための備忘録として書くものです。


この本のタイトルは「技法以前」で、帯には大きく「私は何をしてこなかったか」と書かれています。こういった実践においてはとかく「何をするべきか」という技法が語られますが、向谷地先生はそういった技法以前に、「<当事者>と<場>のもつ可能性を信じ」 (p. 5) ることが大切だと語ります。「それを信じることができないままに、問題解決の切り口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じる」 (p. 5) というのが向谷地先生の見立てです。「何をしなければいけないか」ではなく「何をしてはいけないか」という発想でこの本はまとめられています。

してはいけないことの一つは「神の手にならない」ことです。援助者には常に「問題解決の神の手になろうとする誘惑と、神の手になってほしいという当事者や家族からの期待」 (pp. 31-32) があります。しかし「当事者自身が、"自分を助けること"を助ける」 (p. 24) のが、援助者の基本です。支援者が当事者を一方的に支配・保護・管理して「神の手」のように当事者の問題をたちどころに消し去ってしまっては、当事者は「苦労を奪われて」しまいます。

この場合の「苦労」とはそれぞれの人間が生きる上で経験しなければならない経験であり、「生きることの意味」の源泉でもあります。 (p. 38) 当事者は「苦労を取り戻す」ことにより「自分を取り戻す」ことができます。そうして自分を取り戻してこそ、当事者は「人とつながる」ことができます。当事者から自分自身を奪い去り人とつながる機会も奪い去ってしまうような一方的で過剰な支援は支援者がやってはいけないことです。

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当事者研究の支援者はそういった過剰な介入はしません。ではまったく何もしていないかといえばそうではなく、支援者は、当事者と当事者の共同体という場の可能性を「信じる」わけです。この「信じる」とは、具体的な証拠を確認してからの「信用する」とは異なります。「《信じる》という態度は、目に見えず、将来的な好転や可能性を引き出すのは困難であるという状況のなかで、にもかかわらず私たちが希望をもって見ようとするような振る舞い方である」 (pp. 51-52) と向谷地先生は述べます。つまり「根拠なく信じる」 (p. 52) こと、「期待の先取り」をせずに「困難な現実を生き抜くことの主役を当事者に"まかせる"」 (p. 71) ことです。

かくして支援者は当事者を「苦労の主人公」とするべくいろいろな工夫をします。その一つは身体的な実感や手応えが失われ形骸化してしまったような「傾聴」はしないことです。95ページでは向谷地先生の「五分で話が終わる方法」が示されていますが、ここで大切なのは、支援者が当事者の感情の受容だけにとらわれてだらだらと長時間聴いてしまわないことです。支援者は、当事者のさまざまな行動が「自分を助ける」ことであることを指摘し、もっと上手な「自分の助け方」を研究して、同じような苦労をしている人の役に立ってはもらえないだろうかと提案します。当事者の苦労を一方的に取り去ることはせずに、当事者を「苦労の主人公」としてその人の人生を取り戻させ、他人につながるように仕向けます。これが支援者が 「為している無為」です。

そうやって当事者が自分の人生の主人公として、他の仲間と共に当事者研究を行うようになれば、支援者もその他の当事者の仲間に混じって、一方的に傾聴するのではなく、一緒に考えながら聞きます。この「一緒に考えるという聴き方」について、当事者研究の実践者である西坂自然さんは次のようにまとめています。少々長い引用となりますが、私が勝手に要約したくない文章ですから、そのまま引用します。

 一方的に聞き役にまわられると、相手の存在が見えなくなります。相手がどういう人間なのか、どんなふうに考えるタイプの人なのかが見えません。すると、しゃべったことが一方通行になって問題が自分に返ってこないのです。どんな形でもいいからその人がどう考えるのか、どう思ったのか返してもらわないと、その次の「自分で考える」「自分で動いてみる」作業ができないのだと思います。

 一緒に考えてくれるときの相手は、いつも自分と同じ目線の高さにいます。上から言われる感じも下から言われる感じもしません。「同じ目線だ」と感じます。それに「これが人間だ」と思ってうれしくなります。しかも「こんなちっぽけな自分のことを一緒に考えてくれるのはなぜか」とも思います。

 でもそうやって同じ目の高さで話してくれているうちに、私は「ああ、自分はそんなにちっぽけなものじゃなかったのかもしれない。こんなふうに一緒に考えてくれるということはこの人は自分の存在も自分のできる力も信じてくれているし認めてくれているんだ」と思います。だから一緒に考えてくれる相手が現れると、同時に自分が現れることになるのです。けっきょく人間は、人間がいないと、自分がいるということに気づかないのかもしれないと思います・・・。 (pp. 116-117)

かくして当事者研究では、一緒に考える聴き方を通じて、当事者の「自分の感情をどうにかしたい」という欲求と「問題を解決したい」という欲求 (p. 113) に応え、さらには、当事者が一人の人間として生きているという実在感 (reality) を感じたいという根底的な欲求にも応えます。もちろん当事者の欲求に応える支援者や仲間も、同時に自分という人間の実在感を感じていることは間違いありません。

ところで当事者研究の成立には向谷地先生の存在だけでなく、「治さない、治せない精神科医を目指しています」と標榜する川村敏明先生の存在も大きく関わっています。そんな川村先生があるときデイケアの七夕行事の短冊に書いたのは「病気でしあわせ、治りませんように」というきわめて逆説的なことばでした。(p. 211)

川村先生は処方する薬をできるだけ減らす精神科医ですが、それは当事者にとっては「苦労が増えた方がいい」と考えているからです。そう考えるのは、この本の巻末で向谷地先生・川村先生と対談しているリンゴ農家の木村秋則氏の表現を借りるなら、苦労が当事者の「自然の力を呼び覚ます」からです。

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木村氏の自然栽培(無農薬・無施肥栽培)についてここでは詳しく述べませんが、植物(リンゴ)と土壌がもつ本来の力をできるだけ発揮してもらうため、農薬や肥料などをできるだけ与えないというのが基本的な考え方です。そうはいっても、そんな自然栽培にもいろいろなノウハウがあるでしょう。そんなノウハウを知りたいという要望に対して木村氏は「答えは自然の中に無数にある」と答えるそうです。 (p. 212)

答えは木村氏の頭の中にあるわけでもなく、ましてやどこかのマニュアルの中にあるわけでもないわけです。「謙虚な姿勢で自然を観察する中で、答えは自ずから出てくる。しかもその答えは一つだけではなく無数にある。それほどに自然は豊かである」というのがこのことばの背後にある思想だと私は解釈しています。

それでは「当事者の自然がもっている力とは何でしょう」。もっと一般化して言ってもいいかもしれません。「人間にとっての自然とは何でしょう」。実はこの問いは武術家の甲野善紀先生が立てた問いでもあります。近代社会の中であまりにも人工的な環境を作り出してしまった人間は、自らの自然な状態を忘れつつあります。当事者研究が取り戻す「自然の力」が、苦労があったとしても仲間と共に何とかそれに対処して成長することを目指す力だとしたら、社会的動物としての人間の本来の姿は、孤立して個人的な力を蓄える近代的人間像とは異なり、互いに気持ちを通わせることによって力を得て困難に打ち克ち成長するといった人間像なのかもしれません。

そういった人間像を、下の学会では「関係性レジリエンス」の考え方に求めて、当事者研究というコミュニケーションについての解明を進めたいと思っています。発表を聞きに来てくださったらとても嬉しく思います。



中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
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言語文化教育研究学会第5回年次大会
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向谷地生良・浦河べてるの家 (2018) 『新 安心して絶望できる人生』(一麦出版社)



この本は2006年にNHK出版から発刊された書籍に巻末インタビューを加えて再刊された本ですが、今読み返してみると、2001年に始まった当事者研究の比較的初期のあり方というか原点を確認できるようで、とても勉強になりました。

ここでは私がこの本の(再)読解から学んだ、(1) 「研究」というモードに入ることによる変化、 (2) 当事者研究と似て非なるもの、 (3) ソーシャルワーカーのあり方、という三点についてまとめてみたいと思います。


(1) 「研究」というモードに入ることによる変化

当事者は、それぞれの悩みで苦しみ、その悩みあるいは弱さが引き起こす問題で周りに迷惑をかけたり自分を嫌いになってしまったりします。そんな当事者は、周りの人たちや自分自身とのコミュニケーションもうまくゆかなくなることが多いものです。しかし、そのコミュニケーションを「研究」というモードのコミュニケーションにすることにより、さまざまな変化が生じます。ここでは五つの変化について書いてみます。引用は同書(一麦社版)からのものです。


(1.1)  当事者研究共同体での直接のつながり

まず当事者は、同じように自分の問題について当事者研究を行っている仲間とのつながりを得ることができます。これまで隠していた自分の悩み・弱さを認め言語化して他人に開示することにより、その当事者は同じように自分の悩み・弱さを開示している仲間とつながります。そのつながりによって、当事者は仲間から何らかの支援を得ることができる可能性を得ます。それだけでなく、その仲間も「自分もその当事者を支援することができる」という可能性を得ます。孤立していれば無力感に苛まされていた人たちが、当事者研究でつながることにより、助け・助けられるという相互関係に入ります。当事者の共同体は、その関係性の中に「力」 (power) (少なくともその可能性)を感じることができます。

SOSをさえ出す力があれば、十分に生きていけると私たちは考えています。(中略)「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河流の言い方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で、生き抜く大切な条件になるのです。 (p. 25)

この直接の研究共同体的つながりは、これまでの当事者研究の歴史に支えられていますから、「これまでもいろんな問題があったが、なんとかしのげてきたのだから、この問題についても何とかなるだろう」というほのかな希望を生み出します。当事者は、繰り返し問題を引き起こしてしまうという絶望的な状況の中で、まさに「安心して絶望できる」わけです。


(1.2) 時代・社会のテーマに向き合っているという価値とのつながり

当事者研究は仲間という生身の人間とのつながりを作り出すだけはありません。当事者研究は、当事者が問題で苦しむ悩みを、人が人生において背負うべき苦労へと転換し、さらにはそれを自分たちが生きている時代・社会のテーマへと変化させてゆきます。当事者は、一人孤独に悩む存在という自己認識から、「弱さの情報公開」を通じて同じようにそれぞれの問題に苦しむ人たちと出会うことによって、「自分は生きる上でそれぞれの人がそれぞれのやり方で出会う苦労を経験しているのだ」というように自己認識を変えてゆきます。さらに研究を通じて、当事者の苦労の背後には、時代や社会の病ともいうべき諸要因があることに気づくと、自分がこの苦労を経験していることは、「自分はこの時代や社会がテーマとして抱えざるをえない問題を明らかにし、その改善を試みているのだ」と認識が変わります。「自分は先陣を切ってこの時代・社会のテーマに取り組んでいるのだ、この取り組みは同種の悩みを抱えている他の多くの人のためになるのだ」というようにも考えが変わります。

当事者研究とは、まさしく悩みを苦労に変え、苦労をテーマに変えていく作用をもっています。単純に病気だけを治したり、悩みを無くしたりするのではなく、生きづらさをかかえたときに、人とのつながりの中で意味をもってくる、病気そのものは無くならないかもしれないが、その苦労が意味をもって、まったく違った価値をもってくるという可能性が「当事者研究」という活動の中にあるようなきがします。 (p. 35)

自分が、直接に出会う人を超えて、まだ見ぬ同種の悩みを抱えている人たちにつながり、その人たちのためにもなるように時代・社会の抱える問題をテーマとして研究するのだという認識は、当事者をさらに力づけます。


(1.3) 「観察者」という「ヒト」と自分の悩みという「コト」の分化

「研究」というモードがもたらす変化はつながりだけに限りません。当事者の悩みを虚心坦懐に観察しようとする仲間の視線や態度はやがて当事者自身にも乗り移ってゆきます。悩みの中で何が何やらわからない状況にあった当事者も、自分の悩みを対象化できるようになります。その対象化と共に生じるのが、その対象を観察する観察者としての自分です。当事者研究の原則の一つに「ヒトとコトを分ける」というものがありますが、当事者は仲間と共に研究というコミュニケーション・モードに入ることで、当事者の悩みという「コト」とそれを抱えている当事者という「ヒト」を分化させることを学んでいると言えるかもしれません。

一人だけでかかえる孤独な作業が「研究しよう」という言葉によって、いつの間にか共同作業に変わるのです。つまり「こだわり」や、「とらわれ」の歯車が、自分のかかえる苦労への興味や関心となって、観察者の視点をもって自分自身のかかえる生きづらさに向き合う勇気へと変えられるのです。 (p. 46)

当事者は自責感情に苛まされていることが多いものですが、もし研究というモードが、当事者自身を問題から引き離すことができて、少しでも自己否定感情を軽減させることができるとしたら、それはそれだけで素晴らしいことと言えるのではないでしょうか。

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この論点は、座談会参加者(当事者研究実践者)一同が「うん、うん、そうだね」とうなずいた次の発言に端的に示されています。

島貫慎之:当事者研究は、研究をしようとした時点で少し楽になっているような気がします。自分のことをちょっと上から眺めるみたいな感じでやっていくと、解決はされなくても少し自分のことを客観的にみえて楽になってるような気がします。 (p. 198)


(1.4) 「コト」のスティグマを軽減し、「コト」を実験データとする

「ヒト」と「コト」を分けることができ、その「ヒト」が必ずしも否定されるべきものではないのだということが認識され始めたとしても、その「コト」にはやはり悪評・汚名(スティグマ)がついているものでしょう。しかしその「コト」とは、研究を進める上で必要なデータであると考えたら、その「コト」にも積極的な意味が出てきます。以下は座談会の中の発言です。

吉田めぐみ:昔だったら、自分だけがくだらない苦労をしていて、失敗ばっかりしてだめだと思ってたけど、当事者研究をやると、失敗するのが、失敗は怖いんだけど、失敗しても実験だからいっかっていうか、よくはないんだけど、何て言うんだろう。失敗はただの悪いものじゃなくなるっていうか。(笑) (p. 197)

この発言の後に別の参加者も同意します。

西坂自然:さっき吉田さんが言ってたけど、失敗しても大丈夫という感覚がすごく強くなってくるのと、失敗したときもこれは何かに使える材料を一個手に入れたっていう、一個だけじゃないと思うけど、いろんな材料を手に入れたっていう気持ちになれる。 (p. 199)

悩みや問題というコトが、実験データや研究の材料であるとしたら、そのコトが増えるということは確かに困ったことではあるのですが、他方で、研究を進める支えにもなります。このスティグマの軽減も当事者にとって大きな力になるでしょう。


(1.5) 自分自身に対する新たな認識

当事者研究を新たに取り入れたいと考えているある病院は、「当事者研究をやると今まで知らなかった自分が見えてきて辛くなるのではないか」という懸念を抱いたそうです。その問題提起を受けて、参加者の一人はこう言います。

斉藤優紀:自分も、やさしくない自分に気づくんですけど、やさしくない自分が私はものすごく好きだし、必要だったんですよ、私には。誰にでもやさしくしなきゃと思うから、自分はずっと苦しかったんですけど、ああ、意外とそんなことなかった、みたいな。 (p. 208)

ここで我流のユング風の解釈を差し込むなら、自分の弱さあるいは悩みは、自分自身(自己)の未発達領域(「影」)であり、それは時に、夢や白昼夢や幻聴、あるいは「おそろしく嫌な人物」(しばしば同性)として顕在化します(「おそろしく嫌な人物」は、自分の未発達領域(「影」)が投影されているからその人にはそのように映るわけです)。そこまで極端ではないにせよ、一般に、自分が不得意としていること(自分がこれまで見ようとしてこなかった「影」)は、嫌なものでしょう。しかしそれを自らの発達課題として正面から見据え、自分を再構築することが人間としての成長と考えられます。

C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

上の斉藤さんは、当事者研究によって、これまで自分が「影」としていた「やさしくない自分」に出会いましたが、その「やさしくない自分」は実は自分にとって必要な自分であることに気づきそんな自分も愛し始めます。この変化も「研究」というモードがもたらす変化だと私は考えます。(注)。

(注) ユングは心理療法 (Psychotherapie / psychothrapy) の四段階を、告白、解明、教育、変容 (Bekenntnis, Aufklärung, Erziehung, und Verwandlung / cofession, elucidation, education, and transformation)と説明していますが、この本の「救急車の乗り方の研究」(福島孝 協力:伊藤知之・向谷地生良) (pp. 164-176) はその見事な例示となっているようにも思えます。 「現代の心理療法の問題」 (pp. 27-64) C.G.ユング著・横山博監訳・大塚紳一郎訳 (2018) 『心理療法の実践』みすず書房に所収。(ドイツ語・英語でのユング全集では第16巻に所収)




(2)  当事者研究と似て非なるもの

この本から学んだもう一つのことは、当事者研究をよく理解していない人がやってしまう当事者研究とは似て非なるものです。それは端的に言うなら、「アドバイスという名の説教」 (p. 206) となります。たとえ善意からとはいえ、問題解決を急ぎ、当事者を理解することなく周りの人がその人自身の方法およびその背後にある価値観を押し付けてしまうことです。

座談会で斉藤さんも次のように述懐しています。

斉藤優紀:私は理念みたいなのがちゃんと自分に染み込んでいないときに、ひたすら問題を解決するための当事者研究とか、自分を無理させる研究みたいなのになっちゃったことがあって、何を研究するかのところで、結局、自分を大事にしないと、何か変になって苦しくなりましたね。 (p. 205)

実は、私も似たようなことをやってしまったので、「アドバイスという名の説教」だけはしないように心がけたいと思います。

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(3) ソーシャルワーカーとしてのあり方

あと、この本で非常に面白かったのは、今回の再刊に際して新たに付け加えられた対談で表明された、向谷地生良先生のソーシャルワーカーとしてのあり方です。カーリングの吉田知那美選手が好きな言葉として「安心して絶望できる人生」をあげていたことをきっかけにして行われた向谷地先生と吉田選手とのこの対談の中で、吉田選手は「カーリングは相手との接触がないので実際に戦っているのは自分たち自身である」、「自分たちの自己コントロールが一番キーになるスポーツである」といった趣旨の発言をします。それを受けて向谷地さんはこのように言います。

なるほどね。そういう面では、私はソーシャルワーカーなんですけど、非常に似た世界かもしれないですね。いろいろな人の困りごとの相談にのったり、複雑で揺り動く人間関係の中で、人の安心や生きやすさを実現するワーカーのしごとも、行き着くところは、自分とのつきあいが結果を左右します。 (p. 216)

カーリングとソーシャルワークでは、自分の「無力さ」を大事にすることも似ているのではないかと、向谷地先生は言います。

向谷地:ソーシャルワーカーの仕事でも、私は「無力さ」ってことを大事にしてるんですけど、前向きに「無力」であるからチームでやっていけるし、いい意味でプレイヤーとしても「無力さ」っていうものを認めあっているから一人で頑張らないで、ああいう「対話」が生まれたり、試合ができるのかなって私も思ったんですね、すごく似てるなって思って。そのへんはいかがですか?

吉田:いや、本当に私たちもそれを大事にしていて、その「無力さ」っていうフレーズはいま聞いて「あっ」て思って、真似したいなって思ったんですけど。(笑) (pp. 222-223)

「自分とのつきあい」を丁寧に行い自分の「無力さ」を自覚するということは、やや手垢にまみれた言い方をすれば「エゴを捨て謙虚になる」となるのかもしれません。表現はともかく、そのような認識で人が集まれば、一人でも不可能だとしか思えなかったことにも何とか対処方法が見つかるということが当事者研究(そして吉田知那美選手が認識するカーリング)が教えてくれることなのかもしれません。



 



追記
実はこの記事は、学会口頭発表準備の一つとして行いました。


中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

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2019年3月9日(土) 13:15-13:45
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2019年1月25日金曜日

「想い」がなければことばは生まれない -- ワークショップの感想から



先日、某所で小学校と中学校の英語担当の先生方のためのワークショップを開催しました。

理論を説明してからワークショップに入るのではなく、ワークショップを最初にやったからか、あるいは少人数のいい雰囲気の中でやったからか、いつも以上によい反応をいただきました。ありがたい限りです。

ワークショップでは中学1年生用のある英語教科書のユニットを音読することをしました。音読の際には、「活字の背後にありありと映像が描けるぐらいに英語をきちんと読もう。教科書の英文が曖昧なら、どんどん突っ込んで英文を改善しよう」といった趣旨で行いました。具体的には冠詞の違い、動詞の選択、可能な意味範囲の特定などについて徹底的に英語に即して考えることを試みました。

以下は主催者の方に送ってもらったすべての感想です。

 『生きた英語』、『使える英語』とよく言われるけれど、自分の生活、感情、意識にどこかで紐づけられた表現を教えるにはどうするか、学び方の一つの手段として子どもたちに上手に提供したいなと思います。想いをのせたことばを(英語を)使うことを意識します。(中学校)

 「あたま」だけを使って「わかった」ことを「わかった」としてしまうことの危険性をひしひしと感じました。英語教育だけではなく、人間教育、人の幸福とは?にかかわる問題であり、教育者のみならず学習者も、その他の人々とも分かち合いたいです。(外国語支援員)

 英語を初めて習う子どもたちは、わかりたくてうずうずしているが、いざ文章が長くなり、書く必要が出てきて、難しいと感じ、コツコツ勉強しないとついていけないことが分かると「どうせ将来、英語なんか使わへんし」と言い訳するようになる。でも、自分の興味のある分野であればしんどいことも頑張れるようになるはずなので、そこに近づけるような授業を考える必要があると思いました。(中学校)

 今まで授業での音読活動で今日ほど意識して読んだことがなかったのでとても新鮮で勉強になりました。自分の生活に引き寄せて音読をしたり、たまに深く読んでみたりしながら、子どもたちが興味を持ちながら授業を受けることができるようにしたいなぁと思いました。今日はありがとうございました。(中学校)

 ありがとうございます。しみ~っとさせられました。「しなくてはならないこと」「やりたいこと」のバランス大切にしたいです。「想い」。。。ことば。。。いっぱい学びました。
Readingの「練習」ってゆったらダメな時もありますね・・・。(中学校)

 教科書の「朗読」がこんなにも奥深いとは・・・。単語ひとつでどんどん深く考えられるなと勉強になりました。次から少しずつ実践してみたいです。
英語を使って自分を表現できるように(生徒が)するのが私の目標です。そこに感情をのせられるように日々しかけを考えていきたいです。ありがとうございました。
(つっこみは大好きです)(中学校)

 今回の講演を聴いて、理論上では分かりますが実際に実践していくとなるとなかなか難しい部分もあると思うので、少しずつ取り入れていけたらと思いました。本日はありがとうございました。(中学校)

 言語形式で終わらせず、ことばまでつなげていける授業をしていこうと改めて思いました。文と発話の違いをすごくわかりやすく教えていただき、そして想いがないと言葉がうまれないということはすごく納得できました。ありがとうございました。(中学校)

 奥の深い教科書の読み方の例を示していただきました。ついつい教科書をそのまま教えてしまいがちになっている自分に反省しました。「教科書がすべて正しい」のではなく、突っ込みどころを探していけたらと思います。
(中学校)

 “「想い」がないとことばは生まれない”
相手の状況(表情)が見えるような言語(ことば)の活動を大切にしていきたい。今、子どもたちは人以外の“もの”と対応したり、”会話“したりすることが多いように思われる(ゲームやその他の機器)。生身の相手を意識しながらコミュニケーションをとることが大切だと思いました。ありがとうございました。(小学校 校長)

 「ことば」は想いを他人が認識できる形式に翻訳したもの。「ことば」は体あってのもの。文字は「ことば」を視覚的に再現できるようにしたもの。どの言葉も「なるほど!そうか!」と納得しながら拝聴しました。広島平和記念公園で平和についてのメッセージを子どもたちがもらうために行ったインタビュー活動では、英語という言葉を介していろんな国の人たちと小学生が平和への熱い思いを共有しました。その文字を通して、実際にその人たちと会っていない中三生がその熱い思いを感じとることができました。(中三が外国の人たちのメッセージを訳してくれました。)ことばって想いを伝えるものなんだ、それが英語を学び始めて日が浅い小学生にも実感できました。「なんとかして伝えようとしたら伝わるものやねんなぁ」「俺らの英語が通じたんやで」「なんで英語を勉強しなあかんかがめっちゃ分かった」「話すって楽しいなぁ」「世界中の人が私たちと同じように考えているのが分かってうれしい」・・・前のめりでほっぺたを赤くして嬉しそうに話す子どもたちを見ていると「からだ」「こころ」「あたま」だ!と実感しました。私たち小学校教員は「言語形式の教育」というよりも「ことばの教育」をしていかないと!と改めて強く強く思いました。(小学校)

 ジェスチャーの話がとても印象に残っています。指導をしていきたいと思うので、心から生まれるものということを大切にしていきたいです。
 すべては心や伝えたい気持ちを大切にして、いきいきと言語活動を楽しむ子どもたちを育てたいです。
 今日は貴重な話をありがとうございました。(中学校)

 本日はありがとうございました。
 途中からの参加になってしまい、前半部分は分からないのですが、、、面白かったのですが難しかったです。
 本当にからだやこころから楽しめる興味のある授業をしたいですが、時間との戦いだなーと思います。(中学校)

 自分の授業ではなかなか内容の表層を触るのみで、内容について深く考えさせることはできていないので、内容を感情で理解し[以下なし](中学校)

 今回のお話を聞いて「想い」があるからこそ言葉が生まれるということを改めて感じました。実際の現場でテスト範囲などにおわれ時間に制限がかかることで、なかなかその「想い」から言葉を引き出す授業展開ができず、悩んでいるところがあります。しかし、その「想い」があって言葉を話すというのは、非常に大切であり、教育にとって必要な部分であるので、今後バランスをとりながら考えていこうと思います。ありがとうございました。(中学校)

 今日のお話を聞いて、教科書をもっと研究したいと思いました。重要な文法、教えるべきポイントのみにこだわらず、文章全体を、英語を関連づけて考えたいです。お話ありがとうございました。(中学校)

 人間の言葉の大切さを教えていただきました。AIにとってかわるかもしれない語学にならないように、本質の言葉を教えることができる小学校英語を作ることができたらと思います。(小学校)

 講義を聞きながら、自分の授業と比べていました。ただ単にRepeatをさせて、ペアReadingを交えて、“棒読み”になってしまう傾向があるように思いました。生徒が思わず体を使いたくなるような方法にするために、英語の奥にキャラクターを深く設定したり、実生活とリンクしながら実践していこうと思いました。生徒に“想い”をことばにする事ができるように努力、挑戦していきます!(中学校)

 教科書を深掘りするのが楽しかったです。普段から授業で取り入れたいです。もっともっと自分自身が英語を勉強しなければと感じました。(中学校)

 自分の授業が『言語形式』にまだまだベースを置いていることを改めて感じさせられました。『ことば』として英語を使えるようにさせていく工夫がまだまだ足りないので、今日聞いたことを参考に授業改善をしていきたいと思いました。また、後半のことばについての哲学的なお話も言語を扱う人間として大事なことを再認識させられました。(中学校)

 学生時代に、おもしろい例文を考えてほしくて実際にありえないけど考えるとおもしろい英文を作ってみると、とても叱られました。その日以来、おおげさに面白くなりそうな場面を英語にすることをやめたのですが、今日は勇気を頂いた気分になりました。また自分の本心から、自分の体から湧いた想いを英文に載せて伝えたいと思います。まずは自分から『ことば』を目の前の子どもに伝えようと思いました。(小学校)

 ご講演ありがとうご合いました。教科書の本文を取り扱うたびに、悩まされます。どうしたら興味を持ってもらえるだろう。楽しんでもらえるだろう。意欲を持たせられるだろうと考えます。今回のUNIT11-1だけでも、自分では全く気付くことができなかったポイントがどんどん出てきて、今までの自分の教材研究の甘さを感じました。(中学校)

 心でキャッチできないからだもあると思うのですが、それも知りたいなあと思いました。言葉を教える仕事にすごい大きな意欲と誇りがあることに「はた!」と気づかされました。(外国語支援員)

 子どもたちが英語に興味を持つには、どのようにすればよいか授業のたびに考えております。今日の先生のお話を伺い、ヒントをいただきました。すぐに授業に生かせるよう、頑張ります。小学生の子供たちが、英語に興味を持ち中学校英語に進んでいけるよう授業の方法を練り考えます。(小学校)

 感情をこめて読む、読ませる意識が低かったと今日のお話を聞かせていただき、気が付きました。aとthe、単語のニュアンス違い等こそを感じるのが英語の楽しみの一つだと思っています。テストで、文法問題などをひたすら解くことではないと思っています。おもしろおかしい英文を作ることから試していきたいと思います。本日はありがとうございました。(中学校)

 私は、英語教育と音楽教育は根っこの部分では全く同じだと感じ、明日からの授業にそれぞれの発想をどんどん生かし合っていけばより素晴らしいものになると、大きな気づきをいただきました。ありがとうございました。(中学校)

 学問とはそもそも必要だから習得するもの。学校で習うから、試験があるからといった目先のことにとらわれ過ぎていたなと思いました。コミュニケーションツールとしての英語を大切にして授業に臨みたいと思いました。(小学校)

 以下は、当日使ったスライドです。ご覧いただければわかりますように、これまで私がいろいろなところで使ったものをまとめなおしたものですが、ジェスチャーに関する図解などは新しくしております。

 

早いもので下の本を出版させていただいてからもう少しで4年になりますが、内容は古びていない、いや、ますます進行する英語学習の形骸化でむしろ重要性は増しているのではないかとも思っています(←親バカ的身びいき 笑)。もしまだお読みでない方がいらっしゃいましたら、ぜひご一読をお願いします。