2010年9月30日木曜日

正義が「呪い」に転ずるとき ―あるいはネット上での発言についての注意―




この記事は「英語教師のコンピュータ入門」で使う資料の一つとして書いたものです。

内田樹先生の『邪悪なものの鎮め方』(2010年 バジリコ株式会社)と『現代人の祈り―呪いと祝い』(2010年 釈徹宗先生、名越康文先生との共著 株式会社サンガ)には、特にネット上で邪悪なことばを発することが、いかに他人だけでなく自分自身を損なうかについての優れた考察がありますのでここで紹介します。なお内田先生はご自身の著作物を引用されることに関しては非常に寛大な方針をとっておられますので、ここでは他の記事よりも引用を多く使いながら紹介します。


まずは『邪悪なものの鎮め方』から。

内田先生は最初に「正義」の凶々しさを説きます。


これまでも繰り返し書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。(18ページ)


「邪悪なことば」とは実は「正義」へのあまりに未熟な衝動に由来しているのではないかというのが、内田先生の見立て(少なくとも私が内田先生の文章から読み取ったこと)です。

内田先生はさらにカミュのことばを引用します。


私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じてはいません。私が知りたいのはどうふるまうべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのようにふるまい得るかを知りたいのです。(20ページ)


もとより正義を求める心を失ってはいけません。しかしその正義を求める心がしばしば「理性」や「神」の名のもとに暴走してしまうとしたら、私たちはどうすればいいのか。どう「ふるまえば」いいのか―内田先生はこの問題を日常の立ち居ふるまいの問題として考えようとします。

そこで邪悪なことばについてです。内田先生は邪悪なことばとしての「呪い」についてこう書きます。


私たちの時代に瀰漫している「批評的言説」のほとんどが、「呪い」の語法で語られていることに、当の発話者自身が気づいていない。
「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」である。(81ページ)


実は「呪い」である「批評的言説」を発する人が、それを発し続け、かつそれが「呪い」であることに気づいていないのは、その人が「居着いて」いるからだと内田先生は説きます。「居着く」とは「こだわる」ことです。


「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。(90)


「居着く」ことの恐ろしさは、自己修正・自己変革ができなくなることです。周りの状況からすれば明らかに自らを変えてゆかねばならないのにそれができなくなることです。


人をして居着かせることのできる説明というのは、実は非常によくできた説明なのである。あちこち論理的破綻があるような説明に人はおいそれと居着くことができない。居心地がいいから居着くのである。自分の現況を説明する当の言葉に本人もしっかりうなずいて「なるほど、まさに私の現状はこのとおりなのである」と納得できなければ、人は居着かない。
そして一度、自分の採用した説明に居着いてしまうと、もうその人はそのあと、何らかの行動を起こして自分で現況を改善するということができなくなる。(90ページ)


人の世が人間で構成されている以上、人々の間での批判や批評は不可欠です。それがなくなった時に社会は暴走します。しかしその批判や批評が、実は、自分が「かくありたい」と思いながらそうなれない「理想我」へのこだわりや、「自分はまったく悪くない」と思い込みたいがゆえの「被害者意識」からもっぱら生じているものだとしたら、それは警戒すべきです。なぜならそういった「批判」や「批評」は、その根源的な思いの一面性ゆえに他者への有効な批判や批評とはならず、当人の過度の自己愛的状況を助長するがゆえに自分自身の可能性をつぶしてしまうからです。

自分があまりに舌鋒鋭くある対象を攻撃し、自分の論が正しいことや自分が全面的な被害者であることに毫も疑いが抱けない時、あるいは自分が自分の正しさに酔ってしまいそうな時、私たちはそのことばが「自分自身にかけた呪い」(92ページ)ではないのかと自問するべきでしょう。

繰り返しますが、批判や批評を一切してはならないというのではありません。批判や批評抜きに民主主義も科学も、いやまともな社会も共同体もありえません。ただ自分が批判や批評と思っている言説の正しさを自分が少しも疑うことができなくなっているなら、それは自分が何かに居着いてしまっているのではないか、それは実は「呪い」のことばになっているか、自己吟味し、そうだとしたらそれを止めるべきだ、ということなのです。

「呪い」は他人を害し自らを損ねます。批判や批評は正義を求めながらも邪悪なものになりえます。そして批判や批評が邪悪なものになったときにはたとえ自己利益しか考えないとしてもそれを自制すべきです。なぜならそれは「自分自身にかけた呪い」だからです。

ではその「呪い」をどうやって解くか。「理性」や「神」を引用(というより濫用)しての解除はよけい問題を悪化させそうです。ここで内田先生は、立ち居ふるまいレベルの行動規範あるいはマナーといってもいい日常的なことを「道徳律」として説きます。


道徳律というのはわかりやすいものでもある。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
そのことを私たちは忘れがちなので、ここに大書するのである。(150ページ)


しかしこのように「批判」や「批評」が暴走する可能性を説くことは、日本では逆効果であるのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。日本では身内で「なあなあ」と波風を立てないことを是としてるうちに、その「身内」からはじき出された人をひどく抑圧していることがよくあるからです。また「身内」に閉じこもり他人からの批判や批評に一切耳を貸さないでいるうちに、その「身内」が世界にまったく対応できないようになってしまうかもしれないからです。

この点はもっともだと思います。現代日本の課題の一つは批判や批評の健全な言論空間を創り上げ成熟させることだといえるでしょう。

しかしネットという新しい空間は危険だということを内田先生は、『現代人の祈り―呪いと祝い』で述べています。


ネット上に氾濫している攻撃的な言説のほとんどは僕の目には「呪い」に見えます。言葉によって、その言葉を向けられた人々の自由を奪い、活力を損ない、生命力を減殺することを目的としているのであれば、その言葉はどれほど現代的な意匠をまとっていても、古代的な「呪詛」と機能は少しも変わらない。われわれは今深々の「呪いの時代」に踏み込んでいる。このことの恐ろしさにほとんどの人々はまだ気づいていない。(21ページ)



ネットの特徴は誰でも発言できることです。特に掲示板やコメント欄などでは実生活では考えられないぐらいにずかずかと入り込んで居座り続け延々と発言できます。実際の物理空間でのコミュニケーションなら、さすがに周りの反応に肌身レベルで気づくことができるでしょうが、ネットではそれを察知することもなく、自分の「正義」で武装した人はひたすらに他人を攻撃し、そして結局は自らを損ねてゆきます。これに気づきにくいところ―これがネットのこわいところです。


過剰な自尊感情とぱっとしない現実の乖離に苦しんでいる人達を、僕たちの社会は構造的に大量に生み出している。その一方で、匿名で世界に向けて発信できる安価で便利なテクノロジーは圧倒的に普及している。この二つの要素が組み合わさったことによって「呪い」の言説の培養地が出来上がっている。ある意味で、これほど「呪い」にとって有利な情報環境というのは、歴史上存在しなかったのではないかと思えるくらいに。(29ページ)



以上、内田樹先生の『邪悪なものの鎮め方』『現代人の祈り―呪いと祝い』をネット上での発言で注意すべきことという観点から私なりにまとめました。ですが、これら二冊はこういった観点からだけでなく広く読める本です。紙の本で議論の肌理をじっくりと味わう経験は、ネット上での断片的な情報摂取では得られません。興味をもたれた方はぜひこれらの本をお買いあげの上、手にとってお読みください。

私としては、内田先生のことばを引用することによって語ってきたこの「批評」が凶々しいものに転化する前に、ここらでこの文章を終えておきたいと思います。










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2 件のコメント:

shakti さんのコメント...

カミュの『異邦人』について、知人のブログにコメントしていたときに、あることに気づきました。『異邦人』とはイエスの受難の物語のも一つのバリエーションなのではないのか。そして、イエスの受難の物語というのは、一つの文学ではないのか、と。ちょっと脱線したコメントですが、話はつながっておりますので、よろしくお願いします。

私は、バッハのファンで、とくにミサ曲ロ短調とフーガの技法が好きなのですが、逆に言えば、マタイ受難曲やヨハネ受難曲はちょっと面倒くさいなあと思っていました。受難曲の方はいろいろと面倒くさい面倒くさい物語があるからです。しヨハネの方は、鈴木やピノックの生演奏なども聞いていますが、当時聞いた時には単に奇妙な印象しか受けませんでした。というのは、一つの合唱団がやさしい声で「私達のイエス様」と歌いあげたかと思うと、次の瞬間には「イエス、死ね、死ね、…」と怒鳴り上げ、分りにくい物語みたいに見えたからです。オペラみたいに予習して、歌詞を見ながらでないと理解できないな、と思ったモノです。(ドイツ語を知らないと、とくにそう思います)。そして、イエスを支持する人と、イエスを否定する人とが異なる合唱団であれば、分りやすいなとも思いました。

しかし、文学的なものに興味を持つようになった今は、ちょっと違う考え方を持っています。イエスを優しく歌い上げる人間と、イエスを死ねと怒涛の怒りの言葉を発する人間とが、実は同じ人なのであると考えると、もっと奥行の深いものになるのではないでしょうか。同じ一つの合唱団か、呪いの言葉を発したり、愛の言葉を歌いあげるのが、(単純なミサ曲と違い)受難曲の興味深い点ではないでしょうか。

ところでカミに戻ります。異邦人であるムルソーに対して怒りの声を上げる群衆というのは、イエスに死ねという群衆と同じように、私達が発する呪いの言葉として、もっとよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。 今まで僕たちは、イエスを殺せという群衆についても、あるいは、ムルソーをひどく憎む人達に対しても、余りに単純に否定してきたのではないかと思うのです。もちろん肯定するわけではありません。しかし、彼らもっとよく考えてみる必要があるような気がするのです

柳瀬陽介 さんのコメント...

Shaktiさん、コメントありがとうございます。
おそらく文学というものは、私たちの無意識を描く試みなのだと思います。うまく言えませんが、人間は意識的であるだけではどこか暴走してしまうので、無意識からの働きかけを必要としているのかと思います。文学の両義性は人間にとって必要な糧かとも思います。(うーん、うまく言えない)。
あ、それからこの記事は面白かったです。
http://chronicle.com/article/What-Are-Books-Good-For-/124563
それでは!