2009年6月23日火曜日

教育実習を終えた学生の感想

以下は教育実習を終えた学部四年生の書いた文章です。本人の許可を得て、固有名詞などを消去した上で掲載します。

これを読みますと、教育実習というのがもつ意義の大きさを痛感します。教育実習で真剣に指導をしてくださっている先生方にこの場においても深く御礼を申し上げます。



○○校で学んだこと K.D.

 今回、○○校に教育実習に行って学んだことはたくさんあるのだが、その中でも自分にとって大きかったと思う2点について今回は述べようと思う。

 まず、「教科書」が言語として持つ可能性について大きく考えさせられた点である。私たちが大学で受けた授業の中では、教科書の扱いについて、"教科書を使って何ができるか"ということを多く教わったが、今回の実習で、"教科書の英語を大事にした英語教育"というものを経験できた。○○の先生方は、教科書の中の英語というものをとても大事に扱い、その中から生徒に英語というものを教えるということについては、プロフェッショナルであると感じた。英語の読み方、発問の作り方、その視点、それを使って生徒に何を教えたいのか、どれをとっても自分にはなかった英語の読み方というものを教えてもらった気がする。また、一見するといわゆる訳読式の授業、または受験英語というものに重点を置いているように見える授業が多かったのは事実であるが、同時にそのことが、試験や入試だけではなく、英語なら何でも読めるという力というものを育てる授業というものに思えた。このような意味で、教科書がもつ言語材料、その使い方で大きく英語の授業は変わるのだということを学ぶことができた。

 もうひとつ、私が学んだ中で大きかったと思うのは、授業の中には"生徒"という一番大きな要素が存在するということだ。私は、大学で習った教授法をもとに、あんな授業がしたい、ということを一番に考えて指導案を作り、実習をしてきた。しかし、実際授業をしてみると、いかに自分が生徒のことを考えてなかったのかということがよくわかった。そして、授業の中で、生徒を観察し、その場で生徒が今どのような状況にあるのかを把握し、その場で対処するという能力というものが、実は教師の必要な資質の大きな部分を占めるのではないかということを、体験できた。指導案ガチガチの授業をする実習生には難しいことだと思うが、生徒が出す見えないサインにどれだけ気づいてやれるか、ということの大事さに気づくことができたことは、とてもいい経験になった。このことも含めて、生徒とともに授業を作っていく、という楽しさにも気づくことができた。

 最後にまとめとして、何よりも、楽しく実習を終えることができたことが一番うれしいと私は思う。そしてその楽しさを、授業をやりながら感じることができたので、自分が選んだ将来の選択は間違ってなかったのかなとも思った、そんなことを感じさせる実習をすることができてよかったと私は思う。





教育実習で学んだこと H.F.

 教材への深い理解が如何によい授業作りに必要不可欠な要素であるか―これが今回の実習を経て学んだ、最も基本的でしかし自分にとっては最大の事実でした。念入りな教材研究なくしては、発問を設定できないどころか、授業の構成、展開すら考えることができないことを知りました。それは高等学校においては勿論のこと、中学校に関しても言えることで、今まで教材研究をないがしろにしてきた自分の思う"授業"が如何に薄っぺらく内容の伴わないものであったかということに気付くことさえできたのです。

今まで「教材研究は大切だ」という考えをなんとなく言われるがまま、心に止めるようにしてきましたが、実感を伴うことはなく、その必要性を強烈に感じたことなどありませんでした。前回の実習の際は、教材研究よりも如何に生徒の気を引くかばかりを考えることに従事し、教材研究はせいぜいテクストの表層上の理解に留めるのみでした。確かに、生徒の授業参加を促すきっかけ作りは必要かもしれませんが、そのような子供だましが通じるのもせいぜい5~10分で、生徒が自ら知的に考え発見しなければ、その授業において「学んだ」ということになりません。そのあたりまえの事実に気付くきっかけになったのが、前回の実習での研究授業で、今回はその反省を活かし、教材研究に力を置くことをスタートとしたのです。

実際に教材研究をしてみてわかったことが、教材研究をすればするほどその教材で生徒が学ぶべきポイントが自ずと見えてくるということです。生徒はここでつまずき、そこで考え学ぶべきなのだろう、ということがわかり、そうすれば授業の構成や展開もそれに合わせて決まってくるという具合です。当たり前のことに聞こえるかもしれませんが、私にとってはこの発見こそが今回の実習を通して得た最大の収穫であり、実際の授業作りという真剣に取り組まざるを得ない情況を与えられて初めて実感することのできた事実でありました。

今回の実習を経て、教材というものに対する私の態度が大きく変わりました。教材への深い理解は最も初歩的であると共に"よい"授業作りをする上で必要不可欠な要素であるということに気付いたことは、今後の教師としての人生のファンダメンタルな部分を構成する要素となると確信しています。





教師のことばの力 M.T.

 私は教育実習を通して、生徒に英語を教える上で教師のことばの力がどれほど重要なものかを感じた。英語教師には、「ことばを教える」と「ことばで教える」という重要な二つの役割がある。この両側面において、教師自身がことばを適切に運用することが出来、ことばに対する鋭く豊かな感性を持っていることが、生徒を教える上で非常に重要である。それは、これらの教師のことばの力が、そのまま生徒の言語力に繋がったり、生徒に対する多大な影響を与えたりする可能性をはらんでいるからである。

 「ことばを教える」という側面から、教師のことばの役割をみると、教師は第一に目標言語を適切に運用のための知識を十分に持ち合わせている必要がある。それは、生徒に言語運用能力を付けさせる上では最も基本的なことであろう。また、教師は運用のためだけではなく、生徒がことばの面白さや、言語によって様々な異なる表現を学ぶことが出来るように、言語に対しての豊かな感性と鋭い感覚を持ち合わせていることが必要であるだろう。教師がそのような感覚を持って、教材を分析し、生徒に言語に関する多様な観点を提示してあげなければ、生徒自身が言語に関する感性を磨くことは難しいだろう。

 次に「ことばで教える」という側面を見る。私の言う「ことばで教える」というのは、教師が授業中に説明や生徒との会話などで用いる全てのことばが、生徒の教育になっているということを意味している。もちろん英語を授業で用いるならば、教師の放つことばが全てそのまま生徒のインプットになってしまう。そのため、教師は目標言語の文法力や発音、イントネーションに至るまで、自分の放つことばに敏感である必要があるだろう。また、日本語で説明をするときも、いかにわかり易く生徒に伝わるように適切にことばを用いることが出来るかということも教師にとっては重要な能力であろう。更に、教師のことばは生徒にやる気を起こさせたり、自己肯定感を抱かせたりするような役割もある。その反面、生徒を傷つけたり、劣等感を抱かせたりすることも出来る。教師のことばは生徒の人格形成にも関わる可能性がある。

 生徒に言語運用能力を身につけさせ、言語の感性を磨かせるには教師自身が十分な言語知識や言語に関する感性を身に付けている必要がある。また、教師のことばは生徒の言語力にそのまま繋がるだけでなく、人格形成にも関わる可能性がある。実習を通して「ことばを教える」と「ことばで教える」という両側面において教師のことばの力が重要な役割を果たしていると感じた。また自分にことばの力がまだまだ不足していると感じた。






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