Hさんにしても私にしても仕事の合間に書いたメールなので、きちんと推敲もされていませんし、特に私の最初のメールなどは、おざなりで「上から目線」的なコメントはお気楽すぎるものと批判を受けるものでしょうが、それはそれとして、皆様の問題意識の高揚とコミュニケーションを願ってここに掲載します。
■Hさんから柳瀬へ
かなりご無沙汰しています。先生お変わりはないですか。
今年度2ヶ月ほど授業をしてきたのですが,自分が疑問に思うことがいくつかでてきています。先生の考えを聞かせて頂けないかと思いメールしました。
返信は時間のあるときで構いませんので,よろしければ一読お願いいたします。
困難校の英語指導について
選択英語(少人数)で,英語を教えています(5~7名)。英語に興味はあるのですが,なかなか力が付かない現状にあります。4月からbe動詞,一般動詞,それらの疑問形という形で基礎力を養成しようとしてきたのですが,まさにざるで水をすくうかのごとく成果が見られません。また,疑問詞を伴う疑問文になると,生徒が飽和状態で,学ぶ意欲をなくしてしまいました。イメージは個人塾といった感じで,それぞれの小集団に合わせた課題を用意して,こちらが回りながら指導するといった形をとっています。力のない子・少人数ということを考えて,これがベターと思い選択したのですが,手応えもなく,この方法に迷いを感じています。
主な疑問点は以下の2点です。
(1) 文法積み上げ式,問題集中心は学習者の意欲をそぐのか。また,あまり英語の基礎力養成に役立たないのか。
(2) そもそも目標設定として,「英語をできるようにする」という設定は違っているのか。
これまでそれなりに勉強してきたつもりではありますが,最近よく分からなくなっています。
わかりにくい所もあるかと思いますが,何か感じるところがあれば返信して頂ければ幸いです。
H
■柳瀬からHさんへ
Hさん、
メールありがとうございました。
(1)文法積み上げ方式・問題集方式は間違った方法だとは思いません。ただ、それ以前に、生徒は正確かつスラスラと英語が書ける(書き写せる)でしょうか。そのあたりの躓きはどうですか?
また問題集の問題が「できる」というのはどういったレベルですか?何とか答えられるといったレベルですか?それとも結構スラスラ答えられるというレベルですか?教師がどちらを目指しているのでしょう?
よく言われることですが、日本の英語教育はなんんとかわかったら、次に進んでしまい、「できる」ところまで指導しないと言われます。
教師からすれば進度があるから「できる」ところまで指導する時間がないのかもしれませんが、基礎レベルのところをきちんと「できる」(=正確だけでなく快適にスラスラとできる)ところまでやっていないので、その後の学習が困難になっているということはないでしょうか(間違っていたらごめんなさい)。
(2)仮に生徒が卒業して英語を使う可能性が非常に低くとも、なんとか「英語ができる」ようにさせたいと私は願っています。といいますのも「無力感」を学んで卒業して欲しくないからです。(Learned Helplessnessという心理学概念を覚えていますか?)
ある意味、私は英語は走り高跳びと同じぐらいに社会的に有用性がなくともいいと思います。私自身、社会人になってから走り棒高跳びをしたことなど一度もありませんが、学校時代に走り棒高跳びで苦労したこと・楽しんだことは財産になっていると思います。
すみません、殴り書きなので意味がわかりにくいかもしれませんね。
またゆっくり話をしましょう。
柳瀬陽介
■Hさんから柳瀬へ
柳瀬先生,早速の返信ありがとうございます。
僕自身ほんの10分の休憩時間中に書いたものを読んでいただくのは気が引けたのですが,勢いで送らせてもらいました。
文法積み上げ方式は,決して自分で理想的だと思ってやっている手法ではなく,それに変わる明確なものを自分が持っていないためにとっている手段です。
授業は年間(最低1年,最高3年)をとおしておこなうため,やはり安定した型がないと自分自身が授業をおこなうのに不安になってしまいます。仮にすばらしいアイディアが単発で浮かんだとしても,それが先へと関連づいていかないと,実はあまり意味がないことにこの数年間で気づかされました。
僕自身,単発で何かやれと言われたら少々ごまかしたことが出来るかもしれませんが,何かできなかったことを出来るようにしたかといわれると自信がありません。
問題集に関して言えば,30名クラスですらすら出来る生徒が3名,出来ないながら頑張ろうとして取り組み,何らかの答えを出す者が7~8名,気分次第が7~8名,やる気以前にdog位しか単語がわからない生徒が10名弱といった所でしょうか。その多様性故にどう対応していったらよいかこんがらがっているのが実情です。
つまり,自分が何を説明しようと基礎的なこと(DoとDoesの区別がつかない,doctorの意味すら知らない)が抜け落ちている生徒は確実に存在していることへの無力感,すらすらできる生徒をのばせていない無力感等を正直結構感じちゃっています。
できるようにさせるにはかなり時間のかかる生徒,ともすれば時間をかければかけただけの効果が出るわけではなく,いらいらして切れてしまったり,英語を嫌いになったりという生徒は少なからずいます。まさに無力感です。そういうことから自分の今やっていることへの疑問がわいています。
「自分はかなり時間をかけ,添削もし,丁寧に教えているのだけれど,なぜ・・・?といった」
それは実はこれまで生徒指導上の問題で授業どころでは無かった実態から,3年かかって授業を普通に出来ることになったことから生じてきた苦しみなのですが。
自分は柳瀬先生の影響で,卒業後も中嶋洋一先生,田尻悟郎先生といった諸先生の文献やDVDを購入し学習してきました。ただ,ノウハウではなく自分の実践に落とし込むレベルには至っていません。それどころか,そういった学習をしたせいで,よけいな苦しみが生じてしまっている気もします(これは何の批判でもなく,自分の正直な感情です)。
中学生ではなく高校生(著しく英語が苦手かつ嫌い)に焦点を当てた先行研究はあまり無いのでしょうか?(柳瀬先生の2年前くらいの英語教育厳選図書の中の1冊には目を通しました。)
先生のメールにもあり,いろんなところで聞くのですが,「ゴールとして何を持つか」というのが結局ほぼ全てを決めるのだと思います。ただ,そのゴールとして何をイメージできるか,かちっとしたものを設定できるかといえば,これは非常に難しいことではないかと思います。『英語教育のゆかいな仲間達』といったような本で田尻悟郎先生が,「何よりもまず,ゴールを決めることです」と書かれていますが,「それが難しいから苦労してるんだよ」なんて思ってしまいます。
非常に長々と書いてしまいました。申し訳ありません。
僕としても先生といつか直接お話させていただければと思います。
H
■柳瀬からHさんへのメール
Hさん、お返事をありがとうございました。
これは真っ先に私が批判されるべきことなのですが、日本の英語教育界には、(1)大学に進学しない層への教育に対する関心が薄い、(2)学習者の実態に即した英語教育内容に関する研究が少ない、といった欠点があるかと思います。
(1)に関しては寺島隆吉先生の著作や、その他多くの優れた著作はありますが、日本の英語教育学界の研究者の大半は、大学進学できる学力層 (そしておそらくは社会階層) ばかりを無批判的に「学習者」として前提にしているかと思います。
しかし大学進学者は約50%なわけですから、約半数の生徒は日本の英語教育学界の多くの研究者からは顧みられていないわけです。約半数の生徒が顧みられていないということは、約半数の英語教師も顧みられていないということになります。
ですから今すぐ、「中学生ではなく高校生(著しく英語が苦手かつ嫌い)に焦点を当てた先行研究」を思い出すことはできません。ごめんなさい。
しかし、折しも、過度の個人競争を煽るような資本主義の暴走に対する反省がわき起こりつつありますが、日本の将来を考えるとき、約半数の生徒・教師が無視されるようなことはあってはなりません。これは私の今後の課題の一つとしたいと思います。
(2)ですが、日本では英語教育の方法に関する議論は盛んでも、英語教育内容に関する具体的な議論はここ二十年、三十年といったスパンでみると非常に少なくなってきているような気がします。
その例外は田中茂範先生の認知言語学的アプローチでしょうか。あるいは中学校とはいえ、瀧沢広人先生のいくつかの著作でしょうか。私自身、どうしても抽象的な議論を好むため、英語教育内容をもっと具体的に考えないと、「ゴール設定」というのもかけ声だけに終わってしまうのではないかと反省します。
さて、今回の一連のメール交換ですが、Hさんの名前を「H」とした上で、私のブログに転載するわけにはいかないでしょうか。Hさんの正直な述懐が多くの教師の共感を得るかと思ったので提案している次第です。ご検討ください。
それではまた。
柳瀬陽介
■Hさんから柳瀬へ
ブログに掲載されることは全く問題ありません。自由に使って頂いて構いません。
また何かしら疑問が浮かべばメールさせて頂きます。メールさせて頂くだけで心がかなりすっきりしました。ありがとうございました。
H
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