2019年3月4日月曜日

バウマン『個人化社会』 Zygmunt Bauman (2001) The individualized society




以下は、言語文化教育研究学会第5回年次大会 (http://alce.jp/annual/2018/) での口頭発表(共同研究)に向けて作った「お勉強」ノートです。Zygmunt Bauman (2001) The individualized society. Cambridge, UK: Polity Press の 「語られた人生と生きられたストーリー:序曲」 (Lives told and stories lived: an overture) の一部を翻訳したものです。翻訳にあたっては刊行されている翻訳書(澤井敦・菅野博史・鈴木智之(訳) (2008)『個人化社会』青弓社)を参照しましたが下の翻訳は私によるものです。

なお「個人化」 (individualization) とはユングの「個性化」 (individuation / Individuation) とはまったく異なる概念ですが、 ‘customization’ とほぼ同じような意味をもつ ‘personalization’ とも異なります。ここでは ‘customization / personalization’ をとりあえず「個別化」として、「個人化」と「個性化」と「個別化」は(字面では似ているものの)異なる概念であることを述べておきます。(ユングの「個性化」についてはいずれ勉強して「お勉強ノート」を作らねばと思っています)。

それでは以下、私にとって印象的であった箇所の要旨と拙訳と訳注を掲載しておきます。



■ 個人化された人々は、個人ではどうしようもない社会の矛盾に対して徒手空拳で挑むことを求められている

要旨
本来は社会全体で取り組むべき問題を「自己責任」の問題とすることで、社会に対する不満を表面的に隠すことはできるかもしれない。だが、個人化された社会に住む人々は、集団で公的に働きかけるすべを失ってしまう。そして「自己責任」を押しつけられた個人は自責・自罰にはしることもある。

拙訳
一方で、人は自分自身に責任をもたされる。しかし他方で、人は自分のまったく手の届かない(そして多くの場合自分がまったく知らない)ところにある条件に左右されている。そのような条件下では、「生きることが社会全体の矛盾を一人だけで解決する試みになって」しまう。制度に向けられるべき非難を自分自身の不備に向けることによって、現在の社会を破壊しかねない怒りをなだめることはできるかもしれない。しかしそのことは、その怒りを人々の自己非難や自己否定に変えてしまうかもしれないし、その人自身の身体に対する暴力や拷問に変容させてしまうかもしれない。

 「社会による救済などない」という戒律を繰り返して、それを常識的な処世訓とすることは、現代を生きる中でしばしば見られることであるが、そのことによって物事は「底よりも下にある底」においやられてしまう。個人の限界を超える集団的で公的な手段は否定され、ほとんどの場合一人で解決するための資源を持ち合わせていない課題に孤独に取り組む個人が打ち捨てられる。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.5-6). Wiley. Kindle .

訳注
生きることが社会全体の矛盾を一人だけで解決する試みになって: ‘how one lives becomes the biographical solution of systemic contradictions.’”
・個人の限界を超える集団的で公的な手段: collective, public vehicles of transcendence



■ 個人ではどうしようもない社会が課してくる「条件」と、個人が行いえることの「物語」の間の境界線をどこに引くか

要旨
本来は社会的なものである「条件」も、ある個人に一方的に降り掛かってくるものと理解されるし、「物語」もある個人が何をしたかというものになっている。しかし社会学的に重要なのは、本来は社会の問題である「条件」を克服することが、個人の「物語」として語られてしまったいないかを吟味することである。

拙訳
条件と物語は同じように容赦のない個人化の過程の中にある。とはいえ、それぞれの過程の中身は異なっている。「条件」は、とにもかくにも、個人に降り掛かってくる事柄であり、頼まれもしないのにやってきて、去ってほしいと個人がいくら望んでも去ることがないものである。他方、「生きることについての物語」とは、人々が自ら行ったこと・行わなかったことから紡ぎ出すストーリーを意味している。両者が言説化された場合、その違いは個人が当然と思うものと、「なぜ」「どのように」と問いかけるものの違いとなる。これらはいわば二つの用語意味論的な違いである。しかし社会学との関連からすればもっとも重要な点は、どのようにこれら二つの用語がストーリーを形成する際に使われるかということである。つまり、個人が行ったことと、個人が行ったこと(あるいは定義的に述べるなら、個人がそうせざるをえなかったこと)の条件の間の境界線が、物語を語る中でどこに引かれるかということである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.6-7). Wiley. Kindle .

訳注
・個人化: indivudalization
・条件: conditions
・生きることについての物語: life narratives



■ 人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない

要旨
マルクスの悲観を受け継ぐなら、個々人が選べない「条件」と個々人がなしうる行為の「物語」は分離したままになっている。だが大切なのは、両者の範囲を問い直すことである。

拙訳
マルクスの有名なことばに、人間は歴史を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない、というものがある。この命題を、「ライフ・ポリティクス」の時代の要求にしたがって改訂するなら、人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない、となるだろう。しかしどちらにおいても、この命題が含意しているのは、選択の余地のない条件の領域と目的や計算や決定を受け入れる行為の領域は分離しているし分離したままであるということであろう。つまりこれら二つが絡み合うところでは問題が生じるかもしれないが、両者を分かつ境界線は問題にならない--客観的で交渉の余地がない--ということである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.7). Wiley. Kindle .

訳注
・人間は歴史を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない: people make history but not under conditions of their choice
・ライフ・ポリティクス: life politics
・人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない:people make their lives but not under conditions of their choice 



■ 「この条件は受け入れるしかない」と語ることによって、物語で語りうることの範囲が狭められる。

要旨
仮定はそれが仮定として扱われることが長くなればやがて真実となる。私たちが「条件」とは所与のものであり私たちが何もなしえないものであると考えることによって、それは「条件」として固定化される。 私たちは一見所与にしか見えない「条件」についても共に・公的に何かなしうるという「私たちの物語」をみ出すべきだろう。さもないと私たちは「個人化された物語」の範囲でしか実人生を送ることができなくなってしまう。

拙訳
しかしながら、境界線は「与えられるだけ」であるという仮定は、それ自身が、「条件」を「条件」とする大きな、おそらくは決定的な要因である。「条件」は、それらが人間の選択を超えたものであると宣言されて受け入れられることによって、目的と手段という枠組みの生きてゆくため行為とは別のものとされ、その結果、人間の選択の幅は狭まってしまう。W. I. Thomasが言ったように、人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである)。人々が「X以外に選択肢はない」と言うなら、そのXは行為の領域から抜け出し、行為の「条件」の領域に入ってしまう。人々が「もう何もできない」と言うなら、本当に何もできることがないのだ。個人化の過程は、「条件」と生きることについての物語の両方に影響を与えているが、それが進行するためには二本の脚を必要とする。一方で、選択の範囲を設定して夢物語と現実的な選択を区別する力が「条件」の分野ではしっかりと設定されなければならない。他方、生きることについての物語は提供されている選択肢の中で行ったり来たりしていることだけに限定されなければならない。

 こういうわけで、生きられた人生と語られた人生は互いに結びつき相互依存している。矛盾めいた言い方をするなら、人生について語られたストーリーは、人生が生きられて語られる前に生きられる人生に干渉するのである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.7). Wiley. Kindle .

訳注
・人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである): something that people assume to be true tends to become true as a consequence (more precisely, as a cumulative consequence of their actions)
・生きられた人生と語られた人生: Lives lived and lives told 
・人生について語られたストーリーは、人生が生きられて語られる前に生きられる人生に干渉する: the stories told of lives interfere with the lives lived before the lives have been lived to be told



■ 個人化された社会の中で、人々は社会全体の仕組みが生み出している「条件」について語ることを抑圧されている。

要旨
個人化された社会では、人々が語る「物語」から、社会から押しつけられる「条件」について人々が疑問をもったり異議申し立てをする可能性が排除されている。私たちは一人でも共にでも「条件」の変革についての「物語」を語る可能性を取り戻すべきだ。

拙訳
あらゆる言説化は、ある可能性を開くとともに、他の可能性を閉ざす。現代において語られるストーリーの決定的な特徴は、それらのストーリーは個々人が生きていることを言説化する際に、個々人の宿命を社会全体の仕組みに結びつける可能性を除外したり抑圧(言説化を抑止)したりしているということだ。もっと重要なことは、社会の仕組みについて疑問を呈することを不可能にしていることだ。社会の仕組みを、きちんと精査しないままに個々人が生きるために従事していることの背景に追いやってしまい、ストーリーを語る者が、一人でも仲間とともにでも集団ででも、それなについて異議申し立てしたり交渉したりすることもできない「生の事実」とすることによって社会の仕組みへの疑問が封じられている。個人を超えた要因が、個人が生きることの軌跡を形成しているということを見えなくし考えさせなくすることによって、「力を合わせ」て「手を取り合って立ち上がる」ことの付加価値が見えにくくなり、人間が生きている条件や人間が共有している苦境について取り組むことが力を失うか存在しないものとなってしまっている(批判的に取り組むことについてはとりわけそうである)。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.9). Wiley. Kindle .

訳注
・社会全体の仕組み: the ways and means by which society as a whole operates
・個人を超えた要因: the supra-individual factors



■ ますます個人化される人々が生きる意味や目的を見出せる物語を支援することが社会学の課題

拙訳
現在の変わりつつある人間が生きる条件の下で、「ますます個人化される個人」は生きる中に意味と目的を見出そうとしている。それこそは私が『液状化する社会』の中で描こうとした現在の状況であるのだが、そういった変わりつつある人間が生きる条件を再言説化しようとする現在進行中の試みに密接に取り組むことこそが、社会学のもっとも重要な課題であると私は信じている。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.13). Wiley. Kindle .

訳注
・ますます個人化される個人: increasingly individualized individuals
・生きる中に意味と目的を見出そうとしている: invest sense and purpose in their lives



■ 社会学というストーリーは、私たちにはもっと多くのストーリーの語り方があることを教える。

拙訳
社会学はそれ自身が一つのストーリーである。しかしこの社会学というストーリーのメッセージは、私たちが日頃ストーリーを語る際に想像しているよりも多くのストーリーの語り方があるのだということである。私たち一人ひとりが語って信じ込み、これしかないように思えているストーリーが示している以外の生き方も多くあるということを社会学は伝えている。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.13). Wiley. Kindle .



■ (消費生活的な)私的関心に植民地化された公的領域を脱植民地化する

拙訳
背景に追いやられライフ・ストーリーによって精査されないままに放置されている領域をもう一度見直すことによって言説化の範囲を拡張しようとする試みの重要な効果は、政治的課題を抜本的に広く捉えることに現れている。今や私的関心とは、公的なつながりを削がれ剥がされ消滅させられた上ですぐに(私的な)消費につながるものとなり、(社会的な)つながりを生み出すものではほとんどなくなってしまったが、こういった私的関心によって公的領域が密かにしかし着実に植民地化されている限りにおいて、この政治的課題を広げる効果は、公的領域の脱植民地化と呼ぶこともできるだろう。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.13-14). Wiley. Kindle .

・政治的課題を抜本的に広く捉えること: the radical widening of the political agenda
・私的関心とは、公的なつながりを削がれ剥がされ消滅させられた上ですぐに(私的な)消費につながるものとなり、(社会的な)つながりを生み出すものではほとんどなくなってしまった: private concerns [that are] trimmed, peeled and cleaned of their public connections and ready for (private) consumption but hardly for the production of (social) bonds
・公的領域の脱植民地化: a decolonization of the public sphere



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野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
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西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊



福島哲也先生(追手門学院大手前中学校・数学)の影響で西川純先生の本を数冊読みました。

西川先生は多くの本を出版されていて、ご自身でもどの本を先に読むべきかの指針をお示しですが(例えばこれ) 、ここでは「とりあえずはこの三冊を読んでみたらどうですか」と福島先生に薦められた三冊と、私がKindleで見つけた一冊について私なりのまとめをしておきます。今は個人的にとても忙しいのですが、4月からの授業のあり方について考えておく必要があるため、今まとめをしておく次第です。




西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書)




『学び合い』と『 』で表記された「にじゅうかっこのまなびあい」とは、現在さかんに言われているいわゆる「学び合い」とは異なる西川先生の考え方による教育方法を指すことばですが、この本ではその『学び合い』とは何かを知りたいために書かれ、その成立史も踏まえて『学び合い』について説明された本です。ある意味『学び合い』のハウツー本よりも実践的な本なのかもしれません。

成立史の中では西川先生の学部時代の頃のことから書かれています。西川先生は学部時代はいわゆる理学部系の学部(筑波大学第二学群生物学類)で生物学(生物物理学)を専攻し、大学院から教育学に転向しました。そこで驚いたのは理科教育学の学術論文の多くが、理学部の常識では考えられないぐらいの低いレベルであったことです。それならばと西川先生は自分でしっかりとした研究を始め、修士論文は二つの学会誌に掲載され、また理科教育学では最も古くからあるアメリカの雑誌にも投稿しそこでも掲載されるに至りました。(西川純先生の業績

西川先生はそれから東京都の定時制高校で物理学の教師として働き始めます(実際には生物学・生物学・地学も教えたそうです)。しかしそこで働き始めて一週間でわかったことは大学および大学院で学んだことは、「学ぼう」という構えのある子には有効であっても、そうでない子にはまったく使えないというとでした。落第の可能性で脅しても、理科の有用性を説いても、理科の素晴らしさを訴えても通じず、生徒が言う理屈の方がもっともだと思えるような始末でした。

その定時制高校時代で西川先生が学んだ「教育がいかにテレビドラマのようにはならないのか(あるいはテレビドラマのようにしてはいけないのか)」は非常に深く、学ぶべきことが多いのですが、ここでは割愛し、西川先生が大学に戻ってからのことについて書きます。大学でとにかく論文を書くことを求められた西川先生は次のような事態に陥ります。

とにかく論文を書きまくらなければなりません。論文を書くには物事をシンプルに考えねばなりません。現実の教育はゴチャゴチャしすぎています。それに寄り添えば論文は書けません。そこで、私は教育研究者であるのに、教師の心さえも封印してしまったのです。いや、教育研究者であるからこそ、教師の心を封印したのです。(p. 25)

そうして他人の何倍もの業績を出版し研究者としての地位を確立したた西川先生は、1996年に「教師として納得できる研究をやろう」と決意します。このあたりの経緯の詳しいところも省略しますが、ある時西川先生は、すぐれた実践家であるN先生の分析を通じて、自分自身が「子どもが変わるのは、教師が指導したからだ」という思い込みにとらわれていたことに気づきます。N先生のクラスでは生徒が自由に立ち歩き『学び合い』を成立させているのですが、それは教師が子ども指導をしたからではなく、教師が子どもの邪魔をしなかったからだということを悟った瞬間、西川先生はN先生の授業について卒業論文で研究している学部生の前で涙を流してしまったそうです。(p. 38)

ちなみに、ここにも世間一般で流通している「学び合い」と西川先生の『学び合い』の違いが表れています。「学び合い」について西川先生は言います。

それら[=「学び合い」]は「子どもは教えなければ学び合わない」という前提で書かれています。しかし、これは生物学的にはとてもおかしな事です。なぜなら、ホモサピエンスという生物は群れで生活し、それを武器にして生存競争に打ち克ちました。どう考えても、猿人の時代に学校教育があるとは思えません。組織的な教育がないにもかかわらず、ホモサピエンスは群れで生活し、知恵を群れの仲間に伝えていたはずです。 (p. 39)

関連記事
Homo Pedagogicus: The evolutionary nature of second language teaching
https://doi.org/10.1017/S0261444816000458

Natural Second Language Pedagogy? Dwight Atkinson教授の講演から
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/natural-second-language-pedagogy-dwight.html

自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/blog-post.html


話を西川先生の「教師として納得できる研究」に戻しますと、西川先生は研究を通じて子どもたちは授業を通して教師の人柄を見ているという、ある意味当たり前なのだけれど教師・教育研究者は都合よく忘れている事実を再確認します。

このように学習者は教師の「心」を見ているのですが、さらなる研究でその「心」とは、「教師が本気で全員が分かることを願い、その結果として、それが成り立ったかを評価するという、とてつもなく当たり前のことを本当にやるか否かであった」 (p. 47) ことを突き止めます。子どもは教師の心の鏡であることを確信した西川先生は、より一層、教育方法のテクニックだけについて考えるような(大多数の)教科教育研究から離れてゆきます。

考えてみれば教師・教育研究者が好む「良い方法は何か?」という問いかけは、子どもの多様性を考えると「誰にとっての良い方法か?」と問い直さねばならないでしょう。万人にとっての良い方法を求める研究には無理があるのではないでしょうか。これは大きな発想の転換ですから、教育研究者は丁寧に考えるべきだと思います。

関連記事
Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html

平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html

いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

※ このThe End of Averageの残りの章についてまとめる時間が欲しいです!



 


そこで西川先生は「良い方法は何か?」ではなく、「良い方法を見いだせるのは誰か?」と問いかけを根本的に変えました(このような前提の根本的な変更ができるのが西川先生の--おそらくは自然科学の素養による--すごいところです)。そしてその後者の問いの答えは「本人であり周りの子ども」であることを西川先生は確信します。 (p. 82)

こうして研究を積み重ねることにより、2004年から2005年にかけて西川先生は『学び合い』についての考え方を確立します。簡単に言えばそれは、以下の三つを本気で信じて実践するということです。 (p. 72)

(1) 「一人も見捨てないという一貫した願い」
(2) 「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することが学校教育の目的である」
(3) 「子どもたちは有能である」

しかし『学び合い』の授業で教師が一斉型の説明をほとんど止め、学びを学習者に委ねてしまうと、教師の専門能力とは何なのでしょう。西川先生の考えは以下の三つです。 (pp. 99-100)

(1) 子ども全員を良き大人に成長して幸せになって欲しいと願えること。
(2) 学んでる教科が「素晴らしいことだ」と子どもに感じさせること。
(3) 子ども自身が「大人になりたい」と願うようにさせること。

これらを私なりに外国語教育に即して言い直すなら次のようになります。

(1') 学習者全員がよい多言語使用者(複合的言語使用者)になり幸せになって欲しいと願えること。
(2') 学んでいる外国語の意義を学習者全員に実感させること。
(3') 学習者全員がよい多言語使用者(複合的言語使用者)になりたいと願うようにさせること。

つまり、教師の専門能力とは、教科教育の内容や方法論を知ることなどを超えたもの、言ってみるなら「人の道」 (p. 101) であると西川先生は考えています。

しかし「人の道」といった道徳的表現はいかにもそれを語る私たちの自我を肥大させてしまいそうです。西川先生はこういった道徳が暴走することについても配慮しています。

西川先生は『学び合い』における「一人も見捨てない」が問題を起こすとしたら、それは「徳」で語るからだと指摘します。(p. 108) 西川先生は「一人も見捨てない」ことは「徳」の点からではなく「得」の点から進められるべきだと語ります。

たしかに、「一人も見捨てない」ためにやる気のないクラスメートに寄り添うことは局所的・短期的に考えれば「損」に思えるかもしれません。しかし、全体的・長期的に考えれば、クラスに協力する文化が普及することによってやがては自分も助けられるだろうし、自分自身もさまざまな人への対応能力をつけることで長い生涯で得をするでしょう。「一人も見捨てない」ことは結局は自分の「得」にもなるのだ--そしてやがては自分の「徳」にもなるのだ--と学習者には説明すべきであると西川先生はお考えになっていると私は理解しました。

総じて言うなら、非常に考えさせる本で、なおかつ私がこれまで他の著書や論文で学んできたこととも、優れた実践者の姿から感じてきたこととも一致する本でした。「教師がいかに教えるかが勝負である」といった自らの前提を、仮に一時的でも変えることができる教師はこの本から多くを学べると確信します。私もこれから自分なりの教育実践を積み重ねてはこの本に立ち返ってゆきたいと思っています。





西川純 (2018) 『学び合う教室: 教師としての学習者、プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析』(『学び合い』出版)


 


上の一冊および下に紹介する二冊は、忙しい教師向けに簡単に結論だけ書かれたような本なので、教育研究者の中には西川先生がそこまで断言してよいのかと疑念を抱く人も出てくるかもしれません。Kindle電子書籍で復刊されたこの本は、西川先生が学術的根拠を示しながら書かれた本の一冊です。

詳しい内容については省略しますが、私としては以下の三点について備忘録的にここに書き残しておきます。

第一点は、教師の三つの仕事についてです。西川先生はそれを (1)「目標の設定」、(2)「学習」、(3)「評価」と短く表現されていますが (位置No. 1380)、それらを私なりに言い直したのが以下の表現です。

(1') 目標:そのよさを実感してもらえる目標を設定する
(2') 環境:学ぶ環境を物理的・社会的に整える
(3') 評価:目標と学びに即した評価を行う

第二点は、まったく集団的行動が苦手な学習者などへの配慮(位置No. 2729)の必要性です。これについては今では西川先生の他の著作で十分に説明はされていると思いますが、それらをまだ読んでいない自分としては忘れてはならないこととしてここに記しておきます。

第三点は、「何をしないか」を考えることの重要性です。西川先生は次のように言っています。

そのため、「 学び合い活動を促進・維持するための指導法はどうあるべきか」という問いから出発するのではなく、「何が学び合い活動を阻害しているのか」という問いから出発する方が実り多いと信じている。そのような考え、問いで行き詰まった先に、教師の存在意味が自ずとみえるのではないか。まず、「教師が存在しなければ」では、教師の本当の存在意味は永遠に見えない だろう。(位置No.2765)

この点は、いわゆる「無為」の重要性とも重なることかとも思います。これについては私自身少し考えを深めたいと思い、ここにメモを残しておく次第です。

参考記事
Trying Not to Try: How to Cultivate the Paradoxical Art of Spontaneity Through the Chinese Concept of Wu-Wei
https://www.brainpickings.org/2014/04/21/trying-not-to-try-slingerland/





電子書籍ということで価格も安いこの本は、『学び合い』について教育研究者が最初に手に取る一冊としては適切なのかもしれません。






西川純 (2015) 『子どもが夢中になる課題づくり入門』(明治図書)


 


福島哲也先生のワークショップに参加した私の同僚の先生(数学教育学)は、「これは教師は一見何もしないように見えるが、実は課題設定で大変な努力をしている」とすぐにおっしゃいました。私も『学び合い』については学びの課題を設定することが決定的に重要だと思います。

この本についても詳しい内容は省略しますが、「まえがき」での西川先生の要約をさらに私なりに言い換えると西川先生はこの本で次の四点を伝えようとしています(以下の表現は私なりの言い換え(改悪?)です)。

(1') 課題はシンプルに:教師自身と同じタイプなら喜ぶ「味付け」(=課題の編集や脚色)も、それとは異なるタイプの学習者にはかえってわかりにくいものになるかもしれない。ゆえに課題は素材(=本質)を活かしたものとする。

(2') 学ぶ必然性:学びの経験が学習者の人生とどうつながるのか、学びの成果が誰に示されるのかといった点で、学びが学習者にとって必然的であるようにする。

(3') 人間関係を授業で形成する:人間関係を作ってから『学び合い』をするというよりむしろ教科の授業の『学び合い』の中で人間関係を作ると考える。

(4') 教員同士が連帯する:課題づくりをする中で違う教科の教員とも協力し合うことにより、自分の無自覚な前提に気づき、かつ、課題をより現実社会に近づいたものとする。そういったつながりで教師が相互に学びあえる文化を作る。





西川純 (2015) 『子どもたちのことが奥の奥までわかる見取り入門』(明治図書)



 



私が福島哲也先生のワークショップで驚いたことの一つは、参加者が『学び合い』をしている際に福島先生がほとんど直接的な介入をせずに観察に徹しているということです。この本ではそんな「見取り」についてまとめられています。

授業を見る視点としては、「教材」、「指導法」、「一人ひとりの学習者」がありますが、それに加えて「学習者集団」をも見る必要があります。 (p. 7)

学習者を集団として観察することが重要である背景の一つに、一人の学習者を正確に見取ることが極めて困難ということがあります。西川先生はこう述べます。

『学び合い』では一人ひとりの子どもを見取ろうとはしません。なぜなら黙って静かにしている子どもの頭の中を、一言、一行の言葉で読み取るのは困難だからです。その代わりに、子どもたちが自由に関わる時間を多くして、その中での子どもたちの動きに着目します。 (p. 52)

その中でも特に着目すべき点には、教室内の学習者行動に限っても次のようなものが含まれます。 (pp. 54-61)『学び合い』では立ち歩きも発言も自由ですから、学習者が本当に学んでいるのかの判断は困難なように思えますが、次のような場合は学んでいない可能性が高いと思い割れます。

・周りの学びに配慮していない耳障りな声を出している。
・教科書などを一切見ずに互いの顔ばかり見つめて大笑いしている。
・一人顔を上げて手が止まっている。

あるいはグループで学び合いをしているようでも、以下の場合は、深い学び合いになっていない場合があります。

・身体距離が妙に遠い。
・メンバーの視線が一人のリーダー格だけに向けられている。
・言葉づかいが堅苦しい。

また、『学び合い』を行っている教師の行動を見ても、その教師がどれぐらい『学び合い』に習熟しているかがわかります。 (pp. 94-99) 以下は、番号順に『学び合い』に習熟した教師の行動特徴となります。

(1) 『学び合い』に入る前の説明が長い。
(2) 『学び合い』を始めても、視線が個々の学習者のノートに向けられている。
(3) ゆったりと机間巡視をするが、気になる数名のところで立ち止まり、時に個人指導をしてしまう。
(4) 気になる数名ではなく、クラスをリードする子に働きかける。
(5) 壁によりかかってぼーっと教室全体を見る。問題行動を見つけたらその場からボディランゲージだけで伝える。

このようにまとめるだけでは単純なことのように思えますが、実際に行うとなかなか困難でしょう。

『学び合い』の授業を行うならば、最初はその考え方を徹底的に咀嚼して、実践を始めてからは具体的に経験する問題点に即してこのような本で学ぶことが重要かと思えます。


以上、簡単に四冊の本について簡単にまとめましたが、『学び合い』は学校教育を根底的に変える教育方法であると思います。これからもこの実践から学んでゆきたいと思います。





2019年2月12日火曜日

柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32


この度、『言語文化教育研究』の以下の特集号において、拙論を掲載していただけました。私が物語(ナラティブ)についてずっと考えてきたことをようやく一つの形にすることができたことを個人的にはとても嬉しく思っております。

『言語文化教育研究』第16巻
特集「ナラティブの可能性」
2018年12月31日公刊


柳瀬陽介 (2018)
「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか
―読者・利用者による一般化可能性」
『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32


この論文の概要は以下の通りです。もしご興味があればぜひ上のURLをクリックしてお読みください。

本論文は実践研究における物語の重要性(および危険性)を,物語概念を理論的に整理することで明らかにした。理論的整理は,心理学者ブルーナーの物語様式の理論を社会学者ルーマンと哲学者アレントの意味理論で補強しながら導入し,さらに歴史学者ホワイトの物語的歴史についての理論を重ね合わせることによって行った。その結果,形式・題材・素材・筋書・言語・基調・実在性の観点において物語を科学規範様式の論証と対比的に特徴づけた。その特徴づけの中で,世界の複合性と人間の複数性を扱いうる意味概念を提示した。さらに,実践的過去を描く歴史叙述と物語の共通性を指摘し,物語の重要性(「私たちは何をするべきか」という問いかけに答えること)と危険性(出来事を単純な教訓話やイデオロギーにしてしまうこと)を指摘した。このような物語は一般化可能性をもつが,それは,実践研究を実践的に読み解こうとする読者の想像力と思考力に応じて得られる読者・利用者による一般化可能性であることも示した。



『言語文化教育研究』に拙論を掲載していただくのは、以下の論文に続いて二回目です。

柳瀬陽介 (2014)
「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」
『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28

これら二つの論文は、私にとってはとても重要な論文です。

英語教育系の学会ではなかなか取り上げてくれない理論的な論文を評価してくださったこの学会の皆様、および査読・掲載の大変な作業をしてくださった編集委員会の皆様に改めて厚く御礼を申し上げます。

また、この学会が投稿者に30ページ(約32,000文字=400文字原稿用紙で80枚)の分量を与えてくださっていることも本当にありがたいです。現在主流となっていない考えについて丁寧に論考しようとするとどうしてもある程度の分量が必要だからです。

私としては今後もこの学会を自分の中の重要な研究の場として、この研究共同体に少しでも貢献ができればと思っております。




物語(ナラティブ)に関する関連記事
野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
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 ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店 Hayden White (2014) The Practical Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.

Hayden White (1980) The Value of Narrativity in the Representation of Realityの抄訳
「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか 仮定法的実在性による利用者用一般化可能性」(3/11言語文化教育研究学会・口頭発表)
J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
Jerome Bruner (1990) Acts of Meaningのまとめ
アレント『暗い時代の人々』より -- 特に人格や意味や物語について--
Critical Realism, Policy, and Educational Research (批判的実在論、政策、そして教育研究)
「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ:EBMNBMからの考察
シンポジウムで使われる専門用語の整理
吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして 教師の語りが拓く授業研究』 ひつじ書房
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
ナラティブ・シンポ (1日目) の報告
ナラティブ・セミナー (2日目)の報告
「書く」というナラティブ
「声の力」あるいは声の人格性について
意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察
村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
人はなぜ物語を必要とするのか
質的研究のあり方に関する報告7/10
ジョーゼフ・キャンベル/ビル・モイヤーズ著、飛田茂雄訳(2010)『神話の力』早川書房
数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということ --福島哲也先生の授業についてユングのタイプ論から考える試み--
C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
技術・哲学・物語
物語論という観点からラボ・パーティの実践を観察する
シンポジウム「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」(2014/3/9 早稲田大学)予稿の公開
それぞれの教科の中の科学と物語
ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
デイビッド・J・リンデン著、夏目大訳 (2009) 『つぎはぎだらけの脳と心』インターシフト
落合陽一 『魔法の世紀』『これからの世界をつくる仲間たちへ』『超AI時代の生存戦略』
「自由意志」―神経科学・村上春樹・仏教― やれやれ
池谷裕二 (2009) 『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社
池谷裕二・木村俊介 (2008) 『ゆらぐ脳』文藝春秋