2014年3月19日水曜日

河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫





河合隼雄の晩年である2008年にもともと編まれた本書は、編者の河合俊雄が言うように、「イメージ」と「物語」を中心テーマとしてもっている。したがって、ここでもそれらを中心に私なりにまとめてみたい。

人間が意識と言語をとりわけ発達させているということは、人間を動物の中でも特異な動物にしている。例えば人間が木を見る。それは「木」として概念的に認識される(だからこそ私もこうして何も問題がないように、その行為を読者であるあなたに伝えている)。しかし言語をもたない動物にとっての木とは、「木」として対象化されるものではなく、自らが生きることの中に溶け合い組み込まれた経験そのものである(3ページ)。

何もかもが混ざり合い共に流動し変動するのが自然なのだとすれば、対象を言語で限定し、その言語でもって記憶や思考を構築し、他人にも伝える人間は、およそ反自然的なのかもしれない(4ページ)。特に思考や言語がそらぞらしく感じられ、「生きている身体」が自分で感じられない時(5ページ)、言語を操る意識(自我)は自然と乖離してしまっているのかもしれない。

しかし、人間とて自然の中で進化を重ねて意識と言語を獲得したのだから、この反自然も「人間にとっての自然」 (human nature) なのかもしれない。武術家の甲野善紀の問いの一つに「人間にとっての自然とは何か」があるが、この問いは深い。外国語教育にしても、外国語という不自然な言語を、自ら自然に使えるようになる第二の天性 (second nature) とするという営みと考えれば、「人間にとっての自然とは何か」は、外国語教育関係者にとっても重要な問いであろう。

ともあれ、自然・身体から乖離しかけた言語や意識を、自然・身体と再びつないでくれるのがイメージである。イメージの特性を河合は、(1) 自律性、(2) 具象性、(3) 集約性(多義性)、 (4) 直接性、 (5) 象徴性、 (6) 創造性、 (7) 心的エネルギーの運搬の7つにまとめる。『ユング心理学入門』で河合はイメージ(心像)の特性を、具象性・集約性・直接性としていたので、ここではそれらと重ならない自律性、創造性、心的エネルギーの運搬についてごく簡単にまとめる(象徴性についての説明は、『創造する無意識』をご参照いただきたい)。

自律性というのは、イメージが自我のコントロールを超えて動きだすということである(6ページ)。典型的なのは夢であるが、アクティブ・イマジネーションや文芸作品においてもイメージが自ら展開することはよく知られている(これらについても『創造する無意識』の説明を参照されたい)。

創造性は、自律性と重なり、イメージが自律的に動き始めることにより、文学・絵画・音楽・演劇などの芸術活動、あるいは科学活動においてすら、それまで自我が考えたこともなかった新しいものが創造されることである。創造の背後にしばしばイメージがあるわけである(11ページ)。

心的エネルギーの運搬も創造活動の際に典型的に現れる。河合は次のようにまとめている。

何か新しいことを見出そうとする人は、考えこんだり、あれこれと試したりするうちに疲れてきて、何もできなくなる。このとき、こころのエネルギーは無意識の領域にひきこまれてしまっている。そのとき、ふと新しいイメージが湧き、それが対抗していた心的エネルギーとともに意識領域に流れこんでくる。このときに、そのイメージが新しい発見をもたらすのである。(12ページ)


私は言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」などで、言語を、からだ・こころ・あたま、そして内界・外界をつなぐ媒体としてとらえたが、こと、からだや内界といった無意識的領域と意識的領域をつなぐことに関しては、言語よりもイメージの方が働きやすいといえよう(もっとも、言語とイメージを切り離して考えるのもナンセンスで、両者は常にどこかで結びついているものであろうが)。

このように意識のコントロールを超えて自律的に、さまざまな側面を集約的かつ象徴的に表現するイメージを、意識で真剣に受け止めるということは、「自我の中心的役割を少し弱め」て、「全体としての心のはたらきを活性化することを意味」する(26ページ)。例えば自分の夢やアクティブ・イマジネーションについてできるだけ意識的に考えることは、意識の論理からすれば、およそ辻褄の合わない馬鹿なことをしているように思えるかもしれないが、自らの心の全体性を活かそうとしていることだといえよう。

他人が夢やアクティブ・イマジネーションなどのイメージについて語ることを聞くのは、まさに心理療法家(カウンセラー)の聞き方である。河合は次のようにまとめる。

通常の会話のように、相手の言った内容に関して自分の意識をかかわらせてゆくのではなく、意識と無意識の境界をできるだけあいまいにし、相手の言ったことを自分のこころの深くに投げ込んでゆき、果たしてどんな反応があるのか待つ、というような聴き方をする。あるクライアントに、「先生に最初に会ったとき、私の話をほとんど聞いておられないのじゃないかと思いました」と言われたことがあるが、表面的にはそんな感じがするだろう。意識的にいわゆる熱心に聴くのとは、まったく異なっている。クライアントも最初は不思議に感じるが、すぐにそれは何か意味のあることらしいとわかるようである。(164ページ)


こうして語る者が、自我を無意識に対して開き、聴く者もその語りを自らの無意識に投げ込むようにしながらも意識を保っている関係が始まると、それが「物語」となる。河合は、物語においてもっとも重要なこととして「個人の意識と無意識の関係の回復」(101ページ)をあげる。

この物語を語る者と聴く者の関係を、河合はクライアントと治療者の関係として記述するが、この関係は「水平」なものである(95ページ)。

河合は坂部恵『かたり―物語の文法 』(ちくま学芸文庫)を引用しながら、「告げる」と「告げる」を区別した上で、さらに「語る」を「話す」との関係で説明する。「告げる」ことにおいて話をする者と聞く者は垂直関係にある(癌の告知などはその典型であろう)(94ページ)。それに対して「話す」場合は両者は水平関係にある。

「語る」場合も両者は水平関係にあるが、「語る」ことは、「話す」ことより、それに関わる者の「主体的かかわり」があるといえる(95ページ)。かくして治療者はクライアントの語りを水平関係において聴くわけであるが、それは両者がまったく同等であることを意味しない(97ページ)。治療者は語りを聴く場合に、相当に専門的な知識と技術をもっていなければ、物語にのみ込まれてしまうこともあると河合は注意を喚起する。

物語の危険性としてまずあげられるのが、ある文化・時代において流行する物語である。多くの人は、これを標準や理想として考え苦しむことになる(103ページ)。流行する物語は集合無意識的に共有されている場合もあるが、人は時に流行する物語に適った形に物語を知的に作りだそうとする。本来、物語とは「無意識と意識の協調によってつくり出されるところに、その本質がある」(105ページ)のだが、人間はもっぱら意識的に物語をつくることもできる。いわゆる「つくり話」である。これは人を本当に動かす力をもたないと河合は言う。

だがやっかいなのは、第三者的・客観的に、深い物語と「つくり話」を区別するのははなはだ困難(というよりおそらく不可能)だということだ。話をいきなり英語教育業界のことに移すが、日本の英語教育界がいまだに質的研究を認めようとしないことの大きな理由は量的研究者の勉強不足だと思うが、一つには、「質的研究」の「語り」とされるものは玉石混交で、中にはひどいまがい物もあるという正しい直観もあると私は考えている。さらにまがい物のつくり話ほど、流行している物語に近いので、人気を博しやすいというのも状況をさらに難しくしている。この意味で、外的基準を求めにくい質的研究の語りを無批判的に認めると、研究がガタガタになってしまうかもしれないという不安は正しいものであろう。

しかし、これは音楽でも文学でも同じことである。深い音楽や文学と、浅くどうしようもない音楽や文学の違いを、音楽や文学をまったく経験していない第三者に客観的に説明することはおよそ困難である。しかし、音楽や文学を経験している者にとっては、とりわけその経験が深く広い者にとっては、それらの違いは明々白々である。からだとこころが教えてくれるからである。河合は心理療法について次のように語っている。

「つくり話」であるかどうかは、その物語をつくるときに感じる、イメージの自律性と、それにともなう感動の深さによって知ることができる。これは「物語」をつくる人にとっても、それを聴く人にとっても同様である。心理療法家はそのような判断力を身に着けていなくてはならない。クライアントが「つくり話」に動かされそうになるときに、治療者はそれに乗らずにそこで立止ることができなくてはならない。(105ページ)


ここにはユングが『タイプ論』で述べ、河合も『心理療法序説』などで力説している「こころ」を研究する際の、自然科学の限界や、カントの『判断力批判』にもつながる問題がある。人が主観的・主体的に感じることとは何なのだろう。また主観的・主体的に感じながらも、それがその本人を超えた妥当性を有すると感じることは何なのだろう。人間についてきちんと研究しようとすれば、そういったことをきちんと考えなければならないのだが、ここではもちろんそういった問題の所在を指摘することだけしかできない。



この本から英語教育研究が学べそうなことを、強引に二点にまとめると次のようになる。

(1) 質的研究の語り(ナラティブ)における聞き手(「第二者」)の重要性の理論的理解:語りが当事者(「第一者」)の内部だけに閉塞した話になったり、誰でも言うような第三者的で浅い「つくり話」になってしまわないようにするためには、語りの聞き手(「第二者」)の働きが非常に重要である。この重要性は経験的にはよく知られているが、心理療法やカウンセリングに関する研究からは、有益な洞察が得られるであろう。

(2) 授業におけるイメージの活用法:学習し使用する言語に生命力と創造性を与えるには、私たちの無意識への道を開いてくれるイメージをうまく利用することが有効であると考えられる。実際、写真などのイメージを使って学習者に深い英語発話をさせることは中嶋洋一氏や田尻悟郎氏の実践などで多く観察されている。また、生徒が英作文を作品化するとき、生徒はしばしば文字をレタリングしたり、イラストを添えたりする。それらを「英語学習に関係のないもの」として抑圧するのは短見というものであろう(もちろん、無制限・無批判的にそれらを促進するのも浅慮であろうが)。私たちは英語教育におけるイメージの活用をもっと理論的に考えるべきではなかろうか。

ちなみに、このような提言をすると「それは美術科教育の領域で、私たちは英語科なのですから・・・」と口をとがらせる者がたいていいるが、私はそのように自らの営みを限定的にしか考えない人に対してしばしばことばを失う。そのような人が守りたいのは、子どもの豊かな発達ではなく、自らの小さなプライドではないかと私は思っている。















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