以下は昨日の卒業式(講座)で私がおこなった挨拶の原稿ですが、私は昨日、この挨拶以外はほとんどカメラマンに徹しました。
彼ら・彼女らの一生に一度の機会を少しでも画像に残しておきたかったというのが私の思いでした。
1000枚以上写真を撮って、その中で何とかものになる写真を約250枚ほどサーバーにアップして卒業生・修了生がダウンロードできるようにしました(ピント合わせと露出が私はむちゃくちゃ下手です 汗)。
式は大学合同のもの、講座主催のものがあり、その後、卒業生主催の謝恩会がありました(幹事の卒業生さん、忙しかったのにありがとう。本当にいい会でした)。
教師歴を重ねるにつれ、教師の第一の心得は、「害をなしてはならない」ということかと思えてきます。別の言い方をすれば、「教師は、自らの力量でなく、学ぶ者の潜在力を信じよ」となるのでしょうか。いずれにせよ、「教師は教え子によって教えられる」とますます確信するようになりました。
卒業生・修了生の皆さん、これまでどうもありがとう。
また会いましょう。きっと。
卒業式挨拶
皆さんが所属してきた学部・大学院の教師としての最後のことばを申し上げます。
私たち教員は、これまで皆さんに知識と能力を授けることに専念してきました。
知識と能力は人々に生きる力を与えますから、私たち教員はこの仕事に誇りをもっています。
そして本日、広島大学は、社会より委託された権威をもって、皆さんに学士・修士・博士の称号を与えました。皆さんは今やそれぞれの称号にふさわしい知識と能力を備えた人間として社会的に認められたわけです。
どうぞ皆さん、自信をもって獲得した知識と能力を存分に使いこなしてください。
知識と能力は自分の人生を切り拓くために使えます。他人からの不当な支配から解放されるためにも使えます。
ですが、それらは他人を支配するためにも使えます。他人を操り、そしてその結果、自分自身の魂を損ねるためにも使えます。
大きな例でしたら原爆やホロコーストをあげることもできますが、小さな例でしたら皆さんの身近にあるかもしれません。
言葉巧みに他人を操る人、理屈で他人をがんじがらめにしてしまう人、他人を力で威圧して自分の優越感を必死に保つ人 ―ひょっとして皆さんはそういった人々により自信を失い主体性を損なわれていたかもしれません。
しかし、皆さんにはもう他人に支配されないだけの知識や能力があります。どうぞ自分で自分の人生を歩んでいってください。自信をもって。
皆さんはもう生物的にも法律的にも、そして本日の学位授与をもって社会的にも独立した人間です。自分の考えと自分の責任で堂々と自分の人生を歩んでください。これまでに培った知識と能力を使いこなしてください。
ですが、どうぞ皆さんはその知識と能力を、逆に、他人を支配し操作するために使わないでください。
私がこのようなことを申し上げますのは、教育という営みは、なまじ善意や正論を前提とするがゆえに、人を型にはめてしまい、人の可能性をつぶしてしまうことがありうるからです。
ですから教育学部・教育学研究科の教師としての私の、自戒を込めての最後のメッセージはこれです。
皆さんは、誰も支配せず、誰からも支配されない人であってください。
特に教師や親になる場合、決して生徒や子どもを支配しないでください。もちろん生徒や子どもに支配されてはいけません。しかし、仮にそうなりかけたとしても、無意味な権力ゲームを始めないでください。支配とは無縁の人生を歩んでください。
皆さんは、偉くもなければ惨めでもない、普通の人であってください。
あざ笑いでもなく、卑屈な笑いでもない、穏やかな笑顔をたたえる人であってください。
互いの自由を尊重し、互いの生命を慈しむ、慎ましい人であってください。
知識と能力に価値があるとすれば、それはお互いの幸福のために使われる限りにおいてでしょう。
知識と能力で他人を奴隷にしないでください。そして、自分自身が知識と能力の奴隷にならないでください。
知識・能力と幸せの間で選択をしなければならない時には、迷うことなく幸せを選んでください。
幸せであってください。そしてその幸せを少しずつ周りに伝えてください。
誰も支配せず、誰にも支配されず、幸せであってください。
これが知識と能力の開発に携わった教師としての私の最後のことばです。
これまでありがとうございました。
皆さんの幸せな人生をお祈りします。
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