このブログを読んでくださっているある若い方からメールを頂きました。教育というのは、やはり人と人との間の営みだということを私も改めて認識させられる文章でしたので、その方の承諾を得た上で、その方からのメールの一部を以下に掲載します。
(前略)
That l am のブログ記事を拝見し、メールしています。
まるで今の自分のことを、そして大切な生徒たちのことを見通していらっしゃるような言葉で、また明日からがんばろうと思うことができました。
感謝申し上げます。
ありがとうございます。
今年は初めて担任を持つこともあり、よく言えば気合い十分、悪く言えば肩に力が入っていました。
いつの間にか、自分には担任として求められていること、生徒にはこの学校の生徒として求められていることを求めるだけになっていました。
生徒からのサインと同僚の先生方からの助言でその事に気づきました。
自分は一人の人間として生徒に向き合おうと仕切り直したところです。泣きながら生徒に「ごめん」と言いました。生徒のことも、その感情や考えや一人ひとり異なる状況を理解した上で、声かけをしていこうと意識しているところです。だから毎日の雑談を大切にしています。お互い楽になったのか、笑顔が少し増えました。
クラスには色んな生徒がいます。自分の存在が無意味だと感じている子もいます。そういう子たちにはthat you areの姿勢で接して、that l amと少しでも感じてもらえるよう、手を尽くしていくしかないのでしょう。
連日の保護者対応で倒れそうですが、上手くリラックスして早く寝て、また明日から生徒に向き合っていこうと思います。
毎日試行錯誤です!
でもクラスの生徒は大切です。
(後略)
上で若い方は「雑談」と言っていますが、「雑談」こそは人間的な会話です。それが証拠に、家族や親友だとほとんど雑談しかしないでしょう(友人や知り合いレベルですと「面白い話」や「共通の話題」が必要になります)。
「雑談」とは、話をする者同士が、身体と心を解放させ、そこから自然と湧き出てくることばを、お互いに慈しみあうものでしょう。いわばお互いをそのまま認め合うことでしょう。
それに「雑」という文字が付けられたのは、ハンナ・アレントも言うように、仕事中心の社会が仕事以外の行為をすべて「雑」「無駄」とみなすからでしょう。
しかし、アレントも言うように、お互いの人となり (who you are) を開示し、認め合うことこそが人間らしい生き方であり、そこから生まれる活力 (power)を活かす事こそ民主的な社会です。
明確で限定的な目標のために行われる知識伝達講習なら別ですが(関連記事:学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)、教育(特に公教育や義務教育)という営みは、人と人との間での営みであり、そこの基盤は人格的な受容と交流かと思います。特に昨今、さまざまな理由で自分を肯定できない若者が増えている学校では、知識伝達の前に、あるいは知識伝達の最中に、まずは人と人としての出会いがなければ学習も成り立たないかと思います(もちろん、その人格的な出会いさえ困難な学校があることも承知しています)。
そうなると学校においては、教師と児童・生徒の間での、いわゆる「雑談」や「無駄話」こそ重要となるでしょう。また、教師間でも「雑談」や「無駄話」も大切でしょう。
実は「雑談」は「雑談」ではなく、人間的な活動なわけですから。それを「無駄」というのなら、友情・愛情や生きていること自体が「無駄」とすらなりかねません。
無論、学校も機能社会の産物ですから、そこでは「仕事」―児童・生徒なら学習、教師なら授業を筆頭にしたさまざまな業務― が中心になります。しかし、そこばかりにしか目を向けず、仕事の効率の最大化しか考えないような「頭のいい人」が管理的な立場にたって、学校を「合理化」すると、そこはそこで行われる「仕事」に適応できる者だけの場所となり、どんな子どもも未来の市民として大切に育てるという公教育・義務教育の責務は損なわれてしまいます。
たしかに「仕事」としての授業は、あたかもコンピュータ間のデータ移送技術を効率化するように、どんどんと合理化し効率化できます。しかし、それが授業や教育のすべてだと勘違いしたら(そういった技術改善が教育学のすべてだと勘違いしたら)、それは大きな災厄を招きます。
「頭のよい人」や「地位のある人」が善意や正論で引き起こす災厄は、市井の人が起こしうる災厄よりも、はるかに大きなものとなりえます。
学校教育という営みは、やはり人間の営みであるという当たり前のことを、今一度、いや何度も、力説しておかねばならないと最近つくづく思います。
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