2019年1月22日火曜日

数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということ --福島哲也先生の授業についてユングのタイプ論から考える試み--



私にとって福島哲也先生(追手門学院大手前中学校・数学)という優れた実践者に会えたことの意味は非常に大きく、福島先生の実践の意味を少しでも解明したいと思っているのですが、とにかく仕事に追われてその考察をする時間がなかなか取れません(以前は休日返上で考察をしていたのですが、近年はさすがに休日は文字通り骨休めをしないと身体がもたなくなりました)。

とはいえ泣き言ばかり言っても仕方ないので、ここでは部分的にでも考えてみます。


■ 数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まない

福島先生とのお話の中でも私が以前に広島大学教育学研究科の大学院生・教員を相手に行った小規模インタビューでも出てきた話題の一つは、数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということです。

関連記事
数学教育学講座院生・教員との対話から考える英語による授業のあり方
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/2017pdf/16.pdf

私は高校時代に数学を不得意としていましたが、その大きな理由の一つは、数学を学ぶことの「意味」がわからず、どうも数学という学習に共感できなかったことです。その後、大学院で統計を学ぶ中で高校数学について自学自習する中で数学の面白さに遅ればせながら気が付きましたが、私としては以来、「意味」をよく伝えてくれる物語の形式で数学を解説してくれる本を好んでいます。

現在、このように物語調で数学を解説する本は多く出ていますので、私のように一度は数学に落ちこぼれて数学に再入門したい人は物語様式での解説を好んでいることが推測されます。実際、上記のインタビューでも大学院の中ではあまり数学を得意とはしていないと認識している院生も物語調の数学解説本を好んでいました。

ですが大学院の中でも数学が得意な院生は、そういった物語を「回りくどすぎて、かえってわかりにくい」と捉えています。彼は数学的表現は無駄なものを削ぎ落としているので考えやすいわけであって、物語的記述はそれに余計なものを付け加えてしまうので思考に集中できないなどと述べていました。福島先生も、私が「数学問題の説明を物語風に行う生徒はいますか?」と尋ねたところ、「ああ、そういった生徒もいますね」とだけしか答えませんでした。口調から福島先生はそういった物語による数学の解説をあまり好んではいないようにも思えました。

この「数学が得意な人は物語的記述を(少なくとも数学に関しては)必ずしも好まない」ということを、「数学が得意・不得意」という観点からではなく、人間のタイプの違いという点から考えてみたらどうなるでしょうか。


■ 数学を得意とする人は内向的で思考-直観機能が強い?

ユングは、人間を大きく分けるなら、態度の面で外向型と内向型の二つに、機能(得意とする働き)で思考・感情・直観・感覚の四つに分けることができると考えました。

関連記事
当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

この関連記事の解説を以下に再掲します。

ユングは、人間の心がもつ態度を、自分の関心が自分の外の出来事に向かう「外向型」と内の出来事に向かう「内向型」の二つのタイプに大別しましたが、心がもつ機能については思考・感情・感覚・直観の四つに分けました。私なりに簡単にまとめるなら、「思考」は法則に即して体系的に推論を進めること、「感情」はあることの価値 (value) を認識すること、「感覚」とは実在物の様子を知ること、「直観」とは物事の全体的な見通しを瞬時に得ることと言えましょうか。

さらにこの四つの機能は、法則や価値で「割り切れる」という意味で思考と感情が「合理的」であり、ただ実在したり一気に直覚したりできるだけであり法則や価値では「割り切れない」という意味で感覚と直観が「非合理的」(あるいは合理外的)であるとも言われます。

人間はしばしば四つの機能のどれか一つを自ら得意とする主要機能としますが、そのことによって、その機能ではない同種の機能が不得手な機能になります。例えば思考機能に長けた人は、それと同種の合理的機能である感情機能が劣ることが多く、抽象的な理屈をどんどん展開することができても、物事の価値を細やかに認識することを苦手としたりします。

主要機能とは別種の機能にも得手不得手はしばしばあり、例えば上記の人は、(思考ほどではないにせよ)直観に優れる一方で感覚に劣り、突然に物事の見通しを得たりするものの、物事の実情には無頓着なままであったりします。この場合は、直観が補助機能となります。

参考記事:C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html


このタイプ論を用いて、数学者について理念的に類型論(注)に考えてみましょう。数学を得意とする数学者は、態度において内向的だと考えられます。数的世界は外の自然界ではなく、人間の心の中にある内的世界に属しているからです -- 早い話、「2」という数概念を私たちは自然界のどこに物理的に見出すことができるでしょうか?--。 

(注)「理念的」というのは、抽象的にということです。といいますのも、具体的な数学者について考えると彼・彼女は、別に数学ばかりをして生きているだけではなく、さまざまな状況・課題・人間関係の中で生きています。それらの多様性の中で、数学者は上のような理念的な類型からは離れた姿を示すことは十分に考えることができます。早い話、数学者の中にも、趣味として文学を好む人もいるでしょう。ユングも、人間のタイプを決めつけること、特に自分自身のタイプを決めつけることの危険性を再三指摘しています。

数学者は、機能(心が得意とする働き)において思考的であると考えられます。『ユークリッド原論』を数学の古典とすれば、そこに見られる叙述は公理・公準・定義などに基づき、演繹的に論が展開されるものです。同時に数学者は直観的でもあるでしょう。幾何学の問題でよくあるように、抽象的な図形の中に突然につながりを見出す能力は直観的と呼ばれるべきでしょう。

このように数学を得意とする人を「内向的で思考-直観機能が強い」と理念的に類型化すると、彼・彼女が不得手とすることも理念的に類型化することができます。ユングのタイプ論 に従うなら、人間は自分が得意とする態度・機能の反対の態度・機能が非常に不器用であり、それらの態度・機能が未発達だからです。数学が得意な人が不得意なのは「外向的で感情-感覚的な心の働き」となります。逆に言うなら、数学を苦手とする人はその「外向的で感情-感覚的な心の働き」を得意とし、「内向的で思考-直観的な心の働き」を不得意としていると類型論的にはまとめられるでしょう。だからこそ、自分の内の心的世界を超えた外界の登場人物(「外向的」)の価値観(「感情」)や事物の実在性(「感覚」)を描く物語による数学の解説を、数学を苦手とする人は好み、数学を得意とする人は逆に嫌うと言えないでしょうか。


■ 数学における物語的記述とは?

物語については、下の記事、および近い内に公開できるはずの拙論をご覧いただきたいのですが、ごく簡単にまとめると、物語は、ある命題が真であることを示す論証とは異なり、複数の登場人物の心模様と行動および彼・彼女らが行動する世界の記述を通じて話の筋が展開され、その中でさまざまな意味が読者に喚起される文章といえるかと思います。

関連記事
3/11の学会発表スライド:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―仮定法的実在性による利用者用一般化可能性―
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/311.html

ですから数学的論証では「点Aから点Bへ・・・」と言うだけのところを、物語的数学記述では「太郎君が家から学校へ・・・」などと言います。思考が得意な人からすれば「太郎君」や「家」や「学校」などといった情報は無駄でしかありません。しかし、抽象的に考えることが不得意な人にすれば、そういった記述がなければ共感的に事態を想像できません。かくして物語的な数学記述では「太郎君は最初、時速4キロで歩き始めます」などといった記述を加えます。もちろんこれも思考-直観機能を得意とする人にとっては無駄、というよりかえって邪魔でしょう。「歩くことにおいては、加速や減速もあるし、曲がり角や信号もあるだろうから、そもそも『時速4キロで歩く』というのはどのような事態として考えればいいのだろうか」などと考え込んでしまうかもしれないからです。

このように数学が得意な人にとっては無駄あるいは邪魔な物語的記述ですが、人間が何かを理解する時には自分の得意な心の機能を通じて理解することが一番であるというユングの洞察(『分析心理学』)からするなら、数学嫌いの人には物語的記述は重要です。物語的記述を通じて登場人物に共感したり、問題の実在感を覚えることができるからです。数学が不得意な人は、最初は物語記述から数学の世界に入り、やがては物語記述を必要としない思考的で直観的な数学的記述に慣れれば、その人は最後まで数学が得意にならなかったとしても、自分の潜在的可能性を少しは開花させたと言えるでしょう。


■ 数学的理解を、誰が誰にどのように説明するか

福島先生は、「問題の正解にたどり着いたということだけでは、数学の問題がわかったということにならない。最低、三人の人に説明して、それぞれに納得してもらってはじめてわかったと言える」などとおっしゃっていました。

ここで考えますと、その三人の選択というのは存外に重要かもしれません。数学が得意な人が、自分と同じ思考-直観タイプの人ばかりを選んで説明するのは容易でしょう。しかし自分とは正反対の感情-感覚タイプの人に説明するとなると、説明法も変えなければならないかもしれません。もしそこで数学が得意な人が物語的記述を使い始めるとすれば、その人は、思考と直観の抽象的表現に、現実の人間と世界の意味や実在感に関する具体的表現を肉付けするという、その人が日頃やらないことをやります。これは、思考-直観タイプの人が発達させていない領域を開拓することとは言えませんでしょうか。

こうなると数学が不得意な子の存在意義も出てきます。「数学嫌いの○○君でもわかるように説明する」ことは数学が得意な子にとっての挑戦的課題となるからです。そのような説明は、「最小時間でテスト成績を上げる」といった効率しか考えない人にとっては無駄なことのように思えるかもしれません。しかし、実はそのような「回り道」は、数学が得意な子の潜在的能力を開発し、その子が現実社会に出た時に数学的能力を社会的に活用することにつながるように思います。あえて自分とは違うタイプの人に説明をするということには教育的意味があるのではないでしょうか。

ここから、最近考えている「正常化」と「個性化」について考えを進めたいのですが、今は、その時間がないので、この記事はここで終わります。

これからも福島先生の実践から考えさせられたことを、少しでも言語化してゆきたいと思います。


追記
「コミュニケーション」にしても、最近は「論理的コミュニケーション」といったことが推奨されがちですが、コミュニケーションには概念についての思考的なものもあれば、価値についての感情的なものもあるでしょう。思考や感情ほど割り切れない(=合理的ではない)感覚的あるいは直観的な事柄についてのコミュニケーションももちろんあります。人間のコミュニケーションについて、私たちはもっと総合的に考え、人間と言語の全体性を回復させることが必要かと思います。
関連記事
柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/12/2014-12-pp-14-28.html



福島先生についての関連記事
福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
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「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
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「教えない授業」における教師と生徒のコミュニケーション(追手門学院大手前中学校(数学)福島哲也先生によるワークショップ)11/29(木)9:00-12:00 広島大学教育学部
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数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということ--福島哲也先生の授業についてユングのタイプ論から考える試み--
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post_22.html
教育の「正常化」 (normalization) の説明のために "The End of Average" (『平均思考は捨てなさい』)の議論を用いる
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