2018年11月7日水曜日

「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」


斎藤環先生による「「新しい人間主義」の潮流、四大思想」(『精神看護』2018年11月号pp. 532-541)の特別記事は感慨深いものでした。特にオープン・ダイアローグの要約「倫理的であることこそが、治療的である」 (p. 534) は、見事にこれら四大思潮(オープン・ダイアローグ、ユマニチュード、ハームリダクション、ハウジングファースト)の本質を表現しているのではないでしょうか。

従来、臨床倫理は治療効果とは別のもの、時に後者にとっての制約とすら考えられてきましたが、オープン・ダイアローグにおいては「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」 (p. 534) と斎藤先生は述べます。

ここでの倫理性とは、自由の尊重(入院や薬物治療などの強制的な治療方法はできるだけ使わない)、尊厳の尊重(診断や症状名よりも患者自身の表現を重んじる)、権利の尊重(あらゆる決定を当事者の目の前で行う)、尊厳と権利の尊重(密室性が解消されヒエラルキーをもたない治療チームを編成する)、不確実性の耐性(治療者が治療場面のコントロール件を半ば手放し、予想外のアクシデントすらも受け入れながら対話を進める)、などで具現化されている姿勢です。(pp. 534-536)

私は先日、数学の福島哲也先生にお会いしたばかりということもあり、この「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」 ということばは腑に落ちました。福島先生も「教師が生徒をコントロールしない」、「教師と生徒が対等な関係を築く」、「教師は生徒の可能性を疑わない」、「教師は生徒の多様性を認める」といった「人間的な関係」によって「学びに向かう力」が生まれるとおっしゃっていました。「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」と言い換えてもいいかと思います。

福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html

そういえば、私は何人かの本当にすぐれた現場教師を知っていますが、その先生方はどの方も人間的に尊敬できる人で、「倫理的」ということばすらふさわしい方です。

福島先生も「倫理的」といったことばを面映ゆく思われるかもしれませんが、公立学校の現場で鍛えられて優れた教育実践に至った先生方は、誰と話をする際も、まっすぐに目を合わせます。落ち着いた態度ときりりとしまった口元も、その先生方が信念の人であることを示しています。

そういった先生方は、派手なパフォーマンスとも無縁です。もちろん授業内ではずいぶん面白い行動も示しますが、自分の実践について教師仲間に語る時には、決して自慢したり、過剰な演出をしたりしません。ぐいぐいと自説の正しさを売り込むような商売上手ではありません。自分が他の教師よりも上の存在だとは決して考えずに、もし自分がそのように思われているのではないかと察知した時には、「そうはいっても、○○のようにうまく行かないこともあります」と率直に自分の実践の限界を認めます。あるいはユーモアで、笑いと共に高まった自分のイメージを引き落とします。生徒の名前をすぐに覚えることはもちろんのこと、研究会などで会った人の名前もできるだけ覚えようと努力されています。

こういった先生方とお会いする機会を得た私としては、「倫理的であることこそが、治療的である」というオープン・ダイアローグの要約には、なるほど名言だと思わされました。学校教育においても、教師が「倫理的であることこそが、学びを促す」とも言えるでしょう。あるいは究極的には「教師と学習者が共に倫理的であることが、学びを促す」と言うべきなのかもしれません。

くどくなるようですが、ここでいう「倫理的」というのは、具体的な行動に体現している態度です。上に述べた先生方も、そういえば、ユマニチュードの原則でまとめるなら、「見る」(できるだけ水平な視線で語り合い、文字通り、見下さない)、「話す」(相手の人格・自由・自律を尊重した語り方をする)、「触れる」(ハイタッチや握手など社会的に適切な身体接触を行う)、「立つ」(生徒を椅子に拘束しない)などの点で、倫理的です。

「ユマニチュード」あるは<人間らしさ>を教室でも実践することについて
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post_13.html

そしてこれらの態度は、形式的な行動様式ではなく、心がこもったものであり、状況の変化に対して柔軟です。別の言い方をするならば、感受性豊かな倫理性と言っていいかもしれません。


「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」
(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html

ヴィトゲンシュタインのことばを借りるなら、すぐれた現場教師は倫理を「語るものではなく示すもの」であると考え、道徳的説諭はできるだけ控えます。私の尊敬するある先生は、「大切なことになればなるほど、私は声を落ち着かせて事実を述べて、生徒自身に考えさせ、判断させます」ともおっしゃっていました。

そういった先生方は、私のようにすぐにお説教モードで語ってしまう偽善者や、糖衣でくるんだような道徳的メッセージを感動的に語る講演家などとは異なり、実直に誠実に毎日毎日学習者のために汗を流しています。そして他人に謙虚さを印象づけないような謙虚さを身につけています。実は自分自身も失敗や問題を抱えていることを素直に受け入れ、その葛藤の中で、できるだけ倫理的であろうとし、日々、倫理的であるとはどういうことかを具体的な行動の中で探究しています。

私が現場教師のお話をできるだけ聞こうとするのは、こういった方々にお会いできるからです。

そういった先生方がおっしゃる「教育は私の天職です」ということばは本当に胸にしみます。そういった教育を健全なままに保つための努力を怠ってはいけないと反省もさせられます。

と、教育の話になりましたが、今回の『精神看護』も面白い号でした(次は私が聞き逃したシンポジウム「オープン・ダイアローグと中動態」が特集されます)。精神医療の現場は教育現場以上に、「生きるとは何か」を考えざるをえない現場ですから、そこから生まれてきた知恵やことばは本当に勉強になります。私は『精神看護』の雑誌を購読し始めてから二年ぐらいになるかと思いますが、これからもこの雑誌やその他の精神医療の書籍などから学び続けてゆこうと思っています。



 



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