2010年4月9日金曜日

デイビッド・J・リンデン著、夏目大訳 (2009) 『つぎはぎだらけの脳と心』インターシフト

圧倒的に面白い神経科学の啓蒙書です。 (本のホームページはここ)

この本を通じて、著者は「脳は、究極の汎用スーパーコンピュータなどではない。天才の手によって、白い紙の上でゼロから一度に設計された、というようなものでもない。むしろ、何億年という進化の歴史によってできあがった歪な形をした建物のようなものといったほうが正確だろう」(14-15ページ)という姿勢で、私たち門外漢に神経科学の知見を面白く語っているようです。

この本の主張は322ページの図に要約されていますが、それを私なりに改編したものが下になります。




「図9-2 愛情、記憶、夢、神は、脳に対する真価の制約から生じた」を改編したまとめ


1: 脳の設計の進化上の制約
【1: 脳の設計の進化上の制約】

1.1 脳をゼロから設計し直すことはできず、必ず既存のものに新たな部分を付け加えるという方法を採らざるを得ない。
1.2 脳がいったんもった機能を「オフ」にするのは難しく、その機能が逆効果になるような場合でもなかなか「オフ」にできない。
1.3 脳の基本プロセッサーであるニューロンは処理速度・信頼性・信号周波数帯域において高度ではない。


2: 生誕時の制約
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒【2: 生誕時の制約】

脳に高い処理能力を持たせるにはネットワークを複雑にし、サイズを大きくしなければならない。だが、そうすると胎児は産道を通り抜けられなくなる。


3: 記憶
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒ 【2: 生誕時の制約】 ⇒ 【3: 記憶】

3.1 500兆のシナプスをもつネットワークの構造のすべてをゲノムで指定することは不可能。
3.2 脳内ネットワーク構造の多くは経験によって決まる。
3.3 経験によって決められたニューロンの配線が記憶の蓄積に使われる。
3.4 新しい記憶は、古い記憶や感情との関連づけが必要。記憶の統合・定着は、感覚情報があまり入ってこない睡眠中に行なうことが有効。


4: 愛情
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒ 【2: 生誕時の制約】 ⇒ 【4: 愛情】

4.1 人間の子どもは未熟な状態で生まれる
4.2 人間の子どもは長期間にわたっての親からの援助が必要
4.3 人間は、排卵周期のどの時期でも交接し、長期にわたる夫婦関係を維持する。


5: 夢
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒ 【5: 夢】
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒ 【2: 生誕時の制約】 ⇒ 【3: 記憶】 ⇒ 【5: 夢】

非論理的で奇想天外な物語が夢に現れる


6: 神

【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒【6: 神】
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒ 【5: 夢】 ⇒【6: 神】
【1: 脳の設計の進化上の制約】 ⇒ 【2: 生誕時の制約】 ⇒ 【3: 記憶】 ⇒ 【5: 夢】⇒【6: 神】

左脳の物語作成機能を「オフ」にすることは難しく、人間はわずかな知覚や記憶の断片をつなぎ合わせて物語を作ってしまう。物語は夢の中で時に超自然的なものになり、宗教的観念となる。




ただ、私の現在の関心の一つは「物語」(ナラティブ)にありますので、この本でもどうしても「物語」に注目してしまいました。


著者の基本的見解は、「人間の脳は、進化により、首尾一貫した破綻のない物語を作り上げることに適応している」 (295ページ)というものです。

その「物語」の例として著者があげるのが以下のものです。


(1)「サッカード」 (saccade) にもかかわらず人間はとぎれのない視覚像を得ていると感じている (295ページ)。

(2) 「前向性健忘」 (anterograde amnesia) 患者は、古い記憶に関しても意図することなくかなり「作話」(confabulation)をしてしまう (296ページ)。

(3) 「分離脳」 (split-brain) の患者は、右脳での認識を左脳に伝えることができず、右脳での認識をそのまま語ることができないが、患者はしばしば右脳の認識と辻褄のあった巧妙で一応筋の通った説明をでっちあげる。(300ページ)。
Cf. Michael Gazzaniga (2000) The Mind's Past. University of California Press

(4) 夢の機能が記憶の統合・定着にあるのなら、単に記憶の断片をすべてそのまま想起すればいいはずだが、わざわざ奇想天外な物語まで作ってしまうのは、左脳の「物語作成機能」を睡眠中でさえ「オフ」にできないからではないか。(300ページ)

(5) 宗教的観念も、元来、まったく関係のなかった考えや事物がつなぎあわされ、一貫性をもたされた物語と考えられる。(301ページ)
Cf. 著者は第8章「脳と宗教」で、ダライ・ラマやローマ法王を引用して宗教という文化を擁護している。彼が批判しているのは科学的装いをもとうとしている原理主義者である。



著者は、「物語を作る機能のはたらきは無意識のものだが、結果としてできる物語は意識にのぼる」(303ページ)ともまとめています。




私が最近、神経科学の啓蒙書を好んで読む一つの理由は、自分を含めた人間というものがいかにいい加減かということがよくわかるからです。自らの「正しさ」の禍々しさに辟易していたところですから、内田樹先生のエッセイ(「論争するの、キライです」)やこのような科学啓蒙書を自家中毒の解毒剤としても読んで心の安らぎを得ています。


それにしても、脳研究そのものが、そのようにいい加減な脳が作り上げているものという事態をどう考えたらいいのだろう。これが池谷裕二先生がいう「リカージョン」の一つなのだろうけど、こういった自己言及(あるいは自己観察)のパラドクスについてはゆっくり考えてゆきたい。『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 』を20年ぶりに読み返したいなぁ。










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