2010年10月1日金曜日

梅田望夫・飯吉透(2010)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書

ウェブで学ぶということは、梅田望夫さんが『ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか』の頃から言っていたように、要は

「外界の膨大な知識の無限性を恐れず、自分の志向性の波長と合う信号を高速でサーチし続け、自分という有限性へマッピングする」(本書『ウェブで学ぶ』187ページ)

ことができるかどうかだと思う。それができるだけの動機づけがなされており、基礎的な読み書きと論理的思考力さえあればウェブは無限といっても過言ではないぐらいの可能性を提供してくれる。

このような楽観論がますます現実味を帯びているのは、本書のテーマであるオープンエデュケーションが進行しているからだ。

オープンエデュケーションとは、簡単に言えば「自分のおかれた環境で、利用できるものは何でも使って学ぶこと」(48ページ)である。この意味では公立図書館もオープンエデュケーションの一端だが、言うまでもなく昨今はインターネットがこの流れを爆発的に加速させている。インターネットによって開かれた学びの機会は、学習者だけでなく教育者にも大きな影響を与え、内容と方法の両面において、学習だけでなく教育も進化しているからだ。


結局、オープンエデュケーションとは、テクノロジーの力を得て、教育がついに手にすることができた「自己拡張と自己進化のための恒久的な仕組み」なのだ、と思います。また同時に、教育に関わる様々な文化や制度も変容されていく。たとえば、この「自己拡張と自己進化」を制約しようとする呪縛を解くクリエイティブ・コモンズのような、新たな文化制度が生まれる。
このような「仕組み」を手に入れられたことで、21世紀の「学びと教え」は、世界中の人々の情熱と叡智を糧として、スピード感を持って有機的に成長していくことが可能になったのです。(260ページ:飯吉透)



このインターネットとオープンエデュケーションの流れは、たとえばThe Cape Town Open Ecucation Declarationなどによって明文化され自覚的な動きとなっている。この宣言の主要部分は以下のとおりである。


1. Educators and learners: First, we encourage educators and learners to actively participate in the emerging open education movement. Participating includes: creating, using, adapting and improving open educational resources; embracing educational practices built around collaboration, discovery and the creation of knowledge; and inviting peers and colleagues to get involved. Creating and using open resources should be considered integral to education and should be supported and rewarded accordingly.

2. Open educational resources: Second, we call on educators, authors, publishers and institutions to release their resources openly. These open educational resources should be freely shared through open
licences which facilitate use, revision, translation, improvement and sharing by anyone. Resources should be published in formats that facilitate both use and editing, and that accommodate a diversity of technical platforms. Whenever possible, they should also be available in formats that are accessible to people with disabilities and people who do not yet have access to the Internet.

3. Open education policy: Third, governments, school boards, colleges and universities should make open education a high priority. Ideally, taxpayer-funded educational resources should be open educational resources. Accreditation and adoption processes should give preference to open educational resources. Educational resource repositories should actively include and highlight open educational resources within their collections.
http://www.capetowndeclaration.org/read-the-declaration



インターネットをオープンなものにしておかなければならないという思想は、アメリカ(特に西海岸)的思想と親和性が高い。以下はクリントン国務長官のスピーチである。―しかし「インターネットはグローバルなものであるべきだ」という思想は、存外にローカル(特にアメリカ的)なものではないかと梅田さんは指摘している。このあたりはぜひ本書を読んでほしい。





すでに各種の教育機関はオープンエデュケーションに大きく舵取りしている。本書に掲載されているいくつかの例をあげる。



高等教育機関



著作権の切れた書籍




英語のウェブではこれだけのオープンエデュケーションの環境が整い、さらに発展しようとしている。大学英語教育の目的は、「英語を学ぶ」学生を、迅速に「英語で学ぶ」学生にすることだと思えてくる。

英語とウェブを使いこなす意欲と能力さえあれば、いくらでも学べる。

逆に言えば、英語とウェブのどちらか一方でも使いこなす意欲と能力がなければ、可能性が大きく損なわれる。

ましてや英語もウェブもどちらも使いこなす意欲と能力がなければ、その者の知力と、英語とウェブの両方を使いこなす者の知力の格差は絶望的に大きなものになる。

世界の知的格差は、これまでの地理的要因ではなく、英語とウェブの使用という要因により決定されるように変化してきている。これまでは「先進国」に生まれてきたらそれなりに知力がつき、「途上国」だと知力はつけられなかった。だがその地理的要因はインターネットにより埋められつつある。英語ができてインターネットにアクセスさえできればどんどん学べるような環境が整いつつある。英語とウェブの両方を使いこなす意欲と能力が恐ろしいほどに重要になってきている。世界は大変化のただ中にある。

この本の著者二人が共に語っているのが、このような認識が日本語圏のウェブ世界ではまったく共有されていないことだ。いたずらに危機感を煽るつもりなどないが、日本語でしか情報や知識を得ない者は安穏としすぎているのではないか。



⇒アマゾンへ:『ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命』


著者のブログ

梅田望夫
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/

飯吉透
http://d.hatena.ne.jp/toruiiyoshi/




Webのインパクトに関する本の紹介記事

梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』ちくま新書
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060327b

梅田望夫(2007)『ウェブ時代をゆく』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/11/blog-post.html

梅田望夫(2008)『ウェブ時代5つの定理』文藝春秋
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/5.html

斎藤孝x梅田望夫(2008)『私塾のすすめ--ここから創造が生まれる』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/x.html

デビッド・ヴァイス、マーク・マルシード著、田村理香訳(2006)『Google誕生』イースト・プレス
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060928

ドン・タプスコット、D.ウィリアムズ著、井口耕二訳(2008)『ウィキノミックス』日経BP社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/dbp.html

森健(2006)『グーグル・アマゾン化する社会』光文社新書
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060927

西垣通(2007)『ウェブ社会をどう生きるか』岩波新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/10/blog-post_16.html

ニコラス・G・カー (2008) 著、村上彩訳 『クラウド化する世界』翔泳社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/g.html

城田真琴 (2009) 『今さら聞けないクラウドの常識・非常識』洋泉社新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/2009_26.html

ジェフ・ハウ著、中島由華訳 (2009) 『クラウドソーシング』 ハヤカワ新書juice
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/juice_01.html

クリス・アンダーソン著、高橋則明訳(2009)『フリー』NHK出版
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/2009nhk.html

遠藤和子(2009)『Google英文ライティング』講談社インターナショナル
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/2009google.html


ゴードン・ベル&ジム・ゲメル著、飯泉恵美子訳 (2010) 『ライフログのすすめ』 ハヤカワ新書juice
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/juice.html

西垣通 (2010) 『ネットとリアルのあいだ』ちくまプリマー新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/2010.html

村井純 (2010)『インターネット新世代』 岩波新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/2010_27.html


Information Communication Technology (ICT)に関する記事

http://yanaseyosuke.blogspot.com/search/label/ICT











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授業に対して国立大学教員が有している金銭的責任



■金銭がすべてではないが、金銭についてまったく考えないのも非現実的


私はすべてを金銭に換算する思考法には強く反対していることは昨日の記事でも書いた通りですが、他方、金銭のことを一切考えないのも非現実的だと思っています。教育は金銭だけを基準にして考えられるべきではありませんが、他方、教育関係者が教育のコストについてまったく無関心なのもどうかと思います。教育者は教育の論理で語ることを放棄してはなりませんが、他方教育以外の論理(例えば経済の論理)でも語れなければならないと思います。



■広島大学教員が授業に対して有する金銭的責任

そこで、ここでは広島大学を例にとって、国立大学の教員は授業に対してどれだけの金銭的責任を有しているかを計算してまとめました。保護者・国・学生自身が授業に対してどれだけの金額を支出しているかを授業に対する金銭的責任としました。

計算の根拠は広島大学が発行した「財務レポート2009」の概数です。また計算の途中で生じた1円以下の金額は四捨五入しています。学生さんは4年間で学部を卒業すると仮定しています。



■この数字の解釈上の注意

ただお断りしておかなければならないのは、この計算は、「授業料(保護者からの支出)と運営交付金(国税からの支出)が卒業所要単位の取得だけに使われた」という仮定に基づいていることです。いうまでもなく学生さんの学びは授業そのものだけでなく、図書館や情報センターなどでの自学、大学施設を使っての課外活動や交友などに広がっています。またゼミ活動などは正規の授業時間を越えてなされています。しかし今回の計算はこれらの要因を一切勘案に入れていませんから、教員の授業に対する金銭的責任を強調しすぎたものになっています。ですから以下の計算はあくまでも目安としてお考えください。



■保護者が授業に期待して支払う金額

さて、2009年時点での広島大学の1年間の授業料は54.4万円です。これが保護者(ごくたまに学生自身)が、1年間の大学教育(この計算では卒業所要単位だけを想定)で得られる価値に期待して支払う金額です。



■国民が授業に期待して支払う金額

一方、国税からは広島大学に対して学生1人当たり1年間43.5万円支出しています。これは広島大学に対して出される運営交付金のうち、教育経費相当人件費と教育研究支援経費と教育経費だけを抜き出して計算したものです(詳しい説明はこちらをご覧ください)。この金額は、国民が、1年間の大学教育(繰り返しますが、この計算では卒業所要単位だけを想定)で学生が得る価値に対して国民が支払う金額です。



■卒業所要単位を取得するには何時間かかるか?

私が所属する広島大学教育学部英語文化教育講座の場合、卒業単位は128単位です。128単位を得るためには何科目履修しなければならないかというのは、1科目あたり1単位得られる科目と2単位得られる科目などあり計算が面倒です。ですからここでは私の講座の計算結果だけを述べますと、学生さんは教養的教育で19科目、専門教育で48科目、計67科目必要です。1科目は90分の授業が15回行われることにより構成されていますから、卒業所要単位を取得するための総時間は、90分[1.5時間]x15回x67科目で、1507.5時間、四捨五入して1508時間となります。



■学生がもしバイトをしていたら得られる金額

さらに、もし学生さんが授業時間にバイトをしていたら得られるはずの金額も時給800円として算出してみます。さきほどの1508時間に時給をかけると4年間で120.64万円、1年間で30.16万円になります。これは学生さん自身がバイトで働くことを厭わなかった場合に得られるだろう金額です。学生さんがバイトでなく授業を選んだことに対して期待している金額といえるかと思います。



■教員が、4年間/1科目(15回の授業)/90分(1回の授業)/授業の10分間に対して期待されている金銭的価値

以上の条件に基づいて計算したのが下の表です。もちろん、上に述べたようにこれは単純化され強調された数字ですが、金銭換算するなら、私は学生さん一人当たりにつき、一回の授業で約5300円、授業の10分間で約600円の価値を与えることを保護者・国民・学生から期待されていることになります。

授業の価値を、学生さんがすぐに理解することは時に困難かもしれませんが、少なくとも学生さんが卒業後に「なるほどあの頃の授業にはそれだけの金を保護者・国民・自分自身が支出するだけの価値があった」と納得してもらえるような授業を行わなければなりません。

これを目安として、一回一回の授業を大切に行ってゆこうと思います。













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2010年9月30日木曜日

内田樹(2010)『街場のメディア論』光文社



人目を引くタイトルではありませんが、人類学的なコミュニケーション論として面白く読める新書ですので多くの方々にお薦めしたい本です。

内田先生は、コミュニケーションの交換的側面ではなく、生成的な側面に注目します。

親族を形成するのも、言葉を交わすのも、財貨を交換するのも、総じてコミュニケーションとは「価値あるもの」を創出するための営みです。ことの順序を間違えないでください。「価値有るもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返戻を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。(176-177ページ)

私たちは「モノには価格がついている」という信念の中にどっぷり浸かっています。市場での商品取引が私たちの根源メタファーになっています。だから学び・教育や恋愛・友情も、自分にとって「お得」かどうかを判断基準にしたりもしています。「価値」は「価格」に変えられ、もっぱら交換されるものとみなされています。

だから自分に「価格」を支払う購買力がなければ、自分は「価値」を得られないと考えてしまいます。金があれば勝ち組。なければ負け組。金がなければ「価値」とは無縁の人生を送らざるを得ないとも思ってしまいます。

しかし私たちは価値を交換により獲得するのではなく、コミュニケーションにより生成させることができると内田先生は説きます。何かに対して肯定的な反応をするというコミュニケーションは実は価値の創出行為なのだと内田先生は考えます。他の人はなんとも思わないかもしれない物事に対して「ありがたいものだ」と感謝の意を表することで、そこには価値が生まれてきます。そして感謝をするだけでなく、その価値に報いるために何か新しいことを始めるコミュニケーションによってさらに価値の生成は連鎖的に派生してゆきます。

僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは、「ありがとう」という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれより前には遡ることができません。 (183ページ)

私たちは市場の価格がついた物事ばかりに目を向け、金銭だけを度量衡にせずに、ただそこにあり多くの人にとっては「なんだかわからないもの」を「自分宛の贈り物」として価値を見出す力を取り戻すことが必要です。そして見出した価値に感謝しつつ何か新しい活動を行うことを始めなければなりません。

この後期資本主義社会の中で、めまぐるしく商品とサービスが行き交う市場経済の中で、この「なんだかわからないもの」の価値と有用性を先駆的に感知する感受性は、とことんすり減ってしまいました。
それもしかたありません。僕たちの資本主義マーケットでは、値札が貼られ、スペックが明示され、マニュアルも保証書もついている商品以外のものには存在する権利さえ認められないんですから。その結果、環境の中から「自分宛の贈り物」を見つけ出す力も衰えてしまった。 (203ページ)

しかしこれは深刻な事態です。自ら価値を見出し創出できる力こそが生きる力に直結するからです。

「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。言い換えれば疎遠な環境と親しみ深い関係を取り結ぶ力のことです。 (204ページ)

よく「昔の子どもはその辺にある石ころや草花などからでもいくらでも遊ぶことができたけど、今の子どもはテレビで宣伝しているものや大人の用意したものでしか遊べない」と言われます。この意味で今の子どもは確実に生きる力を失っているのかもしれません。

何もないと思われるところに価値を見出し、それを感謝し、それに報いようとすることは、どんな時にでも希望を失わない「信仰」という文化の基礎でもあると内田先生は言います。

人間のコミュニケーションはその言葉 [=ありがとう] からしか立ち上がらない。
それは「おのれを被造物であると思いなす」能力が信仰を基礎づけ、宇宙を有意味なものとして分節することを可能にしたのと、成り立ちにおいて変わらないと僕は思います。信仰の基礎は「世界を創造してくれて、ありがとう」という言葉に尽きるからです。自分が現にここにあること、自分の前に他者たちがいて、世界が拡がっていることを「当然のこと」ではなく、「絶対的他者からの贈り物」だと考えて、それに対する感謝の言葉から今日一日の営みを始めること、それが信仰ということの実質だと思います。
人間を人間的たらしめている根本的な能力、それは「贈与を受けたと思いなす」力です。この能力はたいせつに、組織的に育まれなければならない。僕はそう思います。ことあるごとに、「これは私宛の贈り物だろうか?」と自問し、反対給付義務を覚えるような人間を作り出すこと、それはほとんど「類的な義務」だろうと僕は思います。(204-205ページ)


私の分野である英語教育の世界でもしばしば「コミュニケーション能力」について語られています。しかし私たちはその言葉で何を意味して、何を意味しそこねているのか。「英語教育の思想」あるいは「英語教育の無思想」の分析が必要なのかもしれません。










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