2010年9月16日木曜日

ニクラス・ルーマン著、ディルク・ベッカー編、土方透監訳(2009)『社会理論入門 ニクラス・ルーマン講義録2』新泉社

ルーマンはブルックナーに似ているとも思います。両者ともにとても複雑なことをやっているようですが、実はいくつかの主要なテーマを回帰的に繰り返しているだけで、そのテーマを理解できれば彼らの言いたいことはずいぶんわかりやすくなるように思えます。しかし、彼らは複数の主要テーマを、フラクタルのように次々に展開していますから、その展開ばかりに目を奪われると、彼ら作品の基本構造を見失ってしまい、彼らが何を言いたいのかわからなくなってしまいます。ですがその多彩な細部の奥にある彼らの核さえ抽象的に理解できれば、細部の複雑さはなんとか理解できるのではないかと思います。

と、いきなり与太話で始まりましたが、以下はいつものように私の読書ノートです。私なりの誤解・曲解に基づき、私自身の言い換えもずいぶん入れていますので、少しでもルーマンに興味をもった人は実際にご自分で本を読んでください。(またもしルーマンの専門家の方で、私の以下の記述にあまりにひどい誤解・曲解などがあることを発見された方はお知らせいただければ幸いです。私としても自らの誤解・曲解の可能性に開き直って居座るつもりはありませんので)



***

I 社会システムとしての社会


■システム理論はある理想を追求するものではない

システム理論は、観察されたもの、記述されたものが、どのようにしてそうあるのか、他のようにはありえないのかを考える。ある事態を肯定するとか否定するとかいうのはフランクフルト学派の表現方法である。(18ページ)


■ルーマンの社会学が依拠しない三つの社会概念

(1)社会を人間の集合としてとらえ、一人ひとりの人間を(それ以上分割することのできない)社会の構成単位として考えること。(42ページ)

(2)社会を地域(地理的な広がり)の集合としてとらえ、一つ一つの地域を(それ以上分割することのできない)社会の構成単位として考えること。(43ページ)

(3)社会科学が社会の外部に存在し、社会科学はどの認識者にとっても同一な客観的世界を扱うものであり、主観性を消去しなければならないということ。(44-46ページ)


■社会とは何か、ではなく、社会はいかにして産出されるのか、という問い

社会とは社会を産出するものであるというオートポイエーシス的理解からすれば、社会に関する本質的仮定を排除し、社会が自身を産出する作動を記述することの方が重要である。ちなみにこのトートロジー的なオートポイエーシス概念は、「法とは法が語ることであり法であるところのもの」「政治とは政治が生じさせるもの」(あるいは「応用言語学とは応用言語学が応用言語学として認めるもの」(笑 ―「応用言語学」を「英語教育学」に換えるともっと笑える)といった理解にもみられるものである。(62-63ページ)



II コミュニケーション・メディア

■コミュニケーションは社会的な作動である

コミュニケーションは社会的な作動として考えられるべきであるし、おそらく唯一の社会的な作動であろう。この作動が社会を生産・再生産し、(社会にとっての外部である)環境に対する環境を画定する。(102ページ)


■三種類のコミュニケーション・メディア

(1) 言語

(2) テクノロジー(文字、印刷、エレクトロニクスなど)

(3) シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディア(貨幣や権力など) (102-103ページ)


■メディアと形式の区別

メディアとは膨大に現存し、相互に結合している一つの潜勢力である。メディアが「タイトなカップリング」を受けることにより形式になる。例えば音はメディアであり、そのメディアを使いこなすことにより音声言語という形式が生まれる。だがこのメディア/形式の関係は、重層的であり、音声言語はメディアとして使いこなされることにより、ある発話という形式を生み出す。いずれにせよ観察が可能(あるいは容易)なのは形式であり、メディアは観察が不可能(あるいは困難)である。 (112-114ページ)


■言語というコミュニケーション・メディアの空間的・時間的・社会的拡張

言語を口頭でしか使わない場合、互いによく了解している状況で言語を使うので人は自らの考えを精確に述べる必要はあまりなかった。(142ページ)

かろうじて文字に残っている古い時代の民衆叙事詩などの場合、特定の言語形式を繰り返し使用し、口述や想起、感情に対して周知性や確実性をもたらしてメディアの広汎性を広めた。(143ページ)

文字を記す媒体(粘土板や紙)が手工業や工業生産により普及し、加えて活版印刷が開始されると言語によるコミュニケーションは広範囲に流布するようになった。(143ページ)


■文字は当初は記憶補助のためでありコミュニケーションのためには使われなかった

進化は、それに先行する機能を利用しながら進行するものであり、現在からすると支配的・最終的に見える機能も当初は獲得されていなかった場合が多い。文字も当初は使節がメッセージを伝える際に持ち運んでいた粘土板に刻み込まれていただけであり、その粘土板が直接相手に渡されることはなく、メッセージはあくまでも使節が口頭で伝えていた。文字を直接的なコミュニケーション手段として使うことはその後次第に普及していった。(149ページ)


■文字の普及がコミュニケーションに与える影響

文字は直接対面している相互作用状況から離れて人々がコミュニケーションをとることを可能にした。だがこの新たな状況でのコミュニケーションには、目の前にいる相手のようにコミュニケーションを強く要求する人間が不在なので、メッセージを受ける人間は、読む・読まない、イエス・ノーを言う選択においてより自由になった。また二度、三度再読してはじめて解明できるような難解なテクストも生み出されるようになった。(159ページ)


■印刷術と市場

中国や朝鮮においてはヨーロッパより早く印刷術が発明されていたが、これらの地域では市場が発達しておらず、印刷術はもっぱら官僚機構が諸指令を周知されるために用いられた。(168ページ)テクノロジーだけが文明を進化させるのではない。


■印刷術と標準語

印刷出版は標準語成立と大きくかかわった。出版市場は広範囲に通用する語を求めるし、出版された印刷物はその広範囲で使用される語を普及させる。ドイツでは低地ドイツ語でなく高地ドイツ語がドイツ語の標準語化のために使われた。フランスではいわば学術的に標準化が行われラテン語の起源などがしばしば参照された。だがイタリアではダンテやペトラルカが書いていたフィレンツェの言語形式が印刷術より以前から普及していた。(169-170ページ)


■印刷物が促進した体系性

「体系」(システム)という言葉が多用されるようになったのは17世紀のはじめである。これには、目次や見出しなどで論理的な構造を秩序づけて提示できる印刷物の普及が大きく関わっている。その後、体系性は方法論化された。(171ページ)


■印刷物が促進した科学技術文献や新聞

詳細な情報を正確に伝えられる印刷物は科学技術文献を普及させた。目の前の人間を超えてコミュニケーションを図れる印刷物はまた、社会全体に対して提供される政治的パンフレットや新聞を登場させた。(172-173ページ)


■シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディア

シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディア(例、貨幣・権力・真理・芸術)とは、かなりの確率で起こりうるノーをイエスに変換することに役立つ仕組みである。例えば貨幣は交換の成立可能性を高める。権力は秩序形成の可能性を高める。真理は学術的テキスト生成を促進する。芸術は美の生成を促進する。(181ページ)


■多数のシンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアが宗教の力を弱める

宗教はかつてすべての頂点に立つ意味論(ゼマンティク)であった。しかしシンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアが複数台頭し、それぞれがそれぞれの観点でコミュニケーションを促進するようになると、社会つまりコミュニケーションの総体は宗教では統一できないことが明らかになっていった。(199ページ)


■メディアの二分コード

メディアはしばしば二分(バイナリー)コードをもつ。コミュニケーションをアナログ的にではなくデジタル的に促進する[例えば貨幣なら支払う/支払わない、権力なら従う/従わない、真理なら真/偽、芸術なら美/美でない、だろうか]。このコミュニケーション過程の単純化により、コミュニケーションが促進され、さらにコミュニケーションを容易にする仕組み(プログラム)が発達する。(212ページ)



III 進化

■進化理論は段階説をとらない

進化理論は(聖書的な)創造説と異なるだけでなく、変化の明確な転換点を求める段階論とも異なる。歴史学でも、古代、中世、近代の間の明確な転換点をもつ普遍的過程という観念を放棄した。例えば近代は、一つの明確な転換点 ―アメリカ発見、書籍印刷、フランス革命、ロマン主義文学、など― をもって開始されたと断定することはできない。(243ページ)


■一般的な形式の進化理論

進化理論は一般的な形式性を備えたものとしてとらえるなら、生命システム、社会システム、心理システムなどにおいても適用され、それぞれに応じて違った実現の仕方をする。(247ページ)


■進化理論の三概念

(1)変異:何かが別様になる。

(2)選択:変異に対する肯定的ないし否定的な介入

(3)(再)固定化:選択の結果の受容あるいは拒否


■偶然と進化、そしてシステム理論

変異・選択・再固定化において偶然は大きな役割を果たす。これをシステム理論で言い直せば、進化はシステムに即して生じるが、同時に[システムを包含する]環境の中でも生じる。環境は、システムが支配も組み込みもできない外部であるから、この外部からの影響は偶然とみなされる。(249-250ページ)


■進化理論は非計画的な構造変動を説明する。

人工的で意図的な計画は、進化の中の一要因に過ぎない。計画はもちろん計画通りの結果ももたらすが、同時に予見されない未調整の効果つまり偶然効果をもたらし進化に作用する。人は計画を好むが、その人が何かを達成するかどうかは別の問題であり、その人が計画を貫徹するときでさえなお進化が起こる。進化理論は計画より幅の広い理論である。計画がなされたときでも非計画的な構造変動がありうる。(250-251ページ)


■進化には飛躍的な変化、相対的停滞、後退もある。

進化は必ずしも漸次的な変化ではない。(258-259ページ)


■偶発性の必然性もしくは必然性の偶発性

進化理論の特徴を説明するのには、神学的概念である「偶発性の必然性もしくは必然性の偶発性」が適切かもしれない。(260ページ)


■進化的普遍態

ある進化の獲得物は、いったん効力をもち使用されるようになると大きな射程で使われるようになり別の形式を駆逐してしまう。これを民俗学では「支配的な類型」(dominant types)と呼ぶが、パーソンズは「進化的普遍態」と呼んだ。貨幣、文字、政治的官職、複式簿記、組織の技術、機械などが例としてあげられる。これらが普及した後、以前の形式に戻ることはまずない。(277-278ページ)




IV 分化

■環節的社会

環節的社会が形成されるために必要とされる前提は、土地に人が住めること、人々が再生産できることぐらいである。(319ページ)環節的社会では、互酬性原則・感謝・扶助を通して安定している。(329ページ)


■中心/周辺分化

複数の環節的社会が何らかの形で接触し始め、それらの間の不平等が大きなものになったら、中心/周辺分化が生じる。都市と村落という形に分かれるが、中心である都市には、改めて別の分化が生じるだけの蓄積がなされる。(319ページ)


■階層分化

社会が、貴族といった上流階層とそれ以外の下流階層に分化する場合がある。ヨーロッパでは中心/周辺分化よりも階層分化の方が多く見られたが、これはヨーロッパの地理的・言語的多様性が関係していたのかもしれない。(321ページ)


■機能分化

社会がさらに複雑になると、経済や政治などの機能でも社会が分化されるようになる。機能分化したそれぞれのシステムは「非同等なシステムの同等性」を有している。つまり機能システムの間の互換関係は非同等性により妨げられているが、他方機能システムはどれも他の機能システムに対する社会優位を要求することができないという点で同等なシステムである。(322-324ページ)政治システムが経済システムを制御できないという考え方は社会主義の崩壊がそれほど昔のことでないことからすれば無条件に自明なことではないかもしれないが。(342ページ)


■機能分化と近代社会

機能分化の観点からすると、近代(モダン)社会と脱近代(ポストモダン)社会の間に断絶を認める必要はない。近代社会の実現から200年かそれ以上たった今日、私たちは何位巻き込まれたのか、私たちに何が起こっているのか、いくらかよく見通せるようになっただけである。(332ページ)


■機能主義理論を目的概念ではなくシステム概念で理解する

機能システムが目標達成のために存在していると考えるなら、目標が達成されたあとのシステムの存続が説明しにくくなる。他方、機能システムをオートポイエティック・システムの理論に転換すると、システムは二分(バイナリー)コードおよび二分コードのプラスマイナスの決定する基準であるプログラムにより作動するものと説明できる(プラスは作動をより簡単にし、マイナスは作動に対して再帰的・反省的な態度をとることを促す)。(332-336ページ)



V 自己記述

■自己記述と自己観察

自己記述とは、あるシステムが自分自身の作動によって自分自身の記述を行うことである。記述は観察と異なり、テクストといった繰り返し適用できる同一性を生み出す。システムは自己記述により、自らを説明し、環境から継続的に区別する。(360ページ)


■自己記述は循環的であり、終結しない

システムが自己記述を行うなら、その自己記述するシステムは自己記述される前のシステムと異なる。その自己記述を含んだシステムを自己記述しようとするなら、さらに自己記述がなされなければならない。システムと自己記述は循環している。この循環は終結しない。(361ページ)

***


⇒アマゾンへ









Go to Questia Online Library



【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2010年9月15日水曜日

『英語教育2010年10月増刊号』




英語教育2010年10月増刊号の目次が大修館のホームページでも公開されたので、ここでも紹介します。ここをクリックしてください。

ご覧になったらお分かりのように、今年の増刊号の特集Iは「英語教育キーワード」です。キーワードというのは時代を動かす力になりますが、案外に理解されていなかったり誤解されていたりします。浅薄な理解あるいは端的な誤解は、キーワードを旧来の思考の癖に変容させ、世の中をしばしば反動的にしたりしますから、キーワードの的確な理解は必要です。どうぞこの特集をお読みください。

特集IIの一環として私は「英語教育図書:今年の収穫・厳選12冊」を書かせていただきました。ただ12冊を選ぶだけでなく、それらの本が現時点において書かれることの意味合い、読む際の視点などを提示して、読者の皆さんにいろいろと考えていただく書評にしたつもりです。原稿料をいただいて書いた文章ですから、このブログの文章と違ってw、わかりやすさや文体にも気をつけて書いたつもりです(もちろん私の能力の範囲内においてですが)。これらの12冊を読んだことのない方はもとより、読んだ方にも楽しんでいただけるような文章を目指しましたので、どうぞ読んでやってください。

ちなみに紹介した12冊は以下のとおりです。世の中には万人向きの本というものはないわけですから、できれば私の書評やアマゾンなどの書評なども読んで、書籍の意味合いを理解した上でお買い求めください。



靜哲人『英語授業の心・技・体』研究社

江利川春雄『英語教育のポリティクス』三友社出版

寺島隆吉『英語教育が亡びるとき』明石書店

笹島茂/サイモン・ボーグ『言語教師認知の研究』開拓社

藤本一勇『外国語学』岩波書店

黒田龍之助『ぼくたちの英語』三修社

森山卓郎『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会

森住衛・神保尚武・岡田伸夫・寺内一『大学英語教育学』大修館書店

福井希一・野口ジュディー・渡辺紀子編著『ESP的バイリンガルを目指して』大阪大学出版会

和泉伸一『「フォーカス・オン・フォーム」を取り入れた新しい英語教育』大修館書店

新英語教育研究会『新しい英語教育の創造』三友社出版

田尻悟郎『(英語)授業改革論』教育出版




番外編として書名だけ言及したのが下の5冊です。


卯城祐司『英語リーディングの科学』研究社

田中武夫・田中知聡『英語教師の発問テクニック』大修館書店

大塚謙二『教師のためのICT簡単面白活用術55』明治図書

横溝紳一郎編著『生徒の心に火をつける』教育出版

吉田達弘他編『リフレクティブな英語教育をめざして』ひつじ書房




なお今回の書評で私が靜哲人先生の『英語授業の心・技・体』に対して書いたことを、江利川春雄先生が面白がってくださり、靜先生は靜先生で反論を書いてくださったことは、以前の記事でお知らせした通りです。

この靜先生の立論と私のコメントは、私が接する狭い世間の範囲内ではそれなりの反響を呼んだようです。

以前の記事で私は、

私としては、この靜先生のコメントが私の書評(増刊号に掲載)と共に読まれるならば、特に付け足して言うことはありません。


と書きました。この表現を書いたときに、誤解されることを防ぐためにもう少し文を足そうかとも思ったものの、足すのも野暮だと思い上のような表現としましたが、やはり不必要な誤解を避けるために若干付け足しておきます。

私が上に「特に付け足して言うことはありません」と書いたのは、私は必要な論点は増刊号書評で書いたと思っているからです。靜先生のブログ記事は、ぜひその記事が基盤としている私の書評を読んでくださればと思います。両方を比べれば、靜先生が私の書評のどの部分を引用し、どの部分を引用せずに論じているかがわかります。また引用している箇所もどのように引用しているかにご注意いただければと思います。

私がこのブログの直前の記事で言いたかったことは、人が何を取り上げ何を取り上げないかを観察することで、その人の考え方がわかるということです。そうやって(自分も含めた)多くの人の考え方を観察するなら私たちの思考も多少は現実的なものになるでしょう。一面的で固陋な思考は現実に対応できませんからね。

私が一番避けたいのは、観察をほとんどせずにどんどん自説を肯定し、異説を否定することです。そのような断言は勇ましく、その他にすることがない一部のウェブ読者を喜ばせたりしますが、私は現実生活を改善するにはそのような断言合戦は有効でないと考えますので、距離を取りたいというのは前から申し上げている通りです。

靜先生のブログ記事は私の書評記事と併せて読んでください、とお願いしましたが、このお願いは自動的に、私の書評記事が靜先生の『英語授業の心・技・体』と共に読まれるべきことを含意します。共に読みますと私が靜先生の本のどこを引用し、どこを引用していないか、また引用するにせよどのような引用をしているかを観察できます。

もちろん私の書評は原稿分量という制約、靜先生のブログ記事は忙しい毎日という制約のもとで書かれたものです。また制約がほとんどないような文章でも、書き手はその思いを過不足なく書く事はほとんど不可能であり、読み手が書き手の思いを過不足なく読み取ることもはなはだ難しいものです。ですから表現の細部について必要以上に騒ぎ立てることはあまり意味ある行為ではないでしょう。

しかし、そういったことを勘案した上で冷静にお互いを観察してゆけば、その観察から私たちの思考の癖も顕になるでしょう。それぞれの癖を理解した上で、それぞれの癖を多様性と捉えて使い分けてゆけば、多少は私たちの思考も行動も柔軟になるでしょう。あまりにひどい癖はたしなめる必要がありますが、私たちは(完全な)合意を求めてコミュニケーションをするより、差異を必要な前提そして当然の結末としてコミュニケーションを続ける方が実りが多いと考えますので、私はこのように訴える次第です。(よかったらこの論文も読んでやってください)。


まあ、私の書評はともかく、今年の増刊号は(もw)充実していますから、お買い上げの上、どうぞ皆様の思考と行動の糧にしてください。活字出版とウェブ表現の棲み分けは、電子書籍の台頭でますます混迷の色を深めてきましたが、活字出版のこれまでの伝統とノウハウを活用することなしにウェブ文化が発展することはないことだけは確かでしょう。このブログを読んでくださるのはありがたいのですが、本や雑誌の活字出版も買って読んでねw

⇒アマゾンへ











Go to Questia Online Library



【広告】 というわけで『リフレクティブな英語教育をめざして』『危機に立つ日本の英語教育』をぜひ買ってね(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2010年9月14日火曜日

なぜ書くことが人の知性を発展させるのか

■「情報」とは、意味ある違い ―差異を生み出す差異

前の記事で「差異の活用」について書いたが、もちろん差異(違い)があれば何でもいいというわけではない。学生さんにある二つのテクストを比較させ違いを述べよと指示すると、時々おそらくは真っ先に目についたであろう表面的な違いを指摘する学生さんがいるが、もちろん違いが見つかれば何でもいいというものではない。私の指示の意図は、「意味ある違い」あるいは「重要な違い」を選択せよ、そしてその選択によりあなたの理解度を示せ、というものである。


「意味ある違い」、あるいは「重要な違い」というのは、ベイトソン流に言うなら「差異を生み出す差異」(a difference which makes a difference)であり、これが彼の「情報」(information)の定義である。「情報」とは、数ある差異の中でもその情報発信者が「意味ある」あるいは「重要」だとみなした差異である。




■情報発信者が企図せずして顕にしてしまうこと

だから情報発信により、実は私たちはその発信された情報を受け取るだけでなく、その情報発信者がどのような判断をしたのかということを知ることができる。つまり情報発信を観察することにより、観察者としての私たちは、その情報発信者について知ることができる。その情報発信者がどのような判断をするシステムなのかということを知ることができる。これは情報自体の文字通りの意味(literal meaning)の把握でもなく、その発信者が意図した意味(speaker meaning)の推定でもない。情報発信者に関するこの知見は、情報発信者を注意深く観察する者のみが得ることができる解釈であり、情報発信者が元々企図していたことではない(もちろん、「この情報を発信することで人々は自分のことをこのように判断するだろう」という周到な企図をもって情報発信する場合もあるが、それはここでは例外とする)。



■情報発信をする自己を観察するということ

と、情報発信者と観察者が別人であることを当然の前提のように書いてきたが、もちろん情報発信者と観察者が同一人物であることもありうる。情報発信をする自己を観察するわけである。

だがこの観察は、自らがある情報に気づくだけでは行うことが難しい。情報を私たちは日常的に見出している。だがその発見の多くは一過性のものであり、私たちはそれらに気づいても、すぐに他の作動を始める。「あっ」「へぇーっ」と思ったものも、多くは他の作動を始めた次の瞬間には忘れられる。このように次々に忘れ去られる情報を観察するのは難しい。情報に気づき、かつ他の作動に移行しながら、加えてその情報の気づきを観察するなどといったことを同時に行うことは、私たちの認知能力にとって負荷が多いからだ。

だが情報を発信するなら ―後に自己観察をする自分自身を含めた他人が観察しやすいように、自ら見出した情報を自らの頭の外に出すなら― その情報選択という判断を観察することが容易になる。頭の外に出す方法もっとも簡便な方法の一つは口頭でその選択した情報を述べることであろうが、もしその情報選択を何か永続性のある媒体(紙、コンピュータなど)に書き記すならば、書き記すという手間はかかるものの、観察はずっと容易になる。情報発見の後にゆっくりと観察できるからだ。多くの場合、情報発信を記述し残すことによって自己観察は、はじめて可能になる。情報発信が「私はこの情報を選択したのだ」だという自己記述でもあるとすれば、自己記述が自己観察を容易にすると表現できる。自己観察を反省と言い換えるなら、自己記述が反省を促すとも表現できる。



■書くことにより知る

私たちは刻々と情報を見出す。日常的に行為に埋没している私たちは、情報(差異を生み出す差異)と非情報(特段の差異を生み出すわけではない差異)を区別するのに忙しい。例えばGoogle Reader (RSSリーダー)で毎日500以上のブログ見出しを目にする私は視線を高速で移動させ、ちょっとでも面白い(「情報になる」)と思った見出しにはクリックをして星印をつける。そして次の瞬間には次の見出しを見ている。私は情報/非情報の区別あるいは判断を次々に行っているのだが、いちいちそれについて考えはしない。考えていたらとてもでないが多くの見出しを処理できない。

星印をつけ終わると、星印がついた見出しだけを画面に出す。そうして一日の適当な時間帯にそれらの記事を読み、面白かった情報はEvernoteにコピー保存しておく。さらにその記事の見出しとURLをTwitterに流す(これはクリック一つでできる簡単な作業だ)。

Google Readerの星印、Evernote、Twitterは私の情報発信である。前二者は自分自身だけのもの、後一者は他人に公開しているものという異なる種類の情報発信であるにせよ。情報発信は、その情報の提示だけでなく、情報発信者(つまり私)という区別や判断をするシステムについての情報を提示してしまうから、これらの情報発信の記録を注意深く観察する者は、私というシステムについての何らかの知識を得る。他人という観察者は私という人間の性質を知り、私自身という観察者も私という人間の性質を学ぶことができる。これも情報発信という自己記述のおかげである。

自己記述がなければ、私をよりよく理解するのは、私自身より他人の方かもしれない。実際のところ、日常生活にそのような例はありふれている。「知らぬは当人ばかりなり」で、ある人の癖は周りに熟知され嘲笑の対象とすらなっているのだが、当の本人はその癖に気がついていないということはしばしばあることだ。

自分という人間の理解において、他人に先を越されるというのはあまり気持ちいいものでもないだろう。それを防ぐ一つの方法は、自己観察をきちんと行うことだ。そのためには自己記述が有効である。日記というのは自分しか読まない読み物であるが、そのような読み物に自己記述を重ねることは自らをよりよく知ること、自分を周りから観察している他人よりもよりよく知ることのために有効な手段の一つなのかもしれない。日記のように非公開にするにせよ、このブログのように公開するにせよ、情報発信の記録は、情報発信者について知ることを促す。ただ情報に気づくだけで終わらせるのではなく、気づいた情報を発信し、さらには記録に残しておくことの意義の一つは、この洞察を得ることができることであろう。



■他人による観察の利点

それでは他人による観察に有利な点はないのだろうか。

通常、ある人に対して、他の人々がそれほど注意を払っていることはない。そうなると他人による稀な観察より徹底した自己観察の方が優れているということになるのかもしれない。

ましてや観察する他人の知的能力が、観察される人間の知的能力より低い場合、他人による観察は当人による自己観察に到底及ばない。観察されている人間の区別や判断を、知性において劣る観察者である他人は理解することもできないからである。観察されている人間(被観察者)が、なぜある事柄を情報とし、他のことを情報としなかったのかということが、観察者であるその他人には表面的には観察できても、原理的に理解できない。だから、根本のところで観察者はその被観察者についてわからない。被観察者について判断できない。そのように知的能力に劣る観察者は、権威ある第三者がその被観察者をどのように評価するかを待って、はじめてその被観察者がどんな人物であったかを(間接的に)知るだけである。

だが、観察する他人の方が自己観察する当人よりも知的能力において優れる場合、他人の観察の方が自己観察より的確であることは当然であろう。より知的に優れる他人は、当人が区別や判断できない領分や、大まかにしか区別や判断できない細部で、区別や判断を行い、その当人が成し得たはずの区別や判断まで理解できる。優れた人が、短い時間の観察だけで、ある人の性質をぴたりと言い当て、その当人やその当人の古くからの知り合いまで驚かせてしまうということも日常生活ではたまに起こることである(もちろん自らを優れていると信じて疑わない御仁が、短時間の観察だけである人に対して頓珍漢な断定をすることの方が、日常生活でははるかに多いのであるが)。

と、他人を知的能力に劣るか優れるかと単純に分けて考えたが、他人は当人より異なっているだけでその当人が気づかないことも理解するとも言えるだろう。他人が当人とは異なる判断システムをもち、異なった種類の区別をしているならば、その他人は、その当人が情報と認識したがその他人なら情報と認識しなかったであろうこと、およびその当人が情報とは認識しなかったがその他人なら情報と認識したであろうことを判別できる。つまり、別の視点から見ることにより、当初の視点では見ることができなかったことが見えてくるということである。他人は当人とは異なるシステムであるというだけで当人には見えないものを見ることができる(もちろん、異なるシステムをもつが故に当人には見えてもその他人には見えないものも存在するのだが)。

他人は知的に優れている場合だけでなく、観察される当人とは異なる区別や判断をする場合においても、その当人の観察において有利でありえる。



■コミュニケーションにより他人による観察を自らに反映させる


他人による観察は、自己観察では得られない利点をもつとするなら、その他人による観察を取り込むに限る。どうすれば取り込めるのか。しかし他人の意識(観察内容)をそっくりそのまま自分に取り込むことはできない。私たちが取り込む(あるいはルーマン的にもう少し慎重に言うなら、接する)ことができるのは、他人が外に現した言動だけである。他人の言動を自分のあり方に連動させ他人の影響をできるだけ活用する最良の方法の一つは、その他人とコミュニケーションすることである。他人と「共応」すること(=共に、しかしそれぞれのやり方で応じ合うこと)とも表現できるかもしれない(最近私は半ば意地になって、また半ば楽しみながらカタカナ語を漢字あるいは大和言葉にしようとしている。「共応」とは「コミュニケーション」の翻訳語として私なりに考えた(でっち上げた)造語である)。

私たちは、自分より優れた他人と共応することにより、自分というシステムに刺激を受ける。自分というシステムが開拓され精緻化される。さらに私たちは自分と異なる他人と共応することにより、自分というシステムが撹乱される。自分が思いもつかなかった区別について知ることができる。さらにここまで書くうちに考えついたのだが、私たちは自分より知的に劣った他人と共応することによっても学ぶことができるのだろう。自分が細分化してしまった区別を行わずに大きな区別しかしない知性と出会うことで、私たちは錆びついてしまった大局観を得られるのかもしれない。

いずれにせよ、コミュニケーションにより、つまりは他人と自分を連動させ、それぞれに相手に応じ合うことにより(=共応することにより)、私たちは自らの知性を発展させることができるのではないだろうか。より精緻な区別を、まったく異なる判断を、あるいは忘れかけていた大胆な区分を学べるのではないだろうか。



■コミュニケーションのための自己記述

他人とのコミュニケーションを開始するために行うべきは、自ら情報を見出そうとすることだ。漠然と日々を過ごすのではなく、意味ある違い(差異を生み出す差異)、つまりは情報を見出そうと意識する。情報を見出したらそれを書き出す。その自己記述で自己観察(反省)を行う一方、他人にもその情報を提供する。提供する情報に面白いものが多ければ、やがて見知らぬ他人も私たちの情報の判断基準に興味を抱くかもしれない。そういった他人はやがて私たちの情報発信に連動して言動を行うようになるかもしれない。コミュニケーション(共応)の始まりである。

あるいは自ら情報を発信せずとも、他人が発信した情報に反応してもよいのかもしれない。もちろん、その反応があまりに愚かだったり見当はずれだったら無視されたり嫌われたりするだけだろう。また、反応が面白くても情報発信者が忙しいあるいは他の様々な理由で私たちの反応に連動しないかもしれない(さらには、しつこくとにかく反応してもらうことだけを求める者を人は好まないことも付け加えておくべきだろう)。だが、もし幸運に恵まれるならばその情報発信者は私たちと連動し始めるかもしれない。その連動はたいていの場合において私たちの望んでいた形の反応とは異なるだろうが、それは一種の共応である。

私たちはその共応を契機に私たちの知性を発展させることができるかもしれない。もっとも共応(コミュニケーション)とは、他者の知性がそのまま自分の中に移送あるいはコピーされることではなく、互いが相手を刺激・撹乱要因としてそれを契機にそれぞれに自分で自分を作り変えるという自己創出(オートポイエーシス)なのだから、共応(コミュニケーション)が自動的に私たちを改善するということはない。要は私たち次第であり、私たちがあまりに愚かなら私たちはコミュニケーションを通じてどんどん愚かになるだけだろう(そうして愚かになればなるほど他人からの働きかけは減ってくるだろう)。

しかし仮に誰も私たちと共応しかなったとしても私たちは自己記述をするべきだろう(それが日記というものだ)。自己記述が促進する自己観察(反省)は、自らを再構築する機縁となる(もちろん自らの正しさを信じて疑わない人にとってはそうではないが)。自己記述は、時間をおいて読みなおした場合、ほとんど他人からのメッセージのように読める場合もある。自己記述により、私たちは自らと共応(コミュニケーション)を行うことができる。その共応により私たちは自らを作り変える可能性を高めることができる。もちろん、その自己創出がどのように展開するかというのは、究極のところにおいてその人次第であるということは先程から繰り返している通りである。だが一般論としては次のように言えるだろう。書くことは人の知性を発展させる。



■自分が自分を創出するということ

この駄文の元々の考えは歩きながら思いついたものであり、パソコンに向かえば30分以内にまとめられるものだろうと思っていた。だがその自己観察(情報発見)を自己記述に変えて文章にしてみると、存外に考えが自己展開した。当初書くつもりもなかったことも書くはめになった。書くというのは、閃きの一瞬と異なり、時間のかかることである。その時間の中で、私は何度も何度も自己記述を(つまりは自分の書いた文章)を観察した。数分前の自己記述が現在の自己への刺激・撹乱要因となり、自分が(小さな規模とはいえ)再構成されていった。

そうして創出された自己は自己記述を開始する前の自分が予測していた自己とは異なるものだが、この自己は私自身が創りだしたものであることは間違いない。自己創出(オートポイエーシス)は作動において自己内に閉じられたものであるが、その作動的閉鎖性は自己創出が計画通りとか予測通りに進むことを意味しない。たいていの場合、私たちの中には私たちで列挙・枚挙できないぐらいの多くの要素が存在し、それらの中から「情報」を発見して、その情報を組み合わせてゆくうちに、その組み合わせが新たな可能性を呼び起こしたりして、私たちは自らが予想しなかったことを書き出すことになる。この自己発見的な書き方はビジネス定型文書の書き方とはまったく異なる書き方であるが、書くという文化の重要な側面であろう。

以上書いた駄文をさらに丁寧に観察し、推敲・再構成すればすこしはまともな文章になるのかもしれないが、それは未来の自分(あるいは読者であるあなた)に任せることとして、本日はこれで文章を終える。私としては、今回のこの自己観察と自己記述が、私という人間を少しはまともなものにしたことを、あるいはせめてより劣悪なものにしなかったことを祈るばかりである。









Go to Questia Online Library



【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor