2008年12月4日木曜日

学会言説という権力を活かす(2)

[この記事は、前の記事からの続きです]

<前の記事の要点>

■前提:学会言説という知識は権力となる。

■第一の問題:しかし学会言説という知識の獲得によって権力を得た者が実際に権力を行使する際には、案外、学会言説以外の常識論や印象論を語っている。現在の学会言説は、実は現実世界での力となっていない場合が多い。

■第二の問題:なぜ必ずしも現実を捉えきれない学会言説の権力構造が、崩されず再生産されるのだろうか。

■目指すべき方向:学会言説という知識/権力をいたずらに否定するのではなく、積極的・肯定的に使いこなすにはどのようにすればよいのだろう。


*****

第一の問題(=多くの研究者は、現場実践に対して、研究に基づいてでなく、常識的な印象論しか語っていない)については、日本の学会言説の多様性が、英語教育研究では著しく制限されたままだということを繰り返し語っておきたいと思います。

英語教育という総合的な現象を語るためには、言語学や心理学に限らず、教育学、社会学、政治学、哲学などでの様々な知的訓練が必要だと私は考えていますが、日本の英語教育関連の学会は量的心理学に偏り、質的研究や社会科学系さらに哲学系、それどころか教育学系の議論さえないがしろにされているのではないかという疑義は私も過去に述べたとおりです(「学会誌のあり方について」)。

欧米の第二言語教育研究と比べても、この日本の英語教育学会言説の偏りは明らかです。例えば、Zoltan DornyeiによるResearch Methods in Applied Linguistics (Oxford University Press)では、当たり前のように量的方法と質的方法が並記されているだけでなく、"mixed method"についても語られています。

社会科学系そして哲学系(特にポストモダン)については、私自身が今、PennycookによるCritical Applied Linguisticsを教えているから特に思うのですが、この種の研究は欧米では完全に市民権を得ているのに、日本の英語教育界ではほとんど際物扱いです(この点、日本の日本語教育研究の状況は、英語教育研究の状況よりはるかに進んでいます(例として佐々木倫子、他編『変貌する言語教育』くろしお出版など)。



第一の問題である「多くの研究者は、現場実践に対して、研究に基づいてでなく、常識的な印象論しか語っていない」については、この日本の英語教育学界の偏りが原因になっているかと思います。日本の英語教育学界に量的研究が導入されたのは、私が理解する限り1980年代のことですが、以来、量的研究法は--学習しやすい、再生産しやすいからでしょうか--日本の英語教育学界における支配的言説となってしまっています。

もし大学の研究者がその量的研究法にしか通じていなかったら、正直、彼/彼女は、自分の研究に基づいて現場教員にまっすぐに語ることが難しいと思います。もちろん量的研究法で初めて捉えられる現象も沢山あります。また数回の講座でしたら自らの量的研究で現場教師を魅了することも十分に可能でしょう。

しかしこれは講師が一方的に話すだけの講座でなく、協働的に授業について語り合う研究会などでは、もし彼/彼女が量的研究法だけにしか慣れておらず、数値化しがたい現象、数値化するべきでない価値観についての語り方の作法(質的研究法、社会科学的・哲学的・教育学的言説など)について無知ならば、おのずから彼/彼女の語り方は、多くの場合において、誰でもできる常識的な印象論にならざるを得ないでしょう。かくして第一の問題が生じるわけです。

しかしここで大切なことは、現場における常識の理解や印象の獲得にに関しては、現場教員の方が、量的研究しか行なわない大学研究者らよりもはるかに精通しているということです。ここでは学会言説の権力が空回りして、まったく活かされていません。いや、学会言説を操れることで得た権力を行使するのに、その言説は学会言説ではない、ただの床屋談義のようなものであるとしたら、これは権力の誤用・濫用とすらいえるのかもしれません。

こうなると英語教育といった現場的・臨床的で総合的な現象について語るには、多数の研究方法を学んでおくことが必要になるかと思います。私は、英語教育学界の人間は、たとえそれぞれの研究法の専門家からは二流扱いされるようなレベルであっても、多くの研究法について学び、それらを何とか使いこなす(二流や三流であっても失格ではない)ことが英語教育の研究者には求められていると思います。

私がなぜこれほどに方法論の複数性・多元性を強調するかと言いますと、現代は「方法論こそがtruthを決定する」と言わんがばかりの風潮が強いからです。「truthとは何かを考え、それを検討するための方法論を考え出し、使う」という「truth --> method」の思考や、「方法論とtruth概念がお互いに『汚染』されている」ことを自覚した「truth <--> method」の思考ではありません。「社会的に認められた方法論だけがtruthを語ることができる」といった「method --> truth」という風潮です。

そうするとmethod --> truth --> knowledge --> powerといった一方向の流れが出来てしまいます。ある一定の方法論を握る者だけが、真理、つまりは知識を語ることを許されます。その種類の知識を操る者だけが権力を握るという一元的なあり方は、私は教育の現実に合わないものであり、ひどい場合にはknowledge/powerの濫用にさえつながりかねないと懸念しています。

私があるべきと考える姿を、図式的に表現しますなら、methods <--> truths <--> knowledges <--> powersと、敢えて英語使用の標準的用法に反してでもmethod, truth, knowledge, powerなどの複数性を強調し、それらがフィードバック回路が成立しない一方向の流れになるのではなく、フィードバックが成り立つ相互影響関係にある関係です。

方法論も多元化するなら、複数の方法論が何を「真理」とし、何を「知識」とするのかについての多元的な考えを生み出すことができます。さらにそれらの複数の真理概念と知識概念は、多種多様な「権力」(power:複数の人々に認められた社会的な力)を生み出します。その多種多様な権力の働きが、また方法論・真理・知識に様々な働きかけをし、それらを洗練させるという多元的な相互影響関係の図式が、私が今考えていることです。

これをさらに言い換えるなら、知識/権力という重大な問題は、異なる人間が共生する開かれた空間での、最終解決を求めない終わりなきコミュニケーションの連続によって、何とか扱ってゆく方が健全なのではないかとなるかと思います。「方法=真理=知識=権力」を単一者(あるいは単一者の複製が集まった均質集団)が一元的に掌握し、それでもって社会をコントロールしようとする図式は怖ろしいのではないかということです。


ではなぜそのように方法論の多元化に日本の英語教育学界が変わってゆかないのか。1980年代の量的研究の導入は、先行世代からすれば驚くべき変化だったと思います。90年代、2000年代にはなぜそのような変化が、質的研究や、社会科学的・哲学的・教育学的研究について起らなかったのか。これが私の第二の問題です。

[続く]







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4 件のコメント:

terracao さんのコメント...

続編を楽しみにしていましたが今回も非常におもしろいお話をありがとうございました。続きも楽しみにしています。

さて、興味深かった箇所のひとつが

>日本の英語教育学界に量的研究が導入されたのは、私が理解する限り1980年代

という記述です。私は、日本の英語教育研究の歴史について疎いもので教えて頂きたいのですが、では、70年代はどんなディシプリンが支配的だったのでしょうか?まったくの推測ですけれど、「ベテラン教員の経験則」のような俗流・教育方法論だったのでしょうか?

柳瀬陽介 さんのコメント...

terracaoさん、コメントありがとうございました。

さて1970年代の英語教育研究の様子ですが、これは結構面白いトピックだと思いますので、後日改めて記事にしたいと思います。また何かコメントがありましたら、どうぞお気軽にお寄せ下さい。

添え状 さんのコメント...

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

柳瀬陽介 さんのコメント...

添え状さん、
コメントをありがとうございました。
この記事の続編は未完になってしまっています(汗)。
日本の英語教育界でも、多少は質的研究が認められてきたのかなと思い始めましたが、先日は、実はまったくそうでないという経験をしました。
また、この春にAAALに参加しましたが、質的な研究(SLAへのalternative approachesも含む)はむしろそちらの方が多いかもしれないぐらいでした(正確に数えたわけでなく、私の印象ですが)。
同時に質的な研究法が、いかに自覚的に研究を進めていくかという、もう完全に次の段階に進んでいました。
こういった流れが、ほとんど日本に伝わらないのはなぜだろうとも思ってしまいます。