ギデンズは英語圏で、そして英語しか読めない社会科学者から、先駆的な理論として高く評価されてきたが、ルーマンの著作を真面目に読んだ人間なら誰でも気づくように、ルーマンの薄い模写(コピー)でしかない。だからこそ、広く読まれ広く受け入れられている。英語かドイツ語かのちがい以前に、その薄さ濃さが、現時点での二人の受容の広さ狭さを決めている。私たちはまだルーマンに追いついていないのだ。(25ページ)
例えば、ルーマンと同じ主題を後追いするA・ギデンズなどと読み比べると、それ[=議論の展開のさせ方、その深度の開き方が魅力的であること]はよりはっきりする。ギデンズは良識的であり(現代においてそれは決して無視できない次元(ディメンジョン)である)、現在の英語圏では例外的に深い社会学者でさえあるが、至高の密度の差はいかんともしがたい。(184-185ページ)
しかし佐藤先生は、ルーマンの理論には「裂け目」があり、ルーマンのシステム論は成り立たない(そして他のほとんど全ての理論はもっと成り立たない)と考えています(6ページ)。
佐藤先生のこのルーマン理解は、かつて長岡克行先生の『ルーマン/社会の理論の革命』(1996, 勁草書房)で徹底的に批判されました。この本はその長岡先生の批判への反論といった意味合いも大きいかと思います。
というわけで私もできるだけこの佐藤先生の本を丁寧に読もうとしましたが、私は長岡先生の『ルーマン/社会の理論の革命』を何度も読み返して自分のルーマン理解のよすがとしているせいか、どうも納得できないところが残りました。
具体的に言いますと、特に私は佐藤先生の「超越的」、「超越論的」のことばの使い分けがわからず、とまどっておりました。
佐藤先生のルーマン批判の一つの論点は、ルーマンのこの「超越(論)的」機制にあります。ですが、この本では、ルーマンの理論を記述・説明する際に、「超越的」、「超越論的」ということばが、ある所では「超越的機制」(例、24ページ)ある所では「超越論的機制」(例、5ページ)、あるいはある所では「超越的定義」(例、110、119ページ)ある所では「超越論的定義」(例、115ページ)、またある所では「超越的」(例、269ページ)あるところでは「超越論的」(例130ページ)・「超越論的視点」(例、59、62ページ)」といったように使い分けられています。
私は、この本を読む前に大黒岳彦先生の『<メディア>の哲学』(2006, NTT出版)を読んでおりました。そこで大黒先生は次のように「超越的」と「超越論的」の区別を説明しております。私はカント哲学も廣松哲学も十分に勉強したとは言えませんが、以下のような区別は少なくとも廣松渉先生のカント解釈では標準的なものかと思います(というより私は、このような区別がカントの「超越的」「超越論的」の標準的理解かと思っておりました)。[言い忘れておりましたが、大黒先生は廣松先生の薫陶を受けたそうです]
カントは、経験の対象の認識に限られる理性の認識能力を踏み越えて形而上学的対象(例えば「神[の存在]」「魂[の不滅]」「世界[の涯て]」)を認識使用とする試みを超越的(transzendent)として、厳しく批判しこれを斥ける一方で、経験を成り立たせている、その可能性の条件の究明、経験構造の分析(例えば経験の形式としての「時間」「空間」「カテゴリー」)に関しては経験対象の領野を踏み越えはするが超越論的(transzendental)と称し、これを認めたのだった。(243ページ)
しかしこの区別を使って、佐藤先生の「超越的」と「超越論的」の使い分けを理解することは私には不可能でした。私の読みが足りないのかもしれません。あるいは佐藤先生がカント以外の意味(例えばヘーゲル的な意味--私は勉強していないのでヘーゲル的意味についてはわかりません)で「超越的」「超越論的」の用語を使い分けているのかもしれません。
こういった理由で、残念ながら私は納得しながらこの本を読み終えることはできませんでした。
ある方が、ルーマン理論を理解しようとして、最初にこの本を読んだらさっぱりわからなかったと言っていましたが、この本は上で述べたように長岡先生の批判への再反論の部分が多い本ですから、ルーマンをこの本から理解しようとするのはやはり難しいかと思います。
私がルーマンの入門書として個人的に好んだのは、ゲオルグ・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、池野貞夫、野崎和義訳『ルーマン社会システム理論』(1995, 新泉社)と、長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』(1996, 勁草書房)です。特に後者は今まで四回読み返しましたし、あと数回は読み直すつもりです。大著ですが、この本を何度も読むことがルーマン理解にはよい方法でないかと個人的には思っています。
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