2008年12月1日月曜日

ノーマン・フェアクロー著、貫井孝典他訳 (2008) 『言語とパワー』大阪教育図書株式会社

PennycookはIntroduction to Critical Applied Linguisticsの中で、Norman Faircloughらの研究を高く評価しながらも、それらを"emancipatory modernism"と呼び、これらの研究が自らを問い返すことを怠っているかもしれないという懸念を表明しています。

今回この『言語とパワー』を初めて読んで(←勉強足りないぞ!)私もその懸念を共有すると同時に、一方でその理由だけでこの本を読まないのは明らかな間違いであり、言語教育に関係する人間は、やはり一度はこのような本をきちんと読んでおくべきだと痛感しました(反省)。今回この翻訳が刊行されたことで、日本の英語教育関係者のみならず国語や日本語あるいは他の言語の教育関係者も、この本に容易にアクセスできるようになることは、やはりありがたいことかと思います。

この本は、社会的パワー関係の生産・維持・変化において言語がもっている意味を理解し、言語が人の人に対する支配にどのように寄与しているかについての意識を高めることを目的としています(1ページ)。

しかし著者は自らを「社会主義者」と規定し(5ページ)、階級関係を「他の関係よりももっと根本的な位置にあるもの」(39ページ)と考えていることを明言し、その上でできるだけ学術的なアプローチを取ろうとしていることを明確に述べるなど、この本の政治的姿勢は鮮明です。

その結果として、著者は明快な分析を示します。


ディスコースとディスコース・オーダー:実際のディスコースは、社会的に形成されるディスコース・オーダー、つまり社会制度と関連する様々な慣習の集合、によって決定される。

資本主義社会における階級とパワー:ディスコース・オーダーは社会制度および社会全体の中のパワー関係によって、イデオロギーを基に形成される。

構造と実践の弁証法:ディスコースは社会構造によって決定されると共に社会構造に対して影響力をもち、それゆえ、社会の継続と社会の変化に貢献する。(19ページ)


教育に関する次のような指摘も、マルクスの遺産の上に立ってこそ言えるものかもしれません。


教育とは、子どもの自分を取り巻く環境に対する批判的意識と批判的な自己意識、そして自分の協同社会の形成と再形成に貢献する能力を発達させることである。
したがって、子供たちに、人間によって作り出され、人間によって変えられる社会環境のどの要素をも、まるでそれが自分たちが制御できない自然環境の一部であるかのように示すことは教育ではない。しかし、伝統的に学校で伝えられてきたのは、まさに、言語に対するそのような疎外的な見解なのである。(291ページ)


また第二版で追加された章での次のような時代分析も、マルクスの問題意識を継承する中で培われたものかもしれません(この本の原書は第一版が1989年に、第二版が2001年に刊行されています)。


多くの批判研究が、現在、新自由主義批判を中心に収束しつつある。私の考えでは、ここが、批判的談話分析がまた、新自由主義的新世界秩序をめぐる現在の闘争にその努力を集中すべきところなのである。新しい資本主義の結果である人間の共同体と自然資源の大規模な破壊が、それが作り出す富みによって正当化されるか否か以上に大きな問題は存在しない。(318ページ)


しかしこういったアプローチは「偏っている」のではないかとの批判に対して、フェアクローは次のように言います。

批判的社会研究を、偏っていると批判する人たちがいる。もちろん、解放のための知識的関心に献身的に関わることは、実際に、一方の側に立つことを意味する。しかし、学術的研究の中立性に関する錯覚は、確かに、現在までに粉砕されるべきであった。過去20年間にわたり、大学は、経済を支配している人たちの要求を満たすための先例のないほどの社会生活の動員の一部として、ますます公然と新しいグローバル経済の片腕になるよう変貌してきた。大学や他のレベルでの教育とは、ますます還元主義的な考え方で、人々を仕事に備えさせるべきであると見なされている。資金を提供されている研究のほとんどが、企業や政府のための国家的優先事項として指定されている分野のものである。(318ページ)


とはいえ、「批判的談話分析」(批判的言説分析=Critical Discourse Analysis)の「解答」が随所で示され、「批判的言語認識」(=Critical Language Awareness)が、「支配者集団に対する抑圧された社会的集団の闘争の一部として、支配的なディスコース・オーダーに挑戦し、突破し、最終的には変容させるかもしれない『解放のディスコース』の進行役なのである」(292ページ)と宣言されると、私はその主張の妥当性は認めながらも、それほどに単純に考えてしまっていいのかと躊躇してしまいます。

パワー関係をそれほど単純な関係に還元してしまっては、かえって共感・理解してくれる読者を遠ざけ、本来このような本が目指している読者層をますます遠ざけてしまうのではと懸念してしまいます。この強力な図式ゆえに私たちが見落としてしまう現象もあるのではないかと思ってしまいます。私たちはもっと精妙に考えなければならないのではないでしょうか(それとも私がこの本を粗雑に読んでいるだけでしょうか)。

この本の第五章で示されている分析記述の枠組みなど(ここからダウンロード。著作権保護のためパスワードは授業の受講生だけに教えます)は、もっと自由に使われるべきかとも思います。これはCritical Discourse Analysis/Critical Language AwarenessがDiscourse Analysis/Language Awarenessの連続体であることを明らかに示している枠組みであると思えます。極端な話、この枠組みとその使用例を知るだけでもこの本を読む価値はあるかと思います。こういった枠組みからは、上記のような問題意識に限らず、様々な問題の分析が可能だろうと考えるからです。また私たち文章の書き手も、このような枠組みで自らの文章表現を振り返ることができるかと思います。いや、高校教師は、読解の授業の発問作りにこの枠組みを活用することができるでしょう。この翻訳書もしくは原書での一読をお勧めします。


⇒アマゾンへ



⇒アマゾンへ(原書)








Google




Search in WWW
Search in Yanase's current Japanese blog

(注:エンコードはUTF-8を使っています)




0 件のコメント: