3 法則の限界
3.1 英語教育関係者の述懐
ここではまず、ある英語教師の述懐を聞いてみましょう。ポイントは、教育実践に「誰がいつやってもうまくゆく法則」なんてないのではないかということです。
私が初任の時のこと。卒業式の後に、卒業生や中退をしたものが、学校の回りをバイクや車で「パレード」したことがあった。その時に、とある先生(卒業生の担任)がその生徒たちのところに行き、何かを話したところ、車に同乗していた生徒はその車から降り、運転していたものは学校から離れていった。
その光景を職員室から見ていたときに、「あの先生はどんな話を生徒にしたのでしょうか?」と畏兄S先生に尋ねたところ、「ことばが問題なんじゃなくて、日頃の関わり方、今までの流れが大切なんじゃないの?」と逆に問われ、恥ずかしいやら、納得するやらの気持ちになった。
同じ言葉を、人間関係が出来ていない先生がいったところで、誰も生徒はいうことを聞かない。「何をかっこつけているんだよ」「うるせー」といわれて、お終いかもしれないなぁ。(中略)
これは、1つの例だけど、普段のブログに英語教育(教育)に普遍的な科学性なんてありっこないと私が書いているのは、そんな理由。特にポジティブな意味での生徒指導の面でそれは如実に表れてくる。そして、その生徒指導の延長線上に授業がある場合、これは「底辺校」がその傾向が強いのだろうが、さらにその関係は強くなってくる。(中略)
つまり、授業とはそれだけを見ても全てを伝えていない、ということです。日頃の人間関係がどうなっているのか、ということを見ずして、授業だけを見てもそれは理解できない。原稿用紙に書いてみれば同じセリフになったとしても、誰がいうかでその意味は変わってくる。"Repeat after me."にしたって、誰がいうかで変わってくる。
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/07/post_6a50.html
他方、丹念に科学的アプローチを重ねる英語教育研究者からも、少なくとも英語学習や英語教育といった複雑な現象には、単純な法則把握は適切ではないという自覚も芽生えてきました。
科学的な研究が進むにつれてますます明らかになってきているのは、外国語習得は「○○すれば○○する」といった短絡な図式で語れるほど単純なプロセスではないということです。しゃべれなかった英語がしゃべれるようになるのは、私たちの頭の中に何らかの「変化」が起こっているからです。その変化は膨大な数の因子が相互に作用しあうことによって起こる実に複雑なものです。一つの原因が一つの結果を招くというような単純な見方で、外国語習得という現象を捉えることはできません
羽藤由美『英語を学ぶ人・教える人のために』世界思想社(iiページ)
3.2 「超先進分野」としての医療に学ぶ
医療という実践は、医学という、応用言語学やSLAとは比較にならないほどに発展した科学を背景に持ち、英語教育に比べてはるかに重要度と緊急度において優るものです。そういった私たちにとっての「超先進分野」に学んでみましょう。
最初は虎ノ門病院泌尿器科部長の医師による「医療とは不確実なものでしかない」というリアリズムです。小松秀樹『医療の限界』新潮新書からの引用です。
医療とは本来、不確実なものです。
しかし、この点について、患者と医師の認識には大きなずれがあります。
患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴なってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい医療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護婦はたとえ過酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。
しかし、医師の考え方は違います。人間の体は非常に複雑なものであり、人によって差も大きい。医学は常に発展途上のものであり、変化しつづけている。医学には限界がある。(中略)
医療行為は不確実です。医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療を行っても、結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識です。(21-22ページ)
彼は患者が不確実性を受け入れられない理由の一つに、私たちの浅薄な「因果理解」があると考えます。
他にも不確実性を受け入れられない原因があります。一つには因果律についての知識の欠如がある。例えば、同じ医療行為の結果は、確定せず、確率的に分散します。しかし、原因と結果が一対一の関係にあり、結果から原因を特定できるというドグマが、メディアや、あろうことか、裁判官まで支配しています。(36ページ)
先進分野である医療でさえ、このような状態なのに、私たち英語教育関係者も、患者のように「善い医師による正しい医療」を過剰に求めていないでしょうか。そして多くの英語教育研究者も単純な因果律しか持ちえていないのではないでしょうか。
ある医療ジャーナリストは、医者としての成長は、医学が不確実であることを理解した上で、そこから臨床家・実践者として経験を重ねてゆくことだとまとめます。
医学部を卒業したばかりの医者と三十年間も臨床医学をやってきた医者では、病気や医療に対する考え方はまったく違っている。
医者になったばかりのころは、もちろん臨床経験がないので、学んできた医学的知識と数値で患者を診ることしかできない。
それが優先されてくると、数値で患者を評価することが可能だと信じてしまう。
それは前述してきたように、いまの医学は細分化し、細胞、遺伝子というレベルで病気を論じていて、なかなか、患者が人間としてもっとダイナミックなものであると気が付けなくなってしまう。
六年間の医学教育では、どうしても検査や数値優先の教育になってしまい、最近でこそ臨床診断できる医者や、患者への思いやりという教育もしているが、それも実体験ではないので、知識として持っていることは難しい。
若い医者に患者が不満を持ってしまうのは、そのあたりの視点が問題になるのだ。
しかし、医者も三十年くらい続けているとほとんどが同じ結論に達してくる。
それは医学の限界と、西洋医学以外の存在を肯定するようになること、医者は患者から学ぶべきことが多いと気が付くのだ。
医学部教授の退官記念のエッセイ、あるいは退官後に書かれた文章などにそれが非常に多い。数十年も臨床医学をやればやるほど医学の不十分さを理解することになる。高齢の医者の価値はそこにあり、それを患者が求めるのだ。
医学が不確実であることを理解している医者こそ、患者が求める医者なのではないだろうか。若い医者をいかにそこまで教育していくかが、重要であろう。
米山公啓(2005)『医学は科学ではない』ちくま新書(183-185ページ)
ある医師は、科学を超えた実践者の経験における「感覚」の重要性を説きます。
複雑なものを複雑なままで扱うことは、科学という方法論を用いる限り難しい。「複雑」という考え方自体が、分解分析を前提としている。事象を分解せずにそのまま扱う方が、実は理解しやすいし、効果も大きいのかもしれない。ただ、それは測定ということができないから、程度がわからない。程度がわからなければ進歩はわからない。進歩がわからなければ評価ができない。評価ができない方法は、現代社会ではなかなか認められない。責任問題も絡む。普通はそのように考える。そのような理由から、全体を全体のまま扱うことは難しいとされ、敬遠されてきた。
それを扱えるのが「感覚」である。感覚をうまく用いれば、事象を分解せずにそのまま扱うことができる。一方、そこでは数字の上下による評価と満足は諦めなくてはならない。また、そこで得られることがらも、進歩や発展という概念では扱えないかもしれない。しかしそれは、現代社会の数字による一元的価値観から多元的価値観への転換のきっかけになる可能性を含んでいるように思える。事象への全体的な感覚的掌握は、人間の心の幸せにもつながるものなのかもしれない。
清水宣明・甲野善紀『斎の舞へ(いつきのまいへ)』 仮立舎(127ページ)
このように「超先進分野」の医療でさえ、法則定立的アプローチに明らかな限界があるのなら、英語教育においても法則定立的なアプローチに基づく科学的授業研究は、全面否定の必要こそないにせよ、その限界を明らかに認識しなければなりません。実際、応用言語学の分野でも、こういった問題意識を漠然と感じたのか、次の授業研究の波が生じます。次はそのアクション・リサーチについて考えてみましょう。