2007年6月30日土曜日

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 1/10

以下は下記の講演の当日配布資料です。参考文献の提示など一部完全ではないところがありますが、とりあえず公開しておくことにします。

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200771日(日)

英語授業法研究学会(英授研)

関西支部 第18回春季研究大会

講演(15201700

技でもなく、アクション・リサーチでもなく
私たちのExploratory Practice—

柳瀬陽介(広島大学)

yosuke@hiroshima-u.ac.jp

http://yanaseyosuke.blogspot.com/

http://yosukeyanase.blogspot.com/

素朴な問いかけ

私たちは英授研などで、一体何をやっているの?

これまでの「授業研究」なんて役立つの?継続可能なの?

帰ったら一人、結構、落ち込むこともあるんですけど。

「授業力」ってそもそも何さ?

『すぐれた英語授業実践』(大修館書店)はどんな試みなの?

「英語授業法研究学」ってありうるの?

0 今日のお話の骨組み

0.1 授業力とは何か:言語コミュニケーション力のアナロジー

0.2 科学的研究とは何だったのか(授業研究その1

0.3 「法則」の限界

0.4 アクション・リサーチとは何だったのか(授業研究その2

0.5 アクション・リサーチの問題点?

0.6 Exploratory Practiceとは何なのか(授業研究その3

0.7 授業実践の理解とは何か:生態学的・存在論的アプローチ

0.8 授業研究リテラシー

0.9 改めて学問とは

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 2/10

1 授業力とは何か:言語コミュニケーション力のアナロジー

1.1 言語コミュニケーション力とは

 ここでは授業という一連の行動を行う複雑なことを、コミュニケーションのために言語を発話するという比較的単純なことに喩えてみます。授業もコミュニケーション発話も、状況に応じて、一時に一つのことを選択して行ない続けるという点で似ています。ここでは、時間の流れをsyntagmatic sequenceと、ある時点で選択する幅をparadigmatic selectionと呼ぶことにします。

1.1.1 発話の構成要素とは?

 発話の構成要素は語です。語を時間ごとに並べるのがsyntagmatic sequenceです。ある時点で選ぶ語の選択の幅がparadigmatic selectionです。例えば、I like X.というsyntagmatic sequenceを決定したら、Xにはfruits, sports, music, readingなどのparadigmatic selectionが考えられます。

1.1.2 発話を決定するとは?

 発話を決定するとは、状況にあわせて適切なsyntagmatic sequence(平叙文、否定文、疑問文など)を決め、その主要語のところで適切なparadigmatic selectionを行うことです。言語コミュニケーション力とは、このように状況に適切なsyntagmatic choiceparadigmatic choiceを行えることと定義します。

1.2 授業力とは?

 授業力は、言語コミュニケーション力の喩えからすると、学習の状況に適した授業の組み立て方(時間軸、syntagmatic sequence)を決めて、その重要な展開の時点で、さらにそこで最も適切と考えられる行動を一連の選択の範囲(paradigmatic selection)の中から決定してゆくことと定義できます。

1.2.1 授業の構成要素とは「技」

 授業の構成要素をここでは「技」と呼ぶことにします。仮に授業の時間軸(syntagmatic sequence)を、Greeting/warm-up, presentation, practice, productionと決定したら、その展開の時点ごとに選択の幅(paradigmatic selection)の中から、最も適切な「技」を選びます。もちろんGreeting/warm-upの「技」、presentationの「技」、practiceの「技」、productionの「技」が豊富であれば、最適な授業行動を行える確率も高くなります。またその「技」を時間軸に並べる授業の展開パターン(syntagmatic sequence)が豊富であっても、最適な授業行動を行える確率が高くなります。

 そうは言っても、まずは選択肢を多くする前に、一つ一つの「技」の質を高めることが必要です。新人教師は特に、英語力(正確で適切な英語を流暢に使える力)やプレゼンテーション力(大人数の生徒の前での立ち居振る舞い方)、そして何よりも授業内容の教材研究を高度なものにする必要があります。こういった「技」を身につけることは、授業力の重要な必要条件ですし、英語力とプレゼンテーション力をつける訓練はベテランも欠かすべきではありませんが、これだけで授業力の全てとするわけではありません。

1.2.2 授業を決定する「教師の思考と判断」

 ALT並みの英語力と芸人なみプレゼンテーション力、そして学者顔負けの教材理解を持っていても、必ずしもいい授業ができるわけではありません。また、やたらと授業のsyntagmatic and paradigmatic choicesを変化させて異なる授業ばかり行ってもいい授業であるわけではありません。「技」のレパートリーが多いだけではよい授業ができるかどうかはわかりません。教師は独自の「思考と判断」によって、自分がこれまでに練習してきた技を組み合わせて、その学習状況に適した授業を決定する必要があります。以下はある熟練英語教師の述懐です。

 楽しい活気にあふれた授業をしてやりたいという善意からなのだけれど、教師は「いいクラス」を基準にして、授業はかくあらねばならないという思いを持ちがちである。その基準があると教師はどこかで生徒にむかって「このクラスはだめ。授業しにくい」というメッセージを送ってしまっているのだと思う。反応のないクラスを「いいクラス」に近づけようとして意図的に誉め言葉を多くしても、無意識の内に一方でそういうマイナスのメッセージを送っていると、生徒はどこかで嘘っぽさを感じてしまい、彼らの気持ちは教師に対して閉ざされていくだけだろう。

(中略)

 中学や高校では同じ教材で同じ授業計画で数クラスを教えるのが当たり前のようになっていて授業準備の効率を考えればそれでもいいのだけれど、のりの悪いクラス用の授業をたててもいいと思う。授業のし易い活発なクラスに近づけようとするのでなく、そのクラスに合わせて授業の方法や手順を考える。同じ方法をとる場合はそのクラスにどこまで期待するか明確に意識しておく。(中略)教室で取り組む活動が多彩だと不思議なことに「どの活動についても一番よくできるクラス」というのがないのである。必ずそのクラスに合った活動があり、その時を捉えて心からほめるこれをどのクラスに対してもしたいものである。

岩本京子『現代英語教育』199712月号

もちろん、これは一つ一つの「技」の確かさがあってのことです。しかし、その技も適切な思考と判断で選択されなければなりません。次も、ある熟練英語教師の言葉です。

 職人技とは、難しいことをあたかも簡単に行い、カン(当てずっぽうではない)で正しい判断をすることができる、熟練技です。この技は、いろいろな流儀があるようで、例えば寿司職人などは、いろいろな握りがあると聞きました。調理人の塩コショウの加減、左官職人の水加減など、職人技は色々なところで見ることができます。

 この職人技は一朝一夕に習得できるものではなく、基本的な技術に裏打ちされたものです。仕事が終わってから、自分の修行に費やす時間も、特に見習いのうちは、多いようです。

 これは教員も同じこと。授業には完全なマニュアルなどありません。今日は1時間目だからわざとハイテンションで行こう、3時間目だから落ち着いて授業に入ろう、5時間目だから途中で気分転換を入れようなど、何時間目にあるかによって気持ちを変えます。それ以外にも、クラスのこの頃の雰囲気は上がり調子なのか下り調子なのか、良いことがあったのかイヤなことがあったのかなどなど、いろいろな情報を授業のベースにします。

 授業の前に、正直申し上げて、私は怖さを感じるときがある。恐怖ではなく、畏れです。だから、授業の準備はしっかりと行うし、指導案を書かなくても、頭の中で流れを確認します。授業中には、生徒が私の説明でしっかりと理解できているか、説明にもれはないか、この手順で良いのかと、メタ認知を働かせます。こういう基本的なことがあってこそ、「生徒の実態に応じた授業」「生徒が分かると考えられる授業」が成立すると私は信じています。

 経験を積み重ねれば、イヤでも教師としての「技」は身に付いてきます。それを、他の人がまねをしようとしてもうまくいくはずがありません。まずは、基本に忠実に授業を行うことが大切なのでしょう。基本をおろそかにして、他の先生の職人技のまねをしたところで、それは自分のものではなく、うまくいくはずがないんです。

http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2007/06/post_ba6f.html

 こうして見ますと、授業力とは、(1)一つ一つの確かな「技」を身につけることと、(2)それらの「技」を適切に選択し組み合わせることができる思考力と判断力を身につけることの二つの要素から構成されていることなります。(1)については他所でも多くのワークショップがなされていますから、本日は(1)の「技でなく」、(2)の教師としての思考力や判断力をどうやって培うかということを考えたいと思います。主に考えたいのは「授業研究」は思考力や判断力を培うのに役立つのかということです。「授業研究」としては、これまでの「科学的研究」と「アクション・リサーチ」について考察し、次に2000年代に注目され始めたExploratory Practiceについて考察します。

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 3/10

2 科学的研究とは何だったのか(授業研究その1

2.1 応用言語学での科学的授業研究

 1970年代には「授業分析」、80年代には記述的授業研究が隆盛。できるだけ「科学的」にアプローチしようと試みる。

2.2 科学的授業研究の背景となる考え

Allwright (2006)Six Promising Directions in Applied Linguisticsという論文で、これまでの応用言語学の流れを大きく次の六点でまとめている。下線部を引いたところで、応用言語学の当初の科学的アプローチの考え方が伺える。

1. From prescription to description to understanding

2. From simplicity to complexity

3. From commonality to idiosyncrasy

4. From precision to scattergun

5 From teaching and learning as ‘work’ to teaching and learning as ‘life’

6. From academics to practitioners as the knowledge-makers in the field

In Simon Gieve and Inés K. Miller (Eds.)

Understanding the Language Classroom

New York: Palgrave Macmillan, pp. 11-17.

つまり、授業研究とは、規範となる授業を記述し、それを単純化して、一般的な法則を精確に把握することであり、これにより研究者が教師に「仕事」としての授業法を教えることができるという考え方である。しかしこのような「法則定立的」(nomothetic)なアプローチは、そもそも授業といった臨床的な現象に対して適切なアプローチだったのでしょうか。

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 4/10

3 法則の限界

3.1 英語教育関係者の述懐

 ここではまず、ある英語教師の述懐を聞いてみましょう。ポイントは、教育実践に「誰がいつやってもうまくゆく法則」なんてないのではないかということです。

 私が初任の時のこと。卒業式の後に、卒業生や中退をしたものが、学校の回りをバイクや車で「パレード」したことがあった。その時に、とある先生(卒業生の担任)がその生徒たちのところに行き、何かを話したところ、車に同乗していた生徒はその車から降り、運転していたものは学校から離れていった。

 その光景を職員室から見ていたときに、「あの先生はどんな話を生徒にしたのでしょうか?」と畏兄S先生に尋ねたところ、「ことばが問題なんじゃなくて、日頃の関わり方、今までの流れが大切なんじゃないの?」と逆に問われ、恥ずかしいやら、納得するやらの気持ちになった。

 同じ言葉を、人間関係が出来ていない先生がいったところで、誰も生徒はいうことを聞かない。「何をかっこつけているんだよ」「うるせー」といわれて、お終いかもしれないなぁ。(中略)

 これは、1つの例だけど、普段のブログに英語教育(教育)に普遍的な科学性なんてありっこないと私が書いているのは、そんな理由。特にポジティブな意味での生徒指導の面でそれは如実に表れてくる。そして、その生徒指導の延長線上に授業がある場合、これは「底辺校」がその傾向が強いのだろうが、さらにその関係は強くなってくる。(中略)

 つまり、授業とはそれだけを見ても全てを伝えていない、ということです。日頃の人間関係がどうなっているのか、ということを見ずして、授業だけを見てもそれは理解できない。原稿用紙に書いてみれば同じセリフになったとしても、誰がいうかでその意味は変わってくる。"Repeat after me."にしたって、誰がいうかで変わってくる。

http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/07/post_6a50.html

 他方、丹念に科学的アプローチを重ねる英語教育研究者からも、少なくとも英語学習や英語教育といった複雑な現象には、単純な法則把握は適切ではないという自覚も芽生えてきました。

 科学的な研究が進むにつれてますます明らかになってきているのは、外国語習得は「○○すれば○○する」といった短絡な図式で語れるほど単純なプロセスではないということです。しゃべれなかった英語がしゃべれるようになるのは、私たちの頭の中に何らかの「変化」が起こっているからです。その変化は膨大な数の因子が相互に作用しあうことによって起こる実に複雑なものです。一つの原因が一つの結果を招くというような単純な見方で、外国語習得という現象を捉えることはできません

羽藤由美『英語を学ぶ人・教える人のために』世界思想社(iiページ)

3.2 「超先進分野」としての医療に学ぶ

 医療という実践は、医学という、応用言語学やSLAとは比較にならないほどに発展した科学を背景に持ち、英語教育に比べてはるかに重要度と緊急度において優るものです。そういった私たちにとっての「超先進分野」に学んでみましょう。

 最初は虎ノ門病院泌尿器科部長の医師による「医療とは不確実なものでしかない」というリアリズムです。小松秀樹『医療の限界』新潮新書からの引用です。

 医療とは本来、不確実なものです。

 しかし、この点について、患者と医師の認識には大きなずれがあります。

 患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴なってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい医療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護婦はたとえ過酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。

 しかし、医師の考え方は違います。人間の体は非常に複雑なものであり、人によって差も大きい。医学は常に発展途上のものであり、変化しつづけている。医学には限界がある。(中略)

 医療行為は不確実です。医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療を行っても、結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識です。(21-22ページ)

 彼は患者が不確実性を受け入れられない理由の一つに、私たちの浅薄な「因果理解」があると考えます。

 他にも不確実性を受け入れられない原因があります。一つには因果律についての知識の欠如がある。例えば、同じ医療行為の結果は、確定せず、確率的に分散します。しかし、原因と結果が一対一の関係にあり、結果から原因を特定できるというドグマが、メディアや、あろうことか、裁判官まで支配しています。(36ページ)

 先進分野である医療でさえ、このような状態なのに、私たち英語教育関係者も、患者のように「善い医師による正しい医療」を過剰に求めていないでしょうか。そして多くの英語教育研究者も単純な因果律しか持ちえていないのではないでしょうか。

 ある医療ジャーナリストは、医者としての成長は、医学が不確実であることを理解した上で、そこから臨床家・実践者として経験を重ねてゆくことだとまとめます。

 医学部を卒業したばかりの医者と三十年間も臨床医学をやってきた医者では、病気や医療に対する考え方はまったく違っている。
 医者になったばかりのころは、もちろん臨床経験がないので、学んできた医学的知識と数値で患者を診ることしかできない。
 それが優先されてくると、数値で患者を評価することが可能だと信じてしまう。
 それは前述してきたように、いまの医学は細分化し、細胞、遺伝子というレベルで病気を論じていて、なかなか、患者が人間としてもっとダイナミックなものであると気が付けなくなってしまう。
 六年間の医学教育では、どうしても検査や数値優先の教育になってしまい、最近でこそ臨床診断できる医者や、患者への思いやりという教育もしているが、それも実体験ではないので、知識として持っていることは難しい。
 若い医者に患者が不満を持ってしまうのは、そのあたりの視点が問題になるのだ。
 しかし、医者も三十年くらい続けているとほとんどが同じ結論に達してくる。
 それは医学の限界と、西洋医学以外の存在を肯定するようになること、医者は患者から学ぶべきことが多いと気が付くのだ。
 医学部教授の退官記念のエッセイ、あるいは退官後に書かれた文章などにそれが非常に多い。数十年も臨床医学をやればやるほど医学の不十分さを理解することになる。高齢の医者の価値はそこにあり、それを患者が求めるのだ。
 医学が不確実であることを理解している医者こそ、患者が求める医者なのではないだろうか。若い医者をいかにそこまで教育していくかが、重要であろう。

米山公啓(2005)『医学は科学ではない』ちくま新書(183-185ページ)

 ある医師は、科学を超えた実践者の経験における「感覚」の重要性を説きます。

 複雑なものを複雑なままで扱うことは、科学という方法論を用いる限り難しい。「複雑」という考え方自体が、分解分析を前提としている。事象を分解せずにそのまま扱う方が、実は理解しやすいし、効果も大きいのかもしれない。ただ、それは測定ということができないから、程度がわからない。程度がわからなければ進歩はわからない。進歩がわからなければ評価ができない。評価ができない方法は、現代社会ではなかなか認められない。責任問題も絡む。普通はそのように考える。そのような理由から、全体を全体のまま扱うことは難しいとされ、敬遠されてきた。
 それを扱えるのが「感覚」である。感覚をうまく用いれば、事象を分解せずにそのまま扱うことができる。一方、そこでは数字の上下による評価と満足は諦めなくてはならない。また、そこで得られることがらも、進歩や発展という概念では扱えないかもしれない。しかしそれは、現代社会の数字による一元的価値観から多元的価値観への転換のきっかけになる可能性を含んでいるように思える。事象への全体的な感覚的掌握は、人間の心の幸せにもつながるものなのかもしれない。

清水宣明・甲野善紀『斎の舞へ(いつきのまいへ)』 仮立舎(127ページ)

 このように「超先進分野」の医療でさえ、法則定立的アプローチに明らかな限界があるのなら、英語教育においても法則定立的なアプローチに基づく科学的授業研究は、全面否定の必要こそないにせよ、その限界を明らかに認識しなければなりません。実際、応用言語学の分野でも、こういった問題意識を漠然と感じたのか、次の授業研究の波が生じます。次はそのアクション・リサーチについて考えてみましょう。

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 5/10

4 アクション・リサーチとは何だったのか(授業研究その2) 

4.1 英語教育におけるアクション・リサーチ

 日本の英語教育界では1990年代中頃から、従来の科学的授業研究に比べて、はるかに実践者の「アクション」を重視するアクション・リサーチが脚光を浴びました。実際、最近刊行されたこの英授研メンバーによる『すぐれた英語授業実践』(大修館書店)でも高橋先生は、エピローグの「授業改善への具体的指針」でアクション・リサーチを薦めておられます。そのプロセスは次のようにまとめられています。

(1) Problem Identification

(2) Preliminary Investigation

(3) Research Question

(4) Hypothesis

(5) Plan Intervention

(6) Outcome

(7) Reporting

(8) Follow-up

4.2 アクション・リサーチの背景となる考え方

 アクション・リサーチは科学的授業研究に比べてはるかに実践的ですが、背後に次のような考えがあるように思えます。

1 教育工学的アプローチ:あくまでも「問題」を見つけてそれを「解決」しようとしている。

2 擬似実験計画法:統制群なしで複数の仮説を確かめようとする。「複雑性」の認識が中途半端ではないか。

⇒つまり、科学的研究では、「一つの問題に一つの仮説」を立てて、その「法則」を「実験で証明」しようとしているが、アクション・リサーチではしばしば「一つの問題に複数の仮説」を立てて、その「問題解決」を「実践で実証」としている。しかしこれはまだ「実験計画法」の考え方に引きずられすぎていないか?現実は「複数の問題に複数の仮説」があり、私たちはそれを探究的に理解しようとしているのではないか?

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 6/10

5 アクション・リサーチの問題点?

 こうしてみると、アクション・リサーチには次のような問題点があるとも考えられます。

5.1 深い理解なしの「問題」設定

 深い理解なしの「問題」設定(=問題意識の固定化)は危険。例、コミュニケーションを取れない生徒は「問題」か?⇒教師の浅い理解?全体の理解の方が重要なのでは?

5.2 「仮説検証」への傾斜

 日本語教育の横溝先生は、英語教育で主流のアクション・リサーチを「仮説検証型AR」、日本語教育で試みられているアクション・リサーチを「課題探究型AR」と対比している。日本の英語教育のアクション・リサーチはリフレクションを重視していないのではないか?

横溝紳一郎(2004)

「アクション・リサーチの類型に関する一考察:仮説-検証型ARと課題探究型AR

JALT日本語教育論集』第8(pp. 1-10)

5.3 「アクション」や「プロジェクト」の重視

 教育界への競争原理の導入で、地道な実践よりも、目立つプロジェクトが重んじられるようになった。また、プロジェクトやアクションは、「説明責任」(アカウンタビリティー)によって、結果が目に見えるものでなくてはならないというプレッシャーが強くなった。

5.4 持続困難なアクション・リサーチ

 日常業務に加えて、プロジェクトやアクションを行う(行わなければならない)教員が心身消耗状態になってしまうことは珍しくない。

 アクション・リサーチの全てが悪いなどという暴論は言いませんが、より現実的な授業研究のあり方はないものでしょうか。次に、「アクション・リサーチでもない」授業研究の新しい波、Exploratory Practiceについて検討しましょう。

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 7/10

6 Exploratory Practiceとは何なのか(授業研究その3

6.1 Dick Allwright先生を中心とした動き

 Exploratory Practice(仮訳「探究的実践」)は、特に2000年代から、(元)ランカスター大学のDick Allwright先生を中心にして提唱されました。日本では兵庫教育大学の吉田達弘先生が早い時期から研究を進めています。本日はその発展の詳細は割愛します。

Allwright, D. (2003).

Exploratory Practice: Rethinking practitioner research in language teaching.

Language Teaching Research, 7 (2), 113-141.

Allwright, D. (2005)

Developing principles for practitioner research: The case of ExploratoryPractice.

The Modern Language Journal, 89 (iii), 353-366.

Gieve, S. and Miller, I. K. (eds.) (2006).

Understanding the Language Classroom.

Hampshire, United Kingdom: Palgrave Macmillan.

6.2 Exploratory Practiceの対比的理解


Scientific Research

Action Research

Exploratory Practice

隆盛時期

1980年代

1990年代

2000年代

目的

一般法則発見

問題解決

理解の深化

思考法

一つの問題に一つの仮説。法則を実験で証明。

一つの問題に(しばしば)複数の仮説。問題解決を実践で実証。

複数の問題に複数の仮説。問題群を探究し、理解を深める。

世界観

一般的因果性

個別的因果性

個性的複雑性

方法

実験計画法

擬似実験計画法(?)

特に定めない

学問的背景

個人心理学

教育工学

生態学的言語習得論

学習観

認知行動

仕事

Life

重視すること

厳密性

アカウンタビリティー

Quality of Life

結果

規範提示(prescription

記述(description)

相互の成長

研究者

三人称の中立的存在

一人称の単数

一人称の複数

学習者

データ源

データ源

協働実践者

研究期間

断続的に短期

縦断的に中期

持続可能に恒常的

研究者と実践者の関係

研究者が実践者に指示

研究者が実践者を兼任

実践者が研究者となる

研究の主な公表対象

学会誌

利害関係者

当事者および当事者に共感する者

デメリット

教育への介入が過剰あるいは不適切になる

アクションの自己目的化・過剰負担化

自己満足に終わりかねない

⇒私たちは科学的授業研究よりもアクション・リサーチ、アクション・リサーチよりもExploratory Practiceを優先させるべきではないだろうか。

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/05/exploratory-practice.html

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7 授業実践の理解とは何か:生態学的・存在論的アプローチ

 Exploratory Practiceが、一般法則発見や問題解決ではなく、理解の深化を目的にするといっても、その「理解」とは何かについて私たちが明晰な考えをもっていなければ、Exploratory Practiceとは無作為の自己満足を意味するだけともとらえられかねません。ここでは実践における「理解」を、生態学的アプローチと、存在論的アプローチの二点からまとめます。

7.1 生態学的アプローチ

 生態学的アプローチ(ecological approach)とは、近年応用言語学でも注目されているアプローチですが、その要点は、世界の内での複雑な相互作用の中で生きている様を、できるだけそのまま忠実に生きたまま捉えようとすることかとまとめられると思います。ここではvan Lier先生のまとめを引用します。

 van Lier先生は、言語・言語使用・言語習得を考える際にも、それが人々と世界の関係の中での現象であることを忘れてはならないと強調します。言語使用・言語習得の際も、環境は人間に「アフォーダンス(affordance)」(仮に「誘発要因」と訳してみます)を提供します。その「アフォーダンス」に誘発されて、人間は発話をします。「アフォーダンス」を適確に読み解いて、それらに応じて自らの適切な反応をすることができているのが「理解」だと考えられます。

Ecological linguistics (EL) focuses on language as relations between people and the world, and on language learning as ways of relating more effectively to people and the world. The crucial concept is that of affordance, which means a relationship between an organism (a learner, in our case) and the environment, that signal opportunity for or inhibition of action. The environment includes all physical, social and symbolic affordances that provide grounds for activity. (pp. 4-5)

 話が抽象的になりすぎてもいけませんので、ここで具体例を入れます。例えば、リーディングの授業でも、旧来の想像力に欠けた授業方式で、テキストの冒頭から「はい、読んで訳しなさい」なら、相当に受験に向けてモティベーションの高い生徒でもない限り、なかなかに学習が進みません。しかしうまい英語教師は、テキストや教室空間をアフォーダンスに満ち溢れるものに変換させ、生徒を言語使用・学習に熱中させます。例えば中嶋洋一先生です。ある実践で中嶋先生はAのグループにはネパールの中学生に関する英文を、Bのグループには韓国の中学生に関する英文を読ませます。そうして中嶋先生は、「それぞれ読んで、『ああ、そうなんだ』と思い、ぜひ隣のグループの友達に知らせたいと思った箇所にアンダーラインを引いてください」と指示を出します。テキストが、一方的に与えられるだけの教材から、ネパールあるいは韓国の同年代の少し異なるライフスタイルを教えてくれるかもしれない環境に変わります。個々人がただ座っているだけの無機的な教室空間が、生徒の話を聞いて、驚いてくれるかもしれない友達が待つ空間に変わります。実際、中嶋先生のクラスでは中学生は夢中になって英語を読み、話そうとしていました。環境への能動的なアクセスをうまく促して、その環境の中で活動に従事することの大切さはもっと強調されてもいいのかもしれません。

 教師の学習者理解も、学習者をもっぱら抽象的な「学習データ産出者」として捉えるのではなくて、学習者がそれぞれに自分自身の世界での「アフォーダンス」をどのように捉え、それらにどのように応えようとしているのかという全人格的理解であるべきです。授業実践の理解も、教室はどのようなアフォーダンスに満ちて、それぞれの登場人物はそれらにどのように応えようとしているかという教室の生態をそのまま受け止めるべきでしょう。生態学的アプローチはそのような理解概念と親和性が高いものです。

Good teachers of course always see their students as whole persons, but at times they are almost forced into seeing their students as potential test scores, in the name of standards and accountability. An ecological and sociocultural perspective helps to provide a counter-balance and new arguments against the commercialization of schooling. (p. 17)

Leo van Lier (2004)

The Ecology and Semiotics of Language Learning

Kluwer Academic Publishers: Boston

7.2 存在論的アプローチ

 理解とは、環境のアフォーダンスを適確に読み解き、それに自分らしく反応できること、という理解概念の前触れは、ハイデガーの『存在と時間』にみられる人間の「存在論」の議論に既に登場しています。わかりやすく少し言い換えますと、実践者は、自らの実践的理解について流暢に語れないことも多いが、彼/彼女は、「生活世界」において適切な行為ができる。これが彼/彼女の理解の証左であるということです。

http://yosukeyanase.blogspot.com/2007/05/understanding-understanding.html

 理解とは、世界の内で行為できること、生きること、存在することです(ハイデガーは、理解とは「現存在」(=人間)の「存在様式」(=この世にかく在るあり方)であると述べます)。もし理解が世界内に存在することだとすれば、「理解」そのもの(=この世に存在すること)と、「理解の表象」(=理解を言語化したもの)は同じものではないということになります。言語表現は、それが表現するものそのものではありえないからです。

 そうしますとここに問題が生じます。授業研究(正確に言えばPractitioner Research)の一つとしてのExploratory Practiceとて、研究である以上、言語を使って表象されます。しかし言語で表象されるなら、Exploratory Practiceは、その目的である実践者の「理解」とはカテゴリーが異なってしまうのです。授業研究の目的が、一般法則の解明や、問題解決の実証なら、言語(およびその延長としての数字)でなんとか表現できます。論証は言語のカテゴリーに属するからです。しかし理解は、法則や問題解決などとカテゴリーを異にし、はるかに言語化しにくいのです。私たちはこのことをどう考えればいいのでしょうか。

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8 授業研究のリテラシー

 授業研究には独自の高度のリテラシーが必要だと私は考えます。つまり、授業という実践の理解を適確に言語化すること、あるいは逆に授業について書かれた文章から、その元となっている理解を読み解くこと、こういった授業研究を読み書きする能力(授業研究リテラシー)は、実験研究リテラシーとは異なる難しさをもったもので、私たちはこういった授業研究のレテラシーを自覚的に向上させなければ、Exploratory Practiceという名前を使うにせよ使わないにせよ、授業研究を通じて、授業力を上げることが困難になるのではないでしょうか。

8.1 授業研究リテラシーの実際

1 ある熟練教師の場合

 「授業案に、背景の考えとか書いてあっても、私はほとんど読まないんですよ。それよりも具体的な授業案だけをさーっと見て、それで面白そうな授業だったら、背景の考えも読むようにしています」⇒授業案だけから授業を想像できる高い「授業研究読み取り能力」

2 学部生の場合

 授業案だけ見ても何のことかほとんどわからない。ビデオを見せても、枝葉末節のことにしか目がゆかない。授業書を読ませ、いろいろと討議させると、ビデオを見る目も育ってくる⇒「授業研究読み取り能力」を育てるために、授業書(授業研究)を読ませ、討議させる。

3 大学院生の場合

 非常勤講師などを兼任している大学院生などは、授業書を読んでの討議も深くなるし、ビデオを見ても非常にいいところに目をつけたりできる。⇒ある程度の「授業研究読み取り能力」

4 『すぐれた英語授業実践』(大修館書店)の刊行

 高橋先生「指導案から授業を具体的に映像としてイメージすることは、教師力を磨く効果的な自己研修法の一つである」(5ページ)

⇒しかし授業研究リテラシーのうちの、授業研究を書く能力については未開拓なのではないか。

8.2 授業研究リテラシーの今後

1 「読む」能力

授業研究(授業報告・授業分析)を読んで、その授業のどこが「すぐれて」いるのかを自分自身で判断すること、さらにはその授業を自分自身の授業に適用するにはどこをどうアレンジすればいいのか、さらなる改善の余地はないかを「自ら思考し、判断すること」(上掲書、6ページ)は教員にとって重要である。

2 「書く」能力

 授業報告をただ読むだけでなく、また授業分析も「ありがたい評価」として鵜呑みにするのでなく、読者一人一人が、授業の報告・分析(授業研究)についても、どう書けばもっとよくなっていたか、自分ならどう書くかと、思考し判断してゆき、その批評を言葉にしてゆく共同体を作り上げれば、英語授業研究もより高まるのではないか。いわば授業批評の批評を通じて、授業研究のリテラシーを「書く」面においても向上させるべきだろう。

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 10/10

9 改めて学問とは

 それでは授業力を高めるための一つの方法としての授業研究リテラシーを高めるためにはどうすればいいのでしょう。授業研究の共同体ができても、それだけではそこの授業研究のリテラシーは上がりません。また当然のことですが、実験研究のリテラシー向上(実験計画法や統計分析の勉強など)を通じても授業研究リテラシーは向上しません。

9.1 一般的知性と教養の強調

 1990年代から大学でも一般教養課程が弱体化し、社会全体でも専門的技能はもてはやされても、一般的知性や教養は軽んじられているように思えます。しかし医療現場で指導的立場にいる医師(前出の虎ノ門病院泌尿器科部長 小松秀樹先生)は『医療の限界』(新潮新書)で、指導的医師になるためには、知性、教養が不可欠なのに、医学部の6年間の教育では「文学、歴史、哲学、思想史といった思索を深めるような教養科目は二の次で、専門教育に偏りすぎています」(129ページ)と主張します。

9.2 教師の自由の確保

 小松先生は、「医師が、個人の能力を伸ばすための条件は、(1)たくさんの患者を診られる (2)勉強する時間がとれる (3)議論できる仲間がいる (4)他の交流ができる、ことです」(140ページ)とも述べます。教師が成長をするためには自由(とそれに伴なう責任)が必要ですが、現在は自由なしの責任ばかりが教師に課せられているように思います。私たちはそのようなことを身内で愚痴りあうだけでなく、教師には自由が必要であることを説得力ある形で社会に訴えなければならないのではないでしょうか。

9.3 本質的思考力の重視 

 自分の教育力不足は棚に上げた物言いをしますと、最近の学生さんは、非常に考えることが苦手です。大学入学までに、解法は手取り足取り教えられても、考えることはあまり促されなかったのではないでしょうか。一方大学も、手のかかる思考訓練はあまりせずに学生を社会に送り出しているのかもしれません。

 大学がこの思考力養成不足に対する反省を欠いていたら、「教職大学院」についても楽観できません。

 しかし、例えば「学力向上の指導法をどうするか」といった具体的な実践的課題を、少しでも想起してみればよい。「百ます計算」や「フラッシュ・カード」といった教育技術のレパートリーを覚えるだけでは、実際の子どもの学力は向上しないし、教師の資質も高まらない。教師たちが現場で直面しているのは、たとえば、何をもって学力ととらえ授業を構成するか、全国統一学力テスト実施をどうとらえるのか、テスト対策を授業の柱に据えるのか据えないのか、学校より受験を優先させる親にどう向き合うか、そもそも学習どころではない家庭環境の子どもをどう支援するか、その際家庭のプライバシーをどう考えるかといった、極めて論争的で政治的で社会的な問題だからである。

 教育実践は政治的・社会的実践そのものであり、あらゆる教育方針や教育技術は、一定の思想やイデオロギーを内包している。(中略)

 したがって、もしも教職大学院の教員が、教育技術の根底にある思想やイデオロギーに全く無自覚なまま、ハウ・ツーだけを伝達するなら、教師の資質は一向に高まらないだろう。あるいはもしも「学習指導要領には従え」「校長のいうことは聞け」などという一定のことがらが自明の前提とされ、物事を相対化したり複眼的に考える姿勢を失うなら、それはもはや学問に根ざした大学院教育としては到底認められないものとなる。もしも、疑問を差し挟むことさえ許されないなら、そこでの教育は洗脳になってしまう。

佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか」

『世界』(岩波書店)20076月号128ページ

 私たちは、今一度、学校教育の本質、英語教育の本質などというように、本質を考え抜く思考力を身につけなければならないのかもしれません。

 ボートのコーチングを「本業」、英語教育を「正業」と自称する松井孝志先生は、ボートのコーチングと英語教育を関連づけて次のように語ります。前五輪代表コーチの方が、大学のチームの一人の選手の動きを指導している際に、他の大学生に「あなたならこの選手をどう指導するか」と問いかけたあたりの引用です。

 大学生を対象に「あなたがコーチだったら、この選手の動きのどこをどう直すか?」とその選手のチームのメンバーに問うていく。様々な答えがでたところで、ひとこと。「この競技で一番肝心な目的に誰も触れていない」。学生たちは、このヒントではまだはっきりと認識できておらず、コーチがさらに言葉を継いでやっと理解できた模様。

 その目的を達成するために、いろんなテクニックが必要なのであって、手段が目的になってはいけない。常に、我々にとって一番の目的を達成しよう、思いっきり表現しよう、としてくれなければコーチは仕事が出来ない。ボートを始めて2か月の高校1年生たちは、君たちほど情報が入っていないからこそ、純粋にその目的を求め続けている。それに対して、君たちは色々な所から 情報を仕入れることで、枝葉の部分だけが膨らんでしまい、自分がその一番の目的を達成する邪魔をしてしまっている。

 その「一番の目的」を知らしめるために久々に見せてくれたデモンストレーションでの強さと美しさに感嘆。姿勢とはかくもしなやかで強く、ダイナミックなものになりうるのか。

 翻って、英語教育。その一番の目的とは?全国の教師がみな情報を仕入れることに躍起になってはいまいか?自分の目の前の生徒・学習者がその目的を達成するために何が必要なのか?「明日の授業ですぐに使えるアイデア、小技」といっても、それを何のために使うのか?「生徒中心の授業展開」とか「生徒の気づきを促す」、さらには「ハートで感じる」「コアイメージ」などといった余所からの借り物や受け売りではなく、一人一人の教師が自前の思考を継ぎ足すことが必要だろう。自分の足跡の中からしか再現するべきアイデアや小技は見つからないのではないか?「教わったように教えるな」という戒めは「教わることの否定」では ない。そうではなく、「自前で学ぶことの意義付け」とでもいうことなのだろう。我田引水ではダメなこともまた自明であろうが…。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070625

 本質的な問いかけをするということは、幅広い事柄を深く知り、考え抜くということだ。英語教育界にはそれが欠けているのではないか。それは同時に英語教育界には学問がないということを意味しないか。

ご静聴ありがとうございました

2007年6月28日木曜日

子安増生『心の理論』岩波書店


 この本は「心の理論(theory of mind)について、サイモン・ロバート=コーエン(Simon BaronCohen)の『自閉症とマインド・ブラインドネス』(青土社)(原題 Mindblindness)を手がかりにして、手短にまとめた入門的啓蒙書です。私は関連性理論Relevance Theory)への興味から、この「心の理論」にも興味をもっておりましたが、勉強する機会を逸しておりました。今回、あるきっかけで読み始めましたら、とても面白くすぐに読み終えることができましたので、良書としてここに紹介する次第です。目の前にいる相手と話す力、目の前にはいない相手の心を想像しながら書く力といった言語コミュニケーション力を考える際に、「心の理論」は関連性理論と並んで重要な理論になると思います。

ここでの「心を読むシステム」は、四つの要素から構成されています。

(1)意図検出器(Intentionality Detector; ID)

自分で動くもの(他者あるいは他物)が自己の位置に向かってくるかどうかを検出

(2)視線方向検出器(Eye-Direction Detector; EDD)

眼(眼状刺激)がこちらを向いているかそれとも他の物を見ているかを検出

(3)共有注意の機構(Shared Attention Mechanism; SAM)

自己と他者と第三の者(物)の以下のような関係を理解できる

(a)視線の追従:人の視線の動きを追いかけることができる。

(b)宣言的指さし:人の注意をひきつけるための指さしの理解と産出

(c)物の提示:物を他の人に見えるように示すことができる

以上、同書79-80ページ

(4)心の理論の機構(Theory of Mind Mechanism; ToMM)

一次的信念(例「Aさんは物Xが場所Yにあると(誤って)信じている」)だけでなく、二次的信念(例「Aさんは物Xが場所Yにある、とBさんは(誤って)信じている」)までもが理解できる。

以上、同書101ページ

 この二次的信念の理解は、「Aさんは、私がAさんを嫌っていると思っているように私は思える」といった他者を通じた自己理解を促進します。このように二次的信念が理解できると、「Aさんの信念についてのBさんの信念についてのCさんの信念」といった三次元的信念も理解できるようになります。このような高次の信念は、込み入った人間関係を描く小説やドラマを理解する前提となります。

以上、同書104-105ページ

 これらの四つの能力は、原初的なものとしては、霊長類、赤ちゃん、幼児、大人と連続しているものですが、特に「心の理論」の「誤った信念課題」はおよそ四歳ころから出現するとされています。また自閉症は、「心の理論」および「共有注意の機構」を欠く発達障害だとも考えられています。

 このように、言語を使ったコミュニケーションの基礎となる「心を読むシステム」ですが、これは現代の子どもでは十分に育っているのでしょうか。ここからは私の愚見を書きますので、眉に唾つけて読んでください。

 昔ながらのトランプの「七並べ」などは、「心を読むシステム」を育てるには格好の遊びかもしれません。「心の理論」で、相手の心を読まないとうまく勝てないからです。もちろんこのようなゲームはコンピュータ上でもできますが、他のプレーヤーと一緒にやるほうが「心を読むシステム」を育てるにはいいでしょう。「視線方向検出器」を基底とした「眼の表情を読む」高度な能力を使ったり、「共有注意の機構」を使って他のプレーヤーの関心がどの札にあるかなどを読み取ったりできるからです。

 それに対して、古典的な「インベーダー・ゲーム」などの、一部のコンピュータ・ゲームは、「意図検出器」だけを使って、ひたすら反射運動を繰り返すだけのように思えます。このような遊びばかりしかしていない子どもと、昔ながらの集団での様々な遊びを繰り返している子どもでは、「心を読むシステム」、ひいては言語コミュニケーション力に大きな差ができてしまうのではないでしょうか。

 日本語にせよ英語にせよ、仮に語数だけ多くペラペラ喋っても、それが「心の理論」が弱い、もっぱら自己中心的な観点から語られるだけでしたら、聞き手の共感や理解を得ることはできません。それ以前に視線が泳いでいたりする話し手は、その場で聞き手の心をうまく読んで話を修正・改善するための前提を欠いているようにも思えます。

 眼前にいない相手の心の状態を想像しながら書かなければならない書き言葉の習得は困難なものです。しかし、そういった書き言葉の習得は、話し言葉の習得の延長線上にあるように思えます。その話し言葉の習得をよく考えるためには、こういった「心を読むシステム」といった理論を勉強しながら、言語を使ったコミュニケーションが現代よりも豊かだった昔の暮らしぶりや遊び方を想起することも必要なのかもしれません。

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2007年6月27日水曜日

大津 由紀雄 編著 『日本の英語教育に必要なこと』慶應大学出版会

大津 由紀雄 編著 『日本の英語教育に必要なこと』慶應大学出版会の増刷が決まりました!


これを機会に、ぜひご興味のない方も一人五冊は買ってください(笑)。

2007年6月26日火曜日

小松秀樹『医療の限界』新潮新書

 

 

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お知らせ


田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!


7/14-15 英語教育「ゆかいな仲間たち」夕張大集合


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 最近の新書は玉石混交の状態ですが、この本は「玉」だと思います。私のような勉強不足の人間がこのようなことを言えば笑われてしまうだけですが、この著者(虎ノ門病院泌尿器科部長)のような優秀な実践者は、非常に勉強しています。虚栄のための勉強でなく、地に足がついた現実的な勉強です。逆に言うと、そのような勉強抜きに優秀な実践者、ましてや実践者のリーダーとなることはできないでしょう。

 この本のテーマはいくつかありますが、ここでは、医療に関する誤解と、医師になるための教育のあり方についていくつか引用しながらこの本を紹介しようと思います。読み応えのある新書ですから、興味が湧けば、ぜひご自身で購入してお読みください。

まず医療に関する誤解についてです。著者はこう言います。

 医療とは本来、不確実なものです。

 しかし、この点について、患者と医師の認識には大きなずれがあります。

 患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴なってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい医療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護婦はたとえ過酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。

 しかし、医師の考え方は違います。人間の体は非常に複雑なものであり、人によって差も大きい。医学は常に発展途上のものであり、変化しつづけている。医学には限界がある。(中略)

 医療行為は不確実です。医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療を行っても、結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識です。(21-22ページ)

 教育は医療ほどに「安全」を意識はしませんが、患者の医療に対する過大な期待を、保護者や学習者の学校教育に対する過大な期待に重ね合わせて読まれた教師の方はいらっしゃいませんでしょうか。誤解のないように申し上げますが、医者も教師も、最善を尽くさなければならないことについては疑いの余地もありません。ただリアリズムに基づかない、過剰な期待は、医療や教育の現場を歪めてしまいかねないことは指摘されるべきでしょう。医者も教師も、過剰な期待に追い詰められ、バーンアウトしかけていませんでしょうか。現場の実践者は、実践者だからこそ正直に語りえることを世間に対してもっと訴えなければならないのかもしれません。

 なぜ現代の多くの日本人がここにあげられているような過剰な期待を持つようになったのかについて、著者は数々の興味深い分析を行いますが、私が面白く読んだのは、メディアや裁判官も含んだ現代日本人の多くが、中途半端な(したがって誤った)因果律の理解をしているという箇所です。

 他にも不確実性を受け入れられない原因があります。一つには因果律についての知識の欠如がある。例えば、同じ医療行為の結果は、確定せず、確率的に分散します。しかし、原因と結果が一対一の関係にあり、結果から原因を特定できるというドグマが、メディアや、あろうことか、裁判官まで支配しています。(36ページ)

 ここで裁判官が出ているのは、現代日本では医療訴訟が行き過ぎて、医療の現場が追い詰められ過ぎているという著者の認識があるからです。著者は、医学が、生物学、化学、工学、物理学、統計学、経済学、社会学、文化人類学、哲学、倫理学、心理学、法律学、ヒューマン・ファクター工学などとあらゆる学問に対して柔軟性を持ち、未来に対して開かれていることを強調し、法律家が過去の文章や判例にのみとらわれていることを批判しますが、各種学問のエッセンスを、当意即妙に議論に加えるこの著者の文章を読むと、その自負も正当なものかとも思えてきます。私たちは、医療や教育といった複雑な臨床の現象を正しく理解するには、もっともっと多くの分野のことを深く勉強しなければならないかと思います。

 次のポイントは医者を育てる教育についてです。まず著者は、指導的医師になるためには、知性、教養が不可欠なのに、医学部の6年間の教育では「文学、歴史、哲学、思想史といった思索を深めるような教養科目は二の次で、専門教育に偏りすぎています」(129ページ)と主張します。しかしだからといって大学の教養課程でしかそういった底力が養えないなどと建前的なことは著者は言いません。「骨格となる医学的事実を知り、医学上の正しさを決める方法、議論をする方法、多少の英語読解力と文献を調べる能力さえ身につければよいのです。医師になってから、症例を丁寧にみて、ごまかさずに勉強していけば、そこそこの医師になれます」(130ページ)とも、「医師が、個人の能力を伸ばすための条件は、(1)たくさんの患者を診られる (2)勉強する時間がとれる (3)議論できる仲間がいる (4)他の交流ができる、ことです」(140ページ)とも述べます。この他にも、医者としての能力とは全く関係ない「基礎研究の学位で、臨床医としてのポジションを得るということが、人事の論理をゆがめ、ひいては医師としての責任感まで影響を与えるように思います」(132ページ)とも著者は述べます。こういった著者の教育に関する意見には、教師でも、別段学位などは取らずに、現場でこつこつ丁寧に、自分も他人もごまかさずに勉強を重ねて実力をつけた方などは強く同意するのではないでしょうか。

 教育についてはあと一つだけ引用をさせてください。私は著者のこういったリアリズムに惚れ込んで、この紹介文を書いています。

 教育システムはあまり押し付けになってはいけません。厳密でかゆいところまで行き届いた教育システムは、よろしくない。自発性を尊重すべしという意味ではなく、教育する側に問題があることがしばしばあるからです。私自身、手術は、他科の手術を見ながらほぼ独学で学びました。当時の泌尿器科の手術の水準に失望していたので、医局での教育を受けたくなかった。このため、大学病院には最初の一年しかいませんでした。一般的な話ですが、無能な人間が権力を持ち、しかも勤勉だとひどく有害です。無能な権力者は、せめて怠惰であってほしい。それと同じで、教育する側に問題がありうることを想定して、教育システムは逃げ道がある簡素なものがよいと思うのです。(141ページ)

 あまりにも浅薄で騒がしいだけになりつつある日本の言説空間で、このような辛口コメントは、理解よりも誤解を招くだけかもしれませんが、私はこのようなリアリズムは必要だと思います。

 この他にも医療は「公共財」として運営され続けられるべきなのか、市場原理にゆだねられるべき「通常財」として運営されるべきなのかなどといった、非常に本質的で深い問題を多く扱ったこの本は、良書です。次の著者のあとがきを読むまでもなく、医療を考えるためだけでなく、学校教育を考えるためにもこの本は重要な本になるかと思います。教育も、医療と同じように、実践者の資質や真面目さの問題だけでなく、制度・システムの問題、本来背負うべき適切な責任範囲の設定の問題などを絡めて考えなければならないからです。患者も学習者も消費者で、医者や教師に何でも要求できるし、医者や教師はまたそれらの要求に全て応えなければならないといった「文化」は医療と教育の現場を崩壊させかねません。

 この本を読んでいただいた方には分かっていただけると思いますが、崩壊しているのは、医療だけではありません。教育現場の崩壊は医療よりもっと大きな問題です。日本人そのものが変容しています。ある国立大学病院の院長は、「日本人のたががゆるんでいる」と表現しました。(216ページ)

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2007年6月25日月曜日

パッチギ

 人生というのは、歴史と社会に翻弄されて錯綜し混乱します。「何やねん、これ!」と突っ込みでもいれなければやれないことが続き、やがては怒りが爆発したり、わっと泣き崩れるようなことに至り、その中から、なんとも形容のしがたい不思議な笑いが生じたりするものです。日本と韓国の歴史的・社会的関係についても同様でしょうが、似非インテリの私は、その関係についてもほとんど知らなかったりします。

ですからせめてビデオ録画で見たこの映画のよさを多くの人に伝えようと思います。

誤解を怖れずに言ってしまうなら、この映画に出てくる人物は皆アホです。背景となる時代そのものも相当アホです。でもそれらのアホさを、悲しさとユーモアを同居させながら肯定するところにこの井筒和幸監督の偉大さがあったと思います。

私は日本を愛しています。だから日本のアホさをもまるごと肯定したい。日本の間違いもそのまま引き受けたい。だからといって日本ばかりがアホだとか間違いを犯すとも思いません。皆アホです。他の国だって相当アホです。その中で何とかお互いうまくやってゆきたいと思います。

最近、狭隘な「愛国心」が語られすぎていることを私は懸念します。狭隘で偏狭な「愛国心」は、その影として、その「愛国心」を共有しない同国人と、その「愛国」でない国に住む外国人に対して無理解と蔑視の視線を注ぎがちです。

私は日本を愛しています。ですからこそ、排他的な「愛国心」ばかりを標榜する人に賛同できません。

最近の日記で内田樹氏も次のように言います。

人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。
私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。
歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。
それは愛国イデオロギーが「私たちの国はその本質的卓越性において世界に冠絶している」という(無根拠な)思い込みから出発するからである。
ところが、ほとんどの場合、私たちの国は「世界に冠絶」どころか、隣国に侮られ、強国に頤使され、同盟国に裏切られ、ぜんぜんぱっとしない。
「本態的卓越性」という仮説と「ぱっとしない現状」という反証事例のあいだを架橋するために、愛国者はただ一つのソリューションしか持たない。
それは「国民の一部(あるいは多く、あるいはほとんど全部)が、祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務を怠っているからである」という解釈を当てはめることである。
そこから彼らが導かれる結論はたいへんシンプルなものである。
それは「強制的手段を用いても、全国民に祖国の卓越性を理解させ、国を愛する行為を行わせる。それに同意しないものには罰を加え、非国民として排除する」という政治的解決である。
その結果、「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。
歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。

内田樹 http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php

私は『パッチギ』のような映画を見て、「日本人も韓国人もたいがいにアホや。でも日本には一杯ええとこあるで。韓国もそうや。まあ、お互いボチボチやね」ぐらいに思っていたく思います。アホ同士がお国自慢をし合っているぐらいに思っているのが丁度いいのではないでしょうか。

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2007年6月24日日曜日

一人一人の思考と判断

私の被害妄想でなければいいのですが、ここ数年日本では急激に、個々人が思考し判断することが疎んじられているように思います。教育現場でも、各教師がそれぞれの現場で考えて判断し、そして行動をしてそれを修正してゆけばいいだけの話が、なぜか「権威筋」に教え込まれなければならないような話になっているような気がします。それを「権威筋」になろうとしている人々だけでなく、現場サイドの一部すらも求めているような気すらします。

「権威筋」というのは自生的に、あるいは制度的に発生することはあれ、それは常に多くの人間の独立した思考・判断・観察などによって吟味され、その「権威筋」の意見も常に修正の対象になっていなくてはなりません。「多数派の意見こそが正しい。少数派は多数派に黙って従え」というのは多数派の専横あるいは衆愚政治につながる考え方であり、複雑な世の中では、「少数派の意見の中には未来の多数派の意見となる考えも含まれているかもしれない」と考えるのが民主主義のあり方です。

しかし、ひょっとしたらこれまでの日本は少数派の意見を大切にしすぎて、社会的合意を取れない経験を重ねすぎたのかもしれません。だからこそ「多数派」が近年専横的になってきて、少数派の思考や言論を抑圧するような態度に出ているのかもしれません。確かに少数派は、自らの言論を公衆にさらした後で、それが少数派の意見とされ、決定が自らの考えとは異なるものになった時は、その決定手続きが正当なものなら、自らとは異なる多数派の意見に従わなければなりません。日本の「少数派」は不当に居直ることを止めなければならないのかもしれません。しかし、そのことは、多数派が、少数派の意見を最初から抑えることや、決定の後も少数派からの批判を禁ずることを意味はしません。ましてや多数派が、社会的意思決定の権威と権力を自分たちだけが占有しているなどというあまりに危険な思い込みをすることではありません。

一人一人の人間が、それぞれ自分の頭で考え、判断し、自分の責任で言論と行動をおこすこと。そしてその言論と行動を、現実からのフィードバックと、他者からの批判に対して常に開いておくこと。間違った言論や行動は細かく速やかに修正してゆくこと。誰もが間違いうる存在であり、言論と行動においては謙虚さが必要であること。こういった、嫌になるほど当たり前のことを私たちは相互に徹底することが必要かと思います。

下記の引用は、教職大学院があまりに技術至上主義となり、技術の根底にある思想やイデオロギーに無自覚になり、その結果、複雑な現実へ対応することができなくなってしまうことへの懸念の表明かと私は読みました。英語教育でも特定の技術を、制度的あるいは科学的権威で正当化したら、あとはひたすらそれを無批判的・無思考的に実施すれば現実はよくなるといった発想が随所で見られると私は懸念しているので引用する次第です。 「思想やイデオロギーなんて大げさだ」という仮想論敵に向かって佐久間先生は次のように述べます。


 しかし、例えば「学力向上の指導法をどうするか」といった具体的な実践的課題を、少しでも想起してみればよい。「百ます計算」や「フラッシュ・カード」といった教育技術のレパートリーを覚えるだけでは、実際の子どもの学力は向上しないし、教師の資質も高まらない。教師たちが現場で直面しているのは、たとえば、何をもって学力ととらえ授業を構成するか、全国統一学力テスト実施をどうとらえるのか、テスト対策を授業の柱に据えるのか据えないのか、学校より受験を優先させる親にどう向き合うか、そもそも学習どころではない家庭環境の子どもをどう支援するか、その際家庭のプライバシーをどう考えるかといった、極めて論争的で政治的で社会的な問題だからである。
 教育実践は政治的・社会的実践そのものであり、あらゆる教育方針や教育技術は、一定の思想やイデオロギーを内包している。(中略)
 したがって、もしも教職大学院の教員が、教育技術の根底にある思想やイデオロギーに全く無自覚なまま、ハウ・ツーだけを伝達するなら、教師の資質は一向に高まらないだろう。あるいはもしも「学習指導要領には従え」「校長のいうことは聞け」などという一定のことがらが自明の前提とされ、物事を相対化したり複眼的に考える姿勢を失うなら、それはもはや学問に根ざした大学院教育としては到底認められないものとなる。もしも、疑問を差し挟むことさえ許されないなら、そこでの教育は洗脳になってしまう。

佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか」

『世界』(岩波書店)2007年6月号128ページ



複雑な世の中では、民主主義というある意味うるさく、なかなか一様にまとまらない行動様式をとらないと、私たちは大きく誤り得ます。そのうるささは、理性的な言論・行動様式で、知的にも面白い多様性に変えてゆかなければなりません。私たちは理性的な態度をこれからも互いに教育してゆかなければならないでしょう。

 しかし怖いのは、私たちが今、あまりに疲れ果ててしまっているのかもしれないということです。「疲れきって、自ら思考する気力も判断する余裕もない。『理性的』などという小ざかしい言葉なんてどうでもいい。ただ私は自分が安逸に暮らしたいだけなのだ。お願いだから休ませてくれ」などという意見が社会の多数派となった時、怖ろしい時代が始まるのでしょう。

2007年6月18日月曜日

「公」をつくりあげることば


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お知らせ


田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!


7/14-15 英語教育「ゆかいな仲間たち」夕張大集合


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ことばの重要な機能の一つは公共的な空間を作り上げることだと考えます。教科を超えて学校教育関係者は、いや社会のすべての成員は、若者と自分自身が市民(公民)として成熟するためのことばの力を育てる責務があると思います。さもないと社会は、ことばによる理性でなく、むき出しの力(暴力・既得権力)によって統御される醜いものになってしまうでしょう。立憲主義の小特集(毎日新聞2007615日)で、大塚英志氏(神戸芸術工科大学教授)は、柳田國男の昔から指摘されていた「公民」のあり方は、現在でも問題であり続けているとして、次のように述べます。

天皇よりも首相よりも上位に憲法という「公」(おおやけ)が置かれ[注:日本国憲法第99]、その「公」の担い手が主権者としてのあなたでありぼくでもある。

(中略)

柳田[國男]が考える「公民」とは「国家」や政治家たちを「公」と錯誤し「私」を捨てて「群れ」に従う者ではない。「個人」として自分の思考、ことばを持ち、それを互いにぶつけあう能力が必要だ。そのような「公民」としての能力があって「公」ははじめて生まれる。

[国民投票法により]18歳に投票権を与えた以上、子供たちを柳田のいう「公民」つまり正しい有権者たらしめるための教育をどう構想するのか。それを問題にできない教育改革がいかに憲法という「公」をつくることの意味を軽んじているかにまず、気づくべきだ。

英語教育にせよ、英語教育以前に、日本語でのコミュニケーション力が減退しているようにも思える小学生や中学生に対して、どのようにことばの教育ができるのか。また、グローバル化し、日本語だけで充足できなくなりつつあるようにも思える日本社会を、第二言語教育・外国語教育という点からどのように再構成してゆく手伝いができるのか。ひいては外国語教育の中でも突出した一つとなってしまった英語教育は、グローバル社会の構成にどう関与してゆくのか、という大きな問題につながるべきかとも思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか。

「仁」と「神」

 私は縁あってキリスト教徒になりましたが、なる前は「平均的日本人」らしく(?)、「神なんて証明できないものを信じ込むなんて・・・」と、信仰に疑いを持っておりました。しかし諸般の事情で信仰を持つようになり、日頃からできるだけ信仰の観点から物事を考えるようにすると、信仰は、人生を生きやすくするたけでなく、存外に合理的というか、まあ少なくともpragmaticな態度かなと思えてきました。

 キリスト教であれ、どんな信仰であれ、もしそれが世俗的価値追求を神秘化しただけのごまかしの「宗教」でなく、私たちが決して到達できないが、憧れざるをえないもの、否、求めるべきだと思わざるを得ないものを、日々の暮らしの中にごくごく僅かでも実現させようとする意味での「信仰」なら、それは多くの人に受け入れられ、また現代日本でも、本人達の自覚以上に、そのような「信仰」は、「宗教」の形を取らずに根ざしているのではないでしょうか。

 以下は、白川静先生を追悼する内田樹先生の文章で、当時すでに忘れ去られようとした周公を祖述した孔子を、これまた祖述しようとする白川先生を、自らが到達できない先達として内田先生が祖述しようとする中で、「仁」について書かれた一説です。この祖述の連鎖に、「私たちが決して到達できないが、憧れざるをえないもの、否、求めるべきだと思わざるを得ないもの」が感じられます。そして実際、内田先生もこの「仁」と「神」をどこか通底するものとして考えています。


私たちにわかるのは、仁者は「仁が現にここに存在しない」という当の事実に基づいて、仁がかつて存在し、今後いつの日か存在しうることを確信するという、順逆の狂った信憑形式で思考する人間だ、ということである。「我仁を欲すれば、斯ち仁至る」とは、空間的に遠くにあるものを呼び寄せるという能動的なふるまいを指しているのではない。そうではなくて、「仁を欲するもの」が出現することによってはじめて「仁」という概念そのものが事後的に出現するという事況そのものを指しているのである。私はそのように理解した。それは「神を愛する」ということを責務として感じることのできる人間の出現と同時に「神」という概念が出現する構造に通じている。

http://blog.tatsuru.com/2007/06/12_1055.php

 目に見えず耳にも聞こえない貴いものを信ずる人を私は敬愛します。逆にいいますと、目に見えるもの、耳に聞こえるものだけにこだわり、それだけに狂奔する人になかなか共感できずに私は困っています。

追伸

以下は、野口裕之先生の指導を受けるため身体教育研究所へいった甲野善紀先生が、野口の整体技術に自ら驚いた文章の一部です。上記の「目に見えず耳にも聞こえない貴いものを信ずる」につながるかと思いましたので、ここに引用します。

それにしても数十年というスパンで身体が記憶している身体の異常を呼び覚まし、本質的に体を整えるというこの技術は、科学という一対一対応の方法論では捉えようにも手がかりすら得ることは難しいだろう。しかし、どうやらある法則はあるらしい。ただ、それは同時にいくつもの要素が複雑に絡み合っている上、感覚をもって(といっても視覚や聴覚といった分かりやすい感覚ではない感覚)探究していくのだから、ますます科学の手には負えないだろう。しかし、すぐれた音楽や絵画が科学の手には負えないという理由で拒絶されることがないならば、身体という本来その存在が快・不快という感覚で成り立っているものに対して、感覚による調律調整法があって当然だと思う。それが非科学的という一見もっともらしい理由で軽視されるという理不尽さは、近代がもたらした人類の不幸の一つの象徴であると思う。

http://www.shouseikan.com/zuikan0706.htm#2

2007年6月13日水曜日

田尻悟郎先生と中嶋洋一先生の即興ティームティーチング

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お知らせ


田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!


7/14-15 英語教育「ゆかいな仲間たち」夕張大集合


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英語授業研究学会(関西支部例会 2007526日)で、田尻悟郎先生と中嶋洋一先生のティームティーチングによる即興授業(富山県砺波市立出町中学校31組)をビデオで見ました。私は実はこの授業を生で見ていた(200511月)のですが、改めて見ても、すごい授業だったのだなと思いました。

この授業を仕掛けたのは中嶋先生で、「生徒の様子を見ながら、授業者の意図を汲んで、即興で反応できる教師」である「天才的なジャズマン」としての田尻先生のよさを最大限に引き出すために、ほとんど授業の打ち合わせはしなかったそうです。中嶋先生が展開してゆく授業に、田尻先生が即応して生徒に働きかけていました。

「よく即興でこれだけのことができるなぁ」というのはやはり正直な感想です。ジャズに加えて、アナロジーを重ねるならば、目の前の駒をどうするかだけで手一杯の将棋の初心者が、これまでの豊富な将棋体験を基に三手、四手先を常に読んでいる有段者の棋風に驚くようなものでしょうか。あるいは、目の前のパンチを避けるだけで精一杯のボクシングの初心者が、百戦錬磨のボクサーに寸止めのパンチをもらっているだけで、いつのまにかコーナーに追い詰められていることに驚くようなものでしょうか。

田尻先生の即興は、一つ一つの行動を起こす前に、高速で予め様々なことを「読んで」いることによって可能になっているように思います。予め「読んでいる」様々なこととは、

(1)相手(中嶋先生、生徒)の心

(2)自分が発しようとする言葉

(3)(1)(2)が引き起こす相互作用

(4)(3)がこれまでの授業の流れと引き起こす相互作用

です。田尻先生は、これらを高速で「読み」、「織り込んだ」上で、教師行動を起こしているようにも思えました。

もちろん田尻先生の「読み」が常に正しいものでもないでしょう。それはジャズマンや棋手やボクサーが常に完全な予測をするわけではないのと同じです。即興家たちは、ある程度読んで行動を起こしたら、今度はその行動から生じるフィードバックを即座に認知し、その新たなフィードバックに基づいて新たな読みを開始します。その読み→行動→フィードバック→読みのサイクルが速く頻繁であるところが即興家の名人たるゆえんでしょう。

それではこのような即興能力はどうしたらつくのでしょうか(即興能力をつけるべきかという問題はひとまずおいておきます)。「即興を重ねることによって」というのは愚かな答えでしょう。私たちは実践を失敗の連続にすることは許されません。そうなると、まずは他人の多くの事例に即して反省的に考えることでしょうか。それはあたかもジャズマンが過去の名盤を吟味しながら聴くこと、棋手が過去の棋譜を(最近ではネットも使うそうですが)多く集めてそれらを振り返り自分でシミュレートすること、あるいはボクサーが過去の名勝負を多く見てその動きを分析することに類する学びでしょうか。他人の事例を振り返り、自分ならどう考えたか、どうしただろうか、そしてどうするべきなのかなどを徹底的に考え、そうして少しずつ自分の実践でも即興の要素を取り入れてゆくというのが、実践力を高める道でしょうか。

いずれにせよ避けるべきことは、このように優れた実践を見て、ため息だけついて自ら考えることを諦めてしまうことかとも思います。ひょっとすると情報があふれる昨今は、その情報洪水のゆえに、かえって考えることが阻害されているのかもしれません。情報に接したら必ずそれについて考えること、よい情報に接したらそれだけ長く深く考えること、考える時間がないようなら情報を遮断することを私たちは自分の方針としてもよいのかもしれません。

達者な異言使い


新約聖書「コリント人への手紙I」の第13章は愛について語られた有名な箇所で、よく結婚式でも引用されますが、その第1節は新改訳第3版では「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」というように訳されています。ですが「異言」という言葉がよくわかりません。私には原典のギリシャ語を読める素養など全くないので、英訳を見てみますと、TEVでは次のようになっています。

I may be able to speak the languages of human beings and even of angels, but if I have no love, my speech is no more than a noisy gong or a clanging bell.

なるほど。これなら私たち言葉を教える者、外国語を使う者、あるいは理屈の小宇宙を作り出す者などへの戒めとも解釈できますね。少なくとも私は心に留めておきたいと思いました。

2007年6月8日金曜日

佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』講談社

社会には様々な矛盾があります。同じ人間として生まれてきたはずなのに、ある者はやたらと厚遇され、ある者は無慈悲に打ち捨てられる。そのような矛盾に面したときに、若者はしばしば涙と怒りを禁じえません。しかし、涙を流し続けることも怒り続けることも楽なことではありません。ですから多くの若者は、自分だけは厚遇される「勝ち組」になろうとし、多くの中高年は矛盾を「仕方のないこと」として自らの感性と思考に蓋をします。本来は、社会の諸矛盾を一つ一つ確認し、それを少しでも改善すべく、粘り強く働きかけることが人類の幸福であるのに。そして個々人の幸福は実は人類全体の幸福と深く関わっているはずなのに・・・

この漫画は、日本の医療の矛盾に怒りをぶつけることを抑えることができなかった若き研修医が、周りを困惑させ混乱させながら、医療システムを、良くも悪くも、揺り動かしてゆく物語です。その中で彼は、地味で一見かっこ悪かったり、変人ぽかったり、冷酷なように見えながら、実は自らの人生をかけて、自らの持ち場で医療のために闘い続けている大人に出会ってもゆきます。

もう既に中年である私は、若い主人公よりも、むしろそのようにさえない大人に共感を覚えながらこの漫画を一気に読みました。私は教員で、医療の仕事ほどにギリギリの勝負ではないにせよ、人間が人間である限り当然受ける権利をもつと人類が考えるように至った公共性の高い仕事をしています。そのような教員の端くれとして、世間のスポットライトとは無関係に現場の末端で泥をかぶりながら闘い続けている中高年に、自らがありたい姿を投影しながら読みました。大人として社会の中で働き続けることは素晴らしい!

ただ、そのように尊敬すべき大人もあれば、世俗の既存権益の甘い汁を吸い続けることしか興味のない軽蔑すべき中高年もいます。自分が属する組織の権威とその世間の評判でしか自分を確認できない哀れな中高年もいます。彼/彼女らには、自分が自分であるためには、お金や名声が必要なのです。そうでなければ不幸な彼/彼女らは不安で仕方がないのです。

それに比べて現場で泥をかぶり続ける大人たちは、どれほど人間的に上等なことか。そういった大人は大金も多くの人々からの賞賛も必要としません。生活に必要なだけの最小限のお金と、心から「ありがとう」といってくれる一人の人間さえいれば、「大人」は幸せなのです。

そうしますと社会のいわゆる「偉い人」や「有名人」とは、実は不幸な人ではないのかとも思えてきます。

私は幸せな人でありたい。

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信仰的な追伸:

いや、幸せになるためには、私たちには一人の感謝すらいらないのかもしれません。神様に背を向けなかった(=神様の前で苦しみ、泣き、神様を求め続けた)、あるいはイエス・キリストが自分に対して微笑んでくれるイメージを持てた、それだけで私たちは幸せになれるのかもしれません。もちろん独りよがりは非常に危険ですが・・・


2007年6月5日火曜日

The Practiceの日本版DVD発売を望む!

子どもの頃からことばが好きでした。ことばといっても、後年学ぶ用語でいえば、統語論・音韻論的側面の形式性に惹かれたというのではなく、語用論的側面の言語使用の微妙さに魅了されてきたということです。ですから子どもの頃からコメディ(お笑い)が好きでした。コメディでは微妙なことばの使い分けによって、面白さが倍増するからです。

歳を取るにつれコメディだけでなく法廷物の映画などが好きになりました。法廷ではある事件をどう描写し、どう立論するかということばの使い分けで判決が決まるからです。そのようにことばの観点から法廷物を好む私は、当然、日本の法廷物よりも、英米の法廷物の方が好きです。日本の法廷物はことばの展開によるドラマというよりも、人情劇であり、高度なことばの面白さをあまり感じることがないからです。

そのような私にとって、FOXテレビジョン(スカパー)で放映されていたザ・プラクティス(The Practice)は本当に面白いテレビドラマでした。このドラマでは法廷のシーンが多く、最終弁論などは丸々と5-10分ぐらい放映します。その最終弁論で、事件に関する私たちの認識なども時にがらりと変わってします。ことばの力を感じるには格好のドラマでした。(また米国人がどれだけ憲法を誇りに思っているかということもよくわかるドラマでした)。

http://en.wikipedia.org/wiki/The_Practice

脚本家のDavid Kellyは登場人物の描き方もうまく、誰も完全無欠の善玉としては描きません(日本のドラマでは時に、常に正義が前提とされている主人公が登場しますよね)。正義感をもちながらも、劣等感や焦燥感から幸福になれないボビーや、強面の現実主義者ながら憲法を愛するユージーンなどの登場人物を私は本当に愛していました。

ファイナル・シーズンでは、ボビーやユージーンを差し置いて、新たに登場したアラン・ショアが主人公となります。登場の噂を聞いたときは反発していた私ですが、ジェイムズ・スペイダー演じるアラン・ショアは驚くほどに魅惑的でした。こちらが呆気に取られるほど頭脳明晰でありながら、patheticといえるほどに不幸な人生観をもつという複雑なキャラクターに私は魅せられてしまいました。彼は、このシーズンの演技でエミー賞を取ったとも後で聞きましたが、それも納得です。

そのアラン・ショアが、これまたThe Practiceのファイナル・シーズンで登場したもう一人のpathetically intelligent manとでもいうべきデニー・クレーンと共に主役を演ずるボストン・リーガル(Boston Legal)の放映が最近Fox Crimeというスカパーのチャンネルで始まりました。ザ・プラクティスよりはやや軽いノリですが、ことば(英語)の面白さを堪能できる番組なので、私は最近毎週録画して楽しんで見ております。

http://www.foxlife.jp/bangumi/boston_legal/index.shtml

そのボストン・リーガルについてネット検索をしておりましたら、なんとザ・プラクティスが米国ではDVD化されたというニュースを得ました!

http://ameblo.jp/mimy/entry-10028373887.html

日本版(日本語字幕がつき、日本のプレーヤーで再生可能)のDVDの発売を願いたいものです。発売されたら私は全巻購入するつもりです。

まあ、購入とまで言わずとも、英語力をつける一手段としては、私は法廷物の映画やドラマを見ることをお薦めします。高度なことばの使い分けが学べると思います。映画でしたらA Few Good Menなどはいかがでしょう。