2007年6月26日火曜日

小松秀樹『医療の限界』新潮新書

 

 

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 最近の新書は玉石混交の状態ですが、この本は「玉」だと思います。私のような勉強不足の人間がこのようなことを言えば笑われてしまうだけですが、この著者(虎ノ門病院泌尿器科部長)のような優秀な実践者は、非常に勉強しています。虚栄のための勉強でなく、地に足がついた現実的な勉強です。逆に言うと、そのような勉強抜きに優秀な実践者、ましてや実践者のリーダーとなることはできないでしょう。

 この本のテーマはいくつかありますが、ここでは、医療に関する誤解と、医師になるための教育のあり方についていくつか引用しながらこの本を紹介しようと思います。読み応えのある新書ですから、興味が湧けば、ぜひご自身で購入してお読みください。

まず医療に関する誤解についてです。著者はこう言います。

 医療とは本来、不確実なものです。

 しかし、この点について、患者と医師の認識には大きなずれがあります。

 患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴なってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい医療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護婦はたとえ過酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。

 しかし、医師の考え方は違います。人間の体は非常に複雑なものであり、人によって差も大きい。医学は常に発展途上のものであり、変化しつづけている。医学には限界がある。(中略)

 医療行為は不確実です。医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療を行っても、結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識です。(21-22ページ)

 教育は医療ほどに「安全」を意識はしませんが、患者の医療に対する過大な期待を、保護者や学習者の学校教育に対する過大な期待に重ね合わせて読まれた教師の方はいらっしゃいませんでしょうか。誤解のないように申し上げますが、医者も教師も、最善を尽くさなければならないことについては疑いの余地もありません。ただリアリズムに基づかない、過剰な期待は、医療や教育の現場を歪めてしまいかねないことは指摘されるべきでしょう。医者も教師も、過剰な期待に追い詰められ、バーンアウトしかけていませんでしょうか。現場の実践者は、実践者だからこそ正直に語りえることを世間に対してもっと訴えなければならないのかもしれません。

 なぜ現代の多くの日本人がここにあげられているような過剰な期待を持つようになったのかについて、著者は数々の興味深い分析を行いますが、私が面白く読んだのは、メディアや裁判官も含んだ現代日本人の多くが、中途半端な(したがって誤った)因果律の理解をしているという箇所です。

 他にも不確実性を受け入れられない原因があります。一つには因果律についての知識の欠如がある。例えば、同じ医療行為の結果は、確定せず、確率的に分散します。しかし、原因と結果が一対一の関係にあり、結果から原因を特定できるというドグマが、メディアや、あろうことか、裁判官まで支配しています。(36ページ)

 ここで裁判官が出ているのは、現代日本では医療訴訟が行き過ぎて、医療の現場が追い詰められ過ぎているという著者の認識があるからです。著者は、医学が、生物学、化学、工学、物理学、統計学、経済学、社会学、文化人類学、哲学、倫理学、心理学、法律学、ヒューマン・ファクター工学などとあらゆる学問に対して柔軟性を持ち、未来に対して開かれていることを強調し、法律家が過去の文章や判例にのみとらわれていることを批判しますが、各種学問のエッセンスを、当意即妙に議論に加えるこの著者の文章を読むと、その自負も正当なものかとも思えてきます。私たちは、医療や教育といった複雑な臨床の現象を正しく理解するには、もっともっと多くの分野のことを深く勉強しなければならないかと思います。

 次のポイントは医者を育てる教育についてです。まず著者は、指導的医師になるためには、知性、教養が不可欠なのに、医学部の6年間の教育では「文学、歴史、哲学、思想史といった思索を深めるような教養科目は二の次で、専門教育に偏りすぎています」(129ページ)と主張します。しかしだからといって大学の教養課程でしかそういった底力が養えないなどと建前的なことは著者は言いません。「骨格となる医学的事実を知り、医学上の正しさを決める方法、議論をする方法、多少の英語読解力と文献を調べる能力さえ身につければよいのです。医師になってから、症例を丁寧にみて、ごまかさずに勉強していけば、そこそこの医師になれます」(130ページ)とも、「医師が、個人の能力を伸ばすための条件は、(1)たくさんの患者を診られる (2)勉強する時間がとれる (3)議論できる仲間がいる (4)他の交流ができる、ことです」(140ページ)とも述べます。この他にも、医者としての能力とは全く関係ない「基礎研究の学位で、臨床医としてのポジションを得るということが、人事の論理をゆがめ、ひいては医師としての責任感まで影響を与えるように思います」(132ページ)とも著者は述べます。こういった著者の教育に関する意見には、教師でも、別段学位などは取らずに、現場でこつこつ丁寧に、自分も他人もごまかさずに勉強を重ねて実力をつけた方などは強く同意するのではないでしょうか。

 教育についてはあと一つだけ引用をさせてください。私は著者のこういったリアリズムに惚れ込んで、この紹介文を書いています。

 教育システムはあまり押し付けになってはいけません。厳密でかゆいところまで行き届いた教育システムは、よろしくない。自発性を尊重すべしという意味ではなく、教育する側に問題があることがしばしばあるからです。私自身、手術は、他科の手術を見ながらほぼ独学で学びました。当時の泌尿器科の手術の水準に失望していたので、医局での教育を受けたくなかった。このため、大学病院には最初の一年しかいませんでした。一般的な話ですが、無能な人間が権力を持ち、しかも勤勉だとひどく有害です。無能な権力者は、せめて怠惰であってほしい。それと同じで、教育する側に問題がありうることを想定して、教育システムは逃げ道がある簡素なものがよいと思うのです。(141ページ)

 あまりにも浅薄で騒がしいだけになりつつある日本の言説空間で、このような辛口コメントは、理解よりも誤解を招くだけかもしれませんが、私はこのようなリアリズムは必要だと思います。

 この他にも医療は「公共財」として運営され続けられるべきなのか、市場原理にゆだねられるべき「通常財」として運営されるべきなのかなどといった、非常に本質的で深い問題を多く扱ったこの本は、良書です。次の著者のあとがきを読むまでもなく、医療を考えるためだけでなく、学校教育を考えるためにもこの本は重要な本になるかと思います。教育も、医療と同じように、実践者の資質や真面目さの問題だけでなく、制度・システムの問題、本来背負うべき適切な責任範囲の設定の問題などを絡めて考えなければならないからです。患者も学習者も消費者で、医者や教師に何でも要求できるし、医者や教師はまたそれらの要求に全て応えなければならないといった「文化」は医療と教育の現場を崩壊させかねません。

 この本を読んでいただいた方には分かっていただけると思いますが、崩壊しているのは、医療だけではありません。教育現場の崩壊は医療よりもっと大きな問題です。日本人そのものが変容しています。ある国立大学病院の院長は、「日本人のたががゆるんでいる」と表現しました。(216ページ)

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