2007年6月30日土曜日

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 10/10

9 改めて学問とは

 それでは授業力を高めるための一つの方法としての授業研究リテラシーを高めるためにはどうすればいいのでしょう。授業研究の共同体ができても、それだけではそこの授業研究のリテラシーは上がりません。また当然のことですが、実験研究のリテラシー向上(実験計画法や統計分析の勉強など)を通じても授業研究リテラシーは向上しません。

9.1 一般的知性と教養の強調

 1990年代から大学でも一般教養課程が弱体化し、社会全体でも専門的技能はもてはやされても、一般的知性や教養は軽んじられているように思えます。しかし医療現場で指導的立場にいる医師(前出の虎ノ門病院泌尿器科部長 小松秀樹先生)は『医療の限界』(新潮新書)で、指導的医師になるためには、知性、教養が不可欠なのに、医学部の6年間の教育では「文学、歴史、哲学、思想史といった思索を深めるような教養科目は二の次で、専門教育に偏りすぎています」(129ページ)と主張します。

9.2 教師の自由の確保

 小松先生は、「医師が、個人の能力を伸ばすための条件は、(1)たくさんの患者を診られる (2)勉強する時間がとれる (3)議論できる仲間がいる (4)他の交流ができる、ことです」(140ページ)とも述べます。教師が成長をするためには自由(とそれに伴なう責任)が必要ですが、現在は自由なしの責任ばかりが教師に課せられているように思います。私たちはそのようなことを身内で愚痴りあうだけでなく、教師には自由が必要であることを説得力ある形で社会に訴えなければならないのではないでしょうか。

9.3 本質的思考力の重視 

 自分の教育力不足は棚に上げた物言いをしますと、最近の学生さんは、非常に考えることが苦手です。大学入学までに、解法は手取り足取り教えられても、考えることはあまり促されなかったのではないでしょうか。一方大学も、手のかかる思考訓練はあまりせずに学生を社会に送り出しているのかもしれません。

 大学がこの思考力養成不足に対する反省を欠いていたら、「教職大学院」についても楽観できません。

 しかし、例えば「学力向上の指導法をどうするか」といった具体的な実践的課題を、少しでも想起してみればよい。「百ます計算」や「フラッシュ・カード」といった教育技術のレパートリーを覚えるだけでは、実際の子どもの学力は向上しないし、教師の資質も高まらない。教師たちが現場で直面しているのは、たとえば、何をもって学力ととらえ授業を構成するか、全国統一学力テスト実施をどうとらえるのか、テスト対策を授業の柱に据えるのか据えないのか、学校より受験を優先させる親にどう向き合うか、そもそも学習どころではない家庭環境の子どもをどう支援するか、その際家庭のプライバシーをどう考えるかといった、極めて論争的で政治的で社会的な問題だからである。

 教育実践は政治的・社会的実践そのものであり、あらゆる教育方針や教育技術は、一定の思想やイデオロギーを内包している。(中略)

 したがって、もしも教職大学院の教員が、教育技術の根底にある思想やイデオロギーに全く無自覚なまま、ハウ・ツーだけを伝達するなら、教師の資質は一向に高まらないだろう。あるいはもしも「学習指導要領には従え」「校長のいうことは聞け」などという一定のことがらが自明の前提とされ、物事を相対化したり複眼的に考える姿勢を失うなら、それはもはや学問に根ざした大学院教育としては到底認められないものとなる。もしも、疑問を差し挟むことさえ許されないなら、そこでの教育は洗脳になってしまう。

佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか」

『世界』(岩波書店)20076月号128ページ

 私たちは、今一度、学校教育の本質、英語教育の本質などというように、本質を考え抜く思考力を身につけなければならないのかもしれません。

 ボートのコーチングを「本業」、英語教育を「正業」と自称する松井孝志先生は、ボートのコーチングと英語教育を関連づけて次のように語ります。前五輪代表コーチの方が、大学のチームの一人の選手の動きを指導している際に、他の大学生に「あなたならこの選手をどう指導するか」と問いかけたあたりの引用です。

 大学生を対象に「あなたがコーチだったら、この選手の動きのどこをどう直すか?」とその選手のチームのメンバーに問うていく。様々な答えがでたところで、ひとこと。「この競技で一番肝心な目的に誰も触れていない」。学生たちは、このヒントではまだはっきりと認識できておらず、コーチがさらに言葉を継いでやっと理解できた模様。

 その目的を達成するために、いろんなテクニックが必要なのであって、手段が目的になってはいけない。常に、我々にとって一番の目的を達成しよう、思いっきり表現しよう、としてくれなければコーチは仕事が出来ない。ボートを始めて2か月の高校1年生たちは、君たちほど情報が入っていないからこそ、純粋にその目的を求め続けている。それに対して、君たちは色々な所から 情報を仕入れることで、枝葉の部分だけが膨らんでしまい、自分がその一番の目的を達成する邪魔をしてしまっている。

 その「一番の目的」を知らしめるために久々に見せてくれたデモンストレーションでの強さと美しさに感嘆。姿勢とはかくもしなやかで強く、ダイナミックなものになりうるのか。

 翻って、英語教育。その一番の目的とは?全国の教師がみな情報を仕入れることに躍起になってはいまいか?自分の目の前の生徒・学習者がその目的を達成するために何が必要なのか?「明日の授業ですぐに使えるアイデア、小技」といっても、それを何のために使うのか?「生徒中心の授業展開」とか「生徒の気づきを促す」、さらには「ハートで感じる」「コアイメージ」などといった余所からの借り物や受け売りではなく、一人一人の教師が自前の思考を継ぎ足すことが必要だろう。自分の足跡の中からしか再現するべきアイデアや小技は見つからないのではないか?「教わったように教えるな」という戒めは「教わることの否定」では ない。そうではなく、「自前で学ぶことの意義付け」とでもいうことなのだろう。我田引水ではダメなこともまた自明であろうが…。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070625

 本質的な問いかけをするということは、幅広い事柄を深く知り、考え抜くということだ。英語教育界にはそれが欠けているのではないか。それは同時に英語教育界には学問がないということを意味しないか。

ご静聴ありがとうございました

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