2011年8月14日日曜日

ルーマンによる「観察」「記述」「主体」の概念

以前のルーマン『社会の社会 1』のまとめと、『社会の社会 2』のまとめでは省略していた、「自己観察」、「自己記述」、そして「主体」といった概念の整理が、本年度の「言語文化教育プロジェクト」をまとめて研究発表するために必要になったので、ここに慌てて整理ノートを作りました。

自己観察・自己記述は、そのまま「リフレクション」に大きく重なります。リフレクションは教師の成長に役立つというのは『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』などで実例が上げられているとおりですが、自己観察・自己記述あるいはリフレクションをやりさえすればいいというのでもないでしょう。現実にはメンターなどがうまく教師の自己観察・自己記述を誘導するでしょうが、その成功もメンターの試行錯誤や直観だけに頼るのではなく、自己観察・自己記述の理論にも依拠すべきだと私は考えます。ルーマンの最後の大作『社会の社会』は自己観察・自己記述をテーマとする本と言ってもいいぐらいですから、今回、私なりにルーマンの論考を整理しようとしてみました。


しかしルーマンはやはり難しく、なかなか「わかった」という心底からの実感がわきません。武術の型と同じように、何度も何度も丁寧に読んで、ルーマンのの意味するところを身体レベルでわからないと、ルーマン的な考えができるようにはならないのでしょう。少なくとも、私がウィトゲンシュタインやアレントを読んだくらいには、ルーマンも繰り返し読まねばと思います(というより、読みたいです。なぜならルーマンは、新しい世界を切り開き、これまでの私には見えなかったものを見えるようにしてくれるからです)。

以下、自己観察・自己記述に関する記述で気になった箇所を翻訳書(『社会の社会 1』『社会の社会 2』)および原著)からそのまま引用し(注)、それに私の蛇足を付け加えます。ルーマンの専門家からすれば噴飯物でしょうが、私は自らの理解を形にしてそれをよくよく見てみなければ(自己観察!)自分の誤解がわからないので、このように形にしてみる次第です。



■観察とは、あるものを際立たせることである。

ルーマンのいう「観察」(Beobachten)とは、この世界から何かを切り取り、それを際立たせること(「区別と指し示し」)とまとめられるかと思います。


観察するということが意味するのは、「区別することと指し示すこと」だけである(本書の以下の部分では、観察概念を一貫してこの意味で用いる)。(1, p. 64)

Beobachten heißt einfach (und so werden wir den Begriff im Folgenden durchweg verwenden): Unterscheiden und Bezeichen. (1, p. 69)




■観察において、自分の観察自体は盲点となる。しかしその観察こそが自己を成立させている。

しかし、観察において何かを切り取り際立たせると、その観察からこぼれ落ちてしまったものはわからなくなります。ということは、観察をしている観察者は、自分が行っている観察の全体像を見ることができないと言えるでしょう。しかしその観察こそが、観察者という自己を成立させているわけです。


観察にとって重要なのは、ヘーゲルの言う意味で弁証法的に[すなわち、自己の中に対立するものを包摂し統一するというように]ふるまわないことである。というのは、観察は観察としての自分自身を、観察されるものから排除しなければならないからである。そこでは観察者は、どんな区別を用いているかにかかわらず、排除された第三項となる。しかし観察者自身の作動のリアリティをオートポイエーシスによって保証してくれるのは当の観察者なのであり、観察者だけなのである。さらに同時性という様式において世界として前提とされねばならないものすべての現実性に関しても、やはり観察者だけが保証してくれるのである。(1, p. 192)

Sie darf gerade nicht, im Sinne Hegels, dialektisch verfahren, sondern sie muß sich selbst als Beobachtung aus dem, was sie beobachtet, ausschließen. Dabei wird der Beobachter, gleichglütig welche Unterscheidung er verwendet, zum ausgeschlossenen Dritten. Aber gerade er, er allein, gerantiert doch mit seiner Autopoiesis die Realität seiner eigenen Operationen und damit die Realität all dessen, was dabei im Modus der Gleichzeitigkeit als Welt vorausgesetzt sein muß! (1, p. 178)




■自己観察と自己記述は、自己言及的であり、論理的に扱いづらい。

それではその自分の観察をよく観察しましょうか。

自分の行う観察を観察すること(自己観察)、およびその自己観察を言語化すること(自己記述)は、自分が自分を観察・記述するという構図であり、観察・記述の主体が、観察・記述の対象(客体)であるという事態となっています。ここに一筋縄ではいかない問題がありそうです。


自分自身を記述し、自分自身の記述を含むシステムという構想によって、われわれは論理的に扱いづらい地点へと足を踏み入れることになる。(1, p. xi)

Mit dem Konzept des sich selbst beschreibenden, seine eigenen Beschreibungen enthaltenden Systems geraten wir auf ein logisch intraktables Terrain. (1, p. 15)




■旧来の認識論:主体と客体の峻別と両者の不変性

しかし、伝統的な認識論は、自己観察・自己記述の困難を正面から取り上げようとはしません。なぜなら伝統的認識論は、認識する主体と認識される客体を峻別することを前提としているからです。認識の際にきちんとした方法を取る限りにおいて、主体は誰であろうとも、客体を同じように認識できると想定します。方法論に従っている限り主体は同じであり、主体の認識によって客体が変化するなどとは想定していません。


われわれが(本書においても)さしあたり無反省に従っている西洋の伝統においては、自己記述とは認知(Kognition)であると把握されるのが自然である。そこでは認識する主体と認識される客体とが区別され、分離されているということが前提となる。そしてまた、認知は特別な規則に服するのであり、そうすることによって個々の主体の特性や先入見が影響を及ぼすのが妨げられるはずであるという点も同様である。さらに客体(ここでは、全体社会)が、認識されるという手続きの中で変化することはないという点も前提となる。認識は、主体の側で間主観的な確かさを追求すると同時に、安定した客体を前提としているのである。(2, p. 1164)

In der abendländischen Tradition, der wir (auch in diesem Buch) zunächst unreflektiert folgen, liegt es nahe, Selbstbeschreibung als Kognition aufzufassen. Das setzt voraus, daß das erkennende Subjekt und das erkannte Objekt sich unterscheiden und trennen lassen, daß die Eigenarten und Vorurteile der einzelenen Subjekte sich auswirken, und daß das Objekt (in unserem Falle: die Gesellschaft) sich nicht dadurch ändert, daß es einem Verfahren des Erkanntwerdens ausgesetzt wird. Die Erkenntnis sucht intersubjektive Gewißheit auf der Seite des Subjekts und setzt stabile Objekte voraus. (2, p. 867)




■主体は確固たる実体ではなく、認識と行為の際の基盤として成立しているにすぎない。

ですが、現代のシステム理論によるならば、私たちはオートポイエーシスシステム、つまり自分を基盤にして(=自己言及的に)、自分を再生産(=自己組織化)しているシステムであり、認識や行為をする度に自分自身が変容してゆきます(常識的に考えても、経験は私たちを変えてゆきます。経験により一切変わらない自分というのは少なくとも私には考えがたいです)。私たちは、認識や行為などの経験により自分を創り出しています。経験こそは自分であり、そこでは経験する主体と経験の対象である客体の峻別など想定しにくいものです(そもそも東洋では主客の峻別をあまり行わない認識を行っていましたが、西洋近代の教育を受けた私たちの多くは、むしろ主客は峻別されることこそが当たり前だと考えるようになっています)。



主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(2, p.1166)

Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (2, p. 868)




■認識や行為などを欠いた純粋な自己は自存せず、自己は認識や行為においてそれらの基盤として想定される。

「本当の自分」(自己)などという言葉はしばしば使われますが、誰もそれを把握できません。私という人間があるからには、「本当の自分」(自己)なるものがあるはずですが、私たちが日常的に経験するのは、自らの認識や行為だけであり、「自己」とは、認識や行為がある限りあるはずのものだと私たちが考えているものです。ここでは詳述する準備がありませんが、木村敏氏(総括的な書として『精神医学から臨床哲学へ』などを参照)もこのような自己論を展開していると私は理解しています ― 木村敏氏の著作は約2年前に集中的に読んだのですが、まとめる機会を逃して現在に至っています。認識や行為により自己は同定されると言えましょうか。



したがって意識の理論を引き合いに出して、「自己言及的に作動することにより基準なしに自己同定がなされる」と述べてもよい。(2, p. 1167)

Im Anschluß an die Bewußtseinstheorie kann man daher auch von kriterienloser Selbstidentifizierung des selbstreferentiellen Operierens sprechen. (2, p. 869)




■作動する自己は、意識されない自己を含むものであり、自己は自らの全体像を自己観察・自己記述することはできない。

認識や行為から離れた純粋な自己は想定し難くとも、認識や行為において作動する自己は想定できるものでした。いや、想定できるというより、何かを認識したり、何かを行ったりする時、私たちは意識的であり、その意識こそは生き生きとした自分として経験されます。

しかし意識は自己のすべてではありません。フロイトらのいう無意識、神経科学が解明する非意識なども自己を構成しています(そしてこれらの研究は、無意識や非意識が私たちの認識や行為を大きく決定していることを教えています)。

ですから、私たちが自らの意識を観察し、それを記述しても、それは意識という自己を観察・記述した限りにおいては正統な自己観察・自己記述でしょうが、無意識・非意識を観察・記述できていないという点では、正統な自己観察・自己記述とは言えません。やはり自己観察・自己記述は一筋縄ではいかないようです。



主体は意識的に作動する。しかしそうしうるためには無意識の基礎が必要である。この基礎が、意識されえないものすべてを引き受けねばならないのである。ふたつの側からなるこの形式そのものが、われわれが「自己記述」という表題のもとで取り組むことになる問題への反応でもある。自己記述とはすなわち、何かを指し示し他のものを指し示さないでおくということに他ならない。自己記述は自分自身を正統化すると同時に、脱正統化しもする。(2, p. 1169)

Es [=Das Subjekt] operiert bewußt, braucht aber, um dies tun zu können, eine unbewußte Grundlage, die all das aufnimmt, was nicht bewußt werden kann. Diese Zwei-Seiten-Form reagiert beteites genau auf das Problem, das uns unter dem Stichwort Selbstbeschreibung beschäftigen soll. Eine Selbstbeschreibung kann gar nicht anders als: etwas bezeichnen und anderes im Unbezeichneten belassen. Sie legitmiert und delegitimiert sich selbst in einem Zuge. (2, p. 871)




■自己観察・自己記述の自己言及性が、自己を変容させる。

自己が自己を観察・記述しようとします。しかし観察・記述される自己は、観察・記述する自己でもあり、観察・記述する自己は、その対象であるはずの観察・記述される自己の中に自ら入り込んでしまっています。逆に、観察・記述する自己は、自らを観察・記述している以上、観察・記述された自己が、観察・記述する自分自身に入り込んでしまっています。このあたりの自己言及のややこしさはエッシャーの絵がうまくイメージを表現してくれています(参考:ホフスタッターHofstadter)。



自己観察の場合と同様に自己記述(テクストの作成)も、システムの個々の作動である。そもそも記述と記述されるものにおいて問題になっているのは、ふたつの分離した、外的にのみ結びつけられうる事態なのではない。自己記述において記述は常に、記述されるものの一部である。記述が登場し観察に晒されることだけからしてすでに、記述されるものを変容せしめることになる。(2, p. 1182)

Ebenso wie Selbstbeobachtungen sind auch Selbstbeschreibungen (Anfertigen von Texten) Einzeloperationen des Systems. Überhaupt handelt es sich bei Beschreibung und Beschribenem nicht um zwein getrennte, nur äußerlich verknüpfte Sachverhalte; sondern bei einer Selbstbeschreibung ist die Beschreibung immer ein Teil dessen, was sie beschreibt, und ändert es allein schon dadurch, daß sie auftritt und sich der Beobachtung aussetzt. (2, p. 884)




■「自分らしさ」は絶対的な客観性ではなく、自己観察・自己記述の回帰的安定

「『自己観察・自己記述が自己を変容させる』とはいえ、安定した自己イメージを私たちの多くは持っているではないか」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。「安定した自己イメージは、真の自己を捉えたものだ」とも仰るかもしれません。

しかし観察・記述といった作動そのものが自己言及的である以上、私たちは自ら(主体)とは独立分離した客体の存在、およびその客体の観察・記述を考えることができません(私は屁理屈を言っているわけではありません。同じ物理世界に住んでいるはずの人間と犬の認識は大きく違います。同じ人間の間でも認識が異なることは私たちが日常的に経験していることです ― もっとも自然科学は機械的な測定を共通のモノサシとする方法論で認識を統一させようとしていますが、機械的測定ができない人間的な認識において私たちの認識が大きく異なることは周知の通りで、だからこそ質的研究を嫌う研究者も多いわけです)。

ですから、自らとは異なる他者の観察・記述(観察・記述の自己言及性を考え「他己観察・他己記述」と表現することもできます)よりも困難な自己観察・自己記述において、仮に安定した自己像が出てきたとしても、それは真の客体(としての自己)の姿を捉えたとは考えられません。自己観察・自己記述の自己言及が回帰的に繰り返される中で、ある種のパターンに落ち着いてきたと言うべきでしょう。ですからそれは真の自己像というより、自らの観察・記述の癖あるいは特徴です。


さらに加えて、自己観察と自己記述が事実的にコミュニケーションとして実行されるたびに必ず、まさにそのように作動することを観察し記述する可能性が与えられもする。システムは、リアルに作動すること以外は何もなしえない。それゆえにあらゆる自己観察と自己記述もまた、不可避的に観察と記述に晒されるのである。あらゆるコミュニケーションは、それ自体コミュニケーションのテーマとなりうる。だがこれはすなわち、肯定的ないし否定的にコミュニケートされること、受容ないし拒絶されうることを意味している。したがって相対的に安定した自己記述が形成されるのは単に、所与の客体に説得力あるかたちで到達するという形式においてではなく、その種の記述を回帰的に観察し記述することの帰結としてである。数学的サイバネティクスではその種の帰結はシステムの《固有値》とも呼ばれている。(2, p. 1186)

Außerdem ist mit dem faktisch-kommunikativen Vollzug aller Selbstbeobachtungen und Selbstbeschreibungen die Beobachtbarkeit und Beschreibbarkeit eben dieses Operierens gegeben. Das System kann ja nicht anders als real operieren. Jede Selbstbeobachtung und jede Selbstbeschreibung setzt sich daher umvermeidbar ihrerseits der Beobachtung und Beschreibung aus. Jede Kommunication kann ihrerseits Thema einer Kommunikation werden. Das heißt aber daß sie positiv oder negativ kommentiert, daß sie angenommen oder abgelehnt werden kann. Relativ stabile Selbstbeschreibungen bilden sich daher nicht einfach in der Form des überzeugenden Zugriffs auf ein gegebenes Objekt, sondern als Resultat eines rekursiven Beobachtens und Beschreibens solcher Beschreibungen aus. In der mathematischen Kybernetik nennt man ein solches Resultat auch einen »Eigenwert« des Systems. (2, p. 888)


この自己観察・自己記述の癖あるいは特徴を知ることができれば、つまりは自己観察・自己記述をさらに自己観察・自己記述できれば、私たちはさらに自らの異なる側面を知ることができます。「自己」とは、自らから独立分離した客体ではない以上 ― そもそもシステム理論的には客体は考えられない以上 ― 、自己観察・自己記述という自己理解に終わりはありません。最終的な正解がないからです。とはいえ、さらなる自己観察・自己記述を促すような興味深い自己観察・自己記述はあるでしょう。そのような自己観察・自己記述を行うためには、自己観察・自己記述を停滞させる自らの自己観察・自己記述の癖に気づくべきかもしれません。

いや結論を急ぐべきではないでしょう。私たちは、もう少し丁寧に、自己観察・自己記述(ということはリフレクション)について理論的に考えるべきだと私は考えます。またその理論の妥当性を検討するため、実際のデータと付きあわせるべきだと思います。冒頭に述べた研究発表では、そのような理論的考察とデータとのすり合わせを行いたいと考えています。



(注)
ドイツ語の原文を引用したのは、私がドイツ語が読めるからではなく、読めないからです。私のドイツ語の力は、出来の悪い高校1年生の英語力ぐらいですが、ウィトゲンシュタインやアレントと違って、ルーマンには英訳があまりありませんから、日本語訳かドイツ語原文をきちんと読まなければなりません。これまで日本語中心で読んできましたので、今回、少しでもその事態を改善すべく、ドイツ語を引用しました。

しかし恥ずかしながら文法構造で明解にわからないところはありますし、何より引用するだけで多くの間違いをして非常に時間がかかってしまいました(今もきっと間違いは残っていることだろうと思います。私は英語ですらスペルチェッカーがないと多く間違いをしてしまう人間ですから)。タイプするのに非常に時間がかかり、時に行を飛ばしてタイプしていたのには自分でも嫌になりました。

私が大学院時代にきちんとドイツ語を勉強しておくべきだったという個人的反省はつきませんが、語学教師として面白かったことは、英語の劣等生の気持ちが再認識できたことです(私はドイツ語をやり直す度にこの認識を得ています)。この経験は英語教師としての私の力量にプラスに働くと思っています。

個人的考えをさらに書きますと、私は英語教員の研修は、もっと実技系を重視するべきと考えます。もちろん日本語で理論をつめることは大切です(私は理論の大切さを訴える点で人後に落ちません)。しかし研修で、小難しい理屈などばかりが日本語で詰め込まれている様子を聞いたりすると、研修にはもっと実技が入った方がいいのではないかと思わざるを得ません。英語力の低下を日頃感じている教員には英語そのものの研修を、英語力はある程度ある教員には第二外国語の研修を提供すれば、それは前者には教育内容の、後者には教育方法のいい研修となるのではないかと思います。

繰り返すようですが、外国語習得は知的な技芸習得です。自ら外国語学習・外国語使用をあまりしないで、日本語ばかりで理屈を言っても仕方ないと私は考えています。技芸を極めれば、理屈はついてきます。逆に、技芸を極めない者の理屈は屁理屈であることが多いので、このようなことを言挙げする次第です。

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