2011年8月29日月曜日

船川淳志『英語が社内公用語になっても怖くない グローバルイングリッシュ宣言!』 (講談社プラスアルファ新書)

時間がないから単純化して短く書く。

「文法かコミュニケーションか」という相互排他的で不毛な議論が続くのは、その議論を行う者が英語を使ってのコミュニケーションを十分に行っていないからである。コミュニケーションの深い経験がないから、コミュニケーションで何が大切かがわかっていない。コミュニケーションの中で重要になってくる文法とそうでない文法の区別もできていない。

この本の著者(船川淳志氏)は、英語を通じてのコミュニケーションについて端的に言う。



発音よりも発言

文法よりも論法
 

(16ページ)



その「発言」「論法」は、例えば"why?", "so what?", "what if?", "why not?"で議論を吟味することだと著者は言う(178ページ)。「発言」「論法」がこれで尽きるとは思わないが、コミュニケーションの重要点を理解しておくことは大切だ。この理解がないと、上のスローガンも次のように変わる。



発音は適当でいい。

文法はいらない。



「発言」「論法」を教えずに、それらより当面の重要度は低いとされた発音や文法もいいかげんにしか教えないから、生徒の発音は他の英語話者に通じないものになる。文法も複雑なことを表現どころか理解もできないようなものにしかならない。これはもはや英語の教育でも言語の教育でもない。世間をごまかす時間つぶしである。

このような授業が「コミュニケーション」のスローガンのもとになされるなら、反対派が出てくるのは当然である。しかしその反対派が、もし自らコミュニケーションの経験が乏しい者であれば、文法教育は自己目的化した「受験英語」タイプに舞い戻ってしまう。生徒に理解させ活用させることより、教師が説明することに懸命になる。原則より、細部の例外に拘る。かくして生徒は簡単な英語も使えないままとなる。

自分自身のコミュニケーション経験が乏しい者が妙な劣等感(およびその裏返しの優越感)に絡み取られると「英語マニア」になる。自ら英語を使って何かを成し遂げるよりはるかに多くの時間を他人の英語の粗探しに費やす。ねちねちと日本語で他人の英語についての論評ばかりをする。そうして他人を英語使用を極度に怖がったり嫌ったりする「英語フォビア」に変えてしまう。


本書はビジネスの現場で英語コミュニケーションを重ねてきた著者が、日本にはびこる「英語マニア」や「英語フォビア」の認識を打ち破り、より多くの日本人にもっと英語を使って活躍してもらうために書かれた本だ。

人としての「発言」、議論の「論法」を重視したコミュニケーションを重ねてゆけば、その深まりに応じて発音も文法も大切になってゆく。優先度からすれば昔日の「受験英語」時代の文法重視はやりすぎだった。しかし近年多く見られる(「発言」も「論法」も考えず)ただベラベラといいかげんな発音の英語まがいの音で、ダラダラと文法もほとんど必要としないような中身のないことばかりを話させることは「産湯と共に赤子も捨てる」ことに他ならない。

自ら英語コミュニケーション経験が乏しい英語教師は、まずは本書のような本を読んで認識を改めるべきかもしれない。いや、それよりもとにかく自ら英語を使おう。新刊の『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』「ネットワーク感覚を身につける」の章にまとめたし、このブログのICT関連記事でも再三再四書いている方法を使えば、短時間でもかなりの学びができるはずだ。

少なくとも若い世代の英語教師は、自ら英語コミュニケーションの経験を深めて、「文法かコミュニケーションか」といった不毛な二項対立に絡め取られないでほしい。


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