2007年8月1日水曜日

英授研でのQ&A 1/4

英授研での講演を無事終えることができました。陰で支えてくださった同学会の事務局の皆様、司会をしてくださった中嶋洋一先生に心から感謝します。以下は講演のQ&Aセッションでの質疑応答、および懇親会でのインフォーマルな質疑応答を、私が補筆・再構成したものです。講演のあと常用PCがクラッシュしてしまったので、掲載が遅れてしまいました。

【講演のQ&Aセッションでの質疑応答の補筆再構成】

Q1: 授業研究リテラシーを高めるためにわれわれがもっと授業だけでなく、授業研究についても語り合わなければならないということはわかりました。その時に「自前の思考」が必要だというのも同意します。しかし語り合うためには共通の語彙が必要です。私たちは授業や授業研究を語り合うための共通の語彙を持っているのでしょうか?

A1: 語り合うためには共通の語彙が必要だというのはその通りです。私たちは日本語(あるいはある程度まで英語)という共通の日常語を持っていますが、その日常語では必ずしも適確に授業や授業研究について語り合うことができません。そこで専門用語が必要になってきます。

 これまで英語教育は、多くの用語を心理学や言語学やSLAから借りてきました。専門用語を借りてくること自体は全く悪くありません。ただ「寝台に合わせて足を切る」ように、ある特定の専門用語を無理やりに英語教育に持ち込んで、その専門用語使用が英語教育の現象を豊かに掘り起こすことができるのかの吟味を欠いたまま、他所からの専門用語を使い続ける研究者がいたことはよくないことです。またそれ以前に他の学問分野の専門用語を一知半解で誤用し、用語だけ新奇なものを使うが、その語りの実質は日常語による語り以下といった研究者もたくさんいます(私がその筆頭かもしれませんが(笑)。これもあきらかによいことではありません。

 しかし他の学問分野を、安易な「応用」など考えずに、しっかりと勉強して慎重に使うことにより、英語教育のディスコースは確実に豊かになります。今回私も「生態学的言語習得論」やら「存在論」といった専門用語を導入しましたが、それらの用語が、第一に正しい理解に基づいているか、第二にその導入により、英語教育でこれまで見えなかった(見えにくかった)ことが見えるようになったのかを、吟味する必要はあるでしょう。その吟味の結果、こういった用語を有効な語彙として使い続けることは意義あることだと考えます。

 またどこからか用語を借りてこずとも、自然発生的に用語が定着してゆくこともあります。さきほど出た例ですと ‘backward design’がそうでしょうし、先ほどの「授業の見取り方」とかいった言葉もそうでしょう。こういった言葉が、私たちの討議を豊かにしてゆくなら残り続けるでしょうし、そうでなければ廃れてゆくだけです。いずれにせよ、英語教育の現実をどう適確に語れるかという視点から、私たちが様々な用語を使い続け、やがていつかいくつかの用語に落ち着いてゆくというのがあるべき姿かと思います。

 私が本日言いたかったことは「授業の批評」だけでなく、「授業の批評の批評」も必要だとまとめられますが、それは「授業の批評の批評の批評」も必要だということを意味します。この批評の連続に最終的裁定者は想定するべきではありません。誰も最終の、あるいは最高の裁定をする立場にはいません。あるのは、相互に批評を読み合い、それについて語り合うなかで生まれてくる合意であり理解です。そして余談になりますが、この合意や理解こそ、アレントの言う ‘power’(「権力」あるいは「活力」)ではないのでしょうか。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418

0 件のコメント: