2007年8月1日水曜日

英授研でのQ&A 2/4

Q2 最後に引用された松井孝志先生のコーチングの「目的」の話はとても共感できました。だからやはり柳瀬先生の「英語教育の目的」をぜひお伺いしたい。もちろん柳瀬先生が口頭説明で、 ‘question’ ‘problem’の違いを述べたことは分かりました。「英語教育の目的とは何か」などというのは、すぐに解答が与えられる ‘question’ではなく、私たちが問い続けるべき ‘problem’ということは理解しているつもりです。しかしやはり柳瀬先生のお考えを聞いておきたい。

A2 まず‘question’ ‘problem’の違いについて補足説明したいと思います。この違いは様々な人々がうち立てているものですが、ここではアレントウィトゲンシュタインの言葉を引用しながら簡単に説明します。

 アレントは『精神の生活』(The Life of the Mind)という著作のなかで、 ‘thinking’(「思考」、「考えること」)を、 ‘cognition’(「認知」)と対比して整理しました(ちなみにここでの ‘cognition’とは古典的な ‘cognitive science’が想定する ‘cognition’と同じものとみなしてかまわないと思っています)。

 

 彼女によると、「認知」とは、「知性」(Intellect)の働きによるもので、知覚による証拠によって実証される「真理」(truth)を決定するものです。一方、「考えること」とは、「理性」(Reason)の働きによるもので、「意味」(meaning)を追求します。


 現在は調べたら必ず答えが出る「認知/知性/真理」系の問いばかりが持てはやされるように思います。ちなみに、科学者はこの系統の問いばかりを扱います。科学者は、答え(answer)を求められる確実な方法(method)がある問い(question)だけをresearch questionとして設定します。方法論が得られない問題は「科学的でない」として打ち捨てます。それが科学者の職業的責任というものでしょう。

 しかし答えが出ようもない「問題」(problem)も人間にとっては重要です。最終的な答えが出ない問題に辛抱強く「ああでもない、こうでもない」と付き合い続けることが、実はquestionresearch questionを作り出す根源でもあり、また芸術の根源でもあるからです。いわば私たちの文明の全てを底で支えているのが、この考えることであり、理性的に意味を追求することなのです。

 アレントの言葉を続けますと、この考えることは、少数者の専売特許ではなく、能力としては万人に常に開かれているものです。逆に、考えることができないという状態は、知力の足りない人々のおかす失敗なのではなく、可能性としては万人にとってつねに存在しているものであり、科学者や学者のような精神的営為の専門家たちも例外ではありません。いや、むしろ分野によっては専門家の方が「考えて」いないことすらありえます。専門家の限定的な専門知だけでは、「問い」(question)に解答(answer)を与えることはできても、「問題」(problem)を「考える」ことができないのです。

 ウィトゲンシュタインは次のように言います(日本語訳より英語訳の方がわかりやすいので英語訳を引用します)。

We feel that even if all possible scientific questions be answered, the problems of life have still not been touched at all. Of course there is then no question left, and just this is the answer. (Ludwig Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus 6.52)

単純な区分け的言い方をすれば、人生や社会の「問題」は、科学的「問いと答え」が尽き果てた後に考えられなければなりません。科学的「問いと答え」は重要であり、現代社会にとっては必要ですらあります。しかし科学的「問いと答え」には限度というか、範囲があります。それだけでは十分でありません。言ってみるなら哲学的な「問題」を、考え続けることも重要であり必要なのです。

 と前置きが長くなりすぎましたが、「英語教育の目的とは何か?」という疑問文は、知覚的証拠を求める「問い」(question)ではありません。ですからすぐに「解答」(answer)を求めるべきではありません。この疑問文は「問題」(problem)です。私たちは知覚的証拠ではなく、意味を理性的に追求するべきなのです。

 ですから、私のこの「問題」への答えは、決して最終的なものでもなければ、反駁のできないものでもありません。むしろこの答えが新たな「問題」となり、さらなる意味の探究が促される類のものです。

 一言で私の考えを単純に述べますと、「英語教育の目的とは、グローバリゼーションへの対応」ということです。これについては、大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと』(慶應大学出版会)の小文である程度書きましたので、ぜひそちらをお読みください。


 しかし、ここであえて簡単にその要旨を述べます。私たちは、日本という国で、日本史を生き抜いていますが、それは世界史を生き抜いていることも意味します。英語教育という営みは、日本の学習者に、日本史だけでなく、世界史をも生き抜く視点と感覚を与えるべきだと私は考えます。

幕末から明治初期については、私たちには植民地体制への対応という世界史的変動がつきつけられました。第二次大戦後は民主化と経済復興という世界史的変動がつきつけられました。冷戦が終わり、「情報革命」が進んでからは「グローバリゼーション」と私たちが今呼んでいる世界史的変動がつきつけられました。英語教育とは国のレベルで考えれば、これらの世界史的変動に対応するための一つの重要な手段だと私は考えています。

 誤解のないように申し上げておきますが、「グローバリゼーション」だからといって、日本国民の100パーセントが英語を話さなければならないとかいう短絡を私は申し上げているわけではありません。しかし「グローバリゼーション」という世界史的変動は、日本の中の格差問題などの形で全国民に影響を与えています。グローバル化した世界の中で、もっとも強力な媒介手段と考えられる英語に関して、日本国は、国民にどのような学習のアクセスを与えるのか、またどのような方向の英語教育を目指すべきなのか、そうしてどのようなグローバルな結びつきをもつ日本社会を作り上げてゆくべきかということを「グローバリゼーション」という言葉を通じて、さらに問い続けてゆこうというのが私のとりあえずの答えです。言葉足らずなので、このことはいつかまた改めて考え直して文章にできればと思います。

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