2007年8月3日金曜日

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 4/5

3 [同意] 英語教育界におけるEP, AR, SRの役割区分

EPもARもSRも独自の貢献をする研究である。SRやARを全面否定することは愚かである。

3.1 [応答] しかし実践者が最優先するべきなのはEP

実践者が最優先するべきはEPであり、その後にAR、さらにはSRが来るべきである。だが、EPからARへ、ARからSRへと移っていくことは、「進歩」として捉えるのではなく、「特殊化」「特異化」「変異化」として捉えられるべきではなかろうか。SRの一般法則定立は、しばしば私たち教師の実践感覚の喪失であり、ARの問題解決は、時に、私たち教師が「機能」中心の見方をする存在へと変容してしまうことを意味する。EPがARやSRに「変異化」しないことは、とがめられるべきことではない。

⇒研究観により、人間観、つまり、学習者観、教師観(実践者の自己認識)も変わりうる。研究者は、自らの(非意図的・意図的な)影響に対して、十分に自覚的であるべきである。

[理由] 教師の《理解》なくして、学習者を尊重する学習の支援はできない。SRおよび時にARは教師の《理解》を損なう恐れがある。

3.2 [根拠] 学習者の存在論

学習者は、《共現存在》として捉えられるべきである。学習は、世界の《有意義化》を通じての学習者の《実存》として捉えられるべきである

・《世界内存在》としての私たち《現存在》は、私たちが気づくより前に、《関わり》の中に投げ込まれている存在である((《被投性》(Geworfenheit))。私たちは自らが他者に《関わり》(正確には《対人的関わり》(Fürsorge))をもつと同時に、他者によっても《関わり》(《対人的関わり》)をもたれる存在でもある。これらの意味で私たちは《共現存在》(Mitdasein)である。

・また《現存在》は、物と他者に関わるだけでなく、自分自身にも関わる。《現存在》は「汝があるところのものになれ!」(Werde, was du bist!)と、自らを可能性の中に投げ込む(《企投》(Entwurf)する)存在でもある。

・《現存在》が自分自身にある態度をとることができ、また実際に何らかの態度をとっていることを、《実存》(Existenz)と呼ぶ。

・《理解》とは、《現存在》のあり方としての《実存範疇》(Existenzial)である。

・《現存在》は、他の《世界内存在》や自分自身とかかわりをもつことを根源的に《理解》する。これを《有意義化》(Bedeutsamkeit)と呼ぶ。

・《真理》とは、さまざまなかかわりが《発見されていること》(Entdecktheit)であり、また《発見しつつあること》(Entdeckendsein)である。

真理概念

定義

真理論の種類

獲得方法

獲得の結果

伝統的「真理」

主観と客観の一致

認識論

「方法」による《事物的存在者》の測定

《陳述》

ハイデガー的《真理》

他の《世界内存在》との《関わり》が「現にそこに」《開示されていること》

存在論

世界の《有意義化》を通して《理解》すること

《実存》

表3 伝統的「真理」とハイデガー的《真理》

⇒学習者とは、教師にとって《共現存在》であり、彼/彼女自身にとって《現存在》である。学習者は自分自身に対して常にかかわり、自分自身を可能性の中に《企投》しようとしている。教師は学習者の《(共)現存在》性を《理解》しない限り、学習者と人間的な関わり合いをもっているとはいえない。

⇒英語の学びとは、英語という、もともと学習者にとっては《事物的存在者》に過ぎなかった外国語を、《道具的存在者》へと《有意義化》することである。その学びによって、学習者の英語は、他の《道具的存在者》や《共現存在》などの《世界内存在》との《関わり》をもたらし、かつ新たな自分自身への《関わり》をもたらすようなようになる。その意味で学びは《実存》であり、教師とは学習者の《実存》に付き添う存在である。その《実存》により《真理》は開示されてゆく。

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