2011年11月26日土曜日

"I if become soccer player is play hard" あるいはS V Plusについて




ある中学生が書いた英文は、


I if become soccer player is play hard.


だった。

「ボクは、もしサッカー選手になったら、がんばってプレーしたい」の直訳的表現だろう。全国いたるところでこのような「英語」を書く中学生・高校生は見られる(いや、一部の大学生だってそうだろう)。


私は今、武術を教えていただいているが、私の技には穴だらけなのにもかかわらず、指導者は一番大切なことの指導だけに集中してくださる。私の技の欠点(例えば)7つを同時に指摘することなどせずに、その武術を成立させているもっとも大切な術理の体得だけに指導を絞り、なんとか私の技が武術の技として成立することに専心してくださる。

英語教師というのは、生徒よりはるかに英語ができるのだから、生徒の英語を見たらすぐにその間違いを指摘したがる。それもすべて。

しかし、もし私の武術の先生が私の技の間違いをすべて一時に指摘し修正しようとすれば私が意欲を失い自分は駄目だと思ってしまうように、多くの生徒も間違いをすべて指摘され修正を求められたら意欲や自信を失ってしまうかもしれない。(ついでながら言うと、もし私の武術の先生が、毎回秘かに「客観的なキジュン」で私の「関心・意欲・態度」を評価しており毎期末にそれを私に厳かに告げるのだとしたら、私はしらけるか呆れてしまうだろう。私が稽古に望んでいることはそのようなことではない ― 学校教育の慣行を、自分の武術稽古と重ねてみると違和感を感じることが多い ―)。

話を指導に戻すなら、指導者がやらなければならないことは、もっとも大切な点 ― そこを欠いては技が技として成立しない術理 ― が何かを見極め、そこを学習者が体得することに工夫を凝らすことだろう。


それでは中学英語にとって最も大切な点とは何だろう。中学英語での学習項目のうち、どこが駄目なら英語のコミュニケーションが成立しなくなるのだろう。


発音を除くなら、それはやはり語順だろう。あるベテラン中学教師にも同意していただいて意を強くしたが、まずは中学生に、英語とは、


S V Plus


の言語であることを体得させることだろう。

まず明確に主語(日本語の「主題」ではなく、agentであることが多い)を述べ、続いてすぐに動詞(多くはactionを表す)を述べる。続いて、そのSVのメッセージが必要とする限りの情報(Plus)を付け足す。当面必要とされる情報が埋められれば文は完成。そうでなければ必要な情報を適切な形式で追加する。この順番で必要にして最小限の単語を適切な形式で加えてゆく。(参考記事:「田地野彰先生と田尻悟郎先生それぞれによる学習英文法書」

無論、この原理以外にも大切なことはたくさんある。この原理以外を最も大切な原理と考える方もいらっしゃるかもしれないし、またこの原理を別の方法で表現される方もいらっしゃるかもしれない。だがともあれ、指導者は、英語でのコミュニケーションのために最も重要なことを見極め、そこの指導を徹底しなければならない。そしてそこがかなりの程度できるようになったら、次に大切なことの指導に移るようにすべきだろう。


いずれにせよ、日本の英語教育研究というのは、


I if become soccer player is play hard.


といった目の前の現実から始めなければ、砂上の楼閣だろう。




追記

S V Plus 以前の大切な点の一つは、アルファベットの弁別的特徴distincitve feature)だろう。

たとえばこのフォントでの"a"は、"d"と右側の縦線の曲がり具合により弁別されるが、この曲がり具合はどのくらい小さくなれば"d"となるのだろう。あるいはこの縦線が短くなればそれは"a"(このフォントのような曲線でなく、短い右縦線を使う「エィ」)と認識されるが、その垂直線はどのくらい短ければ「エィ」でどのくらい長ければ"d"なのだろう。アルファベットの26文字は、相互にどのように弁別されるのだろう。また、それぞれの文字のプロトタイプの特徴とは何なのだろう。

こういった実践研究は、きっと過去にもなされてきたのだろうと思うけど、残念ながら私は知らない。誰かご存知でしたら教えていただけませんか? もしそんな研究が過去にはなかったら(今は忙しくて実現可能性があまり高くないけど)、一緒に研究しませんか?





6 件のコメント:

Cominensky さんのコメント...

アルファベットの弁別的特徴(distincitve features)の例として"a"と"d"が挙げられていましたが、生徒は"b"と"d"を混同しやすいというのが経験的な感想です。"dog"と書こうとして"bog"と書く等。若林俊輔(1990)『英語の素朴な疑問に答える36章』(ジャパンタイムズ)のどこかに筆者自身が"b"と"d"の区別に苦労したと書いてあったと記憶しています。ご参考になれば…

柳瀬陽介 さんのコメント...

Cominenskyさん、

コメントをありがとうございます。そう、bとdの混同が典型例ですよね。

これについては私はある中学生の知恵をいつも拝借しております。

「いい、bとdの書き分けは簡単なのよ。ほら、b, c, dの順番で書くでしょ。だからcの後に書く時は、cの穴が空いている方を埋めてあげるの。そうすれば、それがdよ」。


私は、こうした小ネタを集める読者投稿型サイトがあればいいと思っています(さらに他の読者による小ネタの評価システムなどもついていればいいですよね)。どこかの企業が、こういった技術提供をしていただけたら、その企業のイメージもアップするのですが・・・

toffee さんのコメント...

コメント失礼します。

私も先ほど空手の稽古から帰ってきて、先生のブログを読みながら稽古の様子を思い出していました。

「回し蹴りがな・・・」と私の先生は言い、稽古が終ったあと個人的に回し蹴りの指導をしてくださいました。

腰が回っていない。膝の軌道がおかしい。軸足が回りすぎ。他様々な(たぶん私も7つくらい)ミスを指摘してくださり、およそ100本ほど蹴りこんだ後、「んー、まぁ最初よりだいぶイメージがつかめてきたね」と先生はおっしゃいました。たぶん最初と左程変わりなかったと少しおちこみました。しかし先生は笑顔で続けます。「ま、ゆっくりやることだよ」と。この方はすばらしい指導者だと思いました。

教育でも、このゆっくりやることを教師、生徒、保護者、社会が認識する必要があると思います。特に発音の体得には時間がかかります(武術と同じで身体的なことですから)。

残念ながら、まだまだ英語の獲得に速さを求める方が大勢いらっしゃいます。スピードを売りにしている商品もあるくらいですからorz

英語教育者はスピードを求める社会の発想が変わることを、ゆっくり待たなければならないのですが、求められることも多くなかなか難しい・・・

まとまりの無い文章ですが、これをみている英語教師志望の方へ少しでも貢献できればと思いコメントさせていただきました。

柳瀬陽介 さんのコメント...

toffeeさん、

コメントありがとうございます。
丁寧な空手の指導を受けられているようで何よりです。

もちろん空手などの道場と、学校の授業では、前者が(1)希望者だけが自発的に参加し、(2)少人数での指導を受ける、という点で、圧倒的に後者と異なります。しかし、指導のあり方に関しては、両者間で学ぶべきことも多いかと思います。

「スピード」に関してですが、(a)速く短期間で英語を習得し成績を上げろというスピードと、(b)授業のテンポというスピードと、(c)英語の発話そのものの速さというスピードなどの、いろいろな「スピード」があるかと思います。

後ろから考えますと、(c)の発話スピードについては、あまりゆっくりですと問題でしょうが、コミュニケーション上の方略としては、早口でまくしたてる母語話者と議論しなければならない時、私は時々わざとゆっくりと(上品な話し方になるようにできるだけ努めながら)話すことを選んでいました。そうやって議論のテンポをコントロールしようとしたわけです。

(b)の授業のスピードですが、ある程度速くすることは、授業の集中力を上げるために必要なことは多くあります。しかし私は、あまりにもこのスピード(テンポ)を上げすぎて失敗したことが何度かあります。

(a)の短期養成に関しては、toffeeさんがおっしゃるように、現代の社会的風潮となっていますが、これには本当に警戒が必要です。

20年以上前の英語教育は、上のどの意味の「スピード」もあまり求められていなかったかもしれません(それでも受験対策としての(a)は別格だったかもしれませんが)。

しかし現在はどの意味でも「スピード」が求められています。スピードを求めることがすべて間違いというのではありませんが、他方、無批判的・無思考的にスピードを求めることの愚かさも指摘しなければなりません。

しかしこの愚かさが見えにくくなっていることが、時代の風潮(大げさに言うならイデオロギー)の怖いところでしょう。

shakti さんのコメント...

「こういった実践研究は、きっと過去にもなされてきたのだろうと思うけど、残念ながら私は知らない。誰かご存知でしたら教えていただけませんか? もしそんな研究が過去にはなかったら、一緒に研究しませんか?」

コメント失礼します。

ぜひとも、そういう実践的な研究を広島大学の柳瀬教授の力でやっていただけるようにお願いしたいです。

こんなことを書いてしまうのは、やはり教育関係というのは、高収入高学力の生徒を教えると評価される世界ではないか、逆に言えば、低収入・低学力の生徒を対象に教える教師は評価されにくいのではないでしょうか。したがって、世間的な地位が高い有名大学教授が、こういった問題について音頭を取っていく必要があるではないでしょうか。

最近ではコレージ・ド・フランスの大学教授まで出世したブルデューの社会的諸発言、イギリスの開発学者のロバート・チェンバーズがそれにあたるでしょう。一番貧しい社会層の世話をしようとすると、その職員or開発支援者が出世競争で立ち遅れ、キャリア・アップできないという大問題は依然として解決されていませんが)。


ところで、I if become soccer player is play hard. という英文ですが、普通の中学生には複雑すぎる問題を出されたためですよね。普通の英語教師が抱えるのは、I am play sakker hard. だとか、This pen long.といった英文を書いてしまう生徒がクラスの半分近くはいるという現実じゃないかと思います。

柳瀬陽介 さんのコメント...

shaktiさん、
コメントありがとうございます。

おっしゃるように低収入・低学力の生徒を対象をした研究は、脚光をあびにくいと思います。

理由として、(1)市場と連動しにくい研究内容なので経済的インセンティブがないとみなされている、(2)研究者自身がそのような生徒への理解を欠く、などがあるかと思います。

しかし日本の良さは、庶民にあり、その庶民の多くが切り捨てられるようになれば、目に見えにくい日本の国力が損なわれます。

少なくとも今年度はいろいろな仕事に追われて研究を始められませんが、少しずつ考えてゆきたいと思います。

柳瀬陽介