2010年6月28日月曜日

ポスト近代日本の英語教育:両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について(発表要旨)


以下は私が、日本教育学会第69回大会(於:広島大学)で2010/8/21(土)に行う一般研究発表に関する発表要旨です。皆様のご批判を仰ぎます。


***

ポスト近代日本の英語教育:両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について

柳瀬陽介 (広島大学)

1 序論

1.1 背景: 近年の日本の英語教育は、高等学校新学習指導要領での「授業は英語で行うことを基本とする」などが示す通り、日本語を可能な限り排除することを基本的傾向としている。その一方で読み書きを中心とした「英語学力」の低下も報告されている(江利川2009)。さらに小学校への英語教育導入という大改革に関してもその方針や見通しが明確でない(和田2004, 大津2009)など、日本の英語教育の根本的見取り図を描くことが求められている。

1.2問題 :これからの日本の英語教育 特に日本語(国語)教育との関連や「学力」の問題 を考えるためには、英語教育を近代・ポスト近代・情報革命という観点から捉え直すことが必要である。だがこれまでは、例えば水村(2008)が現代の英語と日本語の緊張関係について、山岡(2001-2010)が近代日本の学校制度に特化した「英文和訳」(=「翻訳」とは区別されるべき概念)についての重要な指摘をしているものの、20世紀末からの情報革命の加速的進行およびポスト近代性は十分に検討されていない。

1.3 目的: 本発表は水村 (2008) と山岡 (2001-2010) に基づきながら近代日本における英語と日本語の関係を総括した上で、 (1) 近年加速する情報革命をメディア論の観点から分析し、 (2) ポスト近代における言語を藤本 (2009) を契機にして考察することによって、ポスト近代日本の英語教育のあり方を検討することを目的とする。


2 英語教育と近代日本語の成立

2.1 翻訳による書記言語としての近代日本語の成立:本格的な書記言語はしばしば、より高い文明をもつ他の地域の書記言語の翻訳によって生み出される。現代私たちがもつ「日本語」概念も、幕末以来の翻訳の営みで生じた書記言語を基盤とした言語認識である(福島2008)

2.2 近代化の完遂と「英文和訳」の隆盛そして凋落:翻訳には近代学校制度での外国語教育が大きな役割を果たしたが、その中で「答案」の作成と採点に最適化された「英文和訳」という特殊な訳出文化が生み出された(山岡2001, 2002-2010) 。この訳出文化は、原書を傍に置きながら訳出された日本語を読み進めるという学問文化に貢献したが、日本の近代化がほぼ完遂されたと思われたあたりからその歴史的役割を終え、「英文和訳」的な文体は出版界で敬遠されるようになった(山岡2007-2008)。英語教育界もそういった「英文和訳」を排除するようになったが、その一方で翻訳者が原書を徹底的に読解し必要事項を調べ上げた上で、いわば改めて日本語で執筆する「翻訳」の価値は英語教育界で顧みられることはなかった(山岡2009-2010)


3 情報革命と「知識言語」

3.1 情報革命のメディア生態学:20世紀末からの情報革命は、これまでには考えられなかった規模で情報の汎用記録・大量保存・高速検索・連結化を可能にした。これにより知識の体系化・偏在化・高速進化が格段に促進されている。

3.2 機能分化による「知識言語」概念:英語は情報革命・高度知識社会の中心言語であるが、教育目標としてこの特質を捉えるには旧来の言語概念では不適切である。「国際語」「地球語」「普遍語」は地域的普及による概念であるが、世界のすべての地域の人々が英語を使用しているわけではない。「母語」「第二言語」は言語習得順序からの生物学的概念区別であるが、第二言語話者が母語話者のようになることは現実的にほぼありえず、「母語」としての英語を教育目標として掲げることは不適切である。「第二言語」は、「外国語」「国際補助語」と同様に社会言語学的概念で(も)あるが、これらは英語使用の側面(機能)を明示していない。現代英語を教育目標として捉えるには、英語を「知識言語」(Knowledge Language)として、「生活言語」(Life Language)と対比的に捉えるべきであろう。「知識言語」は社会の「機能分化」(ルーマン2009) に注目した概念である。「知識言語」としての英語はICTにより、かつての「学識言語」(Learned Language)としてのラテン語とは比較できない力をもっている。


4 ポスト近代の「言語」と「翻訳」

4.1 複数の言語と言語の複数性:「機能分化」概念が現代社会の一元性を否定している以上、これまで「一つの言語」とされていたものの複数性が問い直されるべきである(藤本2009)。言語の複数性」は、Council of Europeの「複言語主義」(plurilingualism) 概念にも見られる。社会の多元化が進行するポスト近代の言語教育政策も、同一言語とされる中の様々なジャンル(バフチン)あるいは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)を具体的に捉えなければならない。

4.2 翻訳の倫理性と政治性:深いレベルでの翻訳の試みは、他者 [=起点言語(翻訳元の言語)] を自ら [=目標言語(翻訳先の言語)] に「同化」 (domesticate) させてしまうことも、自らを他者に「異化」 (foreignize) させてしまうことも不可能な、「翻訳の不可能性」 (佐藤2009) に直面する。藤本(2009)は、自らの中に回収できない他者にそれでも応答しようとすることに翻訳の倫理性を見いだす。さらに翻訳とは他国語との緊張関係の中で自国語を彫琢する試みであり、ここに翻訳の(国民国家的)政治性が見いだせる。


5 ポスト近代日本の英語教育の道筋

ポスト近代日本の英語教育が目指す道筋としては、(a) 従来路線の延長で「生活言語」としての英語習得、(b) 英日・日英の両方向での(上で区別した意味での)「翻訳」、(c) 英語を日本における「知識言語」とすること、(d) 両方向翻訳と英語の知識言語化の統合、がありうる。(a) は文化植民地的状況での戦略でありもはやその有効性は少ないだろう。(b) は英語教師自身が「翻訳」できない危惧が高い。(c) は現代版森有礼的発想(イ・ヨンスク1996)として慎重に考察されるべきである。(d) に関しては「言語の複数性」および翻訳の倫理性と政治性の遂行を踏まえた上での分析的で多元的な実践が必要であろう。



引用文献

イ・ヨンスク(1996)『「国語」という思想―近代日本の言語認識』岩波書店

江利川春雄(2009)『英語教育のポリティックス』三友社

大津由紀雄(2009)『危機に立つ日本の英語教育』慶應義塾大学出版会

斎藤兆史(2009)「日本の英語教育界に学問の良識を取り戻せ」大津(2009)所収

佐藤学(2009)「言語リテラシー教育の政策とイデオロギー」 大津(2009)所収

辻谷真一郎(2002)『学校英語よ、さようなら』文芸社

辻谷真一郎(2003)『翻訳入門―翻訳家になるための考え方と実践』ノヴァ

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店

藤本一勇(2009)『外国語学』岩波書店

福島直恭(2008)『書記言語としての「日本語」の誕生 -その存在を問い直す』笠間書店

別宮貞徳(2006)『さらば学校英語 実践翻訳の技術』ちくま学芸文庫

水村美苗(2008)『日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で』筑摩書房

柳瀬陽介 (2007) 「複言語主義(plurilingualism)批評の試み」『中国地区英語教育学会研究紀要』37, 61-70.

山岡洋一(2001)『翻訳とは何か―職業としての翻訳』日外アソシエーツ

山岡洋一(2002-2010)『翻訳通信』http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/

和田稔(2004)「小学校英語教育、言語政策、大衆」大津由紀雄(編著)『小学校での英語教育は必要か』慶応義塾大学出版会に所収

Council of Europe (2001) Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment. Cambridge University Press.



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4 件のコメント:

shakti さんのコメント...

率直に申し上げると、「生活言語」と「知識言語」という言葉の意味がよくわかりませんでした。

>ポスト近代日本の英語教育が目指す道筋としては、(a) 従来路線の延長で「生活言語」としての英語習得

>(a) は文化植民地的状況での戦略でありもはやその有効性は少ないだろう。

文化植民地言語状況では生活言語としての英語習得がありえるということのようですが、具体的にどのような事態なのでしょうか?

私的理解では、軍隊の統治下のような状況では日常生活において軍隊の言葉(米語など)が必要でしょう。しかし、植民地状況となると普通、そういう言葉は必要なくなります。植民地では、知的に高度な作業(官僚的文書作成、ビジネス、文学の読書や執筆、入学試験や学校の授業)において宗主国の言語が必要となりますが、一般庶民は別に必要なくなるはずです。

たぶん、「生活言語」の理解が違っているのだと思います。

柳瀬陽介 さんのコメント...

shaktiさん、
コメントをありがとうございました。

まず用語の定義ですが、「知識言語」は、とりあえず以前のラテン語などを記述するために使われた"learned language"の訳語と考えてくださって結構です。

周知のように、ヨーロッパ各地で「国語」が作られその「国語」で学問を含むさまざまな事柄が書かれるようになるまで、ラテン語はヨーロッパ各地の知識人に共通言語として使われていました。ここでのラテン語は第一言語でなく、書き言葉として共有されていました。知識共同体の言語だったわけです。

私は現代の英語のこの側面 ―つまり知識共同体の言語― に注目して教育を考えるべきだと考えます。「知識言語」としての英語の側面を考えるわけです。

ここでなぜ"knowledge language"「知識言語」と言って、従来の"learned language"の訳語である「学問語」などを使わないかと言いますと、現代はICTによってラテン語の時代とは違って、書き言葉テクストだけでなく、音声や画像の共有も容易になり、知識言語としての英語が書き言葉としてだけでなく、話し言葉としても収束する(あるいは今までのように拡散することはしない)と考えられるからです。

これに対して「生活言語」とは、「知識言語」とは関係なく、日常生活を営むために必要とされる言語を意味しています。


さて、おそらくshaktiさんと私で理解を異にしているのはむしろ「文化植民地的状況」だと思います。

私は「文化植民地的状況」を、実際の政治的な「植民地的状況」とは異なる意味で使っています(拡張的使用と言ってもいいかと思います)。この「文化植民地的状況」という言葉の使い方は、いわゆる「英語帝国主義」を批判する日本語言説の中で使われていたように記憶しています。私はその用法を踏襲しました。

「文化植民地的状況」とは、政治的にも軍事的にも植民地でない状況で、文化的にはやたらと「宗主国」(これも拡張的あるいは比喩的な意味です)に憧れ、「宗主国」の言語(戦後日本でしたらアメリカ語)を崇め、実際生活に必要とされる以上に「宗主国」言語を使おう・習得しようとする状況です。


shaktiさんがご指摘の状況は、正統的な概念としての「植民地的状況」であり、私が上で説明した拡張的な意味での「文化植民地的状況」ではないかと思います。

しかし、もしこの拡張的用法に問題がありましたら、お教えいただければ幸いです。

それでは!
柳瀬陽介

shakti さんのコメント...

>「文化植民地的状況」とは、政治的にも軍事的にも植民地でない状況で、文化的にはやたらと「宗主国」(これも拡張的あるいは比喩的な意味です)に憧れ、「宗主国」の言語(戦後日本でしたらアメリカ語)を崇め、実際生活に必要とされる以上に「宗主国」言語を使おう・習得しようとする状況です。

まず、「植民地」と言う言葉なのですが、テクニカルに言うと、使わない方がよいと思います。というのは、人によって定義が異なってくるからです。私はフィリピン派ですので、植民地状況=宗主国の言語と文化へのあこがれと規定しますが、日本や東アジアでは植民地=異人による、不当な暴力と支配と理解するわけです。言い換えれば、私にとっては日本の朝鮮支配は植民地支配ではなく、たんなる軍事支配でしかありません。しかし、朝鮮派の人は、私に対して怒りをあらわにします。(←言葉の定義の違いにすぎないのですが)。沖縄派のひとも、また、独自の定義をすることでしょう。だから、こういう言葉は、使わないほうが無難かもしれないと思います。

もう一つは、「宗主国の言語(戦後日本でしたらアメリカ語)を崇め」るというとき、どういうことを意味しているのか、不明だからです。どのレベルなのでしょうか? 職場で増えてきた横文字の類でしょうか? それとも、楽天の英語重視方針のレベルなのでしょうか? かなり違うと思います。日本語のなかに英語の略語がはいるのか、英語で読み書き話しをするのか?

ところで「文化植民地主義」でGoogleしてみますと、ほとんどでてきませんね。

柳瀬陽介 さんのコメント...

shaktiさん、
コメントありがとうございます。「植民地」の、それぞれの国での具体的な歴史を私はあまり知らないので(不勉強を恥じます)確かにこういった語については注意した方がいいかもしれませんね。使うにしても脚注を入れておこうと思います。ご教示に感謝します。