2013年9月25日水曜日

アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)『数量化革命』(紀伊国屋書店)のまとめを書いていたら、いつの間にか、大阪府教育委員会が、公立校入試で英検やTOEFLやIELTSのスコアを使うことを決定したことについて語っていた(汗)





なぜヨーロッパ文明はこれほどに近代世界で君臨したのだろうか ― この問いは、さまざまな研究者によって答えられてきたが、この本の著者クロスビーもこの問いに答えようとする。彼はその答えを、『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』ではヨーロッパ人が世界各地にもたらした生物学的影響に、『飛び道具の人類史―火を投げるサルが宇宙を飛ぶまで』では武器に求めるが(注)、三部作の最後となるこの本『数量化革命』では、西ヨーロッパ人の思考様式に求める。科学とテクノロジーもこの思考様式あってのことである、と著者は考える(9ページ)










(注) 病原菌と武器という二つの要因については、ジャレット・ダイアモンドも『銃・病原菌・鉄』で主題として取り上げている。





ヨーロッパの思考様式を大きく変えた時期は、1250年から1350年の間、おそらくは1275年から1325年の50年の間と著者は推定する。この間に、機械時計や大砲が作られ、ポルトラノ海図、遠近法、複式簿記などが出現したからだ。この50年間以上の革命的変革の時代は、ラジオ、放射能、アインシュタイン、ピカソ、シェーンベルクらが出現した20世紀初頭まではなかったと著者は言う (34-35ページ)。この革命的変化の原因を解明することは「気が挫けそうになるほど難解なテーマ」 (71ページ)である。

以下は、この本の私なりのまとめだが、「気が挫けそうになるほど難解なテーマ」を、簡単に整理してしまった私のまとめには偏りや誤りが含まれているに違いない。だから興味をもった人は少なくともこの本を読むべきだろう。また今回はこの本の英語原書を参照することもしていない。以下を読む方はそれを十分にご理解いただきたい。



なお■印からの記述は、この本のまとめであり、⇒印からの記述は、私の蛇足である。くだらない追加の上に、偉そうな教師口調になっていることはご勘弁ください。





■ 以前のヨーロッパの思考形式

著者は、近代世界を席巻したヨーロッパの思考様式を「新しいモデル」と呼び、それ以前の思考形式を「敬うべきモデル」と呼んでいるが、その敬うべきモデルでは、現実世界が本質的に不均質であることを説明しようとした(41ページ)。区分した時代も、それぞれの時代は質的に異なるものとみなされていた (47ページ)。

時間においても、中東の1日24時間 (うち、昼間が12時間 『ヨハネによる福音書』11章9節)をそのまま受け継いだものの、赤道よりかなり北方に位置するヨーロッパでは昼と夜の長さは年間を通じて大幅に変わる。したがってヨーロッパ人は、一日を昼と夜に区分した上で、それぞれを12等分して時刻を定める不定時法を採用した(つまり、一時間の長さは季節によって、また同じ日でも昼夜によって違うものとなった) (51ページ)。時間は、太陽の位置や教会の鐘で知ればいいだけのものであった。

また、加算、減算、除算の記号も、等号も平方根を表す記号も当時はなく、数字ももっぱらローマ数字が使われた。ローマ数字は計算するときには、標記が長くて読みにくく面倒なので、計算をする際には計算盤(アバクス)を使用した (63ページ)。

⇒この本では数量化による「新しいモデル」を主題として扱うため、どうしてもほとんど質的な思考だけの旧来のモデルを批判的に扱うが、現代の私たちの課題は、どう数量化モデルと質的モデルを共存させるかであろう。





■ 数量化の加速

やがてヨーロッパには、旧来の三層構造 (農民、貴族、聖職者) の枠を突き破って、新しいタイプの人々が現れはじめた。彼らは都市の住民 (ブルジョアジー)で、商人や法律家や写学生などであり、おおかたの貴族や聖職者よりも読み書き能力と計算能力に秀でていた。これらの人々の多くは、自然の力を利用した動力機械で富を築いた (75ページ)。次第に旧来の特権階級も彼らなしには文明生活が送れなくなってきた。(78ページ)。

新しいタイプの人々は、しばしば商業活動に動機づけられ、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を重視する「新しいモデル」の思考形式を発達させた(82ページ)。

やがて大学ができはじめ、スコラ学者が台頭したが、彼らは本の題目をアルファベット配列で図書目録を作ること、書物の内容を小分けにして目次として表すことなどを始めた(88-89ページ)。本を題目のアルファベット順に並べることなど、当たり前のことのように思えるが、それまでは本は内容の重要度によって並べられていた。当然のことながら、重要度の判断は難しいので、誰でも配列できるアルファベット順というのは画期的だった。

しかし、数量的な思考形式を普及させたより重要な原因は、やはりお金の普及であろう(95ページ)。お金は確かにローマ帝国でも使われていたが、揺籃期の西ヨーロッパではそもそも交易があまり行われず、その多くが物々交換であり、金属貨幣はそれが含有する金属の価値以上の抽象的な価値をほとんど有していなかった (96ページ)。

しかしやがて商業と都市が発展すると、自治都市や国家が金属貨幣を作り始め、西ヨーロッパは現金を使う貨幣経済に移行した。このことは、あらゆる品物がただ一つの基準に還元されるという認識をもたらした。さらには品物だけでなく、奉仕や労働の義務も金銭で代替できるようになると、時間にも価格がつけられると考えられるようになった (97ページ)。

⇒題目の重要性ではなく、題目の頭文字で目録を作るという抽象的なシステムは、その抽象性(あるいは無意味性)により、誰でも目録を作成し利用することを可能にした。現在も私たちはこのアルファベット順を利用しているが、コンピュータにより、これにタグをつけたり相互リンクをつけたりなどして、アルファベット順の無意味な配列に、意味あるつながりも加えようとしている。GoogleのKnowledge Graphは、機械が自動的に人間の知性に近い意味体系を作ろうとしているすごい技術である。






また、数量化を進行させたものとしてやはり貨幣を使用する経済活動を忘れるべきではない。私たちはもっと真剣に貨幣という媒体の特徴と帰結について考えるべきだろう。

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マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
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モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
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■ 時間

機械時計の登場により、均等な時間が普及したが、これは労働者に賃金を払う資本家に歓迎されたと思われる。これで昼の時間が短くなり、不定時法によりすぐに時が経っていた冬季でも、資本家は、なされた労働量以上の賃金を払わずに済むようになった。ドイツ では1330年に、イングランドでは1370年頃に定時法が採用されるようになった。 (112ページ)。現代式の統制された労働時間は、14世紀前半には出現したことが記録に残っている (117ページ)。

⇒私たちは、例えば「沖縄時間」などを、いい加減すぎる時間感覚の例として取り上げるが、「適当」に集まったりする方がよほど人間的であるように私には思える(というより電波時計を常用しなければならないと思い込むぐらいに、時間に縛られている私は、個人的にはそのような時間感覚に憧れている)。むしろ機械時計に支配されて、30秒でも開始時間が遅れれば大騒ぎになるため、監督官が複数の電波時計で時間管理をしているセンター試験などの時間感覚の方がよほど異常と考える(あるいは感じる)べきではないのか。





■ 空間

旧来の地図は、キリスト教の神や異教の神々あるいは怪物にまつわることばや絵がちりばめられたものだったが、1296年に羅針路を引けるような実用的な沿岸航海図(ポルトラノ海図)が作られた。この海図は、狭い海峡を短距離で航海する限りは十分実用に足るものであった (130-131ページ)。

コペルニクスが地動説で空間概念を一転させたことは周知の通りであるが、重要なのは彼が主に数学によって自分の論理を表現した科学者だったということである。数学により結論を導き出すのは、プトレマイオス以来、約千年間にわたってないことであった (139ページ)。

⇒長距離航海にはふさわしくないポルトラノ海図は、やがて16世紀からメルカトル図法にとって変わられるが、メルカトル図法の作成には数学が不可欠である。





■ 数学

計算盤には、途中の計算記録が残らないので検算ができないといった欠点があったが、インド・アラビア数字をつかった「筆算」で、計算の全過程を書き残し検算もできるようになった。以前は計算結果はローマ数字で書き、計算過程は計算盤(アバクス)で表現されるだけであったが、もはや計算結果も計算過程の数字と同じインド・アラビア数字で記されるようになった (129-131ページ)。+と-の記号は、1489年にドイツで印刷された書物に初めて登場した (136ページ)。

数学がより普及するにつれ、数字の意味合いが変化し始めた。数字は、量だけを表し、いかなる質も表現しない記号であり、それゆえに汎用性と有用性があるものとみなされはじめた (161ページ)

⇒筆算とは、計算の過程を書き残すことができるので、計算間違いを正すことができるということを私たちは当たり前のこととしているが ―あるいは長い計算を電卓でなく表計算ソフトでやると、途中の間違いを正すことができることを考えてもらってもいい―、こと文章を書くことについては、まだいきなりワープロに文章を書き付けて、思考と執筆の過程を記録しないままに、完成品を作ろうとしている人は多い(学部生はほとんどがそうだろう)。

学生のために老婆心で述べると、文章執筆も、筆算と同じように、思考と執筆の過程を残すべき。私は、論文などを書く場合は、だいたい以下の過程で行う。

(1)メモやノートやPC上のファイルにとにかく情報やアイデアを書きつける

(2)パワーポイントなどでマインドマップのような図を書く

(3)アウトラインプロセッサーで論の流れを作る

(4)書きやすいテクストエディタで下書きをする

(5)読みやすいワープロに下書きをコピーして推敲する

(6)さらに読みやすいようにワープロ原稿を印刷してペンで推敲して、それを最終原稿に反映する



私は、それなりにきちんとした文章を書こうとすると、こうしないととても書けない。ブログ記事でさえも(3)と(4)のステップは欠かせないぐらいだ。もちろんこれらの過程は次々に進むのではなく、(1)から(5)のそれぞれの過程(特に(2)と(3))で、私は何度も考え直し書き直す(配列し直す)。そうやって私は自分の思考の「検算」をしている。私は大した論文はまったく書けていないが、論文執筆で一番苦しいし時間もかかるのは(2)と(3)だ。

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コンピュータ上で「思考」をするために
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また、数字という媒体、およびその数字を扱う数学という体系は、これ以上もないほど抽象的で形式的であるがゆえに、汎用性と有用性があり、何よりも面白いものであることは、数学者にとって当たり前のことであるが、私のように数学で落ちこぼれた者はなかなかわからないことだろう。数学教師は、数学の「面白さ」をぜひ、数学嫌いにも体感させるような工夫をしてほしい。

私は遅まきながら、名著『虚数の情緒』を少しずつ読んでいるが、ゆっくり考えながら読むとやはり面白い。といっても、なかなか時間と気持ちの余裕が得られず、まだ三分の一ぐらいしか読んでいないけれど(泣)。









■ 読み書き能力

鉄筆や羽ペンで情報を伝達したり記録する習慣は、13世紀に急速に普及した 。これにより聴覚文化から視覚文化へと大きく変わり始めた (178ページ)。14世紀初期までには新しい筆記体、単語を区切って書くこと、句読法が考案された。やがて黙読という視覚だけに頼る習慣が普及した (181ページ)。

視覚文化をより普及させたのは、作曲家、画家、会計係である。彼らは実際的な仕事を、視覚的かつ数量的に表現した (183ページ)。

⇒聴覚ではなく視覚により知識を伝達することは、もはや当たり前のことのようにも思えるが、これだけICT機器が普及し、情報の複製や加工が容易になっているのに、まだ聴覚中心で視覚情報は(時間のかかる)黒板だけという授業が多いというのはちょっと信じがたい。

最近話題になっているのが、反転授業Flip teaching (or flipped classroom)で、その考え方だと、講義ビデオは学習者が事前に(あるいは任意に)見ることとして、学校で学習者は教師や他の学習者と語り合って理解を深め興味を発展させるが、メディア生態学 (media ecology) からすれば、これが当然の流れのように思える。

従来は読み書きメディアが潤沢でなく(印刷本はやはり高いしかさばるものだ)、それゆえ書記言語の読み書き能力の普及にも自ずと限界があったと考えられる。だから教育の主眼は読み書き能力に置かれたのかもしれない。

だが、ICTの発展によりメディアは、書記言語も潤沢に供給することができるようになり、さらには視聴覚的な口頭言語もどんどんと供給できるようになった。加えてSNSなどでメディアの相互連関性も増し、今や書記言語も含めた情報はありすぎるぐらいである。

そうなると読み書き能力は、教育の主眼でなく、もはや前提となり、今後は読み書き能力を踏まえた上で、他人とコミュニケーション的に協働できる力、および、そのコミュニケーションを欲する知的感性が教育の主眼となっていくべきなのではないか。

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メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性 (HTML版)
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たまたまNHKの「スーパープレゼンテーション」で見た下のビデオ(Mitch Resnick: Let's teach kids to code)などを見ても、教育は根源的に変わりうるし、変わるべきではないのかとも思える。








■ 音楽

旧来、聖歌は口と耳だけで伝承されるものだけだったが、信仰を普及させるため、聖歌はネウマ記譜法で書きとめられるされるようになった。早くも860年には、伝統的旋律の上にもう一つの完全平行な旋律が書き加えられたが、これはポリフォニーを生み出す道を切り開くものであった (194-195ページ)。言い方を変えると、作曲家は、時間とともに変動し消え去る音の流れを、その細部にいたるまでコントロールする術を獲得したのである (207ページ)。

⇒よくヨーロッパ中世は「暗黒の時代」などとも呼ばれるが、中世音楽のポリフォニーを聞いていると、むしろ近代音楽のホモフォニーの方が単純に思える。私は楽器は何もできなくてただ音楽を聞いているだけのオタクだけど、クラシック音楽も30年ぐらい聞いていると、近代のホモフォニーの旋律と和声の関係は少しはわかるようになってきた。でも、中世のポリフォニーの複数声部の関係をきちんと味わうことはまだまだできていない(また、オーディオ装置もそれなりのものでないと複数声部の聞き分けは難しい)。ギヨーム・ド・マショーパレストリーナの音楽なんて、すごいと思うけれど、こういった高度な音楽の発展も、記譜法により、音を対象化・可視化し、音を操作性することによってはじめて可能になったといえる。










ちなみにバッハのブランデンブルグ協奏曲は、時に通俗名曲のように扱われるけれど、ポリフォニー性を強調した演奏を聞くと、すごい音楽だと思える。



ちなみに私はこのガーディナーによるCDをノルディックサウンド広島で、知り、購入しました。私にとってこのお店は、本当に魂のための泉のような場所です。





■ 絵画

中世の絵画では、複数の「現在」が同じ絵の中に描かれている場合も多かった (217ページ)。だが光学や代数や建築などの利用で遠近法が普及し始めた。

私たちが写実的 (realistic)という場合、それは幾何学的に正確で、地図の代わりにも使えるということを意味しているが (244ページ)、これはもちろん遠近法に基いている。

⇒小学校に行くと、二年生ぐらいまでの絵はとても面白いが、学年が上がるとだんだんと「大人」が書くような絵になってくる。私たちは「大人」のような絵画こそが、正しい表現だと信じて疑わないが、こういった表現法も私たちが学習したものであって、唯一の表現法でないことは子どもの絵画や画家の表現を見ても明らか。

ただ、「大人の」描き方が、おそらくはもっとも(上記の意味で)「実用的」なのだろう。ただしこの場合の「実用的」とは、万人に理解可能・利用可能な標準的な「実用」を意味する。私たちの「大人」の文化とは、「こういうことになっている」という標準化への強烈な圧力によって構成され維持されているのだろうか (中二病的考察www)。





■ 簿記

複式簿記が導入される前は、商人は取引で「バベルの塔にも比すべき混乱」にあった (259ページ)。複式簿記は、商業で広く使われたため、哲学や科学以上に世の中の認識を広く変えた (279ページ)。

⇒簿記ではないが、私のような人間の行政仕事でも複数のプロジェクトが同時進行すると、やらなければならないことのリスト、それぞれの重要度・締切・進捗状況などをわかりやすい表形式にまとめていないと、とてもやりきれない (表で整理しても、時にハゲる (爆))。逆に言うと、近代生活の生産性は、このような表管理を前提としているから、近代生活でお金を稼ごうと思うと、必然的にこのような視覚的管理法に慣れざるを得ないと言えるのではないか。





■ まとめ

ヨーロッパで発展し、近現代世界を席巻している思考形式は、次のようにまとめられる (289ページ)

(1) 考察する対象を、その本質を示す最小の要素に還元する。

(2) その要素を、均一な単位量に分割する。

(3) 分割した単位量の数を数える。

(4) この数量化は単純化や誤差を伴うが、言語的な表現より正確であるので、数量化により厳密な考察や実験が可能になる。

(5) 数量表現は、言語表現と異なり、言語使用者の思惑から独立されるので、その数量を出した人間の思い込みからも自由な推論が可能になる。

(6) 数量化により、現実世界の認識と法則化、さらに現実世界の操作が可能になる。



つまり、数量化とは、現実を人為的に操作する認知枠組として優れており、これによりヨーロッパ人は「正確さ、時間の秩序、計算可能性、規格性、官僚性、厳正さ、一定性、緻密な整合性、日常性」を獲得した。いうまでもなくこれが現代文明の「合理性」である (291ページ)。



⇒上のまとめをさらに私なりに翻訳すると、(1)は要素還元性、(2)は単位分割性、(3)単位計測性、(4)と(6)は数量操作性、(5)数量共有性、と言い換えることができる。

つまり、西洋近代の「合理性」 (rationality)とは、連続して変化してやまない現実を、次のような認識論 (epistemology) で対象化し、操作可能にしているとも言えるのではないか。

(a) 「要素」という観念で分解・分断し、その合計が全体だとする。 (要素還元性)

(b) 要素をさらに「単位」という観念に合わせるように、細かな違いは繰上げ・繰下げて、あるいは無いものとして、分割する。 (単位分割性)

(c) 近似値として得られた単位の量をさらに比較して、その比 (ratio) をもって計測となす。 (単位計測性)

(d) 現実を、要素の単位量の比の関係で考察することにより、現実を単純な数量モデルで表現することができる。その数量モデルに基いて、現実を切り分け対象化し操作する。 (数量操作性)

(e) 数量は、要素による分解と単位による近似化と計測化を共有する人々にとっては共通のものとみなされるので、数量モデルはそれらの人々に共有され利用される。 (数量共有性)


(c)から、わかることの一つは、西洋の「合理性」 (rationality)とは、まさに「比」 (ratio)で考えることに他ならない、ということだ。そのように「比」で考えるためには、「要素」と「単位」という観念の枠に、現実を振り分け。押し込めなければならない

その認識論と操作の文化を共有することで、高度で大規模な共同作業を可能にし、世界を大きく変えたのが西洋近代なのだろう。



著者は、フランシス・ベーコンのことば (1605年)を引用しているが、それがこの「数量化革命」を的確に表現しているので、ここに再掲する。



自然哲学に属する諸学問が考察する事象の多くは、数学の助けと仲介なしには、十分こまかい点にいたるまで発見されることもなく、十分明らかに証明されることもなく、十分たくみに実用に供されることもない。そして、このような数学の助けと仲介を受ける学問には、遠近法、音楽、天文学、宇宙論、建築学、機械工学などがある。 (285ページ)




こうしてみると、やはり西洋近代の"The measure of reality" (本書の原題)という認識論は偉大なる文明であることが再認識できる(まあ、難しいこと言わずとも、コンピュータを使って車に乗るだけで、そんなことはすぐにわかるのだけれどwww)。





*****






しかしその偉大さを十分に認めた上で、さらに駄弁を重ねてみる。

西洋近代の「現実の計測」 (The measure of reality)は、要素分割の妥当性と単位の精密性を前提としている。

要素分割の妥当性とは、現実をその要素に分解することが、現実認識として適切かどうかということだ。要素分解の後に、多くの重要な現実の側面が残っていてはいけない(さもないと「現実」を近似的にでも復元することができなくなる)。

単位の精密性とは、あまりにも単位が粗すぎたら、単位量による数量化が、現実の表現とは言いがたくなるので、単位を十分に細かなものにしなくてはならないことを意味する。早い話が、何百万画素のスクリーンの代わりに、数十画素のスクリーンで見るならば ―モザイク画面を考えてもいいだろう― 私たちは何が写されているのかわからない。また、単位があまりに荒いと、繰上げと繰下げの幅が大きくなり、同じ単位量の二つのものが同量であるとは言いがたくなってくる(トン単位の計測器では、私たちはみんな同じ体重だろう)。

この要素分割の妥当性の前提によって失われている(少なくとも失われがちである)のが、要素の関係性 (現実の全体性)である。現実を要素に分解してしまって、それぞれの要素を独立のものとして扱えば、現実にあるはずの要素の関係性が見失われる。もちろん複数の要素の関係性を数量的に表現することは可能だが、それでもその要素が十分に現実を代表するだけの数がなかったら(別の言い方をすれば枚挙しているとは言えないなら)、その関係式は、現実の全体性を見失ったもので、現実の反映とはとても言えない。

また、単位の精密性の前提がさらに前提していることは、その単位を計測する方法(機器)が標準化されていることである。計測器は校正されなければならない。





さて、ここで言語テストについて考えてみる。「コミュニケーション」を測定すると称されているテストは、そのテストで「コミュニケーション能力」をいくつかの要素に分解する。ただし実際には測定コストがかかりすぎるといった現実的な理由から、スピーキングやライティングが排除されている場合も多い。スピーキングが取り入れられたとしても、しばしば、それはモノローグの形でのスピーキングをテストしているだけであり、相手の出方次第で適切に変化しなくてはならないインタラクションの力をテストはしていない。ここで、そもそも私たちはコミュニケーション能力(あるいは英語力)を、四技能で分けるという要素還元について健全な疑いをもつべきだろう。

関連記事

Bachman and Palmer (2010) 'Describing language use and language ability' in "Language Assessment in Practice" (OUP)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/blog-post.html



仮に四技能への要素還元を認めるにせよ、それぞれの技能内での要素設定という問題が残っている。どの要素とどの要素をもって「リーディング」とするのか、といった問題だ。これは計測に関する技術的な問題ではなく、何をもって「リーディング」とするかという観念に関する問題 ―多くの人が嫌う言い方をすれば哲学的な問題― だ。

これらのことを考えると、「コミュニケーション能力」のテストとは、現実のコミュニケーション能力の実態を忠実に反映しているものではなく、まあ、それなりに、多くの人から異論が出ないぐらいに要素と単位を設定して数値を出したものと言えるだろう。たとえに過ぎないが、身長と体重だけを測って、運動能力がどのくらいあるかを推測しているぐらいのものではないか 【もちろん身長と体重だけで運動能力が十分に推測できるわけなどない】 (しかし、現実問題としては、手間を省くため、力士やプロ野球選手の選抜ではこういった単純な測定を一次試験としている)。テストの点数とはそのぐらいのものだと認識して利用すべきではないのか。

たまたま今日知った報道によると、大阪府教育委員会は、英語の4技能を測定する指標として、英検、TOEFL、IELTSを選び、「これら3つの検定試験について、独自の指標を設定。満点を100とした場合、英検では準1級を100、2級を80、TOEFLではiBT60点を100、50点を90、40点を80、IELTSではバンドスコア6を100、5.5を90、5を80とみなして、入試の英語得点と比較し、高い方を採用する」という(http://resemom.jp/article/2013/09/24/15300.html)。

ある意味、「いいかげん」な点数化のように思えるし、大阪府の入試と英検・TOEFL・IELTSの相関性(併存的妥当性 concurrent validity)についてのデータが(おそらく)ないのは致命的かもしれないが、もし上記の点数化が、それなりに併存的妥当性のデータがある(はずの)標準化された試験(英検・TOEFL・IELTSやそれらに類する試験)の間で行われるというのなら、私はこれはそれなりに「現実的」なやり方だと思う。

もちろん、そうなると各種試験を数多く受けるだけの金銭的余裕がある生徒が有利になるなど、別の意味で「現実的」な問題が生じてくる。これは大問題で、小さい頃貧乏だった私としては看過できないが、この問題はここでは扱わないことにする(扱い始めると議論が拡大して収集がつかなくなってしまう)。

つまり、私がここで言おうとしているのは、

英語コミュニケーション能力(あるいは英語力)の標準的なテストとは、現実のコミュニケーション状況での対応力を測るテストとしては、力士がどのように相撲で活躍できるかを推測するために行う身長と体重の測定や、選手がプロ野球でどのように活躍できるかを推測するために行う50メートル走と遠投の測定、と同じような妥当性と信頼性をもつ実現可能性の高い 【あるいは低い】 テストである、とぐらいに考えるべきではないか、
ということである。

また、つけ加えて言いたいのは、

テストを一種類だけに限定するのは、そのテストの要素還元性・単位分割性・単位計測性だけに依存してしまうことである。それは現実を著しく歪めてしまう恐れがあるから、テストはできるだけ多種多様である方がよい。もちろんその多種多様性は、妥当性に関する観念的な(哲学的な)考察に基づき、かつ併存的妥当性を始めとしたデータをそれら複数のテストに関して蓄積することを前提とした上での多種多様性である。言ってみるなら、私たちはコミュニケーションのテストに関して、もっとコミュニケーションをしなければならない。


関連記事
コミュニケーションのテスト、テストのコミュニケーション
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html#080204







このブログ記事は、『数量化革命』のまとめとしては、上にも書いたように、それなりにアウトラインを決めて書いたのだが、最後に「さらに駄弁を重ねてみる」と書いてからは、アウトラインも決めずにどんどん書いてしまった(←自ら教えることを自分で実行しないダメ教師の例 汗)。その箇所からの論には揺れなどもあるだろうし、後日修正しなければならないところもあるかもしれないけれど、本日はとりあえず試みに書いた文章(エッセイ)としてこの文章を掲載しておくこととする。馬鹿は書いて失敗をしなければ自分がどのくらい馬鹿であるか、わからない。お粗末。









追記

誤解のないように書いておくと、私は「大阪府教育長・中原徹氏の英語教育改革論を、英語教育界は無視できないし、無視するべきでもない」という記事も書いたし、上でも大阪府の方針に対してどちらかといえば肯定的なトーンで書いたが、そうだからといって、私が中原徹氏の個人的なシンパであるわけではない。私は是々非々のスタンスを貫いているつもりだ。だから、各種試験を受けるための金銭的負担については、上にも述べたように、問題だと考える。


追追記 (2013/09/30)

ひょっとして私の上の文章を誤解している人がいるかもしれないと思え始めたので 【 】の箇所を補った。



その後加わった関連記事

全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html
科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/e-o.html

3 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

人間の頭の中にある「コミュニケーション能力(あるいは広義の知識)」が4つに分かれていないのは当然。その能力を短時間で評価しようとすると,便宜的に「コニュニケーション様式」というまったく別の基準で分けるしかなかったということではないでしょうか。突きつめれば,コミュニケーション能力を養うために,文法を教えているのと同じことかもしれません。

「一人の人間のコミュニケーション能力なんて一生連れ添っても分からない(実感!)」というような「限界」を前提としなければならないのはもちろんですが,そこはやはり程度の問題。テストを学習者が必要とする「能力」にできるだけ近づけていく努力は必要だと思います(問題数を増やしたり,採点基準を大まかにしたりすることも考えられますが,やはり本筋ではないように思われます)。

それともう一つは,波及効果の問題。柳瀬先生は単にテストの限界を表す喩えとして「野球選手」や「力士」の話をされていることを分かりながら,あえて同じ例を使わせていただくとすると,50メートル走や遠投の練習だけをしていても野球選手にはなれない。体重を増やしただけで力士になれるのなら,私だってなれるけど,そうはいかない。たとえば,よくある4コマ漫画を用いた情景描写問題等なら,入試にスピーキングテストなんて導入しない方が増し。(どこの学校に行っても,試験対策として,このような練習が行われていることを想像するだけでゾッとします)。そういう意味で,戦略的な対策では対応しにくいテスト,あるいは,対策が「能力」の発達を促すテスト,そういうものに近づく方法は考えうるのではないかと思います。

それから,「受験感」のようなものも大切かもしれません。そもそも可変的な各自の能力のできるだけ高い部分を公平・公正に測られたという実感があるかないかは,その後の学習意欲に大きく関わると思います。

これらの面を総合して大差がなければ,所詮テストには限界があることを前提として,尺度の多元化を図ればよいと思います。でも,最善の策はやはり,テストを人材選抜の道具として重視しないことですよね。

柳瀬先生のご考察とは次元を異にする(「哲学」とは程遠い)コメントで申し訳ありません!

かつて,英語を教えることにも,英語教育を研究することにも行き詰まった時期がありました。その時に,柳瀬先生がブログに書かれた「この船を降りては,この船を修繕できない」という言葉に救われました。あの出会いのお陰で,この船の上で(確信的に踊らされながら),船を修繕できる人材を育てようと,再出発することができました。お会いする機会に恵まれず,今日までお礼を言うことができませんでした。

本当にありがとうございました。

羽藤由美

柳瀬陽介 さんのコメント...

羽藤先生、
コメントありがとうございました。
「コミュニケーション能力」などという理念を分析的に考えて要素に分解してしまうのは、せいぜいもって近似値を得るためのものだということはその通りだと思います。
現象の分析は、素描的な理解としてはそれなりに有効ですが、その素描的な理解から現象を再構成・再現しようとするととんでもないことになってしまいますよね。
でもそんな「とんでもないこと」が(英語授業だけでなく)至る所で行われているように思えます。
先生のブログ
http://yumihato.wordpress.com/
の「確信的に踊らされるにしても...」というタイトルは見た瞬間、思わず共感の苦笑をしてしまうほどでしたが、その背後には上に書かれていたようなことがあったのですね。恐縮です。私も(は)「確信犯」です(笑)。
ですから、今から定年退職後の夢についていろいろ考えています。
今のところは、武術の稽古をしながら農業を営むというのが私の夢です。前者はオタクの横好き、後者についてはまったくの素人ですが、それだけに退屈することはないと思います。
それでは
2013/09/28
柳瀬陽介

Unknown さんのコメント...

「能力は学習者の中に育つものであり,外から教えることはできない」ということ(コミュニカティブ・アプローチの基本理念)を前提にすれば,素描的理解に基づく現象の再構成は無意味です。でも最近は,素描的理解そのものに大きな意義づけをする向きもあるようですね。実践では,「両立しうる!」という実感があるのに,二律背反的に議論されがちなのが残念です。

「この船の上で(確信的に踊らされながら),船を修繕できる人材を育てる」のか,「この船の上で,(確信的に踊らされながら)船を修繕できる人材を育てる」のか,いつも読点の位置に迷うのですが,実は両方です。ということで,「確信的に踊らされてみろ!」と学生に発破をかけながら,山ほどの課題やテストを課すのが日常です。退職後の夢は「ふつうのお婆さん」ですが,踊りをやめられるかどうか。

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これからも,よろしくお願いいたします。

羽藤由美