2013年9月2日月曜日

日本英文学会シンポジウム 「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感:報告と資料掲載





まことにまことに遅ればせながら、5/26に行われました日本英文学会でのシンポジウム(予告記事)の報告および資料掲載をします。(最近は本当に時間が取れなくて、多くの方に不義理をしております。本業以外の依頼はすべてお断りせざるを得ません)。





■総括
個人的には、今回のシンポはこれまで私が参加したシンポの中でももっともうまく行ったものだと思っております。登壇者の個性がそれぞれに発揮され、またそれらがうまく調合されたと感じました。シンポ終了後の直接の対話やメールでのやり取りも実り豊かでした。今回本当に忙しい中に無理を言って登壇を頼んだ発表者の皆さん、そしてこの機会を与えてくれた日本英文学会事務局の皆様にはここで改めてお礼を申し上げます。

さて、まずは全般的に、「英文学界」と「英語教育学界」の間の違いについて私が感じたことをここでは五つ書きます。



(1) 英文学界と英語教育学界の言説の異なり

「実は『文学と英語教育』といったシンポなどは、英文学界ではかなり開催されていて、その度に『文学は重要だ』という結論になるのですが・・・」といった声を複数聞きました。しかし私が知る限り、英語教育界では「文学と英語教育」といったシンポなどは現在ほとんどありません。また、仮に開催されたとしても、そこでの合意が「文学はやはり重要」となるとはあまり考えられません。となると、英文学者の声は、英語教育界にすら届いていないということになります(逆に言うなら、英語教育研究者は英文学者にすら耳を傾けていないとなります)。本来、多角的・多元的・総合的に物事を考えるべき人文・社会系で、このように分野間の断絶があることは好ましくないことと私は考えます。



(2) 机を離れて行動

機会を得たのを幸いに、私が偉そうに述べたのは、英文学者の方々にも机を離れて動いてほしいということでした。かくいう私も十分に実行できているわけではありませんが、英語教育などという実践分野では、できるだけ現場に入り、現場の教師や生徒・児童とコミュニケーションを取らなければ、実態は理解できません。実態を理解しない者が机の上で学んだだけの理屈で、現場にあれこれと指図をすることはろくなことにならないと認識しています (例としては、政府の「教育再生実行会議」による「中学校における英語による英語授業の実施」など:参考:江利川春雄先生ブログ記事 中学校でも「英語で授業」!?)。

幸い日本の英語教育界は、休みの日をつかっての自主セミナー(「自主セミナー」については『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』の拙稿をご参照ください)などもたくさん開かれています。英語教育に強いご関心をおもちの英文学者の方々は、まずは「英語教育の達人をめざして」メールマガジン(無料)などの購読から始めて、ぜひ小中高の多くの英語教員の方々に出会ってほしいと思います。そこからさまざまな機会が得られますから。

実践に関して、現場を知らずに書籍・論文しか読まず、その紙の上の知識だけで実践を語ることは、私は危険ですらあると思っています。



(3) 文学の正典主義から、文学的文章、そして文学的読みへ

私がこれまで英文学者のさまざまな方々と英語教育についてお話してきて感じ続けてきたことは、多くの英文学者が「文学」を、一種「正典」(canon)のように「偉大なる文学作品」として何らかの形で評価が定まった作品だけに限定してお話をされることでした。文学者の方々に対してJakobsonのLinguistics and Poeticsを引用して語るのは釈迦に説法ですが、私は「文学」をそのように限定的に捉えるべきでなく、広告文や政治家のスピーチなどを含む日常の文章にも存在するものだと考えます。「文学」が日常的文章の中にもあるという表現に居心地の悪さを感じるなら、「文学的文章」と言い換えます。私の主張は、少なくとも英語教育について考え行動するなら、「文学の正典主義」を離れ、「文学的文章」に着目していただきたいというものです。

しかし今回のシンポでは、佐藤先生の発表が、その次の段階を示していました。佐藤先生は、中学校1年生の教科書本文(会話体)すらからも、「このセリフからどんなことが分かる?」と、その発話の背後にあるだろう人間関係や心情を推測させることにより、文字面にとどまらない読みをさせていました。この実践は、佐藤先生が生徒をよく理解し、生徒の自然な思考の流れをつかんでいるからこそのものです(ご一緒させていただいた空港での待ち時間の時にも、佐藤先生は「教えている中学生が面白いと言っていた」本を読んでいました)。中1英語の会話体の読み取りを「文学的読み」と称することに抵抗感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、あまりにもトレーニングに傾斜しすぎた現在の日本の英語教育界では少なくなりつつある読みの指導です。文学者の方々には、ぜひ文字通りの意味や定式化された慣用的な話者の意味を超えた読み ―文学的読み― の指導について、小中高の教材を対象にしてご発言いただきたく思います。



(4) 中高生向けの教材開発にぜひ関与してください

これは県立広島大学の西原貴之先生との話の中ででてきた話題だったと思うのですが(学会が終わって三ヶ月以上も経つと記憶が薄れてきた・・・汗)、文学作品の改作 (adaptation -学習者の語学力に合わせて文学作品を書き換えること)について文学者が発言する時には、「いかに改作が原作の良さを損なってしまっているか」に話が集中しがちです。しかし、改作が原作を損ねてしまうのは、いわば必然とも言えることですから、そこで話が終わってしまえば、生産的ではありません。

ですから、文学者の方は、英語教育での改作に対しての批判者であるにとどまらずに、ぜひご自身で日本の中高大生のために改作をなさってほしく思います。実際、英語教科書にある改作(およびそれに関する設問)には、センスを疑うようなものもあります。ぜひ文学者自身が改作をして、かつ、その改作の原理を明らかにしていただければ、多くの英語教育関係者が耳を傾けるのではないでしょうか。

文学者ができることはもちろん改作にとどまりません。文法書や参考書などももっともっとお作りください。これも具体例をあげませんが、中高生向けの文法書や参考書の中の例文などには首を傾げざるをえないものが少なくありません。これまでに文学者が作成した高校生向けの参考書の良書については和田先生が触れましたが、もっともっとことばに対するセンスを備えた文学者の方が英語の教科書・文法書・参考書の作成に関わっていただければと私は思います(同時に、いわゆる「英語教育研究者」はもっと英語そのものに対する識見を高めるべきだと思います)。



(5) 英語教育学者と英文学者の区別にほとんど意味がなくなるように

私の長年の持論でありますが、英語教育といった複合的な問題は、特定学会内の人脈だけで対応するのではなく、関連領域の人材と広く協力関係を結びながら、開かれた形で対応するべきです。近年は「専門化」がますます進行していますが、本来は複合的な問題を、過度の「専門化」により特定の専門の立場でしか考えられない者が語り始めたら、問題は歪められてしまいます。

私は、最近の英語教育研究が、現象をどんどんと細分化し、業績にはなりやすいけど、英語教育現場の実感から離れた研究になっているのではないかと懸念しています。さらに細分化された英語教育研究の下位分野の多くが、ほとんど英語そのものについて考察せず―自戒の念も込めています―、さらには英語教育研究者が論文以外の英語にはほとんど興味をなくしてしまっているとしたらこれは大問題だと思います(私は、このようにだけはなりたくないと、できるだけ自らの楽しみのための英語読書や映画視聴をすることを不十分ながらも試みています)。

この意味で、日頃から広くそして深く英語に関わっている文学者の方にはぜひとも英語教育の営みに参画していただき、そこでは英語教育の具体的な問題解決のために、「この人は専門の英語教育研究者で、あの人は英文学者だから」といった無用の区別なく、英語教育の改善のために協力できればと思います。

しかし逆に言うなら、特定の文学作品しか読まず、それ以外の英語使用にはまったく興味のない文学者の方が、(それが何を意味するにせよ)「一般的な」英語教育の営みにずかずかと入ってこられて、ご自身の興味関心ばかりを声高に主張するなら、私はそんな方とは一緒にお仕事をしたくありません。

英語教育という多方面からのアプローチが必要な分野では、「英語教育研究者」がいわゆる「身内」だけで人脈を固めてしまうことなく、教育学者、心理学者、言語学者、社会学者そして文学者、等などと、広く人材を求め、開かれたやり方でアプローチをしていかねば、現実に深く食い込むことも、誤った俗説を打ち砕く力をもつこともできないと私は考えます。こと英語教育について考えている際は、「英語教育研究者/文学者」といった無用の区別がなくなり、「開かれた人/閉ざされた人」「柔軟な人/頑なな人」や「知的探究を志向する人/利権・権力を志向する者」という有用な区別がなされるように願っています。





さて、以下は、各発表のスライドと私からの簡単な紹介です。





■柳瀬の発表

・現代日本の英語教育に関しては、それがもつ近代的価値観を一度根源的に振り返り、時代の流れに自覚的に抵抗することが必要であることを述べました。







■佐藤先生の発表

・中学教師として、英語ひいては言語の「読み」を指導する中で、(広義の)「文学的な読み」が有効であることを実践の中で確かめてきました。その底には、「英語そのものだけではなく、英語を通して『何か』を学ばせるのが学校の先生の仕事ではないか。その『何か』とは何なのだろうか」という佐藤先生の思いがあります。





参考記事:佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/11/blog-post_23.html





■和田先生の発表

・近年のトレーニング重視・技能志向の浅い英語教育だけでは、生徒の深い意欲を喚起できないのではないかという実践感覚から、「英語を教育」と「英語で教育」の両立を目指す実践を紹介します。誤解のないように予め言っておきますと、和田先生はトレーニングもガンガンやる方です。





参考記事:和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html





■組田先生の発表

・英語教育の重要性を訴える言説の多くが、「上から目線」の「勝ち組」からの利益誘導型であるが、そういった言説は高校生の心を捉えないこと、そしてそういった言説の連呼への反動はいつかくるだろうということを現場経験から述べ、その日のために、若い世代の「共感」を得るような教材を提供できる教員になりたいと主張しました。「いわゆる「学力下位層」向けの教科書本文には、「英語力がないから、知的成熟度も低いのだろう」と執筆者が思っているのではないかと疑わせるものも多い」という指摘など痛烈でした。

組田先生は、ご自身のブログでもこのシンポについて書いています。ぜひお読みください。

英語教育にもの申す:日本英文学会第85回大会
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2013/05/post-7d4f.html






参考記事:組田幸一郎先生の講演を聞いて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/11/blog-post_22.html





■鈴木先生の発表

・幅広い見識と大胆な行動力に基づいた、存在感のある発表でした。(私のある知人は「この鈴木先生という方は何者ですか」と驚いていましたwww)。(他の発表についてもそうですが)スライドからだけでは、その魅力は伝わらないかとも思いますが、それでもぜひスライドを御覧ください。


参考記事:日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイト(e-job-100)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/e-job-100.html

なお鈴木先生は、最近、村上春樹に関する英語論文を公刊しました。こちらもぜひお読みください。

Mapping the Subterranean of Haruki Murakami's Literary World
http://issuu.com/iafor/docs/iafor-librasia-journal-volume2-issue1/23







■シンポでの討論

シンポでの討論を覚えている限り、私なりに再構成します。発言者の名前は冒頭に表示していますが、誰が発言したのか正確に覚えていない発言についてはそういった表記は割愛しています。

Q: TOEFL批判があったが、TOEFLは悪いテストではないだろう。

A: 柳瀬:もちろんその通りで、私はTOEFL(ITP)受験を毎回学生に勧めているし、自分自身も一~二年に一度は受検するようにしている。問題は、TOEFL(あるいはTOEIC)といった特定の試験結果だけに英語教育の結果を還元してしまおうとすることだ。

Q: TOEFLにしろ、どんな試験にしろ、そこで格差が生まれてしまうことが問題なのでは。

A: 柳瀬:何らかの差ができること自体にはまったく問題はない。差があるのは当たり前だ。だが、もしその「差」が一つのものさしでしか測られないなら問題である。また、差が、それが構造的再生産につながり世代を超えて固定化される格差となってはいけない。

Q: 何かにつけて「エビデンス」を求める風潮には辟易する。

A: 柳瀬:「エビデンス」はまず数量的なものだけではないことを訴えなければならない。しかし、世間の多くは数字だけをエビデンスと考える。そういった思い込みを根底的に覆すためには、こちらも根底的に議論する必要がある。だから今回マルクスも引用した。エビデンスを求める社会には根源的な批判と抵抗が必要である。

参考:柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」 『中国地区英語教育学会研究紀要』No. 40. pp.11-20.
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?flm=0024135378093949&smode=1&cd=00033703&edm=0&tlang=0


Q:「近代的英語教育」に違和感を覚える中高教員はどのくらいいるのだろう?

A: 極めて少数だろう。最近は"School-smart"な教員が多数である

Q: 文学の価値を理解している中高教員はどのくらいいるのだろう?

A: これも極めて少ない。文学の必要性は英文科出身の教員にさえ理解されていないのではないか。大学は、文学の良さを伝えてゆく必要がある。

Q: Output実践との言葉もあったが、outputの言語は?

A: 和田:Outputは英語で行う。

Q: 授業を変えようと思っても、同僚の理解が得られない。どうしたらいいのだろう?

A:同僚には「先手必勝」で臨む。自分の授業案・テスト案を早々と同僚に渡して理解を少しずつ得る。

Q: 「利益誘導的」や「勝ち組」といった表現があったがもう少し説明してほしい。

A: 組田:人間の気持ちよりも、功利を優先して生徒に学習させようとしているのが「利益誘導的」ということ。また、 正社員で年収300万円が多い時代に、高所得・権力者の「勝ち組」が、「負け組」となってはいけないとばかり教育方針を指南しているが、それでは生徒の共感は得られない。共感についてもう少し言うなら、共感を生む教材は、自分で「もやもや」を抱えた生徒にこそ訴える力がある。自分はそういった共感を大切にしたい。

A: 柳瀬:英語教育関係者、特に文学者には、「文学の正典」の枠組みから自由になって、教材開発を進めてほしい。

A: 鈴木:就職・合格した後にこそ、文学的な力が必要。世界の状況を見るなら、広く深い教養を重視するのが当たり前だが、日本は例外的に教養を軽視している。また、文学には「知的自由」という側面がある。知的自由としての文学も強調しなければならない。





■その後の反応

あるブロガーの方は、ブログにこのような感想を書いてくださっていました。

発表された内容から私が受け取ったメッセージは、「文学的アプローチ」とは、文学作品を読ませることではなく、あらゆる素材を使って多角的に読む訓練または体験をすること、だと思いました。実際に短く刈られた英文を使って授業をしていると、おかしなところが多々あります。それをそのまま素通りするか、立ち止まって見直してみるか、で読みの深さが変わります。これまで私は「ちょっと展開が急だよね」と言うだけで、良い意味での深入りをしていませんでした。生徒にもう少し振ってみてもよかったかもしれません。そういった持続的な問いかけが、やがて生徒が自力で考えるきっかけになることを教えてもらいました。

他に感じたことを短く。

・「文学」なんてこのレベルの生徒には必要ない、なんておこがましい考えだよね。

・すぐにでも使える「実践例」が欲しいという気持ちもあったけど、もがいて自分なりのやり方を見つける過程が楽しいし、自分にあったものを作れるような気がする。うまくいかなくて凹みそうだけど。

・いわゆる「文学出身」の私は、英文を深く読み込んでいろいろと発見する過程の楽しさを知っている。授業で取り入れて生徒も「おもしろい」と思ってくれる授業をやってみたい。

・でもテストではどう出すのかな?と思ったけど、授業でやったらテストに出さなくちゃいけない、なんて固定概念をいつの間にか持っていた自分に気づいた。

http://d.hatena.ne.jp/minfogcity/20130530/1369910289




聴衆の一人からはメールを頂きました。ご本人の許可を得て、ここにその一部を転載します。

多読と言いますと、どうしても読む量ばかりに焦点が当たりますが、量を読みつつ、読書の質まで変えられるような読書指導ができないか模索を続けております。

その意味で、今回のシンポジウムで話題になったお話はすべて深く首肯できるものばかりで、大変勉強になりました。

外国語での読書を、その外国語の習得を目的とする段階から、母語での読書と同一線上に並ぶ、あるいはそれ以上の「読書体験」となる段階へと変化させようとするときに、 短い文学作品を精読させディスカッションさせることが、極めて効果的であることが ここ数年の調査からわかってきました。

まさに、学生たちは、「頭」だけで読む習慣から離れ、「身体」で読むようになるのです。

こうした変化を目の前で目撃できる瞬間は、授業者としてこの上ない幸せです。

しかし、こうした変化は、リカートスケールを用いた事前事後のアンケート調査だけでは十分に説明することができず、やはり、学生たちの生の声が感じられる「言語データ」を活かしたいと思うに至っております。


このメールを下さった深谷素子先生のご研究としては以下などがあります。

深谷素子 (2011) 「読書指導の場としての多読授業:"Reading for pleasure"というマジック・ワードを再考する」慶應義塾外国語教育研究(第8号) pp.69-90
http://www.flang.keio.ac.jp/webfile/kiyo/kiyo_eighth.pdf




また、名刺交換などを通じて知り合いになれた方々の論文もここで紹介します。

佐藤和哉 (2013) 「多読教材としての『ロビンソン・クルーソー --Graded Readersのテクスト分析』」(あと一年程度でオープンアクセスになります。私は抜き刷りを読ませていただきました)
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00192893_ja.html

関戸冬彦 (2011)「英語教材としての文学作品の可能性」横浜国立大学大学教育総合センター紀要第1巻
http://www.yec.ynu.ac.jp/kiyo1.pdf

Takahashi, Kazuko (2007) "Is the English of Literary Works Really "Unique"? : Doubts about Its Exclusion from Second Language Learning."
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/53073

高橋和子 (2008) 「英語教育に向いた文学教材 : 大学英語の授業を中心に」
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/53080

高橋和子 (2010) 「短編小説を用いた大学英語の授業 : Katherine Mansfieldを中心に」
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/52626

寺西雅之 (研究代表) 「文学作品を用いた英語教育の教授法と教材の開発に関する研究」 (科学研究費補助金基盤研究(C))
http://www.kaken-litedu.sakura.ne.jp/index.html




こうしてブログ記事をまとめているうちに、だんだんとシンポの記憶が蘇ってきました。自画自賛の繰り返しで恐縮ですが、これは面白いシンポでした。関係者の皆様、ありがとうございます。

現在、私と組田幸一郎先生と奥住桂先生で、『成長する英語教師をめざして?新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』の続きに相当する本を発刊しようとしています。(執筆者の皆様、大変お世話になっております。また、ひつじ書房様のご理解とご支援には本当に感謝しております)。このシンポの登壇者も執筆する予定です。「乞うご期待」!



関連記事

第85回日本英文学学会シンポジウム・「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか (5/26(日)東北大学)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/85-526.html





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