2011年12月14日水曜日

山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別




12月11日(日)に関西大学で開催されました翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウムでなんとか発表と講演をすますことができました。染谷泰正先生(関西大学)を始めとしました関係者の皆様には改めて深く感謝申し上げます。

今回の研究会は、私にとって山岡洋一さんの名前が入った会であるため、そこで発表することを実はかなり恐れ緊張しておりました。私の発表の愚かさで山岡洋一さんの名前を汚すことがあってはならないと思ったからです。

山岡洋一さんについては、私も短い追悼記事を書きましたし、何より、没後一度は閉鎖されたネット版の「翻訳通信」が復活されましたので、そちらをお読みになれば山岡さんが翻訳界および日本語文化に対してなされた貢献の一部を具体的に知ることができます。


翻訳通信 ネット版
http://www.honyaku-tsushin.net/


しかし山岡さんの素晴らしさを簡潔に表現している文章の一つとしては、芝山幹郎氏による「さらば、果敢な友よ 山岡洋一追悼」があげられるでしょう。私はこの文章を、研究会当日に配られた小冊子「翻訳家・山岡洋一さん その仕事と思想」で知ったのですが、以下にその一部を引用します。


翻訳とはなにか。名訳とはなにか。辞書とは何か。古典とはなにか。

要するに、山岡さんは翻訳の急所に迫りつづけたのだ。横着な仕事や安易な態度に怒りを叩きつける一方で、彼は翻訳の楽しみを謳った。日本語のこまやかさを賛え、翻訳と英文和訳の決定的な違いを喝破した。

しかも、彼には広い視野があった。思いつきや出来心で発言するのではなく、長い眼で将来を見据えていた。全体を構想する力もあった。つまり彼の身体には、歴史感覚が早くから備わっていたのだ。

(中略)

それにしても、と私は思う。山岡洋一のあの寛容さとフェアな精神はどこから来ていたのだろうか。

山岡洋一は、翻訳という仕事を心底真剣に考えていた。翻訳を見くびらず、翻訳を祭壇に祀り上げず、なおかつ思考と言葉に深い愛情をそそぎつづけた。

逆にいえば、山岡さんは無私の人だった。自己愛や自己憐憫といっためそめそした感情と無縁の男だった。だからこそ、彼を慕う後輩や若者の数はあんなに多かったのだろう。

嫉妬や意地悪が幅を利かせがちなこの島国で、山岡さんのような姿勢を取りつづけるのは、けっして容易な業ではない。だが、彼はその姿勢を崩さなかった。胸を張り、頭を上げ、果敢に戦って、大股で去っていった。(後略)




以下に、私は当日発表した資料を一部修正したものを掲載しますが、この業績とて山岡さん(および他の先人)が明らかにしたことを、私が少し整理した(あるいはしそこねた)ものに過ぎません。(また、講演スライドは、私が2010年8月21日に日本教育学会で口頭発表したものを改訂したものであることをお断りしておきます。この発表はまだ活字化できていないので、今回、ぜひ活字化できればと思っております)。




講演の発表内容の中で、皆さんに多少なりとも評価していただいたのが、「翻訳」、「英文和訳」、「英文解釈」の区別です。以下にその区別を掲載しますが、これは私が2010年8月26日のブログ記事「翻訳教育の部分的導入について」で発表したものを元にした当日発表に対して加えられました皆さんのコメントを参考にして、本日作成したものです。(コンテクストの重要性をご指摘くださり、さらに"trans-coding"という用語を教えてくださいました染谷泰正先生(関西大学)には特に感謝します。






上の画像をクリックすると大きくなります。
PDF版のダウンロードはここ



念のため表の中身をテキストで以下に転載します。


翻訳
Translation of language use that is embodied and contextualized

言語使用をその言語を発している者の心身やその者がおかれた状況を理解した上で、一読して原典(起点言語)の意味と機能がわかるように目標言語化しそれを書記化すること。時に「意訳」とも呼ばれる。書記化に伴い、ほとんどの場合、翻訳は推敲される。

同化(目標言語重視)と異化(起点言語重視)の二極の志向をもち、その超克に目標言語の革新の可能性がある。



英文和訳
Trans-coding of language that is not regarded as embodied or contextualized
言語を発している者の心身やその者がおかれた状況をほとんど理解することなしに、記号としての言語の部分に専ら注目した上で、構文ごとの訳出「公式」に辞書の訳語を当てはめて、起点言語を機械的に目標言語化し、それを書記化したもの。しばしば「直訳」とも言われる。

機械的な変換なので訳出もそのチェックも容易だが、その読解はしばしば困難。

「英文和訳」は様々な言語間での直訳の典型表現(提喩・換喩)としての表現。いわゆる独文和訳や仏文和訳もこの用語で表現している。



英文解釈
Interpretation in interaction for translation or trans-coding

教室で学習者と教師の間で典型的に行われる、原典を理解するための音声での目標言語化。目標言語化に際して、教師からの質問や解説などのメタ言語が多用され、その相互作用により原典理解が促進される。目標言語化は「翻訳」を志向することもあれば、「英文和訳」を志向することもある。

実際は口頭での目標言語化は、しばしば不完全のままで終わるが、この活動の目的は原典の理解であるので、目標言語化が完成しないことは問題視されない。

「英文解釈」は様々な言語間での直訳の典型表現(提喩・換喩)としての表現。いわゆる独文解釈や仏文解釈もこの用語で表現している。

通用では「英文解釈」を、左項の「翻訳」や「英文解釈」の意味で使うこともあるが、ここでは「英文解釈」は言語が音声化されるだけで書記化されない活動として「翻訳」や「英文解釈」とは区別して考える。

この相互作用としての英文解釈は、学習者と教師との間で行われることを典型例とするが、学習者がこの相互作用を内面化するなら一人でも自分自身を相手にこの英文解釈の相互作用を行うこともできる。





私がこの区別をした上で、主張したことの主な点は、次の通りです。


(1)「英文和訳」には教育的な意義はあまり認められないので基本的に行うべきでない(作業的に行うことはありうるだろうが)。

(2)「英文解釈」は授業中のメタ言語の効果的な使用として適切に使われ続けるべきである。もちろん解釈内容によってはメタ言語を英語にすることも可能であり、「英文解釈は日本の英語教育の財産」といった言葉を金科玉条にして、英語授業を日本語使用ばかりにするのは戒めるべき。

(3)「翻訳」は、ほんのわずかの分量の英文しか扱えない集中的な複合的言語文化能力あるいは多言語能力の教育手段として考えるべきであり、全英語教育にかけられる時間のせいぜい5%もかければ十分であろう(逆にいうとその少ない時間は、徹底的に翻訳を教えるべきである)。また翻訳は英語から日本語の方向だけでなく、これからは日本語から英語への方向でも行うべきである(もちろんこれは機械的な「和文英訳」(=「英文和訳」の逆方向の営み)ではない)。



多くの英語教育の議論は「翻訳」「英文和訳」「区別」の区別をしないまま、(ここでいう)「英文和訳」を禁止すべきだからという勢いで「翻訳」や「英文解釈」まで排斥しようとしているように私には見えます。

今回の私の論点は、「一般教養としての翻訳教育」でした(詳しくはシンポジウムスライドをごらんください。「英文解釈」擁護の議論は今回は割愛しています)。

私のいう「翻訳」 ―つまりは翻訳家が誇りをもっている営みとしての「翻訳」― は、日常的で惰性的な言語使用とはまったく異なる試みです。藤本一勇(2009)は『外国語学』で次のように言います。


通常、言語コミュニケーションを、たとえば日常的に口頭でいわばプラグマティックに行っている場合、その場の実務的な目的が達せられればよいのであって、外国語や自国語といった言語の境界線(限界=極限、あるいは臨界)の問題や、相手の言語や意図にどこまで肉薄できるか(あるいは不可能か)といったような根本的な問題は、ほとんど意識しないで済まされるだろう。その意味で、翻訳は、外国語との関係において、翻って自国語との関係において、ある意味、極限的な経験ではある。しかし、翻訳があぶりだす極限的構造は、自国語であれ外国語であれ、日常的・一般的に言語を使用する場合にも、その基礎にあることは忘れてはならない。(藤本 2009, 82)


私はこのような意味での「翻訳」は、限定的に日本の英語教育に導入すべきものだと思います。もっとも、私も含めた英語教師のどれだけが「英文和訳」でない「翻訳」をできるのか、という現実的な問題は大きいです。そもそも現在の英語教師の何割が、「英文和訳」でない「翻訳」を行ったことがあるでしょうか・・・




当日は、この他にも翻訳のデメリットについて質問をいただき、私なりに考えを深めることができましたし、翻訳家の岩坂彰さんがよくおっしゃる翻訳とプリズムの話をよりよく理解もできました。参加者の皆様の鋭い(しかし温かい)コメントに感謝します。


私は「英語教育」という立場からですが、これからも「翻訳を見くびらず、翻訳を祭壇に祀り上げず、なおかつ思考と言葉に深い愛情をそそぎつづけ」てゆきたいと思います。

翻訳家・山岡洋一さんに、改めて御礼申し上げます。




追記

シンポジウムの発表者の一人である河原清志さんが、山岡洋一さんの代表翻訳作品としてあげたのが以下の古典です。どうぞぜひこの機会に山岡さんの日本語でこの世界的な古典をお楽しみください。



また著作の代表作としては次があげられるかと思います。





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