まったく私的な研究会で、友人の一人がエンゲストロームの『拡張による学習―活動理論からのアプローチ』についての発表をしました。研究会はやがていつものように飲みながらの話につながり、話題は大学教育の管理システムに移りました。参加者全員が、近年しきりに導入されている大学教育を外部から管理して「改善」しようとするシステムが、しばしば無駄であり、時に逆効果であるとの見解で一致しましたが(なんせ、飲んでいますからね 笑)。その時も思ったのですが、この管理の無駄と逆効果をエンゲストロームの本の中にも引用されていたベイトソンの学習理論で説明できないかと思い、今ここにこうして駄文を書き連ねています。
■ ベイトソンの学習理論を乱暴に読み替える
エンゲストロームの本の英語版(Learning by Expanding: An Activity - Theoretical Approach to Developmental Research)は、
で読むことができます(ネットって本当に便利ね)。私は研究会の最中にiPhoneでこれを見つけて、以後、議論されている箇所はiPhoneでチェックしました。
ベイトソンの引用は、3. The Zone of Proximal Development as the Basic Category of Expansive Research の中の Levels of learningでなされます。本来はベイトソンのSteps to an Ecology of Mindの該当章をきちんと読み直し、そこから引用もするべきなのでしょうが、本は研究室に置いており、今自宅にはありませんので、ベイトソンの関連箇所は上記URLから孫引きすることにします(こう考えると、データをクラウドに置く電子書籍ってやっぱり便利よね)
ベイトソンは学習を四段階(あるいは三段階)に分けます。
"Zero learning is characterized by specificity of response, which - right or wrong - is not subjected to correction.
Learning I is change in specificity of response by correction of errors of choice within a set of alternatives.
Learning II is change in the process of Learning I, e.g., a corrective change in the set of alternatives from which choice is made, or it is a change in how the sequence of experience is punctuated.
Learning III is change in the process of Learning II, e.g., a corrective change in the system of sets of alternatives from which choice is made. (We shall see later that to demand this level of performance of some men and some mammals is sometimes pathogenic.)
Learning IV would be change in Learning III, but probably does not occur in any adult living organism on this earth. Evolutionary process has, however, created organisms whose ontogeny brings them to Level III. The combination of phylogenesis with ontogenesis, in fact, achieves Level IV." (Bateson 1972, 293.)
これを私の理解(誤解)に基づいて大胆に日本語で言い換えますと、次のようになろうかと思います。
ゼロ学習とは、ある種の反応が、正しかろうが誤っていろうが、固定化することである。
学習Iとは、誤った反応が正され、反応がある範囲内に定まることである。
学習IIとは、学習Iのプロセスが変化したもので、反応の選択範囲が修正されるとか、経験の区切り方が変るとかの変化が生じるものである。
学習IIIとは、学習IIのプロセスが変化したもので、反応の選択範囲のシステムが修正されることである(このレベルのパフォーマンスを求められた人間や動物の中には、システムの変化に対応できず精神的障害を起こしてしまうものもある)
学習IVとは、学習IIIが変化したものであるが、おそらくこの学習は地球上の生物では達成できないだろう。しかし進化の過程で、いくつかの生命体の中には学習IIIのレベルに到達した個体を生み出すものも出てきた。この個体発生が系統発生と組み合わされるなら、それが学習IVなのかもしれない。
■ベイトソンの学習の例を武術で考えてみる
以上の私の理解(誤解)をさらに大胆に(というか乱暴に)武術の例を使って説明し(ゼロ~III)、さらに拡張させた(IV)のが以下です。(すみません、昨晩の研究会に引き続き、今晩は学部ゼミ生との飲み会がありましたので、今まだ酒が残っています)。
ゼロ学習とは、例えば人に殴られたら泣くという反応が身についてしまったことである。
学習Iとは、例えば人に殴られたら泣くのではなくて、殴り返すという反応を身につけることである。
学習IIとは、例えば人に殴られたら、殴り返すだけでなく蹴るという反応もできるようになることである。
学習IIIとは、例えば人が殴りかかってきたら、殴り返すか蹴るという反応だけでなく、自らの体軸をずらして相手を転倒させたり投げ飛ばしたりするという反応もできるようになることである(人によっては、このレベルの学習をしようとすると、殴り・蹴る反応をしたものか、体軸をずらす反応をしたものか瞬時に判断できず身体が居着いてしまうことにもなりかねない)。
学習IVとは、通常は達成できないものである。だが武術の達人と呼ばれる人間はおそらくこのレベルに達していたのであり、そのレベルでは例えば、達人の方が、相手が殴ろうとする気持ちを相手より先に察し、相手が殴ろうとする意志すらも持たせないように状況を変えることなどをしていたのであろう。
■ベイトソンの学習の例を教育管理で考えてみる
さすがに上の学習IVは私の想像が過ぎましたから、学習IVは今度は割愛して、昨晩の研究会の飲みの席で話題に出た大学の教育管理でベイトソンの学習の例を考えてみます。
まずは教師が授業についてどのような学習をするかで考えてみましょう。
ゼロ学習とは、その効果の有無にかかわらず、授業とはこのようにするものだという行動が決まってしまうことである。
学習Iとは、効果の無い授業行動を修正し、一定の効果の有る授業行動ができるようになることである。
学習IIとは、効果のある授業行動のレパートリーが増えることである。授業は特に一つの定まった方法でやらなくても臨機応変に他の方法に変えてもできるようになることである。
学習IIIとは、これまでの授業のあり方とは根本的に異なる発想もできるようになり、一見さらに自由自在に振る舞いながら、常に学習者の学びを育むことができるようになることである。
大学などの教育を一連のチェックリストなどで管理しようとする方法は、上の例で言うと、せいぜいゼロ学習しかしていない教師に学習Iをさせようとすることかと思います。
言うまでもなくこれはゼロ学習しかできていない教師に対しては有効です。チェックする方も、チェックリストに挙げられた行動の有無をチェックすればいいだけですから、管理も簡単です。
しかし学習Iとは、ゼロ学習から見れば進歩でも、学習IIさらには学習IIIから見れば、なしうることのほんの一部を語っているだけです。さらにその一部というのも本質的部分でなく、時に省略できるものにすぎません。殴りかかってこられたら、必ず殴り返さなければならないのではなく、蹴っても相手をかわして転倒させてもいいわけです。授業で学習者が質問してきたら丁寧に答えてもいいわけですが、時には敢えて答えずに考えさせてもいいし、稀にはその問いをする学習者の思考様式を問い直す問いを逆に投げかけてもいいわけです。学習Iのレベルでは、学習IIや学習IIIをとらえきれないのです。
そうしますと、ゼロ学習しかできていない教師に学習Iレベルのチェックリストで管理することは有効であっても、学習IIやIIIまで到達している教師を、学習Iレベルのチェックリストで管理することは逆効果です。それは高次の判断に基づき多様な行動ができる者に、低次の判断だけでの限られた行動だけを常に行うように強要することだからです。チェックリストに従うことを強要することにより、より効果的な行動を行う自由を奪うからです。
■学びに関する浅薄な理解が管理体制の流行の根源ではないのか
チェックリストとは、おそらく学習Iといった選択範囲の低い学習にのみ成立するものでしょう。学習IIですら多数の選択肢での判断が求められるわけで、少なくとも学習Iしかできていない者はその判断の妥当性をチェックリストではチェックできません(判断が妥当であったかどうかは教育が想定している長期間での観察を経てじわじわとわかってくるものです。高等教育の場合、その観察は授業中や学期中の変化だけでなく、卒業後、しかもしばしば10年や20年かけての変化でなされるべきでしょう)。
怒られることを承知で、また自分がどんどん傲岸不遜になっていることを怖れながら言いますと、チェックリストのような安直な管理が流行しているということは、学習Iレベルで終わっている人がどんどん増えている(あるいは権力を得ている)ということでしょう。学びというものを学習Iのレベルでしか理解していない人がどんどんと教育を管理しようとし、またその管理体制を応援しているのでしょう。「○○のときには××する」といったマニュアル的暗記ばかりに長けた人がこの世に増えているからでしょう。
■より高次元の知性、あるいは多元的な知性の相互作用を促進する
しかしこのような安直な管理ばかりを横行させることは、教育の(あるいは他の実践の)豊かな可能性を損なうものです。低次元の知性は高次元の知性を管理してはいけません。
それではその「高次元の知性」は自由勝手にやっていいのか。そうでもありません。高次元の知性は、より高次元の知性により管理されるべきでしょう。あるいは、より高次元の知性が人間には不可能なら、同等の高次元の知性を多元的に配置し、それらの複数の高次元の知性に相互作用を起こさせ、自由で民主的な管理体制を築くべきでしょう。
いずれにせよ、自らの正しさを信じて疑わない学習Iレベル(あるいはゼロ学習レベル)の者に教育を管理させてはいけない、またリストといった簡単な書類だけで管理できるのはせいぜい学習Iのレベルにすぎないというのが、私の深夜の妄想です。日付も変わってしまいました。お休みなさい。
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【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor
2 件のコメント:
はじめまして。
教育への理解が浅いところでの管理システム導入への疑問、まさに小生も思っているところです。
そんな疑問から大学組織のよりふさわしい組織行動プロセスを組織学習論とつなぎ合わせて博論を書こうとして現在悪戦苦闘しております。
tenさん、コメントありがとうございます。博士論文の大成をお祈りいたします。
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