2012年9月3日月曜日

安冨歩 (2012) 『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』 明石書店





この「東大話法」については、ツイッターか何かで知り興味をそそられていましたが、単なる時流本かと思い、そのままにしておりました。ですが敬愛するネット上の友人が以下のインタビューについて教えてくれまして、それが面白かったのでこの安冨先生の本を買うことにしました。



インタビュー:安冨 歩 
(YASUTOMI Ayumu, Professor/東文研・東アジア第一研究部門教授)


http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/interview/16.html



東電原発事故以降、原子力の「専門家」とされる人々が、時におそろしい程の発言をし、追求されると詭弁を繰り返すことは、多くの人にとって明らかになったかと思います。同様に注意すべきは、原発を語る時に使われる―もっと正確に言うと「原発の専門家によって使われることが推奨され制度化されている」―用語が、冷静に考えるとずいぶんおかしなものであるということです。こういった用語を著者は「原子力安全欺瞞用語」と呼んでいます(32ページ)。

この本(32-35ページ)からいくつかを拾ってみると次のようなものがあげられます。左が「原子力安全欺瞞用語」あるいは「公式用語」で、右が「正しい表現」あるいは「常識的な表現」です。



爆発的事象 ー 爆発事故

ただちに悪影響はない ー 長期的には悪影響がある

原子炉の高経年化 ー 原子炉の老朽化

使用済み燃料 ー 使用済み核燃料

高レベル廃棄物 ー 高レベル放射性廃棄物

原子力安全委員会 ー 原子力危険性審査委員会




こういったことばの言い換えは、世界中にひろくはびこっています。(チョムスキーも、権力によるこういったことばの操作について批判していたように思います。私はきちんと読んでいないのでわかりませんが、そういった批判は『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』などで読むことができるのでしょうか?ご存知の方がいらしたら、ご教示願えたら幸いです)。例えば関東軍731部隊は、人体実験をされて殺される人を「マルタ(丸太)」と呼び、「一人、二人」と呼ばず、「一本、二本」と呼んでいました。(32ページ)

ですが、ここで注目すべきことは、731部隊は秘密部隊であり部外者が一切入れなかったので、本来はこのような隠語を使う必要がなかったということです。この点について著者は次のように解釈します。


しかし、人間を人間扱いせずに実験を使って殺すには、相手に「丸太」という名称を与えて、「本」で数える必要があったのです。そうしてはじめて残虐無比な人体実験が可能になったのだと私は考えています。(32-33ページ)



著者の専門の一つは満州国の研究ですが、そういった戦前の日本の研究に基づき、著者は日本が暴走した要因を「言葉の歪み」に求めます。(注1)


そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、すべての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。そして正しい言葉を使おうとする者は「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。こういうことが続くことで、表面上の平穏が維持され、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。(37ページ)


著者は『論語』の「名を正す」を引用して次のようにまとめます(ちなみにこの著者には『生きるための論語』という著作があります)。

それがどんなにつらくてひどいことであっても、事実にふさわしい言葉が用いられることにより、人間は事実に向かって対応することが可能になります。この勇気さえ持てるなら、人間は事態を乗り越えていく知恵を出すことが可能になるのです。そのとき、事態は好転し始めます。そればかりか、「危機」は新たなる「機会」へと変貌します。これが「名を正す」ということの意味です。(39ページ)



原子力の「専門家」の発言例として、著者は大橋弘忠教授(東京大学)が、小出裕章助教(京都大学)との討論の中で言った「専門家になればなるほど、そんな格納容器が壊れるなんて思えないんですね」という発言の中の「専門性」と「事故に対する認識」との比例関係に注目します。


この比例関係が示すことは、

欺瞞言語で脳の思考力を破壊していって、頭がぼんやりしてきて、「格納容器が壊れるなんて思えなく」なればなるほど、立派な「専門家」になる、


という関係性の存在です。原子力の専門家であるための条件は、原子力についての真理に暁通することではない、のです。そうではなくて、欺瞞言語を心身に浸透させていって、まともに思考ができなくなり、原子力業界の安全欺瞞言語でしかものが考えられなくなって、「格納容器なんて壊れるわけないよね」と<思い込める>ということが、専門家の条件なのです。(67ページ)



「起こるはずのない事故」は原子力業界では「想定不適当事故」と呼ばれるそうですが(67ページ)、たしかにこんな言葉使いに長けることが求められる業界に長年いると、思考は体系的に偏るでしょう。そしてその体系的な偏りこそが「専門家」であることの標章となるのでしょう。


常識的に考えると、こういった意味での「専門家」になることは、知性の自由な発揮を自ら封じることに同意することであり、およそ知的な人なら嫌うことかと思えますが、著者は実はそうではなく、東大を中心として、多くの「頭がいい」(はずの)人が、このような意味での「専門家」となり、さらにはその「専門家」の集団の中で上昇してゆくことを望みます。これを著者は「東大文化」と呼びます ―ちなみに著者は「東大文化」や「東大話法」について語りますが、これらは東大に限らず見られるものです。また東大の構成員がすべてこれらに罹患しているわけでもありません―。その「東大文化」の三つの特徴は以下の通りです。


徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、

抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、

高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する (114ページ)



著者が批判する「東大文化」をもつ人は、普通の人なら良心の呵責を感じてしまうようなエゴを満たす行為に対しても何も感じず(=不誠実)、周囲の人々の心理状態や損得の状態をよく観察して常に自分が不利な状況にならないように適宜周りに飴玉をなめさせ(=バランス感覚)、膨大で無意味な予算申請書や体裁だけの論文をすらすら書き上げます(=高速事務処理能力)。(112-113ページ)。


こういった人のことばの使い方として著者がまとめたのが「東大話法」です。東大話法は実は20あるのですが、ここでは(後で少し述べます)「立場」にかかわる東大話法だけを引用します。



東大話法規則


規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。 (24-25ページ)



こういった人は私たちの周りに多くいます。自らには首尾一貫した定見がなく、その時々の立場(地位)の利益にかなったことばかりを言い続ける人です。そういった人は、何でも自分の立場を強化するように話を曲げて解釈し、そのような解釈の話ばかりを集めてペラペラとしかも大声でまくしたてます。自分の立場にとって不利な話は無視したり、小馬鹿にしたり、あるいは関連のない話にもっていってごまかしたりします。

「あのねぇ、青いこと言うんじゃないよ」と反論したい方もいるかもしれません。「大人、あるいは組織人っていうのはね、自分の気持ちは殺してでも『立場』を守る人なんですよ。そんなこともわからないんですか、やれやれ」と言うわけです。

ここで大切になってくるのが「立場」ということばが何を意味しているのかということです。

現代日本語の「立場」は、(1)人が立っている場所(=単なる物理的な意味)、(2)その人の置かれている地位や境遇(=社会的な意味)、(3)人の置かれた状況から要請される考えや見方(=人格化された意味)、の三つの意味をもっています。

上記の三つの「東大話法」を当然のことと思う人は、おそらく「立場」をもっぱら(3)の意味で理解し、「ある立場につく」ということは、その立場が要求する人格を演じ続けることなのだと信じているのでしょう。他方、東大話法をおかしなものと考える人は、おそらく「立場」の(3)の意味よりも(2)の意味を重視し、社会的状況と人格は常に一致するわけでもないし、常に一致させるべきでもないと考えているのでしょう。人格は社会的状況に影響は受けても、基本的にそれから独立しているものだというわけです。

ここで思い出されるのはカントの「啓蒙とは何か」の議論です。

カントは、例えば将校は上官の命令には従わなければならないが、その上官の命令の失策を指摘しこれを公衆に発表してその判断を仰ぐことは認められなければならないとします。あるいは市民は課せられた税金の支払を拒むことはできませんが、その課税が適切かどうかを判断する学説を公表することは市民の義務にかなうものだとします。または教会の牧師は、自分の教区の信徒には所属する教会が定めた信条に即して講話を行わなければなりませんが、この学者がその信条について検討した結果を公衆に発表し教会を改善する提案をすることはまったく自由であるだけでなく一つの任務でもあり良心が咎めることはない、とカントは論じます。(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 (光文社古典新訳文庫)16-17ページ)。

つまり、もし上の区分で説明するとすれば、カントは「立場」の(3)の意味を認めつつも、人格が社会的(というより制度的)状況に隷属してしまうことは認めず(つまりは、「立場」は本来(2)であり(3)ではないと考え)、人格が理性を発揮し、その理性に従って行動することを「啓蒙」のために必要なこととしています ―誤解のないように言っておきますと、もちろんカントは日本語の「立場」ということばで論じているわけではありません。ここの議論は私なりの解釈的説明です―。

社会的・制度的な立場に服従した限りにおいて理性を働かせること(言い換えるなら上記の「東大話法」で語り続けること)をカントは「理性の私的な利用」と呼びます。「ご冗談を!それこそ『公的』な利用でしょう」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、原発推進という「立場」を守り続けて、そのあまりことばを歪めてしまった(ということは思考を歪めてしまった)人は、実は真剣に市民・公衆ひいては世界のことを考えていたのではなく、時の政策にただただ従い私的に利権をむさぼっていたことを思い出すなら、このカントの用法もおかしなものでなないことがわかります(ちなみに平成21年度の文部科学省の科学研究費補助金の総額(すべての学問分野を対象とした合計金額)は527億円であるのに対して、同年度の原子力関係経費の総額は4557億円(一般会計1158億円、特別会計3399億円)だそうです(40ページ)。原子力がいかに巨大な利権かということがわかります)。

カントはその時々の社会的・制度的制約の範囲以上に、より広く開かれた世界で理性を使用することを「理性の公的な使用」と呼びます。ある組織や共同体を超えて、「世界の市民社会の一人の市民」として(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 (光文社古典新訳文庫)16ページ)ふるまうことがカントにとって「公的」なことなのです。

カントはさまざまな社会的制約の中で拘束されながらも、人間が少しずつ「自分の理性を使う勇気」をもつためにするにはどうしたらいいのかという「啓蒙」の課題について、次のように言います。


こうしてどこにも自由は制約されている。しかし啓蒙を妨げているのは、どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば、啓蒙を妨げることなく、むしろ促進することができるのだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。これにたいして理性の私的な利用はきわめて厳しく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展が特に妨げられるわけではない。さて理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的利用とは、ある人が役職としての地位または官位(注2)についている者として、理性を行使することである。

『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 (光文社古典新訳文庫)15ページ)





こうなると上記の東大話法は、「公的」ではなく「私的」な頭の使い方に基づくものだと言えます。というよりもそもそも東大話法とは、不誠実な自己中心性を周りへの利益供与と巧言令色でごまかす「東大文化」に基づくものなのです。

著者は、さらに人間が情動と感情を否定され、情動と感情から切り離された思考のことばだけしか使えなくなった場合の分析を行なっています(207-213ページ)。この箇所の分析はすばらしいと私は思っていますが、重い話題なので、ご興味をもたれた方はぜひ本書をお読みください。

日本でしばしば「大人」「組織人」の態度とされている、特定の社会的・制度的立場に自分を閉じ込めてしまって、その範囲からはみ出る思考(ひいては感情・情動)を否定することは、その組織の短・中期的利益にはつながっても、より広い世界の長期的利益と相反することがあります。少なくとも大学の人間は、このような意味での「大人」や「組織人」として行動してはいけないと私は考えます。それは「大人」ということばの矮小化であり、「組織」を「世界」よりも重視する倒錯でしょう。さらに言うまでもなく、学問の否定です。

もし日本のエリートが、自分の組織利益を守るためだけにことばを使い続ければ、国益はやがて損ねられるでしょう。さらに、違った意味で非常に怖いことは、私たちはことばへの信頼を失ってしまうでしょう。

著者は、原発に反対する人の一部がオカルトや陰謀論にはしってしまうことの背後には、「原子力安全欺瞞用語」に絶望するあまり、ことば一般にまでその絶望感を広げてしまい、ことばの正しい使用に対する信頼を失い、もはや自らの判断力の基盤を、吟味したことばの使用(健全な議論)に求めず、自らの衝動的な好悪に求めてしまっているのではないかと考えています。何も信じる根拠がないから、目の前にある一見魅力的な論に一も二もなく飛びついてしまい、そんな自分を省察することもできなくなってしまうというわけです。判断や省察の大きな媒体はことばですから、ことばへの信頼が損なわれたら、そのような事態も十分に考えられます。

原子力発電所に繋がった数々の隠蔽工作と、事故処理に見られる悪意と呼んでもよいような不誠実の連鎖という事態は、人々の世界に対する信頼に、大きな亀裂を入れてしまいました。その亀裂を埋めるために人々が、このようなオカルトや陰謀論を受け入れることは、ある種必然的な、そして極めて危険な事態です。原子力があれほどの事故を引き起こしながらも、何もなかったかのように振る舞う原発関係者の行為を政府が許していることは、人々の公的なるものへの信頼を喪失させ、その判断力の基盤を破壊していることに、十分注意が払われるべきです。(244ページ)


ことばへの信頼が大きく損なわれているのは日本だけではありません。先日、たまたまリンクからリンクへという形で読んだエッセイ(The Ways of Silencing By JASON STANLEY, The New York Times, June 25, 2011)は、ポルノ映画が「女性の"No"は実は"Yes"なのだ」という虚偽を振りまくことで、女性が言う"No"が無効化されてしまったことを踏まえて、アメリカの政治言説もあまりにも馬鹿馬鹿しいような論が繰り返されることによって、人々がことばをまともに使う気力を失ってしまうことを憂いていました。


he Ways of Silencing

By JASON STANLEY

The New York Times, June 25, 2011

http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/06/25/the-ways-of-silencing/



さらに私の業界である英語教育でも、文科省の人々、およびそれにつらなる「英語教育学者」は、要は学習指導要領に適うことだけ言い続け、それに適わないことには耳を貸さず、聞こえてきてもごまかすか、権力的な物言いで黙らせてしまうだけではないのか、という懸念が、特に最近強くなっているように思えます。

文科省やそれにつらなる「英語教育学者」も、要は不誠実な自己中心性を周りへの利益供与と巧言令色でごまかす「東大文化」につらなる人々であり、彼・彼女らが語ることばは、結局、文科省の立場・メンツに合わせただけのことばであり、彼・彼女らと話をしても無駄だという虚無感が少しずつ私たちを蝕んでいませんでしょうか。(本当は文科省にもそこにつながる「英語教育学者」にも誠実な人はいるはずなのに)

そのようにことばへの信頼が損なわれると、誤った政策を修正することができず、また誤った政策により引き起こされた害が公的に認められなくなります。さらには、英語教育についていくら議論をしても無駄という虚無感が蔓延することも考えられます。

そのような事態は、どうあっても日本の国益(ひいては日本がつながる世界の利益)にも適わないでしょう。そういったことばの破壊を、ことばの教師であるはずの英語教育関係者がやっているとしたら、これはもはや悲劇以外の何物でもありません。

原発問題においても、英語教育の問題においても、他の問題に関しても、私たちは日本社会にはびこる「東大話法」 ―欺瞞の言語― に注意しなければなりません。東大話法に気がついたら、まずそれを指摘し、それにごまかされないようにしなければなりません。そして、親しい者への利益供与と巧言令色で私益をむさぼっているだけの不誠実な人がしばしばもつ高い肩書きにだまされないようにしなければなりません。公権力への大きな影響力をもつ人は、理性を「私的に」ではなく「公的に」使う勇気を持たなければなりません。

そして私たちが自ら「東大話法」に侵されないように気をつけなければなりません。「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む」とはニーチェの箴言でした。

この点で、この本の著者は、著者自身が東大話法に侵食されているかもしれない可能性を否定せず、批判的にこの本を読むことを勧めています。 皆さんもどうぞご自身でこの本をお読みください。









(注1)日本の暴走に関しては、ことばを歪めることだけでなく、そもそもことばを反省的に ―多くの日本人が嫌うことばで言えば「哲学的に」(笑)― 使い、思考を言語によって積み重ねることを嫌うことも、大きな要因と言えるかと思います。

たまたま今朝目にしたエッセイですが、保坂正康氏は「昭和史のかたち」(毎日新聞2012年9月3日朝刊第4面)で、昭和史の二つの「14年間」に着目します。一つは、昭和6(1931)年の満州事変から昭和20(1945)年の太平洋戦争敗戦までの軍事主導体制の14年間、もう一つは昭和35年(1960)年池田勇人内閣による所得倍増政策から昭和49(1973)年に戦後初のマイナス成長を記録するまでの経済主導体制の14年間です。この二つの期間について保坂氏は次のように書きます。

軍事主導体制のときも、短期間に世界に冠たる軍事国家になり、その余勢を駆ってすべてを軍事に収斂する国家をつくりあげて失敗した。短期間に頂点に上りつめるために冷静さや客観的思考や、さらには自省の念を忘れてしまうのだ。今にして思えば。、経済主導体制の14年間も、公害に目をつぶり、社会に有用性をもたぬ事象すべてを切り捨てて直進していた。



(注2)

カントの「啓蒙について」は、私は基本的に『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 (光文社古典新訳文庫)の中山元先生の訳をそのまま引用していますが、この箇所だけは自分で訳しました。

といいますのも中山先生の訳では、理性の私的利用が「ある人が市民としての地位または官職についている者として」理性を行使すること、とされてますが、私はこの「市民として」という語句が不可解でした。

そこで英訳を参照してみると、Practical Philosophy (The Cambridge Edition of the Works of Immanuel Kant)のMary Gregorによる翻訳では次のようになっていました。

But what sort of restriction hinders enlightenment, and what sort does not hinder but instead promotes it? -- I reply: The public use of one's reason must always be free, and it alone can bring about enlightenment among human beings; the private use of one's reason may, however, often be very narrowly restricted without this particularly hindering the progress of enlightenment. But by the public use of one's own reason I understand that use which someone makes of it as a scholar before before the entire public of the world of readers. What I call the private use of reason is that which one may make of it in a certain civil post or office with which he is entrusted. (p. 18)


中山先生が「市民としての」と訳されたのは英訳では"civil"です。それならばそもそも原文ではどうなっているのかと思うと、ネット上にあっさり原文がありました(ネットの公的な使用って素敵w)

Hier ist überall Einschrankung der Freiheit. Welche Einschränkung aber ist der Aufklärung hinderlich, welche nicht, sondern ihr wohl gar beforderlich? Ich antworte: Der öffentliche Gebrauch seiner Vernunft mus jederzeit frei sein, und der allein kann Aufklärung unter Menschen zustande [A485] bringen; der Privatgebrauch derselben aber darf öfters sehr enge eingeschrankt sein, ohne doch darum den Fortschritt der Aufklärung sonderlich zu hindern. Ich verstehe aber unter dem öffentlichen Gebrauche seiner eigenen Vernunft denjenigen, den jemand als Gelehrter von ihr vor dem ganzen Publikum der Leserwelt macht. Den Privatgebrauch nenne ich denjenigen, den er in einem gewissen ihm anvertrauten bürgerlichen Posten oder Amte von seiner Vernunft machen darf. http://www.uni-potsdam.de/u/philosophie/texte/kant/aufklaer.htm


問題の箇所は"bürgerlichen"でした。この形容詞が"Posten oder Amte" (post or office) にかかっています(ですよね ←ドイツ語の格変化に自信がない 泣)。こうなるとうまい訳は難しくなります。「市民としての地位または官職」では、「市民としての地位」が(少なくとも私にとって)意味不明です。「公共の地位」がいいのかもしれませんが、「公共の地位にある者として理性を行使すること」が理性の私的利用というのは、私には少し違和感があります。「市民社会の地位」なら「世界市民の地位」と対比させて理解することができますが、ちょっとわかりにくいかもしれません。というわけで、私は日本語としてのわかりやすさを最優先させて、「役職としての地位または官位」と訳しました。

あと、ついでながら書いておきますと、私は公共性について以前はこんな文章を書いていました。(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay.html#060329




追記

この本の著者の安冨歩先生のブログとツイッターは以下のとおりです。ご参考まで。





1 件のコメント:

柳瀬陽介 さんのコメント...

友人から以下のコメントをいただきました。まったくその通りかと思います。


原子力安全欺瞞用語の最たるものは「原子力」だと思います。英語では同じnuclearなんだから、「核兵器」というなら「核発電所」、「原子力発電所」というなら「原子力兵器」と言うべきなのです。