■最初に
以下は矢野智司先生(以下、敬称略)による『贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』の私なりのまとめである。「私なり」とは、誤読をしているかもしれない私の解釈に対する婉曲表現である。
矢野が300ページ以上をかけて精妙に丁寧に論述したことを、私がブログのわずかなスペースに正確に再現することはもとより求められることではないが、具体的に述べても、私の以下のまとめは、矢野が取り上げるツァラトゥストラとソクラテスについてまったく取り上げていない。それどころか副題にも上げられている宮沢賢治の作品に即した見事な論考も、以下ではほとんど省略している(夏目漱石にいたってはまったく言及していない)--それを行うには大量の引用と記述が必要である。また矢野が重要な理論基盤の一つにしているバタイユ(「非-知の体験」)についても割愛せざるを得なかった--これはひとえに私がバタイユを読んでいないからに過ぎないのだが。また矢野が注意深く述べている「純粋贈与」の危険性についても下では述べていない。私のまとめはどうあっても十全なまとめではありえない。
と、このように、以下私が書くことの歪みを、少なくとも私自身が気がついている限りにおいて予め述べておくことで、私も以下のまとめをこのブログ空間に書き記すことを許されるのかもしれない。とまれ、以下は、私が矢野の論考に触発されて書いたものである。
■有用性に絡め取られた教育学
現在「教育学者」と自称する者の思考法の多くは、「操作可能な対象としての生徒・学生にたいする教育的意図と目的によって統制する授業」を志向する「技術主義的な授業の思想」(17ページ)に基づくものである。この思考法は、「まず患者の病状を注意深く観察し検査し、その観察と検査の結果をもとに診断を下し、処方箋を下記、処方箋にしたがって病気を治癒しようとする」医学的な問題解決モデル(98ページ)になぞらえることができる。この医学モデルが直線的因果関係機構を想定することができる局所的病状に対しては有効であることを述べた上で、矢野は言う。
しかし、病状の原因を直線的な因果関係で提示できないときには、このモデルは役にたたないだけでなく、病状を悪化させる危険性をもっている。ところで、これまでの経験が教えるところによると、教育の「問題」事象で、原因が一義的に特定され問題の解決された事例はほとんどといってない。教育の「問題」事象のどれを取りあげても、その因果関係は直線的ではなく、複雑に錯綜しながら循環しており、局所的に病状の因果関係の機構を確定することは困難なのである。(99ページ)
しかし原因を一義的に特定する言説は、学会の実験研究報告、為政者の教育改革論などのいたる所に見ることができる。教育学者も為政者も直線的因果モデルを売って歩く。彼・彼女らが求めているのは、研究論文として査読に通ること、教育改革として予算がつけられることだけなのかもしれない。教育学者や為政者が言うように教育問題が解決しなくても、いや時には教師が疲弊し学習者が振り回されることにより教育問題がさらに悪化しようとも、教育学者も為政者も(「東大話法」による表面だけの反省の弁を除いては)具体的で理論的な自己反省はまずしない。彼・彼女らが次に行うのは、目新しい単純因果の学説であり改革案である。次なる業績・実績を求めるからである。かくしてまた現場はかき乱される。この循環はますます速度を上げ強度を増しているようにも思える。
これらの「売れる」教育言説は、単純な因果性に訴えることにより「有用性」を印象付けようとしている。「Aが悪いからBになる」という単純な因果関係は俗耳に入りやすいし、役所のテーブルに山積みされた企画書の中でも、そのわかりやすさゆえに、予算決定者の目にも止まりやすい(昨今の研究者は、企画書を、図解や太字・下線などでとにかくわかりやすく書くように指導されている)。「Aをなくすことにより、Bという問題がなくなる」という問題解決の約束は、有用性に充ちているように思える。また、Bという問題は、その軽重が誰の目にも明らかに計測できるものでなければならない。いきおい、問題解決は、世俗的な意味での「問題解決」とされる。わかりやすい理屈で、世俗的な問題を解決する、と称する教育学が、学界でも行政界でも「売れる」ものとなる。無論、少数の例外はあるが、教育学的言説の多くは、このような意味での「売れる」ものを目指しているように見える(特に英語教育学などでは)。
戦後教育学は世俗的価値(有用性)に絡め取られているのかもしれない。
戦後日本の教育は、戦前・戦中の神話に満ちた天皇制教育や、全体主義・国家至上主義・民族主義の教育、およびそれを支えた教育学への反省から出発した。そのため、戦後教育は、教育の場から「神話」や「聖性」や「超越」といった言葉を追放し、科学的合理主義をもとにした世俗教育に限定してきた。さらに戦後教育学もまた、人間中心主義と合理主義と民主主義と教育的価値の根幹に据えて、共同体における人間、つまり世俗的人間の教育に研究主題を限定してきた。したがって、戦後教育学が人間について語るとき、人間とは国民あるいは市民であり、道徳観について語るときには、道徳とは国民道徳あるいは市民道徳であり、戦後教育学の発送はどこまでいっても世俗的価値(有用性)を超えることはない。(30ページ)
しかし子どもは世俗的価値(有用性)だけの世界には我慢できない。子どもは学校から解放された時空では、資本主義的生産体制から差し出されるものでは、ロールプレイゲームやアニメなどの神話的表現に没我没頭する。自然や芸術から差し出されるものに接する機会を得た一部の子どもは、有用性も今もここも自分も相手も、すべてを超えてしまったような力に圧倒される感動を得る。
他方、一部の子どもは、神話や自然や芸術などという「役に立たない」ことを自分の人生から要領よく排除することを覚え、世俗的価値(有用性)を原理とする学校教育での高い位置につく。そしてしばしばそのままエリートとしてさまざまな権力に近づき、それを操る術を知るに至る。
だが「神々しいもの」、「聖なるもの」、「超越的なもの」は大人にも必要である。もちろんそれらを暴走させてはいけない。世俗権力が神聖さや超越性を詐称した時に生じる悲劇を私たちは既に知りすぎるぐらい知っている。だから、私たちは神聖さや超越性を、世俗権力とは切り離して、いわば地上の私たちが永遠に到達することができないが、私たちを導き続ける北極星のように、遥かかなたに定めなければならない。少なくともこれがカントが言う近代啓蒙の精神だと私は考える。
私たちは、世俗的有用性を超える「何か」を求めなければならない。得ることなく、得たと錯誤することもなく、「何か」を求め続けなければならない。これも教育の目的であろう。未知なる未来を開拓する若者に差し出す教育という営みは、現世的に定量化できる数字目標の達成だけに矮小化されてはならない。
■世俗的有用性を超えた体験
もちろん教育の機能の重要な部分は、現世の社会 ―それが資本主義的生産体制であれ、日本的な「世間」であれ―に適応することを学ぶことである。社会化されない幼児を、社会の成員とすることはできない。だが繰り返すが、教育の機能はそういった社会化だけにとどまらない。社会化の必要を述べた上で矢野は言う。
しかし、私たちは共同体の一員として一人前になるとともに、もう一方で、共同体の中で生きる以外の生き方も学ぶ必要がある。一人前になるとは、世俗的世界のなかでの有用性を保証されることである。しかし、有用性に生きることは、人間の世界との関係を目的-手段関係に限定し、世界との十全な交流を妨げてしまうことを意味する。前に述べたように、個人として生きるためには、人格の尊厳をもつことが不可欠であり、そのためには、世俗的秩序の有用性の原理を超えた生を体験しなければならない。(48ページ)
「しかし」と世俗的有用性に長けた教育学者や為政者はしびれを切らしたように言うかもしれない。「『有用性の原理を超えた生』なんて、いったい何のことなんですか?そんな戯言に付き合っている暇はないんですけど」と。
だがそんな「生」は決して珍しいものでも観念上だけのものでもない。子どもが何かに夢中になっているさまを見ればいいだけである。あるいはスポーツのプレーに猛烈に感動してしている若者を、もしくは一心不乱に趣味のギターを弾く大人を、または日常の食器や家具の手触りに満ち足りた幸福感を覚える老人を、いや赤子の笑顔に思わず顔をほころばされてしまった自分を。世俗的有用性(あるいは資本主義的価値)からこぼれおちる生の体験を、人は自らの人生に不可欠なものとする。世俗的有用性の只中にいる権力者には少しわかりにくいことかもしれないけれど。
有用性の原理を超えた生を可能にする大きな存在は、もちろん自然である。矢野は、『注文の多い料理店』(1924)の「序」に、賢治にとっての世俗的な有用性・共同体を超えた「外部」である自然を見出す(117ページ)--「自然」が適したことばかどうかわからないが、とりあえずはこのことばを使わせてほしい--。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
大正十二年十二月二十日
このような「わけのわからない」贈り物を受け入れることを、矢野は「溶解体験」と呼ぶ。
私たちは遊びに没頭しているとき、優れた芸術作品に接したとき、あるいは自然に畏怖を感じているときなどに、いつのまにか私と私を取りかこむ世界との間の境界が消えていくことがある。優れた体験は、このような自己と世界とを隔てる境界が溶解してしまう瞬間を生みだす。労働のように、有用な関心によって目的-手段関係によって切り取られる部分と関わるのではなく、私たちは世界そのものへと全身的に関わり、世界に住みこむようなことになり、世界との連続性を味わう。このときの世界は、日常生活における世界以上にリアルな奥行きと、そして比類なき輝きをもったものとして、また生き生きとした現在として、私たちの前にたち現れる。本書では、このような脱自の体験を、作田啓一にならって溶解体験と呼んできた。(125ページ)
溶解体験は、「わけのわからない」贈り物として、端的に与えられる。それは私からの何らかの対価を期待することなく、端的に私に贈られる。溶解体験は対価交換といった合理性や世俗性からは超越したところで起こる現象である。矢野は現行社会への適応を「発達としての教育」と呼び、有用性の原理を超えた生を経験する教育を「生成としての教育」と呼び、両者を区別する。そして後者を実現することばの一つを賢治の擬人法(=「逆擬人法」)に見出す。
賢治の逆擬人法は、このように人間中心主義という通常の擬人法と正反対の方向に働く。なにより「おはなし」の語り手は、人間ではなく、虹や月あかりであり、その虹や月あかりが賢治に語り、賢治はもらったおはなしを人間の言葉に換えて語るのである。賢治という媒介者を通して人間語に翻訳されはするが、その言葉はもともと風景自身の言葉であり、その意味では擬人法などではなく、ただ賢治を媒介したために便宜的に「擬人法」と呼ばれるに過ぎない。つまり賢治の童話にとって、擬人法は思想を伝達したり表現するための便宜上の手法ではなく思想そのものなのである。したがって賢治の逆擬人法が人間中心主義でないのは当然である。(146ページ)
当該の賢治の文章を読むことなしにまとめを読むことは薦められたことではないかもしれないが、矢野のまとめを引用する。
私たちの出発点は、教育を「発達としての教育」と「生成としての教育」の二つの次元に分け、そのうえで言葉による概念化の困難な体験をもとにした「生成としての教育」を捉え、そしてそれを実現するための言葉を見つけることであった。そのような試みとして、体験を記録し体験を実現する賢治の擬人法を考察することであった。
いま私たちは、この賢治の擬人法を「逆擬人法」と名づけ、そこにおいて記録され実現される擬人法が他者の問題を考えるうえで意味のあることを見出した。このときの他者とは、最初から同じ共同体の言語ゲームに属している者ではなく、異なった言語ゲームを生きる者のことである。この他者のリストには異民族、女性、子ども、動物のみならず、昆虫や植物そして鉱物や大気や銀河まで名を列ねている(あるいは電信柱もシグナルも山男もそして死者も)。このような共同体の外部の他者との包摂や排除といった暴力をともなわない出会いの技法として、逆擬人法について考えてみた。
このような生の技法の習得は、社会的コミュニケーション能力の習得のように、集団生活を通して訓練できるようなものではない。それは直接他者からの純粋贈与の体験、あるいは他者への純粋贈与の体験としてなされるものである(賢治の作品は虹や月あかりからの純粋贈与である)。私たちは、交換(社会的コミュニケーション)の世界に慣れているため、交換に亀裂を入れる純粋な贈与の体験に気がつかない。たしかにそのような贈与の体験があるにもかかわらず、私たちにはこの出会いと交感の体験を言い表すことがむつかしい。しかし、私たちは、賢治の実験的な逆擬人法の助けによって、体験を語り同時に体験を実現する言葉を見出すことができ、そのような体験がたしかに存在していることに思いいたるのである。興味深いことは、深く体験を語る言葉は、結局、体験を再現=実現する言葉でもあるというところだ。賢治の作品群は、体験を実現するメディアとして、言葉の力を介して子どもが他者に出会い異界に触れることを可能にし、生の技法を伝授してくれるのである。(148-149ページ)
こうして異界に触れ、再び現世に戻り、異界に触れながらも帰還できた者としての新しい自分を見出すことを可能にするのが「生成としての教育」であろう。
ここで話を英語教育に向ける。英語教育という外国語教育は、グローバル資本主義生産体制への対応という「発達としての教育」としてだけでなく、わけのわからない贈り物を受取ることを学ぶという「生成としての教育」としても成立するのだろうか。
教育の本質を「外部」との通路をつなぐこととする内田樹(内田樹(2008)『街場の教育論』ミシマ社)は、「外国語の学習というのは、本来、自分の種族には理解できない概念や、存在しない感情、知らない世界の見方を、他の言語集団から学ぶことなんです」とする(内田樹 (2012) 『街場の文体論』 ミシマ社)。内田は「生成としての教育」を外国語教育に見出す。
だが現在主流の英語教育は「生成としての教育」を荒唐無稽な、あるいは理解不能な概念として打ち捨てかねない。日英の語彙の間にある微妙な不整合は、「クイックレスポンス」と呼ばれる英単語と定められた訳語の間の連想記憶に、しかもその連想をいかに速く正確に行うかという実践に、消去されてしまう(もちろんこれも使い方によっては優れた教育方法なのであるが)。本来、ことばを見出だせない葛藤を最も感じるべき「翻訳」は、「英文和訳」という機械的な作業に貶められる。英語発話の能力はもっぱら発話の正確性(=文法ミスの少なさ)と(発語数という数値に歪曲化された)「流暢さ」によって測定され、発話の質感や思考の深さは構造的に排除されている。英語理解の能力もしばしば四択問題によって測定され、ことばの両義性の中に曖昧なまま吊り下げられている感覚などは学力外とされる。要は、定型句を定型句として問題なく理解し、それに対してペラペラと自らも定型句を語ることが、目指すべき英語力とされていると言っても過言ではない。「生成としての教育」など、なるほど浮世離れした戯言である。
かくして現在の英語教育は、そうした世俗的有用性を超えた世迷言をできるだけ排し(「文学なんかやっているから英語力が上がらないんです!」)、誰にもわかる数字で結果を示す。英語教育は、すばらしく合理的で有用なものになろうとしている(自らの合理性や有用性に対する反省的思考を要さないまでに!)。だが、そんな思考法、教育学に批判は必要ないのか?矢野は言う。
教育における関係論を、人間間の社会的関係に収斂させてしまい、子どもの社会的関係でもって教育問題を捉え、「我を忘れる」-「我にかえる」という体験の次元を忘却している教育学は、子どもをコントロールしようとする科学的対象化の思考に回収されてしまう危険性をもっている。教育における関係を社会の軸に一次元化する教育の思想は、結局のところ人を対象化し手段化するだけでなく、他者を擬人法でもって包摂してしまうしそうであり、意図とは関わりなく差別と排除を自ら作りだすことになる。(150ページ)
私たちは「発達の論理」(換言するなら「適応の論理」)だけでなく、「生成の論理」を理解しなければならない。発達や適応のように一定の物差しを基準にして測定できる論理だけでなく、そもそも異なる物を一元化する物差しを否定せざるを得ないような論理をも。
「生成の論理」は、遊びや芸術や宗教によって端的に体験されるような、人間の意識できない感情や無意識のレベルでの生の変容全体を捉えようとする論理である。しかしながら、生成の体験は、発達と違って記述し定義すること自体が極めて困難である。深い生成で得られるのは、一義的で明晰な概念では表現できない恍惚や陶酔の体験、不気味なもの、慣れないものの体験である。それは多義的でメタファー的な表現によってしか伝えることのできないものである。しかしそれすらも十分ではない。言葉で言い表された時点で、多数多様な生成は既存のレトリックによって定着され、しばしば誰もが思わず口にしてしまう決まり文句の鋳型におしこまれ、首尾一貫した「物語」に回収されてしまうからである。そのうえ、生成の体験は内的な体験であるため、生成したのかどうかなど外部の観察者には客観的に観察することも、まして何か共通の尺度にしたがって判定したり評価したりすることもできない。発達の論理が観察者の視点から語られた変容の「物語」とするなら、生成の論理は生成する者によって生きられた「物語を超える物語」、すなわち「生成する物語」である。(203-204ページ)
だがこの「生成の論理」は世俗的権力の中枢にいる者に理解されるのだろうか。遊びと言えばお決まりの消費、芸術といえば文化的資本獲得か投機の手段、宗教といえば現世利益への願望としか考えられないくらいに資本主義的世俗社会に染まってしまった人々に。あるいは遊び・芸術・宗教など馬鹿げたこととして一切否定して仕事に邁進する「灰色の男」(『モモ』)のような人々に。音楽や美術や体育や家庭科などを、非-主要教科として軽視することで世俗権威の階段をトントンと上がっていった人々に。
いや希望とともに未来を築くことを志向する教育者は悲観や絶望にふけることは許されない。教育者は自ら「生成の論理」を体現しなければならない。「こうでしかない」この世に生きながら、「こうではない」現実を想像し、この世を「こうもありうる」と変えてゆく人間にならなければならない。いや、堅苦しい言い方はやめよう。自ら生成の喜びに浸ろう。そして人生は灰色だとすでに諦観しかけている若者に喜びの灯火を伝えよう。
■「本当の」という(超越論的)問い
しかしどうやって「生成の論理」を若者に体感させよう。生成の喜びの伝播なら、特に教師でなくともできるではないか。学校もいらないではないか。教師は学校で何ができるのだろう。
矢野は賢治の「銀河鉄道の夜」の中に出てくる「ほんたうは何か」という問いに着目する。商品メタファーには回収されない問いに(参考:マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ)。
「Aとは何か」という問いの形式は、「Aとは何々である」という答え方を求める。この問いと答えは、ちょうど売ることと買うことのように、等価物の交換としてバランスよく交換の環を形成する。それにたいして、「ほんたうは何か」という問いかけは、「Aとは何か」という問いが通常問う対象を限定するのにたいして、内容の限定をもたない問いであり、そのいぇどのような答えを提示してみたところで、そのような答えは一時的なものにすぎないところから、既存の解釈図式を揺さぶり破壊し続けていく、どこにも到達することのない過剰な贈与としての問いである。それは、どこかに最終の本当の答えがあるという本質主義でもなく、結局のところ普遍的で絶対的な答えなどはどこにもないのだという相対主義でもない、ただ過剰な贈与としての問いを前に、「真面目」に答えを求め続けることを、要請しているのである。(281ページ)
カントの言い方を借りるなら、これは人間の理性に向けての超越論的な問いなのかもしれない。つまり、現世の今・ここを超越したものを考える(=超越的)だけでなく、私たちが、そもそも超越的なことを考えることができるのはなぜなのか、さらにどんな超越的なものをなぜ求めているのかと、果てなき彼方に存在するに違いない焦点に向けて考える(=超越論的)という問いである。
いや、一知半解のカントのことばなど借りる必要もない。「銀河鉄道の夜」を読めば、私たちはジョパンニに即して、さまざまな答えのない問いに付き合い続けることができる。知的虚栄心に突き動かされたような哲学読解は、虚心坦懐な童話の読みにはるかに劣る。
矢野は次のように述べて本書を閉じる。
私たちは、ジョパンニのように、どこまでもこの問いを自らに問い続けることで贈与を受け止め、共同体の外部=意味世界の外部へと連れだされ、何度でもその問いを「もう一回!」と叫ぶのである。どこまでも行ける切符を受取ることは、そのような過剰な問いを生きることなのである。(294ページ)
「生成の論理」は「発達の論理」では語り得ない。だから「生成の論理」を解明しようとする本書は、「発達の論理」に貫かれた定型的な教育学の論考スタイルを取らず、賢治などのの文章に即しながら語る。そして賢治は、「わたくしにもまた、わけがわからない」が、「これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません」と願う物語を語る。
私たちが、現代社会に閉塞感を感じるのなら、私たちは自分たちの「外部」を求めなければならない。そしてまたこの社会に帰ってくることによって、この社会をよきものとすることを目指さなければならない。「外部」を知り、かつ内部に戻ってくることができる者こそが、「ほんたうは」「本当の」ということばを適切に使うことができる。そして教育は、世俗社会への適応だけでなく、「本当」をも求めることも教えなければならない。本書や賢治の本は、優れて現実的な教育書である。
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