この本は、内田樹先生が2010年10月から翌年1月まで行った、神戸女学院大学での最後の講義「クリエイティブ・ライティング」の録音をもとに再構成したものです。最後の講義ということもあり、内田先生は「アナグラム」、「エクリチュール」、「リーダビリティ」、「宛て先」などのトピックを、バリバリ噛み砕き、解説してくださいます。
私はこの本を読んで、大学生・大学院生時代にフランス語を勉強していなかったことを改めて後悔しました。文法と発音の基本だけでも学んでいたら、なんとかこれらのトピックの出典であるフランス語文献にかじりつくことぐらいはできていたはずだからです。
もちろん悔やんでいてばかりいても仕方がないので、実は今年の四月からNHKテレビのフランス語会話は録画しているのですが、見たのは最初の数回だけというていたらくです(ドイツ語はテレビ録画だけでなく、ラジオ講座のテクストも定期購読しているのですが、これも最初の一ヶ月ぐらいであとは挫折しつづけています 泣)。
下にも書くような事情で、最近の大学院生は、ますます目の前の業績づくりに追い込まれ、いわば視野を狭くすることを構造的に奨励されているような状況になっていますが、もし人文系の研究者をめざすのなら、英語以外に、最低二つぐらいは他の外国語を勉強しておくべきかと思います。「学ぶのに遅いということはない」とは言いますが、現実問題としては、やはり語学などは若いうちにやっていた方がいいものですから。
さて、この本の話題に戻りますと、私がこの本が提供するトピックの中で、もっとも共感できたのは、やはり外国語教育の件です。しかし、内田先生の論が、今の若い人には理解されにくいのではないかとの懸念も持ちます。現代の教育が、人文系において非常に貧困化しているからです。
以前、私は「オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ」という記事で、現代の英語教育では、英単語を機械的に日本語訳語に置き換えているだけの「英文和訳」ばかりが横行し、英語を自分の身体に取り込んで、その実感から日本語を紡ぎだす「翻訳」はあまりできていないと主張しましたが、「翻訳」の深さを実感したことのない方々が、以下の内田先生の記述にどれだけ共感できるのだろうか私としては不安を隠しきれません(深く共感できなくても、このような経験(の喜び)を予感してはもらいたいのですが)。
内田先生はこの本でレヴィナスを翻訳する過程を記述します。内田先生は、レヴィナスを最初に読んだ時に、ほとんど理解できなかったものの、なぜかこれが深い叡智を有した書であることを直感し、その翻訳を試みます。しかし何度訳してもしっくりこない。それが何週間も続きます。すると、ある日気づくと、原文を読んでいて、センテンスの終わりや名詞に続く形容詞が予感され、しかもその予感がぴったりと当たるようになる。「呼吸が合ってくる」わけです(235ページ)。意味が言語的に明晰になったわけではないのですが、身体のリズムが合ってくるわけです。そういった身体同期の経験を踏まえて、内田先生は次のように述べます。
身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。
だから、レヴィナスのフランス語をなんとかして日本語に置き換える。でも、自分の身体にしっくりくるような日本語にならないと「気持ちが悪い」。手がかりはそこだけなんです。「気持ちが悪い」のはたぶん訳文が間違っているからです。でも、それなら「気持ちがいい」文を書けばいいのかというと、そういうわけでもない。レヴィナスのように深遠な思想家の場合は、僕程度の理解力や経験知ではとても及ばないようなレベルの叡智を語っているわけで、そんなに簡単に「わかりやすい日本語」に落とし込めるはずがない。
でも、不思議なもので、そのうちに何かのはずみで、「意味はわからないが、気持ちが悪くはない」という文章ができることがある。「意味がわからない」のは知性的にはまだ飲み込めていないからです。でも、「気持ちが悪くはない」というのは、その思念なり感覚なりに、僕が身体的にはすでに同期していることを示します。「ほら、なんて言ったらいいのかな。ほら、あれ。ああ、喉元まで出かかっているんだけれど・・・」ということってあるでしょ。身体的には把持されているのだけれど、まだ言語化されていない。
自分の知性の水準やスケールを超える知見を自分の言葉で表現しようと望むなら、どうしても、この「もどかしさ」の領域を通過しなければならない。でも、それは発生的にはごくごく自然なことなんです。幼児が言語を獲得してゆくプロセスは、まさにそのような「もどかしさ」の連続だったはずですから。 (236-237ページ)
つまり、最初は身体実感が伴わなかったフランス語を、翻訳しようとして何度も読む中で、そのフランス語と同調し始める身体が自分の中に蠢き始めることに気づく。そしてその蠢きを何とか形にしようと、これまで身につけた日本語を総動員し、適切な語を探し、語を並べ、並び替えて、日本語翻訳を作り出す。しかし、どこまでいっても、自分の身体を媒介にしてつながっているはずのフランス語と日本語に完全な等価関係が見いだせない・・・といったところでしょう。
こういった「翻訳の不可能性」とそこから生じる「翻訳の倫理性」は、藤本一勇(2009)『外国語学』岩波書店でも詳述されていますが、この話題に関して興味を示してくれる英語教育関係者に私は残念ながら今まで一人も会ったことがありません。上から目線の言い方になりますが、現代の英語教育関係者の多くが、まともに「翻訳」に取り組んだことがないのではないかと私は悲観しています。もしそのことが正しいなら、そういった英語教育関係者に英語ひいては「英語教育学」なるものを学んだ若い世代が、翻訳や、ここで紹介している内田先生の論の意義を理解し難いのも無理はないかと思います(しかし、同時に、是が非でも理解していただきたく思います。急にナショナリストになるつもりでもありませんが、国語の力を落とさず、さらに豊かなものにすることは、国力の基盤だからです)。
内田先生は、翻訳体験に典型的に見られる ―しかし翻訳体験だけに限られているわけではない― 、ことばとからだの不均衡の状態を、ことばの力を獲得するための重要な体験と考えます。
言葉だけがあって、身体実感が伴わない。その逆に、身体実感はあるが、言葉にならない。この絶えざる不均衡状態から言葉は生まれてくる。むしろ、そこからしか言葉は生まれてこない。だから、創造的な言語活動とは、この「絶えざる不均衡」を高いレベルに維持することではないか、僕はそんなふうに思うのです。 (240ページ)
私たちは、理解し難い他者に出会うことによってのみ、自らの知的枠組みを豊かに組み換えることができます。そして人間の出会いの多くは言語によって媒介されています。他者の言語の取り込みが私たちの知的成熟をもたらします。
僕たちの言語資源というのは、他者の言語を取り込むことでしか富裕化してゆかないからです。先行する他者の言語を習得し、それを内面化し、用法に合うような身体実感を分節するというしかたでしか僕たちの思考や感情は豊かにならない。 (240ページ)
内田先生は、さらに現代日本の英語教育の「根本の考え方」の間違いを指摘します。さて、現代日本の英語教育関係者の何割が、この意見に共感するでしょうか。
外国語ができないというのも、僕は同じ傾向の別の現れだと思っています。君たちの世代は外国語ができません。英語が壊滅的にできない。壊滅的にできないというのは学力の問題ではありません。「言葉とは何か」という根本の考え方が間違っているからです。
英語で学ぶとき、君たちを英語学習に動機づけようとすると、「英語ができると10億人とコミュニケーションできますよ」という方向に行ってしまう。でも、「自分が言いたいこと」を外国語で言いましょうという動機づけではほんとうは外国語は学べないんです。方向が逆だからです。
外国語の学習というのは、本来、自分の種族には理解できない概念や、存在しない感情、知らない世界の見方を、他の言語集団から学ぶことなんです。
「オレにはぜひ言いたいことがある。でも英語ができないと、自分の気持ちが伝えられないから、英語を勉強する」という人は自分の身体実感にふさわしいような英語は使えるようになるでしょう。けれども、そこから先には行けない。本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではないんです。自己を豊かにするために学ぶものなんです。自分を外部に押し付けるためではなく、外部を自分のうちに取り込むために学ぶものなんです。(244ページ)
おそらく高校生の頃から、私は一対一で英単語に日本語訳を対応させてそれを丸暗記する学習に違和感を覚えてきました。「ことばはそんなに単純なものではない。ことばをそんなに乱暴に扱ってはいけない」というのが未だ変わらぬ私の思いですが、この思いは、現実での単語集丸暗記勉強とそれによる機械的な英文和訳の圧倒的な普及、あるいは「受信から発信!とにかく英語を話そう」という授業スタイルの奨励により、嘲笑されているのかもしれません。
母語に加えて幼少期から身につけた第二言語とは異なる外国語というのは、いかに勉強しようが、不如意なものです。外国語における「流暢さ」というのは、あれば便利なものですが、それだけを自分の外国語力の指標としたならば、母語話者には永遠に追いつけません。外国語話者なりに外国語を使いこなそうとすれば、外国語話者は自らの感性と知性を総動員して、表面的にはぎこちなくても深いところに届く表現を見つけ、それを使うしかないと私などには思えます。
一対一で英語と結びつけた符牒のような日本語でもってでしか感性と知性を働かせずに、その日本語をすみやかに英語に変換して流暢にしゃべっても、それは元々深さのないものですから、英語話者を深いところで動かす英語にはなれないと思います。せいぜいそんな表面的な英語力は、英語話者の経営者の命令・指令を速やかに理解しそれに従う、あるいは中間管理職としてそれを部下に伝えるような英語力に過ぎないでしょう。
ひょっとしたらこのように表面的な意味だけを遅滞なく理解し、それに従うか、それをそのまま伝えるような英語力こそが、現在、財界が公教育に求めている英語力の正体なのかもしれません。しかし、そのように表面的な英語力では、長期的に日本の国力は損なわれてゆくでしょう(企業はますます多国籍化ひいては無国籍化し、生き残るにせよ)。
長期的に考えるなら、日本国民が身につけるべき英語力は感性と知性の深い働きを基盤とするものでなくてはならない。そして感性と知性の深い働きを促すのが教育であり、言語教育の一環としての外国語教育では、「翻訳」をその重要な一部として教えなければならないと私は考えます。しかし同時に、現代日本では、英語教育ではその「翻訳」を経験した者そのものが少なく、さらに英語以外の外国語教育ではその存在そのものが軽視され、外国語教育において感性と知性を働かせ、それを言語表現に結晶化するような教育は、どんどんと絵空事のように扱われ始めているのではないでしょうか。
今は内定の段階なので、詳しくは言えませんが、来年私はある共同発表をする予定で、そこでは文学の可能性について検討したいと思います。ことばの教育が、ことばに対する敬意を失ったら、それは何かとてつもなく醜いものの台頭を許してしまうような気がしますから。
話がずいぶんそれましたので、内田先生の本についての話題に戻します。この本の最終章は、内田先生の最後の(定期的な)講義となるせいか、他の章以上に、訴えたいという気持ちを私は感じました。この章のテーマを私は「人文研究の衰退」と捉えます。もちろん内田先生は、その衰退の自覚を通じて、人文研究の再生を願っています。内田先生が直接に取り上げている学問分野は仏文学ですが、内田先生の批判は、「英語教育学」なる分野にも当てはまると私は考えます。英語教育の分野でも、論文執筆が「査読で通りやすいもの」の量産にどんどんと集中していると考えるからです。
内田先生は言います。
学知というのは本来集団的な営為です。険しい山に登るときに、そこに登り、道を切り拓くような仕事です。前人未到の山に登って、頂を究めた人は、後から続く人のために地図を作ります。分かれ道には標識を立て、足場が悪いところには階段をつけ、避難小屋を建てておいたりする。名も知らぬ先人がそういうふうに切り拓いてくれたおかげで、あとから来た人は、そこまでの身体能力がなくても、山頂に立つことができる。
学問というのは、そういうものだと僕は思っています。どの専門分野でも、先駆者は前人未踏の地に踏み込んで、道を切り拓き、道標を立て、階段を刻み、危険な箇所に鎖を通して、あとから来る人が安全に、道を間違えずに進めるように配慮する。そのような気づかいの集積が専門領域での集合的な叡智をかたちづくる。だから、どの領域でも、フロントラインに立つ人の責務は「道なき道に分け入る」ことだと思うんです。
でも、査定され、それに見合う報酬を求める人たちは「道なき道」を好みません。「道がある道」にしか行きたがらない。すでにたくさん人が通った道。誰がどういう歩き方をしたとか、1日に何キロ踏破したとか、何キロ荷物を担いで歩いたとか、そういう相対的な優劣が数値的に査定可能なところを選好する。そうしないと、自分の登山家としての能力の高さをアピールできないと思っている。(271ページ)
「専門家」に対する不信の念は、3.11以降ますます高まりましたが、その背景には、専門家が、未知なる領域ではなく、お互いの相互査定状況ばかりを見つめ始め、お互いが認めることだけを認めると、どんどんと内閉化することにより「生産性」を上げようとしていること、そしてその内閉の外に出ようとする者の足をひっぱることがあるのかもしれません。
自然科学ではそれでも、自然という、明々白々な未知の対象がありますから、まだ未知への開拓が続くでしょう。しかし人文系という、人間が人間について理解する本来的に自己言及的な分野では、いったんある特定の語り方が定着すると、そのルートばかりが「あるべき研究」として普及し、そのルート内での細かな競い合いばかりが「専門家」のなすべきことして見なされるのかもしれません。テスト理論の言い方を借りるなら、研究の「信頼性」―誰がやっても同じ結果がでる方法論的確実性―ばかりが重んじられ、少しでも重要な未知の領域を開拓するという研究の妥当性が軽んじられるわけです。なぜならその戦略こそが自分の身分を確保するのにもっとも効率がよいものと考えられるからです。かくして研究者のことばが、「自分の利益のためにしゃべっている言葉」、「内向きの言葉」になります。
自分の利益のためにしゃべっている言葉には説得力がありません。どんなにつじつまがあっていても、どんなにレトリックが見事でも、説得力がない。それは、くりかえし言うように、「自分の分配比率を増やす」ための言葉は「査定する者」を排他的に志向するからです。それ以外の人に届いても意味がない。試験の答案が採点者に向けて書かれるように、学会発表が編集委員や査読者に向けて語られるように、自己利益を求めて語る人間の言葉は、閉じられた集団内で資源を分配する権力を持っている人間にだけ向けられます。そして、査定基準ができるだけ安定的であることを願うなら、査定者はできるだけ少ないほうがいい。理想的には一人がいい。原理的にそうならざるをえないのです。「パイの分配」について按分の権利を持っている人間だけに用があり、あとの人には用がない。
僕はそれを「内向きの言葉」と言うのです。それがどうしても知性の本質とは相容れないような気がする。
それとは逆に、「外に向かう言葉」にはその適否や品質について数値的な評点を与える査定者がいません。というのは、それは採点者の前に提出された「答案」ではなく、できるだけ多くの人間に届けたい「メッセージ」だからです。求めているのは精度の高い高い評価を得ることではなく、できるだけ多くの人に受信され、理解されることだからです。(284-285ページ)
内田先生は、夏目漱石や森鴎外といった明治期の知識人が、自らの立身出世と安寧のため(あるいは「内輪のパーティ」のため)というよりは国のために自らの知性を使ったこと、現代では(内田先生が直接耳にした中で言うなら)たとえば「はやぶさ」プロジェクトの科学者が、「世のため人のため」に研究を行なっていることなどの例をあげ、彼らの知的偉業の基盤はその志にあるのではないかと示唆しています。
以下は内田先生ご自身の述懐ですが、皆さんはどのようにこれを受け止められますでしょうか。
僕は院生の頃、ずいぶん一生懸命勉強して、何とかフランス語が読めるようになりました。だから、このせっかく身につけた能力を「フランス語が読めない人」のために使いたいと思いました。腕力が強い人は、非力な人の荷物を持ってあげることに使えばいい。目がいい人はみなが見えない遠くの黒雲を見て、「嵐が来るぞ」と知らせることができる。鼻のいい人は「鍋が焦げてますよ」と知らせて火事を防ぐことができる。みんなそれぞれに個別の能力を持っている。それは競い合うものではなく、お互いに融通し合って、みんなでその成果を享受すべきものじゃないんですか。
ある分野の学問をして、特殊な技能や知識を得た。それを専門家同士で、「どっちができるか」「どっちがたくさん知っているか」を競うことで時間を潰すよりも、そういう知識や技能を持ち合わせていない人達の利用可能なかたちにすることも学問のたいせつな仕事ではないのか。僕はそう思っています。でも、僕のように考えている人は文学研究の世界には、ほとんどいません。 (273ページ)
学問や教育の世界で、グローバル資本主義的な制度導入による個人主義的競争の促進だけを「進歩」や「改善」と考えることに対して私は抵抗します。それは人間の豊かな可能性を否定することですから。
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