2012年9月26日水曜日

内田樹(2008)『街場の教育論』ミシマ社



■教育を商品メタファーでしか考えられなくなった私たち

内田樹先生が、以下のように教育に断言することをいぶかしく思う人、いや、端的に何を言っているのかわからない人は、今多いでしょう。特に世俗権力の中心にいる人の間では。

「教育サービス」というのは、私の知る限りでは、かなり近年になって私たちの語彙に入ってきた言葉です。これは教育をビジネスモデルで考えている人間が言い出したことだと思います。

教育活動のコンテンツは「教育商品」であり、教師はその商品のサプライヤーであり、保護者や生徒は顧客である、と。そういうモデルで教育を語る人間がおります。でも、私はこれは絶対に教育者が口にしてはならない言葉だと思っています。

教育を「商品取り引き」に類比して語るのは教育の自殺です。(61ページ)


「えっ、これが教育の自殺なんですか?いや実際、ウチの教育方針はこんな感じなんですけど」と口にする教育者すら昨今は珍しくありません(特に教育権力の中心にいる人、近づこうとする人の間では)。「『商品』として大切に教育コンテンツを考えることこそが、健全な競争原理を引き出すわけですから」というのがそういう方々の信念です。

ですが、この信念こそは、デイヴィド・ハーヴェイが『新自由主義―その歴史的展開と現在』で指摘するように、新自由主義の中心的な教条です(この本は面白かったので、近いうちにまとめを掲載しようと思っています)。





いや、市場競争こそが社会的倫理であるという考え方以前に、私たちは商品こそが社会の基礎的な形態であり、社会の豊かさとは商品が満ち溢れていることであると信じて疑わない資本主義的生産体制(注)の社会に生きています。この社会のあり方に対して自覚的理解、ひいては批判的意識がないところでは、いわゆる「ネット大学」に対する下記の記述にも、なんら問題を感じないでしょうし、最後の断言にも得心がゆかないでしょう。

通販の場合は、カタログを見て、商品を選び、クレジットカードでお金を払うと、商品が送られてきます。ネット大学も同じです。カタログを見て、「商品」を選び、対価として一定時間の課業を行う。課業という「労働価値」の報酬として、合格点をクリアーすると単位がもらえる。これはそのまま商品交換のアナロジーですね。

課業として支払われた労働価値に対して、商品が「単位」というかたちで交付される。単位を揃えたら学位記が発行される。これはどう見ても、通信販売による商品購入行動以外のなにものでもありません。ビジネスマンであれば、これこそ教育の理想形だと小躍りするでしょう。

でも、残念ながら、これは教育ではありません。「お買い物」です。(45ページ)


しかしこの教育の「お買い物」化は、現在、多くの教育機関で見られます。大学の英語教育でも、多くの大学が英語教育の指標をTOEIC得点と定めて、その目標得点を教育目標として掲げます。すると、もし学生がその目標得点に達しなかったらどうするのだ、大学はどう「教育」の責任を果たすのだ、補習か、いやもっと授業をTOEIC対策中心にするべきだ、予算削減も兼ねてCALLの充実だ・・・などと様々な意見がいさましく出てきます。しかし決して出てこないのは、「教育」の目標を、万人に同じ価値をもつとされる数値に還元してしまってよいのだろうか、という根源的な問です。

そもそも教育とはどのような営みなのか。それは学習者が支払う対価(=授業料および授業課題を行うための時間など)に対して、定められた知識・能力を学習者に交換的に与える取り引きなのか。教育で育まれるのは「定められた知識・能力」だけなのか。教育という営みを、対価とパッケージ化された教育内容との交換関係とだけ見なし、ますますと資本主義の商品取り引きと同じように教育の営みを変えることにより、私たちは何を得て、何を失うのか。この単純化・世俗化(=資本主義化)は私たちに何をもたらしているのか ― こういった根源的な問いが忌避されたまま、さまざまなアクション・プランが企画実行され、教育関係者はますます時間に追われ、心身を疲弊させてゆきます。

多くの人が、今一度、立ち止まって考えるべきだと痛切に思っているのに、誰もそうできずに(アレント的な意味での)「仕事」あるいはポストンが批判する意味での「労働」に追われてしまっている ― この社会体制を根源的に考察して、教育について改めて考えなおさない限り、私たちはますます「教育改革」を繰り返し、予算と人力と浪費し、教師も学習者も士気を落としてゆくのではないでしょうか ―そしてそのありさまを慨嘆する世俗的権力者がますます強烈な「教育改革」に着手するのかもしれません。



■教育の本質は「外部」との通路をつなぐこと

内田先生は、この本で、教育の本質とは、第一に、自閉した世界の「外部」に接し、自らとは異なるものと繋がろうとすることだと説きます。

それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人達」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。

(中略)

「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。 (40ページ)


この内田先生の教育観は、現在主流の教育観とおよそ異なります。(私が理解する限り)現在主流の教育観は、教育を、学習者にいかに現世の(資本主義)社会に適応させるか、という問題としてとらえています。

「若者が就職難です」となれば、大学は面接や適性検査への対策を強化したり表面的な「キャリア教育」の機会を増やしたりします。「英語が必要です」となれば、いかにネイティブに近い英語力を短期間に身につけさせるかという問題に英語教育学者は集中します。コンピュータ・リテラシーが必須となれば、どのようにMS Officeの取り扱い法を廉価に教えるかという問題にコンピュータ・リテラシーの問題が矮小化されます。

ここには根源的な問いや、新しいものを創造しようとする企図がありません。「とりあえず就職」、「とりあえずTOEIC」、「とりあえずWordとExcel」などと言っているうちに、いつのまにかその「とりあえず」が不問の前提・世界のあり方にすり替えられてゆきます。21世紀に、人間と環境をこれ以上損ねずに、どう私たちは暮らし方を変えてゆけばいいのか、英語がますます使用される世界でどのように私たちは創造性の源泉である文化的多様性を保つのか、ICTでいかに世界をより「よい」場所にすることができるのか ― このような批判的で創造的な思考は、ますます奪われようとしています ― 「教育責任」を果たすためという大義名分の下に。

もちろん、物事への対応は短期的・中期的・長期的と、多層的であるべきですから、大学などの教育機関が短期的な「とりあえず」の対応をすることが一概に非難されるべきではありません。しかし、逆に長期的な対応が、無批判・無思考的な短期的対応により阻害されることは批判されるべきです。それは愚かなことですから。大学といった教育機関が、もし「とりあえず」ばかりに追われるなら、それはそれこそ「教育の自殺」です。

そう言えば、私の友人も先日、メールでこう書いてきました。転載の許可は取ってありますのでここに引用します。

そもそも、文科省、教科書会社、現場に「理論」(「理屈」でもいいや)がないと思います。そして、中教審の答申や文科省の大学改革の内容を読んでいると、「理論無し」の流れは、確実に教員養成大学にも迫っていて、薄っぺらな経験主義中心の大学改革が始まりそうです。


私の友人は教員養成系の大学が、いずれ「教員免許状センター」のようになるかもと上の文章に続けていましたが、私もその悲観をよく理解できます(だからこそ、このような文章を書き連ねているわけです)。


「教育」を、自らとは異なる「外部」とのコミュニケーションと捉えず、定められた範囲の知識・能力、いわゆる専門的知識・能力の獲得とだけ捉えると、必然的に「教養」は軽視されます。これは1990年代から日本の大学の教育改革が促進していることです(最近、その反省の念が表明されていたでしょうか。私はどうも行政文書に疎いので(苦笑)よく知らないのですが)。

内田先生は、教養教育を次のように考えています。

教養教育というのは、要するにコミュニケーションの訓練だということです。

それも、なんだかよくわからないものとのコミュニケーションの訓練です。共通の用語や度量衡をもたないものとのコミュニケーションの訓練。(89ページ)


高度に複合的な現代社会では、専門家にも(いや専門家にこそ)教養が必要です。なぜなら「他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義」(92ページ)だからです。(日本には、自らの領域外の人間とうまくコミュニケーションを取れる専門家が少ないのは、私たちが3.11以後に学んだことでもありました)。ちなみに、この引用がある本書「第5講 コミュニケーションの教育」は六芸の伝統の深い知恵からコミュニケーションについて考察しているすばらしい章です。ぜひご一読を。

ですが、現代の教育は、目的を定量化し、その数値達成によって教育の成果を測るというきわめて「正しく」「合理的」な考えにより、教育を定められた領域の中だけでのゲーム(あるいは「商品取引」)として、ますます私たちの根源的な教養の力を損ねています。

困るのは、学校秀才として卒業し実社会に出た若者です。

学校では、「習っていないこと」については「習っていません」と申告すれば、それ以上は咎められません。でも、現場は違います。「どういうふうに処理していいかわからない問題」にいきなり遭遇し、その場で即断即決で答えを出さないといけない。気の毒ですね。習ったことを覚えておきさえすれば満点がもらえる試験に受かって仕事を得たら、そこは「習っていないことについて即答すること」が要求される場であったわけですから。

そのための訓練を日本の学校教育は構造的に怠ってきた、というのが私の年来の主張であります。「どうふるまってよいのかわからない時に、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の眼目である、と。

前にも申し上げましたが、別にそれほどむずかしい話ではないんです。それが「学び」の基本なんですから。(119-120ページ)


しかしその学びの基本が今失われようとし、ビジネス界の思考法で教育界が牛耳られようとしています。「商品」がもはや教育のメタファーでなく、教育そのものになりつつあります。私たちは資本主義的思考に汚染されていない学びの姿を思い出す必要があります。



■伝統的な師弟関係

非-資本主義的な教育関係は、例えば江戸時代の学びに見ることもできます(辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫))。内田先生は、学びのあり方を、レヴィナスの哲学、および(ご自身うちこまれている)武術の営みなどに見出し、次のように述べます。

教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。

「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということができなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。(142ページ)


教員が自ら学ぶことを忘れ制度の上にあぐらをかいて、自分を不動の固定点としたまま、若者を「学習の数値目標を達成するために操作される対象」としかみないなら、そこでは学校・教室が腐臭を放つような空間に変わってしまいます。教師自身も学び続けなければなりません。英語教師でしたら、何より英語を、そして英語を使うことを、さらには英語を教えるということを(よく言われるように、教師とは教え方を学んでいる (learn to teach) 学習者です)。

内田先生はさらに言います。

何度も言っていることですけど、人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。

ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する激しい欲望に現に灼かれていることが必要である。(158ページ)


教師自身がそのように学ぶ欲望を強く覚えるには、自分がまだまだ掴んでいない「外部」があることを痛切に感じる必要がありますが、そのことを常に思い起こさせてくれるのが師 ―教師の教師―です。内田先生は、こう言います。

ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。(143ページ)


「その場にいない師の師」とは、単にその教室にいないというだけの存命の師でもかまいません(というより教師になった後も師をもてるということは本当にありがたいことです)。ですが、師の師は、もはや亡くなった方でもかまいません(というより人間的弱さや欠点を晒さざるを得ない存命の人間よりも、すでに物故された師の方がいいとすら言えるかもしれません)。ですから、実際の姿を見たことがない伝説的な存在でもかまいません。ただ、その人を思い起こすたびに、まだまだ学ぶべきことがあることが改めてわかり、学ぶ姿勢を正されるような理想像(カントのいうところの"Ideal")が、教師が教師であるためには必要です。もちろん理想像を妄想的に膨らませることは危険ですけれども・・・

ともあれ、私たちは、今一度、対価の支払いによる商品の獲得という資本主義的メタファー以外の学び・教育のあり方について、今一度思い出す必要があります。それは、江戸時代やフランス哲学について学ぶ必要もないのかもしれません。あなたが子どもの時に何かに熱中した経験を思い起こすだけでもいいのかもしれないのですから。



■「資本主義」について改めて考える

「資本主義」について語ることが大学生の特徴であった時代は、今や昔。バブルを経たり、ソ連崩壊を経たりした私たちは、いつの間にか資本主義を不問の前提とし始めました。しかし、格差などの現実は、私たちに今一度、資本主義について問いなおすことを促しています。全体主義化した社会主義国家に二度と幻想を抱くことなく、資本主義に全面的にとってかわる体制などないと覚悟しつつ、資本主義という人間が生み出したテクノロジーをなんとか手なずけることを。


内田先生はこう言います。

  改めて私たちの直面している問題を定式化すると、もう一度さきほど述べたことを繰り返すことになりますが、それは「グローバル資本主義が私たちに要請する生き方をどうやって学校の外へ押し戻すか」ということに集約されるだろうと思います。(202ページ)


私たちには資本主義に「ひびを入れる」ことが必要なのではないでしょうか --私は、『権力を取らずに世界を変える』というすばらしい本を書いたJohn Hollowayの最新刊であるCrack Capitalismをわかりやすい日本語に翻訳してくれた訳者に大いに感謝すると同時に、その翻訳書にこのような時代錯誤的な邦題と表紙をつけた関係者の感覚に大いなる違和感を覚えますが、それについてはまた改めて。









(注)
資本主義の「生産」体制に注目し、マルクスについて伝統的解釈から自由な根底的な解釈を提示しているのが『時間・労働・支配: マルクス理論の新地平』です。私は今読み始めたばかりですが、圧倒的に面白い。これもいつかまとめの記事を掲載したいと思います。






8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

柳瀬さん。
質のページで書いたものです。
ルドルフシュタイナーをご存知でしょうか。エンデも彼の影響を受けてます。シュタイナー教育、シュタイナー学校というのがあります。そこの教育も資本主義的な教育とは一味違ったものだろうと思います。

ルドルフシュタイナーの社会論の自分の理解を喋ってみます。私も詳しくは知らないのです。それは経済と法と精神の自由を独立させること。これは人間の感情、思考、意志に対応しているというのです。この論の創造の背景にある考えを想像すると、おそらく、人間の生きる社会領域に、これら三要素を浸透させ、つまり生きるのに必要な条件を社会領域に組み込むことで、社会を生命溢れる生活環境にしようってことだと思っています。

柳瀬陽介 さんのコメント...

シュタイナーは中途半端にしか勉強していません。先日、ドイツのシュタイナー教育者と話をする機会がありましたが、もっと詳しく話を聞けばよかったと思っています。

匿名 さんのコメント...

シュタイナーは教育は芸術であるべきだと主張してます。シュタイナー学校の英語の時間って本もあります

社会三層論は人間の肉体が生きるためにはどんな条件が必要か考えます。すると肉体の機能を三つの要素に分けることができます。この三つの要素は肉体の中に浸透して人間が生きることができるように、社会に人間が生きるための力が浸透している。社会を人間にすることで人間を同質の領域の中で生きることができるようにします。人間的な環境で生きるためには、機械や制度、法律などにも人間的なものを浸透させようって内容がシュタイナーとは別の機械の現象学って本にもありました。

匿名 さんのコメント...

続きです。シュタイナーは社会三層論で人間を三つの要素にわけたアナロジーとして社会を形成しますが、それには法政治領域、経済領域、精神領域が対応してます。この三つの要素はそれぞれが独立しているので、例えば精神領域に属する教育も国家から独立しています。つまり教育が自由です。国家も教育から自由です。三つの要素は平等、博愛、自由にそれぞれが対応し、それぞれが独立していることで、それを達成するための活動が束縛されることなく存分に達成できるという理論だと思います。

液体と固体の関係は概念の物質的な表現と考えると、液体が普遍です。

なので、水のようになる武術は体でイデア、つまりアイデア、概念、理念を体現しようとしていると考えられます。ここにジークンドーと老子とヘーゲルがつながります。

匿名 さんのコメント...

学習指導要領に生きる力とありますが、知識、道徳、体力と、真善体であり、美が欠けてます。真善美体で全体的です。芸術教育。

また記憶は視覚的記憶は見たものを自分の中に外的な形で取り込むと思いますが、動きの記憶は動きを体の中で知覚してその内的知覚を記憶することで、いつでも動きを、記憶から単語を取り出すように、動きの記憶から動きを取り出すと考えます。動きの記憶は武術以外にも仕事にもあると思います。普遍的な動きの記憶は水のような動きでしょう。言葉の記憶に偏らずに、動きの記憶、言葉の記憶、芸術制作の記憶、自然や社会の記憶の形成など諸記憶をバランスよく形成したほうが良いと思いました。

匿名 さんのコメント...

続き。思考は外界に対面して内部に概念を作りあげる。武術において、思考は師匠の動きを知覚して、それを回し蹴りという概念として生成する。概念は回し蹴りの模造である。次に師匠の回し蹴りを思考ではなく体で摸倣しようとする。動きを摸倣したら、思考の場合は概念を内部で知覚するが、体の場合は動きを内部で知覚する。頭の記憶と体の記憶。体にとっては動きが概念。概念で言葉を生成するように動きで武芸を披露する。概念も摸倣だが、動きも摸倣できる。思考は他者の思考を摸倣できるように動きも他者の動きを摸倣できる。同じ領域に属するものどうしでは互いに摸倣できるのだろうか。もちろん完全に全てを摸倣できない場合もあるだろう。主観的概念だけでなく客観的概念もあるという立場では思考が概念を外界から生成できるのは、外界に理念存在があるからだ、となる。

匿名 さんのコメント...

続き 子供に科学を身近に感じさせるには、子供たちを冷たいようですが、彼ら自身を環境の一要素に見立て目標を変えるとそれに付随する動きが変わり結果が変わることや、自分が学校と家の中にいる時などそれぞれの環境の中での活動の差異や、自分と対象を対峙させて自分はどういう反応をするか、そして対象を別の対象に変えると、反応も変わるか、今度は対峙する対象ではなく、それを知覚する自分を誰か別の人に変えてその人はどういう反応をするか、など、自分や友達など身近な人を巻きこんだ科学内容だと子供たちは面白がるかもしれない。でも何歳から学ばせればよいだろう。

匿名 さんのコメント...

身体の動きには模倣能力があり、それが思考の概念と共通する点だった。
この身体の動きは目に見えるようになった主観である。
動くことで動きの内部知覚が生じる、これも概念が内部知覚である点で
共通する。
この動きを言葉にすることができる。つまり、動きに概念を模倣させる
こともできる。こうして目に見える主観としての動きが
目に見える概念となって、手話などのボディランゲージになる