卒業前のある学生さんから約一週間前メールをもらいました。彼女は非常に思考の深い学生さんですが、このメールの問いも率直にして深いものでした。一部の字句を修正して以下に引用します。
「多くの実験研究が英語教育の成功を報告していますが、それではなぜ『英語教育のポリティクス―競争から協同へ』にあるような学力低下や英語嫌いが起こったのでしょうか?
研究が行われてから今日に至るまでの間にただ単に研究成果が広まらなかったためか、あるいは他に何か要因があるのでしょうか。」
最初は、どう答えたものだろう、と迷っていました。もちろん「まあ、世の中いろいろだからねぇ。君もいつかはわかるよ、アハハハ」などという答え方も可能ではありますが、そのようなごまかしは彼女は嫌うでしょうし、私が教えてきたことに反します。だんだんとこの問いは私にとっての卒業試験 ―卒業生を卒業させる前に、教師として答えておかねばならない問い― のようにすら思えてきました。
卒業式を明日に控えた夜10時に、私は彼女への答えをこの記事として書いています。不十分かと思いますが、これが私の卒業試験答案です。
***
Iさん、単刀直入の問いに感謝します。他の人に聞かれていたら、私も適当にごまかしたかもしれませんが、Iさんからの問いなので、できるだけきちんと答えてみます。
■タテマエ的な答え
多くの実験研究の成功報告にもかかわらず、学力低下や英語嫌い増加が進行さえしているように思えることの説明として、もっともタテマエ的なものは「それらの実験研究がまだ普及していないから」、あるいは「さらなる実験研究が必要とされているだけで、実験研究が増えれば英語教育は改善される」というものでしょう。ですが、私はそこに偽善を感じます。これらのことばは、実験研究ばかりをやる研究者が、自らの研究を正当化するために使っている常套句ではないかとすら思うこともあります。
かつて教育学者の佐藤学氏は
「授業研究栄えて授業実践滅ぶ」
と述べましたが、昨今では
「評価制度栄えて教育実践滅ぶ」
や
「教育行政栄えて教育実践滅ぶ」
とも言えるようになっているのではないかとすら感じることもあります。
しかし過度の単純化や、これみよがしの悲観は禁物です。ですから以下、数点にわたり説明をし、私が考えていること・感じていることを少しでも明確にしようと試みます。
■「方法論」の限界
私が上で「実験研究」と述べた研究は、主に教育方法の有効性を比較対照実験で示そうとしたものです。私は方法を抽象化し一般化した上で、その有効性を語ることに対して懐疑心を持っています。
単純な例を出しましょう。例えばオムレツの作り方。オムレツの作り方(「方法論」)は30分もあれば学べます。3日もあればそれなりにその方法論を覚えたと言えるでしょう。その方法論は、抽象化され一般化された形で扱われるなら、一流コックの方法論と同じものと言えるでしょう。しかし方法論を覚えたばかりのそんな初心者の作るオムレツと、この道30年の修行を重ねるコックさんの作るオムレツには雲泥の差があることは容易に想像がつくでしょう。
あるいは鉋かけ。鉋のかけ方は30分もあれば学べます。3日もあれば木材の削り方という方法論は覚えているでしょう。しかしそんな初心者(しかし方法論を知る者)の削り屑と、熟練の大工さんの削り屑は比べ物にならないぐらい異なります。
もう一つ例をあげるなら、武術の突き。突き方の説明は30分もあれば十分です。3日もあれば初心者もそれなりに見える突きをすることもできるかもしれません。しかしそんな突きと、体格にはむしろ劣るかもしれない練達の武術家の突きの威力は比較になりません(嘘だと思ったら、自分で突きを受けてみてください)。
方法論はそれなりに大切です。しかしもっと大切なのは方法論の後、あるいは前なのです。もしくは方法論の背後、いやひょっとしたら方法論という抽象的・一般的語り方では捉えきれないものでしょうか。
これに関して、私は以前
インタビュー研究における技能と言語の関係について
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517
尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2007/07/flow17.html
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html
などの文章を書きました。テーマは、技能と、その技能を説明・表現する言語の関係です。抽象的・一般的にした技能の「方法論」はどこまで語り得るのか(あるいは語りえないのか)という問題と言ってもいいかと思います。時間があれば読んでみて下さい。
さらに最近は調子に乗って、「武術」というラベルまでブログに掲載している始末です(笑)。でも最近3年生が書いた音楽論やスポーツ論は面白かったです。いずれにせよ、英語教育以外の技能実践の現実から、英語教育研究の方法論の語り方を見てみるといろいろなことが見えてくると思います。
私の駄文ばかりではきっと説得力がないでしょうから、20世紀の古典の一つとも言っていいマイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』を紹介します(松岡正剛氏の書評も読んでみてください。ついでながら言うと、「何かいい本はないかな」と思う人は、松岡氏のウェブ上の膨大な書評を、興味にまかせて読んでみればどんどんいい本は見つかります)。
■統計の性質と限界
推測統計とはもともと大量のデータを取ることにより、適切な推測をする学問でしょうが、英語教育研究では大量のデータを取っているものは少なく、仮にそれなりの量をとっていてもサンプリングの方法が偏っていたりするものが多いと私は観察しています。(詳しくは上でも述べた「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html)を読んで下さい。
そのような英語教育の実験研究の統計の使い方・解釈の仕方には慎重さが必要だと思うのですが、いまだもって統計に対して無批判的な態度が英語教育界には見られるような気がします。下は、「英語教師のためのコンピュータ入門」でも紹介した引用なのでIさん覚えているかもしれませんが、日本の英語教育界にこのメッセージを浸透させるため、ここに再掲します。
統計的検定は、データを評価する(データが示している傾向が一般的にもあてはまるといえるか否かについて判断する)ための一つの基準でしかありません。そして、これまでに記してきたことから推察されるように、統計の力のみを借りて一般化可能性に関して完全な推論をすることは現実には不可能なのです。
世の中の法律や条令などの規則が非常識なことを自分勝手に行う不逞のやからを抑えるためにあるのと同様に、統計的検定は、本来、データの解釈の主観性を抑える(特に、各研究者が、偶然によっても十分に起こり得る程度の差でしかないものを過度に一般化して、軽率に各自の理論や仮説が正しいと主張してしまうのを防ぐ)ためにあるのだと思います。そして、統計的検定は、ある程度は実際にそのような有効な働きをしているといえるでしょう。しかし、その無批判な使用(ある一つの判断基準でしかないものへの過度の依存)が、かえって、統計的検定の結果が有意でありさえすれば意味のある現象についての一般化ができたと短絡的に結論づけてしまう、本来の意にそぐわない風潮をもたらしてしまっているようです。私たちは、いったん規則が作られると、どのような場合にもその規則に縛られた型にはまった見方をしてしまい、一つ一つの事柄に対して自分自身で柔軟に考えてみることをしなくなってしまいがちです。たとえば、規則に沿っていさえすれば常識的にみてどんなに不合理なことでも認めてしまったり、逆に規則に反していると本当に困っている人たちであるにもかかわらず手をさしのべなかったりすることが多々あります。そして、残念ながら、このような、いわゆる「お役所的な思考」が、自分自身の頭で考えることを本来もっとも要求されるはずの研究という場面においてもはびこってしまっているように思えてなりません」。
吉田寿夫 (1998)『本当にわかりやすいすごく大切なことが書いてあるごく初歩の統計の本』北大路書房247ページより。
統計に関しては、もちろん英語教育研究などに限らず、広く社会で使われ、政策決定や世論形成のためにも使われますから、私たちとしては、統計についての原理を理解せずにその結果の数字を振り回すことなく、また振り回されることも避けなければなりません。以下は、統計の関連記事です。
谷岡一郎(2000)『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』文春新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/2000.html
ゲルト・ゲレンツァー著、吉田利子訳(2010)『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法 ― 初歩からベイズ推定まで』ハヤカワ文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/2010.html
実験研究がある方法が有効だという時、そこにはたいてい統計が使われていますが、その統計の性質・限界などを知らずに、「有効だ。有効だ」と言っても滑稽なだけです。統計についてきちんと理解しておくこと ―過大評価も過小評価もしないこと― が、実験研究の報告をきちんと解釈するために必要です。何度も繰り返して恐縮ですが、「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html)のような基準で、英語教育の実験研究を再検討するべきだと私は考えています。
■複雑系
方法論の議論は、実験群と対照群の差が、方法論の違いだけで、その他の条件はまったく同じ(あるいはランダムに相殺されている)という前提に基づいていますが、学校の現実からすれば成績で同じように振り分けた1組と2組がまったく違う個性を示すことの方が当たり前でしょう。方法論の有効性も、教師の個性・実力、生徒の期待・学力・感情、生徒間の相互作用、学校の風土、教材の違い、学期・学年の違い等などの要因で大きく左右されます。さらにこれらの要因のどれとどれが、どの順番で結びつくかなどによっても結果は大きく変わってきます。(現場教師は列挙したこれらの要因ですら、大きすぎる・曖昧過ぎる・乱暴過ぎる分類に過ぎないことを熟知していますが、ここでは説明のためこのように単純な要因列挙をしています)。
この意味で、教育実践に携わる人間は、基礎的教養として「複雑系 (complex system)」(あるいは「複合的システム」)について学んでおくべきだと思います。この考えからすれば、方法論に関する実験研究の集積だけで、英語教育が単純に改善されるという期待は、楽観的すぎることがわかると思います。
以下は、ちょっと古いですが、読み物としても面白いものです。
他にも適当な本を読むことをお勧めします。
欧米の応用言語学では、このcomplex systemは最近の流行になっています。
しかし、私はDiane Larsen-Freemanらの講演やシンポジウムを数回見ただけですが、応用言語学界で捉えられているcomplexity systemは、(1)自然科学的な考え方をややルースにメタファーとして使っているだけではないか、(2)人間という意識を持ち、自己の振舞を変えることができる存在を扱っているのだから、社会科学的な意味でのcomplexity systemを考えるべきではないか、といった意味で、やや懐疑的です。
D. Larsen-Freeman (2011) A Complexity Approach to Second Language Development / Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/d-larsen-freeman-2011-complexity.html
この点、私は複雑系(複合的システム)だけでなく、進化論もシステム論も統合的に考えているルーマンを理解する方が、知的枠組みとしては有効だと考えています。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/search/label/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
ルーマンを読むと、方法論の議論に限らず、物事を単純に裁断することの愚かさと危険さがわかってくると思います(これ自体、単純な裁断なのかもしれませんが)。
ルーマンは、最初とっつきにくのでルーマンについての適切な本をいろいろとしばらく読むことが必要かもしれませんが、私としては思い切って下の本を買って、数カ月かけて数回読むのが一番いいのかなとも思っています。
あるいは英語がある程度読めれば、この本が非常にわかりやすい入門書としてお勧めです。
■社会・政治的な側面
方法論の実験研究は、社会・政治的側面を無視することが多いのですが、学校の現実は、生徒や地域の社会的・経済的状況に大きく左右されていますし、そういった状況に大きな影響を与えるのが政治的状況であることも言うまでもありません。
時に教育行政は「中立性」を標榜しますが、その「中立性」というのも時の政権、あるいはイデオロギーに忠実ということしか意味しない場合も多々あります。
そういった社会・政治的な側面から英語教育を考えるのは、日本では江利川春雄先生や寺島隆吉先生ぐらいですが、若い世代からも
のような素晴らしい本も出ています(この本は本当にいいです)。
また、
も読みやすく、いろいろと考えさせられる本です。
私は大学院では
を使った授業もしました(http://yosukeyanase.blogspot.jp/search/label/Critical%20Applied%20Linguistics)。
「しました」と過去形を使ったのは、今年度は
を使った授業にしたからです(http://yosukeyanase.blogspot.jp/search/label/Alternative%20approaches)。
この本では、Socio-Cultural TheoryやIdentity Approachも扱われています。
J.P. Lantolf (2011) The Sociocultural Approach to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/jp-lantolf-2011-sociocultural-approach.html
B. Norton & C. McKinney (2011) An Identity Approach to Second Language Acquisiton
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/b-norton-c-mckinney-2011-identity.html
これらの社会的側面を扱うアプローチは大学院生だけでなく、現職教員の方にも非常に共感をもって理解されました。日本の英語教育界でも、もっとこういったアプローチが普及すればと思います(同じ日本でも、日本語教育界ではそれなりに普及しているのですが、英語教育界ではなぜか普及が遅れています)。
■「学び」を学校だけに閉じ込めない
あと30分で深夜零時になろうとしているので、短く書くことをお許し下さい。
私が現代の(英語)教育界で気になっていることの一つは、「学ぶ」ことを「学校授業」だけに閉じ込めて考えているように思えることです。
学校や授業以外でも、人は教えられて学びます。いやそれどころか、人は教えられずとも学びます。むしろ、そんな学びこそが根源的であり、社会に出ても生きる力になるものと私は考えています。ところが現代の(英語)教育界は、教育体制への適合ばかりを「学び・学習」としているようにさえ見えます。私はこれは端的に怖いです。
その点でお勧めなのは以下のような本です。
本日たまたまお会いした中学校の英語の先生 ―非常に実力のある方です―も、「英語教育の本ばかりを読んでいては駄目なんですよね」とおっしゃっていましたが、私もまさにその通りだと思います。この点、以下の本はお勧めです。時間を見つけてぜひ読んでみて下さい。
■現場教師の声
もちろん英語教育の本も重要です。しかし、日本の英語教育界でいまだ主流とも思われている実験研究に関する批判は上に述べた通りです。とはいえ、日本の英語教育界の学会誌などは実験研究的なものは掲載しても、それ以外のスタイルの論考についてはまだまだ非常に冷たい(というよりも端的に無理解な)態度を取ることが多いです。
そこで私が取った戦略の一つは、現場教師の声を取り上げることです。一つの理論にこだわらず、現場で苦闘しながら行動をことばと共に見出している教師の声です。幸いにもひつじ書房の松本功社長がそういった姿勢に理解を示して下さいまして、私としても志を同じくする仲間と下のような本を刊行することができました。
自著ですが「ぜひ買ってください」と臆面もなく言います(笑)。なぜなら、私は現場教師の声をもっと大切にしたいからです。学会の主流の動きが悪いなら、それ以外のメディアで現場教師の声に力を与えたいと思うからです。(それと同時に、現場のことばを鍛えて、一人よがりでなく、自分に酔わない、他者に届くことばにしたいと、いつものように自分のことは棚にあげて不遜にも考えています)。
■まとめにかえて
「実験研究の成功にもかかわらず、英語教育が改善しないどころか、悪くなっているようにさえ見えるのはなぜか」というIさんの問いかけに答えようとして上記の文を書き連ねました。
要は私の答えは、「日本の英語教育界の方法論に関する実験研究は、
において適切な理解を欠いているので、そのような研究が積み重なっただけでは、英語教育全体が改善されることはない」、とまとめられるでしょうか。
誤解してほしくないのは、私は実験や統計そのものを否定しようとしているのではないということです。私が言っているのはそれらの性質と限界を見極めた上できちんと使い、解釈しようという当たり前のことです。
日本の英語教育界ではまだこのあたりの当たり前のことが必ずしも共有されていないと思わざるを得ないことが何度もあるので私はこのようなことを言い続けるを得ません。
この4月から社会に出て教師として働くIさんに対して十分な答えにはなっていないということを怖れます。4月から経験を深めれば、きっと(他の卒業生と同じように)Iさんの方が私たち大学の教員に英語教育の現実を教えてくれる存在になるでしょう。改めてよろしくお願いします。でも健康だけには気をつけて。
2012/03/22 午後11時48分
「実験研究の成功にもかかわらず、英語教育が改善しないどころか、悪くなっているようにさえ見えるのはなぜか」というIさんの問いかけに答えようとして上記の文を書き連ねました。
要は私の答えは、「日本の英語教育界の方法論に関する実験研究は、
(1)方法を抽象化・一般化してしまうことの帰結
(2)統計の性質と限界
(3)複雑系
(4)社会・政治的な側面
(5)学校制度への過剰適応
において適切な理解を欠いているので、そのような研究が積み重なっただけでは、英語教育全体が改善されることはない」、とまとめられるでしょうか。
誤解してほしくないのは、私は実験や統計そのものを否定しようとしているのではないということです。私が言っているのはそれらの性質と限界を見極めた上できちんと使い、解釈しようという当たり前のことです。
日本の英語教育界ではまだこのあたりの当たり前のことが必ずしも共有されていないと思わざるを得ないことが何度もあるので私はこのようなことを言い続けるを得ません。
この4月から社会に出て教師として働くIさんに対して十分な答えにはなっていないということを怖れます。4月から経験を深めれば、きっと(他の卒業生と同じように)Iさんの方が私たち大学の教員に英語教育の現実を教えてくれる存在になるでしょう。改めてよろしくお願いします。でも健康だけには気をつけて。
2012/03/22 午後11時48分
2 件のコメント:
柳瀬先生
私の素朴な質問に対し、ここまで懇切丁寧にお答えいただき本当にありがとうございます。
むしろ「そんなこともあるさ。アハハハ。」ぐらいで無難に済まされても一向に構いませんのに、貴重なお時間をいただき恐縮します。
さて、柳瀬先生のお答えに対し、私なりに考えたことを。
まずは「方法論の限界」ということに対し、多数の例を用いてわかりやすく説明していただきありがとうございます。
「目の前の生徒をみる」という一番大切なことを再認識させていただきました。
私自身高校生の時に「こんな勉強法が有効です」と書かれた模試のアドバイス欄に対し、「私のことをちっとも知らないくせに偉そうな!」と憤っていたことを思い出しました。
正論がいつも正しいとは限りません。
その論理を脇に置いて(すっかり忘れて)卒業論文を仕上げたことが何とも恥ずかしいです。
復讐は大切ですね。
というわけで、先生がご紹介くださった多数の本は、また追々読ませていただきます。
(無論私の少ない頭でどこまで理解できるか、また諦めずに読めるかは謎ですが)
最後に私が最近気づいた柳瀬先生の好奇心をくすぐるであろう事柄を一つ。
言葉の限界という観点で考えたとき、「匂い」は五感の中でも特に言語化が難しいようです。
詩や小説の中ならともかく、匂いに関する語彙は極端に少ないように思われます。
言葉の限界をどのように考えるか?
また面白いところですね。
私は言葉の限界を知りつつ、だからこそ言葉を大切にする人を育てたい。そう思います。
それでは、長々と失礼しました。
柳瀬先生もお体にはどうぞお気を付けください。
Iさん
>
むしろ「そんなこともあるさ。アハハハ。」ぐらいで無難に済まされても一向に構いませんのに
>
あ、そうだったんだwww
4月からの新生活、大変でしょうが、しっかり睡眠と食事の質を確保してください。またいつかお会いしましょう。
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