2012年3月6日火曜日

京都講演に対する松井孝志先生のコメントを受けて




3/4京都講演「英語教師の成長と『声』」を無事終了することができ、さきほど講演音声もアップロードしました(この記事の下か、3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』の投影資料と配布資料」の記事をご参照ください)。三浦先生や亘理先生を始めとした事務局の皆様、お忙しい中、また遠い所から来ていただいた聴衆の皆様一人ひとりに感謝いたします。

講演の途中あるいは終了後の様子からすれば講演は成功したのではないかと思っていますが(90分の時間をいただけたのでゆっくりと丁寧に説明することができました)、それはあくまでも私の主観ですから、要はここで述べたような論点を、いかに多くの英語教師の方々に理解していただき、実践に結実させることかと思います。




■言語使用からからだを切り離してしまうことの効率、そして怖ろしさ

講演の聴衆の中には私が敬愛する(というより畏怖する 笑)松井孝志先生がいらっしゃいました ―講演音声冒頭で私が「強面の方々」と言っているのは、松井先生および他若干名を指した冗談です―。

その松井先生が、お忙しい中「自分の身体があの「場」の空気感を覚えているうちに」と感想をブログに書いてくださいました。



詳しくはこの上記ブログ記事を直接読んでいただきたいのですが、ここではその中の一部を引用しながら、それに触発された私の考えも書きます。



ダマシオ・野口・竹内が言っていることをまとめて言い換えると、ことばとは、それを発する人間のからだの動き(学術的な意味での「情動」・「感情」)から湧き出るもので、そのからだの蠢きを、自分のからだでそのまま受け止め共鳴させることが、ことばを聴くということである、となるかと思います。

ところがからだを忘れてしまっているような現代人(あるいは英語授業の中の教師と生徒)は、生のことばを、自分の生のからだで受け止めることができず(あるいははなから拒否し)、ことばを単に抽象的な記号として扱い、その記号を他の記号(二次的記号)に変換して、「理解した」と称します。

もちろん、このような記号操作はしばしば重要であり必要なのですが、ことばの一次性(生のからだの表現としてのことば ―からだとことばの結びつき)を忘れてしまったような人は、機械のように記号を次々に処理することはできても、人のからだに響く(ということは心に響く)ことばを発することができません。ひいては、人のからだ・心に響くはずのことばを聞いても、何も感じることができなくなります。(チャップリンの『独裁者』のことばなら"unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts"、エンデの『モモ』のことばなら「灰色の男」)です。

ことばをからだから切り離された二次的記号としてのみのものとして、次々に処理していかねばならないのは、大規模官僚制を有する近代社会の宿命です。官僚制はそのような「効率的」な言語使用を必要とするのでしょう(たぶん)。ですが、そんな記号処理しかしないことによってからだを忘れてしまうこと、極端な場合は自らを"machine man"や「灰色の男」にしてしまいかねないことは、忘れてはいけないと思います。

「何を大げさな」とお思いかもしれませんが、機械的記号処理の訓練ばかりを小中高で受け、からだの感性を抑圧された人々ばかりがエリートとして、機械的記号処理ばかりを行い、からだからのことばを拒否しながら公権力を特権的に行使することの怖ろしさは、私はこの身で感じざるをえません。

以下は、松井先生のことば、および松井先生が引用する宮原浩二郎先生(『論力の時代―言葉の魅力の社会学』勁草書房, 2005年)のことばです。


他者からもたらされる情報も、「ことばそのもの」は言ってみれば「生のからだ」から発せられるものであるために、その「生身」を自分の「からだ」で受け止めるのではなく、「…について」「…ということ」といった、要約や概要の形に落とし込むことによって、自分の身体や意識の負担軽減を行っている。http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120305



ずいぶん長い間、私は「要約」に頼ってきた。高校入試、大学入試、公務員試験、学位のための資格試験など、受験勉強の癖がいまだに抜けないのだろう。いや、アカデミックな研究の世界でもまた、一部の本物の知識人をのぞけば、みな「要約」を武器にしている。(中略)しかし、その人が本当に「何かを言わねばならない」必然性が感知される場合、その文字面から伝わる意味内容を「要約」してわかったような気になってはならない。その発言に耳を澄まし、その人の意識のふくらみに、その言葉の価値に対して敏感でなければならない。「要約」の欠陥にようやく気づかされた私は、いまだに直らない自分の悪癖に腹を立ててもいるのだ。 (pp. 83 - 84)
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061125



下はおなじみのチャップリンの演説です(改めて見ると、少々、演技過剰なようにも思えるのですが、それはさておき)。






松井先生の分析に感謝しますと同時に、こういった論点をより多くの方々がもっと語っていただければと思っています。シンポに来ていただいた私の畏友はメールで「感覚をどう数値で測り、どう数値的に成果を出すのだと言われて、研究予算が認められなかったことが以前あったことを思い出します。測れないところが一番死角になっており、だからこそ問題があるのだから、そこをやらねばならないと反論しましたが、evidenceをとやかく言われました」と言っていましたが、このような「質」を扱う言説は、いまだに量的研究ばかりが横行する日本の英語教育学界では権力を奪われていますので、ブログでも何でも、まずは声をあげてゆくことが大切だと思います ―それにしても「質」を扱うことを、「数量」の論理でしか認めない頑なな人は、どうしてそんなに人文的素養を忘れることができているのでしょう。そもそも英語を教える人間などは、優れて人文的素養をもっているはずではないのでしょうか。そんな人は、実生活でも文学や芸術を忘れきっているのでしょうか―。




■何よりも、英語教師自身が朗読できること

松井先生のブログには、以下の指摘もあります。


声に乗せてまでして、聞かせたいテクスト (=ことば) であるか。

その声に乗せてまで聞かせたい他者がいるかどうか。

(中略)

その声で聞かせたい自己がそこにいるか。
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120305


こういった論点が明確になってゆくと、私も自分が結構行なっている無自覚な言語使用が気になり始めました。それは学生・生徒に課題をやらせている時に、独り言のように「論旨だけに着目してね」、「時間は5分だよ」、「あと一分半」などと言ってしまうことです。教師としてついつい発してしまうこういった台詞は、しばしばどの特定の学生・生徒に向けられたものでもなく、かといって学生・生徒全員に届けたい声でもありません。ただ自分が教師としていい忘れていたこと、管理者として自分自身で確認していることばに過ぎません。

実は午後のワークショップで、私も参加者の一人として英文を黙読していたのですが、ある講師の方が上記のような台詞を繰り返しながら机間巡視をされた時に、私は端的に「うるさい!」と思ってしまいました(もちろん、これはその講師の方への個人的非難ではありません。私自身このような台詞を時に言っているのですから)。

集中して英語を読んでいる私としては、上記のような台詞が繰り返されると、その教師の声を意図的に聞こえないようにするしかありません。このように誰に向けられているわけでもないことばを教師が繰り返し発していると、学生・生徒は教師のことばを聞こえないようにすることを学習してしまうのではないかと思いました。(講演で、騒がしい教室の様子に耐えかねて、「ここで一応一言言っておかねば教師としての立場が保てないから」といった理由で、教科書から目も話さずに「静かにしなさい」とどの生徒にも届けようとしないことばを教師が発することがあると述べた時に、何人かの聴衆の方々は苦笑していましたが、教師は存外に、誰に向けているのでもないことばを教室で発しているのかもしれません)。

午後の議論で私が発言したことの理屈は、英語教師は、英語教育についてどんなに偉そうな理屈を言っても、まともに英語テクストを朗読できなければ意味がないということです。

朗読以前の、個々の発音ができない英語教師というのは、論外であり、教員養成(私の仕事です)の不備が厳しく批判されなければなりませんが、同時に、英語教師の課題がそのレベルで終わってしまってはいけないと私は考えます。

テクストの語り手の情動・感情が、学生・生徒のからだで直接感じられるような朗読を教師ができるようになることは英語教育の重要課題だと思います(これは小学校から大学までどの段階でもそうです)。

個々の発音の習得が数ヶ月単位の話であるなら、こういったきちんとした朗読ができるようになることは数年単位(あるいは十年単位)の話となりますが、英語教師自身が英語を「生きた英語」として朗読することさえできなければ、学生・生徒が英語を自らの「生きる力」として身につけることなどできないと思います。

いつものように自分のことは棚に上げたような言い方をしていますが、しかしこのように英語できちんとした朗読ができることの重要性を述べると、先生方の中にはきまりの悪いような顔をし、「聞かなかったことにしよう」といった態度を取る方もいらっしゃいますが、この根本から目をそらせておいて、何が英語授業の改善かとも思います(うーん、敵を作りそうな言い方になっているなぁ。気をつけよう(笑))。

以下は、講演に来てくれたある若い方からのメールの一部です。このような若くて素直な方々が私の希望です。


午後のお話でも出ていましたが、教育をする以上、最終的には教師一人ひとりの(ことばの)力が直接子どもに伝わるのであって、教師自身がことばへの鋭い感性をもっていなければなりませんね。

私自身、恥ずかしい話ですが、まだそのような感性を持ち合わせている自信はありません。今日一日の自分の発したことばや態度をふり返っても、まだまだ感性や思考が鈍っていると感じます。

数値に表れる訳でもなければ、見につけるテクニックがある訳でもありませんが、この目に見えない力を、まずは自分自身が挑戦し、磨かなければなりません。





追記

英語教師が、単に「コーパスデータにある」といった意味でなく、「自分の身についている」という意味での「生きた英語」を身につけるための方法の一つは、自分が本当に好きな英語の映画を(英語字幕を見ながら)何度も視聴すること、台詞が自ら出るぐらいに視聴することだと思います。(逆に言うなら、英語の教科書と教科書朗読CDにしか接していないなら「生きた英語」はなかなか身につかないと思います)。

こう言いますとすぐに「どの映画を見ればいいのですか?」「何度繰り返し視聴すればいいのですか?」と学生さんに聞かれますが、これらはすべて私たちのからだが教えてくれることです。自然な感性に従えばいいだけのことだと思います。数量研究で一般化するような事柄ではないと私は考えます。

もちろん視聴するのは映画に限りません。この意味で、以下のブログも活用していただければ嬉しく思います。

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