■弓道における口伝と、書籍媒体での技能教授
[これは、弓道部に在籍するKT君の文章の一部です]
今回、弓道教本をコミュニケーションの視点から読んでみてわかったことは、本などの紙媒体で書かれている[弓道のやり方における]コミュニケーションの仕方は確かに存在して、実際に弓道教本だけではなく、そのほかのスポーツのトレーニング書や学校の教科書など様々な形で私たちの生活の中に浸透しているということであった。だが、それらを見るのは他でもない私たち人間であって、人間である以上私たちはその媒体に対して一人ひとり様々な印象を受けると思う。
それは、その本を読むことによってその本が伝えたいことを体現できる人と体現できない人がいるということでもある。観察の主体は人間なので、すべてを客観的なものとしてすべての人に共通であるということはできない。だからこそ私たちは教科書等の文字媒体を使う際にすべての人に体現できるようにと教師という職業を作り出したのではないだろうか。
ここで重要なことは、教師には教科書を読むだけで理解できるような知識は求められておらず、そのもう1段階上の様々な背景や知識、個性や考え方、理解力や学習方略を持った生徒たちすべてに教えようとしていることを体現させる能力が求められていると考える。その際に、今回弓道の例を挙げて述べたように一つの事柄を様々な角度から捕らえる広い視野や、すべての人に対応できるような説明の仕方の多様性が必要とされているのだと思う。私たちはこれからもっとたくさんの説明のバリエーションを身につける必要があるので、そういう経験を積極的にたくさんしていくことが今私たちがすべきことではないのだろうか。私は弓道を通して、口伝というコミュニケーションというものをもっと深めて生きたいと思う。
■「ガムシャラ練習」ではバスケはうまくならなかった
[これは中高時代のバスケット練習と、英語教育を比較したAYさんの文章の一部です]
上にも述べたように、ある技能を習得するためには、練習の段階から、その技能に適したような意識づけをし、実践を意識した練習をしていく必要があるということを体感した。練習段階から意識付けをしていくとが、実践の場での自信にもつながっていくことが分かった。
以上の事は、なにもバスケットボールやその他のスポーツ限って言えることではなく、英語教育における実践の場でも似たようなことが言えるのではないかと思う。現在の学校教育の現場では、Oralな指導方法が「いいもの」として取り扱われ、とりわけAll Englishの授業を推進するような体制ができている。たしかに、英語を習得するためには教師が英語によるinputを多く与えることも大事だとは思う。しかし、とりわけ中学校の授業においては、新出文法が出てきたときに、教師は絵やジェスチャーを交えながらall Englishで文法を導入し、生徒が意味を代替理解してきたところで口頭練習のパターンプラクティスを取り入れ、ひたすら口慣らし練習を積んで文法の習得を目指すような授業が多く展開されているような気がする。
しかしこの授業スタイルでは、私が中学時代に行った「ガムシャラ練習」と全く変わらないのではないかと思う。生徒は教師のまねをするだけであり、その口頭練習にはなにも「意識」というものが働いていない。したがって英文法の原理も理解していないし、口頭練習に至っては、実際に日常生活で英語を使って話す時を想定したものになっていない。スポーツにおいても、英語教育においても、「シュートを決めたい!」、「英語で会話できるようになりたい!」という最終目標ばかりに注意を向けるのではなく、目標を達成するための原理というものにもしっかりと目を向けなければならない。
また、私は塾講師の経験から、「ガムシャラ練習」の影響を受け、結果として教科書の中での力しかついていない生徒たちをたくさん見ている。彼らは、実は英語で文章をつくるときに、主語、動詞の順番になることすら知らなかったりする。こういう生徒を見ていると、なおさら英語の原理というものにももっと目を向ける必要があると感じる。何度も言うが、実践の場で使える英語を生徒たちに身に付けさせたいならば、もっと英語の原理にも意識を持っていかせ、さらに練習する際には実践を意識した練習をしていく必要がある、と強く思う。
■広く身体文化を振り返りながら英語教育を行おう
[以下は自分のサッカー練習と英語教育を比較したOY君の文章の一部です]
3. 考察
以上に挙げた例をもとに、身体的に理解することと言語的に理解することとの違いについて考察を加えていきたい。両者の根本的な違いは、「やわらかいボールタッチ」や「パスアンドゴー(無駄走り)」といった言葉に関してそれを理解することができるものなのか否か、ではないだろうか。先ほどにも述べたが、リフティングの練習に没頭していた小学生の自分は、リフティングの原理を全く理解していなかった。しかし、中学生になってからのある出来事を機に、その原理に気付くことができたのである。
このように、ある事柄の原理の理解は、ある一定の時間を経てからされることがある。また、その理解というものは、指導者からの説明などを受けて成される場合もあれば、学習者(サッカーの話であれば、選手)が実際に身体を動かしてみて初めて感覚的に体得する形で成される場合もある。私が実際に経験したこのリフティングの例も、リフティングの練習と出会ってからその原理を理解するまでの間において、数年間もの時間がかかっており、また実際に身体を動かす(ボールが足に触れる感覚)ことと周りからの助言とが合わさって体得した原理の理解を示していると言える。我ながら、何とも興味深い経過をたどっていると思う。
「パスアンドゴー」の指示の原理を理解することについても、全く同様である。監督からの言葉を見たり聞いたりしても、それが何を意味するのかがぼんやりしてしまうことはあるのだが、それを自分の身体を使って理解できれば、理解した内容を自分のものとして定着することが可能であり、更に理解を深めることもできるのである。何度も言うように、身体を使うことがなければ、これらの言葉はきっと理解できないはずのものである。この点において言語的な理解には限界があるのだと言え、身体的な理解の重要性を垣間見ることができると考える。
4. 終わりに
それでは、私たちはここからどのようなことを学ぶことができるのだろうか。将来、英語教師になろうとしている私たちにとって、この「原理の理解」の特質はしっかりと押さえておきたいものである。特に、先に挙げたサッカーのように、もともと身体を動かすようなものに関係する原理の理解では、身体を使って覚えるといったようなことは、時に強調されることもある。
しかしながら、英語の授業などといった基本的に教室の中で席に着いた状態で行われるようなスタイルのものでは、なかなか身体の重要性が語られない現状にある。子どもたちに様々な事柄の原理を理解してもらう場である学校教育がこれではまずい。私たちはこのような状況があるからこそ、教師として何かについての原理を理解させようとする際には、ただ説明することに徹するのではなく、学習者に実際に体験させてみることが大切になってくるのではないだろうか。そのため、原理を「教育者→学習者」のベクトルで押し付けるのではなく、学習者が自ら頭や体を動かしてその原理に気付いてもらえるような手立てを考えていけるようにしたいと思う。
身体の重要性をうかがうことのできる例は、日常生活の中にごろごろと転がっている。私の人生の中では、たまたまサッカーのリフティング練習や試合中の監督からの指示の中にそれがあったが、きっとサッカー以外の他のスポーツや文化的な趣味などにおいてもそのヒントとなり得るものは隠れている。そして、その原理の理解というものは、自らが身体を動かすなどの経験をしたことがない限りはなかなか保障されない。
将来、英語教員になろうとする私たちは、この点を踏まえて英語教育に直接関係するとは思えないようなものにも、力を注いでいく必要があると思う。「教養を広く持つと良い」ということがしばしば言われるが、「教養」とは自分の身の回りにある様々な事象から別の事象に何か役立たせることを可能にする、言わば引きだしのようなものではないかと思う。そのため、私たちも英語教育に関する知識や技能などの専門性のみに特化するのではなく、他の事象から英語教育や生徒指導などを考えていけるような多様な引き出しを準備した状態で教壇に立っていたい。そして、教師自身がもつ身体的な経験を有益に活かし、物事の原理を子どもたちが自分自身で気付くことができるような指導を展開できたらな、と考えている。
■「場」を見極める
[これは剣道を18年間稽古し続けているMNさんの文章の一部です]
4.1英語教育と私
はじめにも書いたとおり、今の私の考え方や行動というものは、良くも悪くも、剣道という競技を続けてきた中で形成されてきた側面が強いと思う。このことを感じ始めたのは、教育実習の最中であった。
まずは場について。場が人を動かす、といっても良いくらい場のもつ力というものは大きいと思う。授業でもそうだ。そのクラスの持つ力が大きければ大きいほど、学習効果は高いと、実習中に感じた。ここでのクラスの力というのは、学力のことではない。雰囲気であったり、もしくは意欲であったり、クラス内の信頼関係とも置き換えられるかもしれない。そしてこの力は固定されたものでなく、変動的なものである。教師の役割とは、この場の力を引き出すことと、見極めることであると思う。
クラスにはいろいろな性格があると感じた。元気なクラス、おとなしいクラス。私は音読で声がでなければ、「このクラスの生徒たちやる気ないんだな…」とまで思ったことがあった。しかし実際は違った。ただ読ませるのではなく、音読の「指導」をきちんとした後に読ませたら、見違えるほど声は大きくなった。「意欲がない」「声が出ない」と決めつけるのは簡単だが、教師のやる仕事はそういったことではなく、生徒の可能性を引き出すことなのだと思った。
もう一つの見極めるとは、そのクラスの力が本物であるかを見抜くということである。“雰囲気の良いクラス”は、本当にすべての生徒にとって居心地のいい空間になっているのか、見せかけだけの“良いクラス”になってはいないか、教師は常に自覚的に考える必要があると思う。大きなものを見る目と、小さなものを見る目の両方を備えておかなければいけないと思う。
まとめになるのだが、英語がわからないから授業がつまらない、授業がつまらないから話を聞かない、話がわからないから、英語が苦手になる、という悪循環にならないようにも、「場」を大事にする必要があると思う。本当の意味で生徒が学校に行きたい、もしくは行かなければいけないと思うような学校経営や生徒指導は、教科指導と並行して考えなければいけないのだろうと感じた。
以上が、私が剣友会からはじまり、中学、高校、大学の剣道部といったコミュニティで剣道を続けてきた中で感じる、「場」についての考えである。
もう一つはコミュニケーションについて。大学入学当初は、英語力や語学力とは何か、そのことについてまだ明確な自分の考えをもっていなかった。ただ、ネイティブのような発音でペラペラ英会話ができる、だとかそういった類のものではないことは感じていた。でも、じゃあ何なの?と言われたらうまく言えずにいたし、「英語の先生をみんなネイティブにしたら、生徒だって話せるようになるのに」といった言葉に対しても反論できなかった。
教英で勉強をしてきた中で今思うのは、コミュニケーション力とは心を動かす力なのではないかということだ。英語を使って言語をつかって、相手の心を読むだけでなく、さらにそこから自分の思いを言葉にのせて相手の心を動かすことができれば、どんなに流暢でも中身のない言葉よりもずっと、相手に伝わる内容が多いと思う。剣道でいうパワーやスピードが武器になるように、第二言語コミュニケーションにおいても、流暢さや発音、文法はもちろん大切である。でもそこで完結してしまったら、この先に伸びるものがないのではないかと思う。内容にフォーカスを当てるからこそ、言語が目的ではなくコミュニケーションツールという手段としての力を発揮する。そしてそれができるのは、日本人の英語教師であると思う。
4.2おわりに
私には夢がある。それは私にたくさんの夢や可能性を見せてくれた教育学、英語教育学のフィールドへ貢献できる人間になることである。そのためにも残されたあと1年間の大学生活を悔いのないよう過ごし、社会人になるための土壌を作りたいと思っている。
■「学習英文法」について
[これはバイトの塾講師としての体験をきちんと振り返っているKR君の文章の一部です。]
(1)学習文法
文法には伝統文法と科学文法という2つの観点が存在する。
前者の伝統文法というのは、言わば言語学者からの観点であり、言語の解明を目的に生み出された文法である。この伝統文法というのは、いわゆるメタ言語であり、言語というものを言語によって説明しようという考え方である。この考えは、全ての文を公式にあて、説明しようとしている結果、その法則・例外は膨大であり、難解である。また、これらが”英文法”の授業のベースとなることが多い。
後者の科学文法とは、脳科学のような科学からの観点である。この科学文法は、人間が通常は何不自由なくほぼ完全な形で母語を獲得するシステムを科学的に考えていくものである。
上記の2つとは、また違った目的で作られたのが、学習文法である。この学習英文法は、学習者が言語取得をすることを目的に開発された英文法である。その特徴は、学習者の目標や能力に応じ、理解・活用にかける労力に適した習得効果が重要となる。伝統文法のように、大方すべての文章を解読するために用いられるものではないのだが、その内容が学習者や内容に対し簡単すぎると、活用の段階で誤った英語理解、英語使用が発生してしまうという特徴も持っている。学習者の負荷を最低限にまで抑えているものの、言語を定義しうるメタ言語的側面をきちんと押さえているものが求められる。
(2)学習文法の重要性
どのような授業を展開するにしても、生徒に英文法の知識を教える必要がある。この際に求められるのが、伝統文法や科学文法でなく、学習文法であると考える。これは、いかに機能的に生徒にその文法の知識を与える際だとしても、原型として学習文法は求められるだろう。機能的文法説明にもさすがに限界が存在すると私は考える。機能的文法の教授は生徒がその言語の雰囲気を掴むといったものであるが、ネイティブでない第二言語習得者が感性を用いて、機能的に文法を習得することは、ネイティブからかけ離れた、全くオリジナルの境地にたどり着いてしまう可能性が大いにあるのではないだろうか。
話は戻り、今回のトピックは学習文法である。文法と一口に言っても、それは伝統文法を指す場合もある。この伝統文法はより、ネイティブの感性を意識し、理解し、言語の体系を理解する上で必要不可欠のメタ言語である。英語教師を目指すものなら、この伝統英文法を理解し、英語のシステムを知るべきだろう。しかしながら、ここまで深い領域の知識は、第二言語習得の際に必ずしも必要とされない。それは我々が、母語に関して細かい知識を持っていないのに母語を不自由なく扱うことができることからもわかる。
教師というものはどうしても、自分の知識を教えたがる性質を持つ。このことは、この伝統文法でも同じであり、しばしば英語教師は己の学習した伝統文法を薄めたような、メタ言語を生徒に何とか理解させようとし、その理解こそが第二言語習得に直結するという幻想にとらわれがちである。実際に、生徒に与えられるのはこのような形の伝統文法ではなく、学習文法であるはずなのだ。
この学習文法というものは、まだ英語教育の中で学問として確立していないのかも知れない。実際にこの学習文法の教授法というものは、この広島大学では授業として扱われることは稀であるし、これは教師が数年かけて、生徒の反応や理解度を実際に見て、独自に気づき確立していくものなのかも知れない。しかし、それはあまりに遠回りではないだろうか。
英語教師は生徒のカリキュラムの中で、必ず新出の文法事項を説明しなければならない。この文法事項の説明というものは、どのような優れた言語活動を後に行うとしても、前提となってくる。つまりは、どれだけ優れた言語活動を行おうとしたとて、この学習文法の教授を失敗すれば、全ては成立しなくなるだろう。このような点から、学習英文法の教授法は教師にとって非常に重要だと考える。この学習文法の困難な点は以下の要素が考えられる。
・学習者によって、文法に対する理解度が異なる。そのため、学習者に応じ、どこまで咀嚼した段階の文法を呈示すべきか一様ではない。
・学習者の理解度を配慮しすぎるあまり、その文法を歪んだ形で生徒に呈示してしまうおそれがある。
・伝統文法からどの領域までを学習文法として取り扱うのかという線引きが、各教師によって考え方が一様ではない。
つまり、生徒により、その理想の形というものが多様である結果、研究の対象が多様であり、学問として成立させるのが困難であるのではないだろうか。また、その学習文法として取り扱うべき伝統文法の定義は非常に定義しがたいと思われる。一体、どの領域までを享受すべきなのか、どの程度の例外まで教師は取り扱うべきなのか。この例外を認めすぎると学習者は、その言語材料を自動化し、非意識化させるのに多くの時間を有することになってしまう。一方、例外を認め過ぎなかったり、わかりやすく伝えようとするあまり、簡潔に伝えすぎると、学習者はその言語材料に関し、誤った理解を植えつけてしまいかねない。このような要因を考えていくと、学習文法というものはその定義を一様に設定することが困難となる。
(3)教師に求められる意識
しかしながら、学習文法において求められることは、このような困難な点ばかりではないのではないだろうか。例えば、その文法説明の呈示の際の言葉の選択に関して、教師はより時間をかけて考えることは、学習文法の分かりやすさ、質を向上させる一つの近道なのではないだろうか。教師の、言語の選定次第で、その文法説明というものは、簡略化されたり、事細かに説明しえたりするだろう。また、説明に関する言葉の選定だけではなく、その提示する例文の分かりやすさや、生徒にとってその例文が身近な題材であることなども、この学習英文法の分かりやすさに直結するのではないだろうか。今回では、その学習英文法において、定義付けの困難な領域以外として、例文の身近さ、説明の際の言葉の選定(その説明の長さ等も含む)等が、学習英文法開発において、重要な一歩となるのではないだろうか。これらの項目は、集約すればどれだけ教師が言語に対し敏感であるかに大きく関わってくる点だと考える。ここでの言語とはもちろん第二言語と共に母語まで指しうると考える。
以上の点から、教師は言語に対して常に敏感でなければならない。その敏感さは脚本家や詩人が言葉の一つ一つを選定し、これぞというものを追い求めるような側面に似たものであり、最も伝わりやすい表現、無駄のない美しい伝え方を日々意識し、模索していくことが求められると考える。
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