2012年3月19日月曜日

学生さんによる、スポーツから考える英語教育論

[以下は、「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の授業での感想・レポートです。この授業では学生さんが本当に熱心に予習をして授業に参加しさらに振り返りをしてくれました。私の話は「難しすぎる」とか「もはや英語教育ではない」と、一部の「英語教育学者」には敬遠されるのですが(笑)、学生さんはそんな一部の「英語教育学者」とは比べ物にならないほど私からの立論に真摯に向かい合い、問いただし、議論を深め、毎週毎週大量の文章を予習と復習それぞれにWebCTシステムに書きこんでくれました。教師としてこれ以上の喜びはありませんでした。本当にありがとうございました。以下はそんな学生さんの書いた文章の一部です(適宜、改行の挿入や[ ]による補注など、最小限の改変は加えています)。]


■SS君による「サッカー界にみる英語教育の姿」(全文)



サッカー界にみる英語教育の姿



今回はサッカーの試合に臨むまでの準備過程を参考にして、英語教育のあり方について考察していきたいと思う。

 まず現代サッカーにおいて、選手たちは中3日、あるいは1週間といった短いサイクルの中で定期的に試合を行っている。今回は1週間のサイクルで行われているものを参考にして話を進めていく。一般的に多くのチームは、試合→体力回復→試合分析→課題修正→トレーニング→試合…というサイクルを繰り返すことで年間を通じて試合を行っている。科学技術等の発達により、体力回復、試合分析といった点に関してはチーム間での差はそれほどなくなってきている。しかし、それにも関わらず強いチームもあれば弱いチームもあるのはなぜだろうか。
 
 1つの理由としては選手や監督の質の差が挙げられる。そして他の理由としては、トレーニングの差、つまりその方法や負荷のかけ方の違いが挙げられる。その中で現在そのトレーニングは、戦術的ピリオダイゼーション理論(PTP理論)というものに基づいて行われる場合が非常に多い。この理論はおよそ30年ほど前にポルト大学のビクトル・フラーデが提唱し、2003-2004年シーズンにFCポルト(ポルトガル)がヨーロッパの大会(UEFAチャンピオンズリーグ)で優勝するのだが、当時このFCポルトを率いていたジョゼ・モウリーニョ(現スペイン、レアル・マドリード監督)がチームトレーニングにこのPTP理論を導入していたことで一気に広まり、現在に至っている。なぜこのFCポルトやモウリーニョに注目が集まったのかというと、当時このチームは決して優勝候補と呼べるチームではなかったが、ダークホースとして強豪チームを次々と破って頂点に立ったためであった。
 
 ここで少しPTP理論とはどんな理論なのかを簡単に説明しておきたい。この理論は簡単に言うと、サッカーがうまくなるにはサッカーをしなければならないという考えに基づいている。何を当たり前のことを言っているのかと言われるかもしれないが、実は2003-2004年シーズンにFCポルトが優勝するまでは、世界のトップクラブでさえ多くのクラブはサッカー選手のトレーニングとして、戦術トレーニングなら戦術にのみ特化したトレーニング、パスの練習なら実際の試合でもほとんど遭遇しないような場面でのパストレーニング(例えば敵がいることも想定しないでお互いが向かい合った状態で単にパスをする)、更には選手のフィジカルトレーニングで調子を整えたいなら陸上専門のコーチを呼んで陸上選手が調子を整えるような方法で行っていたのである。もちろん全てのチームが必ずしもこのような古典的なトレーニング方法を用いていたわけではないのだが、世界のトップチームでさえも何十年も前のトレーニング法を踏襲していたのだから驚きである。PTP理論に基づいた具体的なトレーニング方法は後で少し触れることにしたいと思う。
 
 ここまでの流れで、スポーツと教育は枠組みの異なるものではあるが、英語教育にも少なからず似たような考え方が可能なのではないかと思う。それは、英語教育において、授業の最終的な目標があり、そのために必要な学習をし、その成果を測り、それをフィードバックし再び学習するという流れが、サッカーにおける試合→(回復)→分析→修正・トレーニング→試合→…というサイクルと酷似しているからである。加えて、サッカーはサッカーをすることでしか上手くならないという考えも、英語は英語を使用することでしか学べないという考えと一致するとこがあるのではないだろうか。以上のような点から、初めにも述べたように、スポーツと英語教育を比較しながら英語教育のあり方を以下で考察していきたい。
 
 まず上記でも述べたサッカーのPTP理論についてもう少し話を進めるところから始めたいのだが、現在は日本にもこのPTP理論が徐々に導入されつつある。数年前までは、海外から見た日本人は、「技術はあるがサッカーは下手」だと見なされていた。これは一例を挙げると、リフティングは上手いが、いざ試合になるとリフティングを用いるような場面は皆無に等しく、柔らかいボールタッチをできる選手であったとしても、試合中に自分のその柔らかなプレーを発揮できないということである。また、1ヵ月前に全国高校サッカー選手権が行われ、その決勝戦をスペインのプロクラブのコーチが視察し語っていた言葉であるが、日本の選手の技術は海外の同年代の選手と比較しても遜色ないが、判断力に差がありその場その場にあった選択が悪いためにせっかくの技術を生かし切れていないと言っていた。またそのコーチがある高校の練習の講師として訪れた際に、日本の高校生が試合を想定することなく同じ練習をひたすら反復する光景に驚いたという。確かに反復するのは一定の効果があるのだが、サッカーでは選手の置かれる状況は刻一刻と変化するものであり、その変化についていけるようなトレーニングを行うために様々なシチュエーションを想定して行うのが海外では一般的であり、この差が選手が成長した時の差になっているのではないかと言っていた。
 
 要するに、「サッカー=技術+戦術+体力+精神力」の総和と考え、技術や戦術(ドリブルやパス、シュート等)というものを独立したものと捉え、分割してトレーニングした場合、試合でマイナスになりえる行動を選手たちに習慣化させてしまう恐れがあるのである。
 
 これは英語教育においても同様のことが言える。読む・聞く・書く・話すができれば英語を自在に使えると考えられることもあるからである。そして実際にこれらの4技能を独立したものと見なし、それぞれを別物として習得していく傾向も見られる。こういった教育がもととなって、サッカーで言うところの「技術はあるがサッカーが下手な日本人」、つまり「英語を知っている(例えば文法に対する詳しい知識)が英語を使えない日本人」が多数生まれているのではないかと考える。
 
 ではこの問題を解決するためにはどうしていけばよいのだろうか。答えは実にシンプルである。実際にサッカーの試合に近い形でトレーニングを行う。英語教育に関して言えば、英語を使う場面を作る。恐らくこれは誰もがわかっていることであろうが、それがなかなか実践できないということは、それを具現化することが非常に難しいことを意味している。
 
 サッカーにおいてこの問題を解決するために取られている方法を例にとってみよう。トレーニングの一環として、選手の体調を整える際に、かつては陸上専門のコーチによる陸上式の方法を取り入れていたと述べたが、現在では体のキレを維持するためにラダートレーニングを行いながら、それを試合中の敵に見立てるような形で行い、同時にボールコントロールを行いながら敵をかわすこともイメージするトレーニングがある。これにより瞬発力トレーニングとドリブルトレーニングを同時に行うことが可能になる。そしてこのようなトレーニングにより、従来のサッカーに必要とされている筋肉をつけるための筋トレよりも、サッカーをするのに必要な肉体をより効果的に作ることもできるようになるのである。
 
 ここまでサッカーにおけるPTP理論の特徴を中心に述べ英語教育にも似たような特徴があると述べてきたが、あくまでこの理論はトレーニング方法でしかなく、教育において実践する場合にはどのような流れの中でこの理論を取り組んでいくかも非常に重要である。そこで最後にこのPTP理論の考えを有効活用にするためにはどのような枠組み(ここではサイクル)の中で行うのがよいのか考えていきたい。
 
 まずあくまで最終目標は「英語を理解する」だけではなく「英語をコミュニケーションの手段として」使用できるようになることなので、まず生徒が実際に英語を使用する場面を作らなければならない。これはサッカーにおける試合にあたる。そしてその英語を使用した結果見つかった課題を様々な形でフィードバックする。これはサッカーにおける試合分析にあたるものである。続いてここで見つかった課題を修正するためのトレーニングが必要となる。それと同時に、新たに英語使用場面を設定し、そこに向けての準備も行わなければならない。そして再び英語を使用する試合に挑まなければならない。
 
 要するに、「…英語を用いてのコミュニケーション活動→フィードバック→練習問題に取り組む→次回に向けての準備→英語を用いてのコミュニケーション活動…」という流れである。現在でも高校によってはOCという名の文法授業が行われている。しかし文法を完全に他の技能と切り離して学ぶことで、文法に関する知識は会得しているが、それを使用することができなくなっているように感じる。それはサッカーにおける「技術はあるがサッカーの下手な日本人」と同じである。
 
 学校という限られた空間・時間の中で教育をしなければならないという現状を考慮に入れると、理想の英語教育を実現することが容易でないことはわかる。学校によっては生徒を学校に連れ戻すことで精一杯なところもあるであろう。さらに中学校や英語学習の初期段階においてはここまでで述べたような教育は難しいという意見もあるであろう。実際にサッカーにおいても、初めからPTP理論に即した練習を行っているわけではなく、一般的に10~13歳頃までに多くの技術を体得できると考えられているゴールデンエイジを過ぎてから徐々に取り入れていくことがほとんどである。
 
 同様の方法で英語教育に置き換えて見ると、小学校・中学校初期段階においてある程度の英語に触れておく、完璧な知識としてではなくとも、英語とはこういうものなんだという感覚を持たせるような教育が望ましい。恐らく、英語教育を行う上での最大の障害となるのは、ほとんどの日本人は英語が話せなくても生活できるという環境であろう。しかし、我々教師は、そんな困難な課題に対しても立ち向かわなければならず、課題を先延ばしにしていては何も変化は望めない。
 
 現在、日本サッカーは世界的な地位も向上し、多くの若手が海外でも認められるような時代になってきた。このような変化は指導者や選手の質の劇的な変化によってもたらされたのではなく、サッカー界の体系を変えたために起こった出来事なのである。具体的に言えば、日本代表を頂点とし、その下に西・東日本選抜、地方(四国や中国、関東といった枠組み)選抜、圏選抜、地区選抜というように、日本を1つの枠組みとして一貫性のある体系を小学生から高校生までの各段階で構築した結果なのである。教育も、今こそ各学校による競争ではなく、一貫性のある、より目的のある体系を作る必要性に迫られているのではないだろうか。そしてそれは英語教育にも同様のことが言えるであろう。これから我々が少しずつ微力ではあるがそういったことを主張していかなければならない。






■NY君による「書記言語化が人の成長へもたらす影響 -スポーツ選手にとるノート記録に関連させて-」(全文)


書記言語化が人の成長へもたらす影響
-スポーツ選手にとるノート記録に関連させて-


1.はじめに

このレポートでは、「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」で取り上げられた「書記言語化」に着目し、自分の中で考察したいと考える。その授業では、教師が自らの教育実践を語ること-ナラティブ-は教師の成長に貢献するということを学習した。それは自己意識を言語化することで自己観察と自己理解を可能にするからである。言語化として「語る」ことと「書く」ことが言及され、そこでは「書く」ことは「語る」ことよりも、深い自己観察を促し、自己理解につながると学習した。そこで、私が中学生時代に日々作成していた「バドミントンノート」や、プロスポーツ選手のノート活用術などと関連させて、書記言語化が人の成長へもたらす影響について、自分の言葉でまとめ、考察していきたい。


2.中学校時代の「バドミントンノート」

 私は、中学校から大学までバドミントンを続けているのだが、それは中学校の時の顧問の先生が指導熱心で恵まれた環境にあり、上達することの楽しさを教えてくれたからである。先生はバドミントンを上達させる方法について、様々な所から情報を仕入れてきて私を指導してくれた。その指導の中で効果が顕著に現れた印象深い取り組みに、「バドミントンノート」があげられる。
 
 この取り組みは、サッカー強豪校の監督がノートを活用し、選手を上達させているという情報を先生が手に入れたことから始まった。最初は、「強豪校の選手はノートを取っているからではなく、良き指導者や、膨大な練習量、選手の才能の違いなどが存在するから上達するのである」という思いと、「毎日練習の反省を書くなんて面倒くさい」という思いがあった。初めは内容も簡単であり、例えば、「打点が低いので気を付ける」「スマッシュを真ん中に打たないようにする」「ヘアピン(ネット前から相手のネット前に返す技)を上手くなる」などであった。ノートを取るようになってから、自然と書いたことを意識した練習を行うようになった。そして少しずつではあるが、今まで出来なかったことが出来るようになり、上達していると実感することも多くなった。次第に面倒くさいという思いや、提出しなくてはという義務感は消え、逆にもっと真面目にノートを書こうという思いが強くなり、ノートにかける時間も15分から最終的には30分くらいかけるようになった。その結果、今まで勝てなかった相手にも勝てるようになって大会で昔より良い成績も残せるようになった。
 
 
3.「バドミントンノート」の隠された5つの意義

最初ノートを記録させることの意義は、単純に反省を義務化して、反省の回数を増やすことや、反省する習慣をつけることだと思っていた。確かにそれも大きな意義であるが、それ以外にもノートを記録させる意義は存在する。ここでノートをとることの意義を考える前に、まずノートに記録しない反省について考える。

ノートに記録しない反省とは、頭の中で何が問題点、反省点なのか言語化する、「自己意識化の言語化」の段階、よくてその反省点を友達に話す、「共有化」の段階で止まっている。これだけでも効果はあるのだろうが、それらの段階では自分の問題点や反省点を思いつく限り列挙していくことしかできず、まとまりのない反省となってしまう。結果、自分はどんなことに気をつけ、何を改善する必要があるのかが不明瞭である。加えて、この段階においては思いつきであり、その思いつきには「考える」という行為が圧倒的に不足している。またその思いつきは一時的なものであり、記憶にも残りづらい。このように考えてみると、ノートに記録する反省には反省の義務化以外にも5つの隠された意義が存在すると考えられる。

①目標や課題を明確にすることが出来る:

まず初めに目前に控えた大会や最終的な大会ではどのような成績を収めたいか、例えば「市大会優勝」「県大会ベスト4」といった具体的な目標を書いていた。目標を書くためには自己観察が必要であり、自分の実力を考えた上で、どのような自分になりたいか、最低達成出来る目標と最高達成出来る目標を考える。目標を設定した後には、現在の自分の実力と目標達成に必要な力を照らし合わせて、どのようなこと(練習方法、トレーニング、テクニック、メンタル面などの課題)が必要とされるか、また目標を達成するまでには、どんな相手が予想されるか、その場面ではどのようなプレーが必要とされるか、またどのようにすればその相手に勝つことが出来るか考え、それを記述することが出来る。ノートを書くことは、自分の目標を明確にし、同時にこれから取り組んでいく課題を浮き彫りにすることが出来る。

②:論理的に反省や課題について考えることが出来る:

例えば、普段の練習の反省として「ヘアピンの精度が悪い」と書いたとする。書くことは、その反省と向き合わせ、深い観察と深く考えることを可能にする。例えば、「ヘアピンの精度が悪い」を直すためには、「ひざを使ってコントロールする」「高い位置でシャトルを取る」「腕は伸ばした状態で打つ」などの改善点に結び付く。それは記述することでもう一度反省点をしっかりと観察また、それについて深く考えることが可能になるからである。また、記述することは論理的に考えることにも結び付いている。中学生の時の課題によく「打点をあげる」と書いていた。それは角度のある球や、タッチを早くするという効果があり、背の低い僕にはとても重要な課題であった。ノートを取る前までは、「打点を上げる」とはとにかく腕を伸ばして、上で打つことを意識しなければとばかり思っていた。しかし、ノートをとるようになってからは、もう一度課題を見直し、そのためには何が必要であるかに着目出来るようになった。「打点を上げる」ためには、「フットワークを使いシャトルの下に入る」や、「体幹を鍛えて、上体をまっすぐにする」ことが必要であると考えたのである。記述することは課題を遡って、必要なことを考えることを可能にし、論理的に反省や課題について考えることが出来る

③重要な反省や課題を整理し、順列をつける:

「書く」ことは「語る」ことに比べて、時間や労力を要するため、情報選択を吟味することを可能する。バドミントンノートを書く時には、思いつく多くの反省や課題の中から、本当に重要な反省や課題はどれであるかを考え記述することが出来る。また、同時に重要度を考え、今の自分に必要であるもの、改善しなければならないことを順番に並べ替えることもできる。そうすることによって反省や課題が自分の中で整理されて、練習中に特に注意しなければならないこと、重点的に練習すべきところなどが明確になった。

④一時の反省や課題を記述という形で永続的に残す:

記述することによって、自分の反省や課題を目に見える形に残すことが出来る。それは後に過去の反省や課題を振り返ることを可能にし、調子が悪くなった時などにそれを見直せば調子を取り戻す手掛かりにもなる。「書く」こととは、永続性のある媒体に書き写すことであり、それは過去の自己観察までも可能にする。その過去の自己観察が現在の自己観察する上での参考にも成り得る。
⑤他者からの観察、理解を可能にする:

「書く」ことによって、他者からからの観察を可能もすることが挙げられる。練習の次の日には先生に提出して確認してもらい、返却時には反省に対してコメントやアドバイスが書かれていた。自己記述を通して、他者にも自分について理解してもらうことができ、それによって客観的かつ自分にはない新しいアドバイスを得ることが出来るのである。

このように整理すると「バドミントンノート」には5つの隠された意義があった。①目標を明確にし、課題を浮き彫りに出来る。②論理的思考を促す。③反省や課題を整理し、順列をつけることが出来る。④一時の反省や課題を永続的に記述という形で残す。⑤他者からの観察、理解を可能にする。これらの意義はどれも上達するために必要なファクターとして考えられ、私が上達を早める理由となったのである。


4.プロスポーツ選手のノート活用術

 ノートを記録しているスポーツ選手には、野球の野村克也選手(監督)、バドミントンの佐々木翔選手、ゴルフの石川遼選手など数多くあげられる。その中でもプロサッカー選手の中村俊輔さんは高校二年生から15年間に渡って11冊のサッカーノートを書き続けており、2009年には「夢をかなえるサッカーノート」が文藝春秋から出版された。中村選手のノートには、長期目標、中期目標、短期目標、練習内容、試合の反省、自分の課題、気付きなどが記録されている。試合の反省には攻撃面と守備面でのプラス面とマイナス面を書き、課題や次の試合に向けて何をしなくてはならないかを明記していたという。また、サッカーの内容のみならず、孤独や不安、意地や自信といった感情までもが入り混じっていたり、自己評価が含まれていたりしている。私のノートと比較して、孤独や不安、意地や自信といった精神面に関しても多く記述していることは大きな違いである。自分の精神面を書記言語化することによって、自分の心の動きを把握することが出来、それは試合中の精神面のコントロールにもつながっているのだろう。本の中では、「サッカーノート」は「目標を達成するための人生ノート」言い換えることが出来ると述べられている。ノートをつけることは目標と課題を明確にするのである。つまり書記言語化することによって自分の目標や課題を明確にするということであり、それは目標や課題にまっすぐ遠回りせずに取り組めるため、上達を早めることにつながっているのである。


4.まとめ

書記言語化が人の成長へおよぼす影響について、ノートに記録するということに着目して述べてきた。スポーツ選手にとって明確な目標を持つことや、課題を持つことや、反省することは非常に重要である。それらは、確かに頭の中で考えることや語ることでも可能である。しかしながらノートに記録することでより深いものになっていき、ノートに記録(書記言語化)することは目標や課題や反省の質を高めることが出来ると言えるのではないかと考える。

ここまでスポーツに関連させて話を進めたのだが、教育にも同じことが言える。教師にも目標や課題や反省は必要である。ここで、私は教育実習中のことを思い出した。教育実習では毎授業毎に批評会というものがあり、その授業での反省やこれからの課題について実習班の人と担当教官と話し合うものであり、その批評会の前までに自分の反省点などを記入するという作業があった。それはまさに「教師ノート」である。そこには活動の順番が悪かったことや、発問が適切でなかったことや、教具が悪かったことや、生徒の反応に対する対応を考えておくことなどが記入されていた。教師という忙しい仕事では、このような時間と労力の要する書記言語化をする機会を頻繁にとることは出来ないだろう。しかしながら、書記言語化することによって初めて人は初めて思考することが出来るとしばしば言われるほど、書記言語化の意義は大きい。

書記言語化は自己観察を深め、自己理解も深めることができる。このことは教師の成長にも大きく貢献する重要なファクターであり、その時間と労力に見合った意義は大いにあるだろう。時間に追われる中で教師としての自分を見つめなおす時間として、「教師ノート」を記録していくことは非常に有意義な時間となるだろう。








■UK君による「優れたマネジメント力を持った監督像 ~グアルディオラとエディー・ジョーンズの両氏に見られる共通点~」(全文)



優れたマネジメント力を持った監督像
~グアルディオラとエディー・ジョーンズの両氏に見られる共通点~




1.はじめに

優れた成績を収めたスポーツチームという集団には必ずと言っていいほど“名将”の存在がその背後にある。優れた練習方法の知識、プレーに関する独自の哲学等その要素を挙げればキリが無い。私は現在一大学生としてラグビー部に所属し、高校から続けてきたこの競技を心から愛し、プレー技術の向上やウェイトトレーニングの方法等、自身とチーム全体の向上のために数々の書籍を読み、試合のテレビ放送の録画を見て学び、その一部を実践してきた傍らで指導者についての情報にも興味を持った。全国大会やプロリーグ、ワールドカップで優秀な成績を収めたチームの監督はどのような哲学を持ち、どのような指導をしているのか。将来的に高校の英語教員且つ高校ラグビーの指導者になって日本のラグビーの発展に寄与することを目指す私にとって、優れた指導者の条件を探求することは必要不可欠であり、何より残り1年となった私自身の競技人生にも有益となる。数々の名将と呼ばれる人たちの記事を読んだ結果、ある二人の監督について私は非常に興味を惹かれた。

本レポートでは、2008年に当時不振にあえいでいたスペインのプロサッカークラブのバルセロナの監督に就任し、最初のシーズンにチームを国内リーグ、世界大会など合わせて前人未到の6冠達成に導いた現監督ジョゼップ・グアルディオラ氏と、2011年に日本ラグビートップリーグに所属するサントリーサンゴリアスの監督に就任し、こちらも就任最初のシーズンでチームを日本選手権制覇に導いたエディー・ジョーンズ氏に関する書籍、記事をもとに二人に見られる共通点、そこから感じられる優れたチームマネジメント力を持った指導者の資質を探る。また、そこから英語教師という仕事にも共通して応用できる点を私なりの解釈として述べる。


2.独自のプレイスタイルの確立と追求

-エディー「独自のスタイルで戦わなければトップリーグで生き残っていけない」

-グアルディオラ「私は自分で選んだスタイルで戦うし、それができなければ勝つことは不可能だと思っている」


チームには確固たる芯が必要である。この二人には“独自のスタイル”という共通点がある。ここで言うスタイルとは、いわばチームの基本戦術のことで、例としてエディー氏は、ボールを蹴って前に進むのではなく自陣の深い位置からでもパスをつなぎ続けて、前に進むという「アグレッシブ・アタッキングラグビー」を独自のスタイルとした。現代ラグビーではルールの影響でどのチームも基本的に自陣ではボールをパスせず、とにかく蹴ってボールを敵陣に運ぶ戦術を取っていたのに対し、全く正反対のスタイルを取って日本一を獲得した
この二人の素晴らしいところはその独自のスタイルを徹底的に追求し、必ず1シーズンをそのプレイスタイルでやり通すところである。多くのチームでよく見られる典型例は、目指すスタイルで勝てなくなったときに周囲から批判を浴び、そしてチームの雰囲気が低下、その後監督がスタイルの見直しを図り、段々普通のスタイルになるという場合だが、この二人の場合重要視しているのは、特にリーグ戦の時期は、目指すスタイルができているかどうかなのだ。

ある日の試合後のグアルディオラ氏のコメントにはこうある「今日の試合に勝利はしたが、このチームの目指すサッカーの内容からはほど遠いものだった」と。監督独自の考え方があるのはどの監督も共通のことだろう、と思われる方もいるかもしれないが、忘れないでほしいのは、この両氏は就任1年目で、徹底的にそのスタイルにこだわって「優勝」という結果を残しているのだ。就任1年目から、はっきりとしたスタイルをチームに徹底的に追求しそれをきっちりと体現させ、結果まで残した監督は少なくとも私の知る限りではこの二人だけである。自分なりの断固とした考え(哲学)を持ってチームを作り上げていくことがいかに大事かがよく分かる。そしてそれを選手と共有することで、選手は監督を信じ、また自分自身の中にも確固たるものを得る。それが次にチームとしての確固たるものとなっていく。

2.1目指すプレイスタイルのイメージの浸透とそのための言語使用

これは二人の発言からではなく、選手や同チームのスタッフからの二人に関してのコメントから発見したことであるが、二人がチームに何かを伝えようとする時の言語は驚くほどシンプルで難しくないそうだ。その中でも具体的な内容として共通していたのは3つ、①話す内容の一貫性②選手目線で物事を語る③ポイント(本質)を的確に、である。

①について言うならば、話す内容がぶれないことと考えられる。常に大元にあるのは、自分が掲げたプレイスタイルを目指すこと、このために色々な局面で何が必要かを述べているのだと考えられる。また、一貫性があるということは話す内容が論理的であることも大前提である。

②については書いてあるそのままである。自分の中で目指しているものを、階層に分けて考えそれを選手が理解できる階層まで内容を掘り下げて話をする能力だ。

③は、①の内容と重なる部分もあるが、「的確に」というのがプラスされている。自分の考えを全て言うのではなく、中心にあることを理解しやすい言語に自分の中で明確に言語化した後で口頭言語化に持っていく能力であると考えられる。これが言葉のシンプルさにつながるのであろう。

これらは人に話をするときに特に重要な要素であるが、二人の場合それが常にできているから選手にも内容が伝わりやすく、選手は監督の目指すプレイスタイルを体言することができたのだろう。私は色々な監督を題材にした記事を読んできたが、監督の話す言語についての称賛の記述があったのは、この両氏の場合が初めてだ。エディー氏について言うならば、エディー氏の言うことはすごくシンプルなのだが、色々なことを考え抜いた上で最後にシンプルな言葉にしているために、単純でも非常に整理されているのが伝わってくるそうである。また、多くの指導者のコメントを読んでいて感じるのは例えば「もっと大きく動かしたい」「もっと走らないといけない」等、非常に抽象的なコメントが多いのだが、この二人の場合それがより具体的且つシンプルなのだ。この「目標の具体性」については、後の項目で詳しく説明する。


3.学ぼうとする姿勢

-エディー(日本選手権優勝のすぐ後の雑誌のインタビューで)「このオフには南アとアルゼンチンにラグビーを勉強に行きます。取り入れられるものがないか見てきます」

-『グアルディオラのサッカー哲学』の一文から「グアルディオラはスポンジのように物事を吸収し、なんでも学ぼうとする意欲の固まりだ」


これらのコメントに見られるように、両氏は何かを学ぼうとする意欲が非常に強い。現にエディー氏は自身が現役の時に日本代表と試合をして圧勝したにも関わらず、当時の日本代表のプレーで参考になるプレーを探し自チームに取り入れていたそうだ。もちろん指導者にとって新しい知識を仕入れることは普通のことであるが、常に世界基準で最先端の情報を仕入れ、チームに取り入れている指導者がどれほどいるだろうか。この二人はプロチームの監督であることから、世界を飛び回りご当地に行って情報を仕入れることができる時間的、金銭的余裕があるのが強みである。しかしインターネットが広く普及した今、twitterやfacebookなどのソーシャルネットワークを利用して、日本にいて他の仕事をしていても世界最先端の情報を得ることは決して不可能ではない。

これはスポーツだけでなく、英語教員に関しても言えることだと思うのだが、多くの人がプレーヤー(大学生)を卒業し、指導する立場になった瞬間に仕事の忙しさに追われ、最新の技術を学ぼうとする姿勢を失ってしまうことが多い。また、ある一定の結果を収めた後にそれに満足し、学ぶことを止めてしまう人もいる。優れた指導者は常に何かを吸収しようとする姿勢を忘れない。この両氏の優れたところは優勝という結果を出した後も、次に向けて学ぶ姿勢を失っていないところである。これは授業中に柳瀬先生が田尻悟郎先生について語った言葉であるが、田尻先生は常に“考えている”からすごいのだそうだ。この二人についても、自分が目指す物事について何か得るものは無いか、と常に“考えている”のだと思う。それがいつも学ぶ姿勢と意欲を忘れないということなのであろう。

3.1.ワーカホリック

-エディー「朝の8時から夜の11時までスタッフとクラブハウスにいたこともありました」

-グアルディオラの同僚のコメント「グアルディオラはサッカーに一度没頭すると、時間を忘れて、食事も忘れ、ひたすら自分の課題に取り組むため、オフィスから引きずり出さなければならなったことが何度もあった」

ワーカホリック、という言葉は『グアルディオラのサッカー哲学』からの引用であるが、ラグビーマガジンからもこれとほぼ同じ意味を表す、エディー氏を描写した言葉を見つけた。今回の授業内容と関連して述べると、これはワーカホリックという造語を翻訳した言葉ではないだろうか。おそるべき働き者、である。彼らは自分の仕事に対して狂気の沙汰になっているのだ。与えられた仕事を遂行するために、そこに情熱を燃やし、気の済むまで研究をし続けるのである。事実、グアルディオラ氏はシーズン中に対戦相手の直近の録画映像を少なくとも4試合分は見るそうだ。これは単純計算するとリーグ全体で160試合分のビデオをシーズン中に見ることになるそうだ。エディー氏に関しても、ラグビーマガジンに掲載されるエディー氏のコメントを見ていると、他の監督の言葉と比べて、試合中の具体的なスタッツ(犯した反則の数やタックルの成功率等)についての言及が非常に多いことに気付く。また、それは自チームのものだけでなく、他チーム同士の試合についてのコメントにも同じことが言える。このような分析を監督自身が行っているチームはほとんど無いであろう。多くのチームは分析と呼ばれる役職の人物が主にこれを行っていると聞く。両氏は”自分で見て学んでいる“のだ。


4.リーダーとしての資質

優れた指導者は同時に優れたリーダーである必要がある。指導者は選手だけでなく、クラブ全体をまとめ、牽引しゴールを目指すからだ。ここではジム・コリンズの言う優秀なリーダーの質を基に、それが両氏に当てはめるとどういうものになるかを説明し、二人がリーダーとしてどう優れているのかを論考する。リーダーの質の基準としてなぜジム・コリンズを引用するかであるが、これは『グアルディオラのサッカー哲学』の中から引用したものである。ジム・コリンズはアメリカで最も優れた企業コンサルタントの一人であり、世界的にも有名な経営学者でもあることから、彼の哲学は十分信用性の高いものであると考えられる。

4.1.ジム・コリンズによるリーダーの質

ジム・コリンズは企業におけるリーダーの質を5つのレベルに分けて表現しており、その最高評価であるレベル5のリーダーとは「さらに高いレベル(*レベル4において「打ち立てたヴィジョンを達成する」という記述がある)で目に見える素晴らしい結果を残し、常に先のことを見据えているリーダー」と記述している。例としてこれをエディー氏に当てはめるならば、エディー氏は就任1年目サントリーを日本一に導いた後、優勝後のインタビューですでに次は2冠(リーグ優勝と日本選手権優勝)を目指すと明言し、またその語の『ラグビーマガジン』のインタビューでこう語っている。(優勝して、やり切った思いはありますか?)「ありません。なぜなら、次の日には優勝も過去のことだからです。一週間はその喜びに浸れることでしょうが、次のシーズンはどう成長しようかと考えます。」

このインタビューから分かるのは、エディー氏は過去のことにこだわらず、常に「次」を考えているということである。グアルディオラ氏に当てはめるならば、就任初年度で6冠を達成した後、次のシーズンへ向けてのインタビューでのグアルディオラ氏のコメントから「修正点を改善し続け、勝ちつづけなければならない。そして、たとえ勝ち続けたとしても、そこからまた改善点を見つけ、さらに強いチームへと変わっていかなければならない」と。二人が、いかに「次」を見据え、そこに向かってチームを引っ張っているのかがよく分かる。これらのリーダーとしての資質は、高次で物事を考えるという基礎があってこそ始めて所有することができるのではないか。今ある現状に満足せず、それらをいい意味で上から目線で捉えることが、よき指導者には必要なのである。

5.チーム、選手個人への個別化された目標

エディー氏が指揮するサントリーでは所属している全選手に月ごとにフィットネスレベル、体重やウェイト数値において細かく目標が設定されており、それをクリアすることを課題とするそうである。練習中に特殊な測定装置を選手に付けさせて練習させ、心拍数、走った距離などを徹底的に記録し、データ化して管理しているそうだ。これによって選手たちは“逃げれなく”なり、課せられたゴールに向かって自分自身の向上に励むのである。その結果、サントリーの選手たちは驚異的なフィットネスを手に入れ、エディー氏の掲げた「アグレッシブ・アタッキングラグビー」を体現した。

これは今回の授業で出てきた意識・無意識の心理学を一部利用した方法ではないだろうか。もちろん、選手にとって自分の数値を測られ、それが目標値に届くようにとそれまで以上に練習に励もうという気持ちは起こるものである、しかしそれ以前に、練習中はスタッフにそんなに細かく自分を見られているのか、という意識が選手全員を無意識に頑張らせたという要素もあるだろう。ましてや自分の体に練習中に走った距離を測る機械がついているならば、練習中は常に走り続けようとする意識は無意識に湧きあがってくるものであり、それは押さえようが無いと思われる。いわゆるピグマリオン効果と呼ばれるものだ。
これと似たような例がグアルディオラ氏にも見られる。グアルディオラ氏は就任当初からメディアに対して「先発の11人だけでなく、すべての選手がチームを意識して全員で戦っている」と繰り返し言い続けたそうだ。これによって控えの選手たちも、自分もこのチームに必要とされているのだ、という意識を持つことができ、選手全員がハードなトレーニングに励んだそうである。それがチームにとって大きな力となった。事実グアルディオラ氏は大事な試合においても若手選手や控えの選手に出場チャンスを与え、出場した選手たちが見事に期待に応える場面が多々あった。これについてもグアルディオ氏は「このチームの素晴らしいところは常に私の要求に結果で答えてくれるところだ」と語っている。

5.1.選手への信頼と自分の責任感

-エディー「選手たちは本当にハードにプレーし、やろうとするスタイルを勇敢に実行しました。43人の選手全員が誇らしかった」

-グアルディオラ「もし他人がこのチームに疑問を抱いたとしても、私の選手たちに対する信頼は不変だ」


これは間違いなく、指導者としてだけでなく、人の上に立つものとして本当に大事な要素であろう。選手たちを信頼することである。選手を信頼する、と選手たちに伝えることが前述したような選手全員の無意識の頑張りにも大きく作用すると私は考える。選手個人にとってそれはプレッシャーでもあり、努力しようとする原動力ともなるのである。

エディー氏はそれまでの日本のラグビーのトレンドを大きく改め、それを果敢に実行した。エディー氏が掲げたプレイスタイルに対して、私を含め日本中のラグビーを知る人たちが疑問を抱いたはずだ、「ボールを一切蹴らない?それは無理やろう?」と。しかし、エディー氏は選手たちを信頼し、また選手たちもエディー氏を信頼し期待に応え、堂々とそのスタイルで日本一を手にした。サントリーのキャプテンの竹本選手は「完全に監督を信じてやれています。エディーさんの仕向ける力だと思います」とコメントしている。

グアルディオラ氏は国内リーグの試合(それまでチームは勝ち星こそは先行していたもののなかなか上昇気流に乗れなかった)で、それまでずっとレギュラーで出ていた主力の選手を全てベンチに置いて、若手や控え選手をメインにした。前半に同点ゴールを決められると、観客席からブーイングが鳴り響き始めた。しかしグアルディオラは一切顔色を変えず、終わってみれば見事4対2で勝利をおさめた。「チームの本当の強さを確かめたかった」とグアルディオラ氏はコメントしている。選手全員を信頼して臨んだからこその結果であろう。選手を常に信頼し、期待し続ける。これを徹底しないことには選手は指導者には応えてくれないということを二人は体現している。

また、二人に共通していることがもう1つある。それは、結果が出ないことは全て自分の責任です、と言い続けていることだ。チームの選手全員に素晴らしい才能があること、選手全員が努力を怠らないことを目の当たりにしているからこそ、それを指揮している自分に対しても責任感というプレッシャーを与えつつ、結果を出す。二人はある意味非常に男らしいのだ。

この項では選手を信頼することを前提にしてチームを作り上げることの大切さと、それに対する自分の責任を明確にし、選手だけで無く指導者である自分自身を“逃げれなく”することの大切さについて述べた。


6.考察

ここまでグアルディオラ氏とエディー氏についての考察を通じて、私は指導者とはかくあるべきかを二人から学んだ。二人の共通点を色々と挙げてきたが、私が特に興味を惹かれたのは2.独自のプレイスタイルへのこだわりについてである。二人の監督はいわば自己流を究極に追求、徹底し、チームを勝利に導いた。しかしその自己流と言うのも、最先端の情報とそれまでの経験、そしてチームの特徴全てを把握して綿密に練り上げられた自己流である。こだわりとは一歩間違えばただの監督のエゴになる。それがエゴにならないための手はずを全て用意し、選手にそれを理解させるためのシンプル、かつ明瞭な言葉遣いで自己流を浸透させ、二人は完全にチームを自分のものにして、自身が信頼する選手とともに栄光を掴んだ。二人はいわば、スポーツの指導者という点で本物のプロフェッショナルなのだと思った。

私は今現在も自分の専門であるラグビー関して、情報は常に最新のものを仕入れるようにし、自分の中にこれまで以上に知識を蓄えているつもりである。二人のようにまだ独自のラグビー哲学を得るまでには至っていないが、将来的には必ず自分なりの考え、こだわりを持って指導に当たりたいと考えている。

また、これらの学んだことはスポーツとしての指導だけでなく、英語教師としても十分活かせるものであると思う。自分流の授業スタイルに「こだわり」を持って、生徒を信頼し、また彼らを預かる身としての自分に責任を持って指導にあたることは優秀な教師としての資質に十分なりえるだろう。私は両氏から、スポーツだけでなく、「指導者」として大事なことを教わった。

最後に、このレポート中では両氏による数々の発言を紹介してきたが、その中でも私がもっとも心に残ったコメントを紹介して本レポートを終えたい。

エディー・ジョーンズ氏(現ラグビー日本代表監督)「あなたが何かを生み出すと反応があり、それがさらに新しい反応を生む。常に変化していくことがラグビーの魅力的なところ。ラグビーの進化はとどまるところを知らないのです」


エディー氏のラグビーへの愛情と情熱が非常によく表現されていると思いました。

グアルディオラ氏「結局、我々は見ている人たちに対してサッカーをしているのであって、選手たちにそれを意識してほしいと思っている。世界が君たちのサッカーを見ているんだ、と」


バルセロナは今や世界最高のクラブとして、見ている人みんなに感動を与えています。それを選手に意識させるための言葉として、本当に優れた言葉ではないでしょうか。

二人の監督がこれからどのように世界を動かしていくのか、本当に楽しみです。

参考文献

『グアルディオラのサッカー哲学 FCバルセロナを世界一に導いた監督術』ファン・カルロス・クベイロ、レオノール・ガジャルド著 今井健策訳 実業之日本社
『ラグビーマガジン』2011年5・8・10月号、2012年3月号 ベースボール・マガジン社
『ラグビーマガジン別冊冬季号2011*ラグビークリニック』ベースボール・マガジン社
『ラグビーマガジン別冊盛夏号2011*ラグビークリニック』ベースボール・マガジン社
『ラグビーマガジン別冊春季号2011*ラグビークリニック』ベースボール・マガジン社






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