2012年3月2日金曜日

3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料




このたび「生き方が見えてくる高校英語授業改革プロジェクト (代表者 : 三浦 孝 (静岡大学教育学部))」のお招きで、「英語教師の成長と『声』」という演題で講演をさせていただくことになりました。ツイッターなどでは告知しておりましたが、日時は3月4日(日) 10:00-15:30で、場所はキャンパスプラザ京都4F第4講義室です(詳細はこちら)。機会を与えてくださったことに感謝します。

今回は、英語教師が生徒を成長させ同時に自らも成長するということを、「声」という観点から、90分の時間をいただけたこともあって早口にならずに(笑)お話したく思います。敬愛する三浦孝先生 ―2008年の全国英語教育学界問題別討論会は大変勉強になりました― が代表をなさり、注目すべき若手研究者である亘理陽一さんが代表をする科研も絡んだ(注)企画なので、できるだけきちんとした発表にしなくてはと思っています。

主に、神経科学のAntonio Damasio (関連記事1関連記事2関連記事3)、野口体操の野口三千三(関連記事1関連記事2)、演劇家の竹内敏晴(関連記事は後日書く予定です)の三者を論拠としながら考察を進めてゆきます。野口三千三と竹内敏晴の論考を引用するだけでもよかったのですが、実践家に根本的な疑いをもっている「研究者」などは、それだけですとすぐに「根拠のない主観ですよね」などと冷たく切り捨てますので、これら二人の実践家の直感的(というより身体的)洞察は、神経科学的にも非常に妥当なことを言っていることを示すために最初にDamasioを引用することにしました。


当日の投影資料と配布資料をここからダウンロードできるようにしておきましたので、ご興味のある方はダウンロードしてください。




当日の講演録音も、下記から聞けるようにしました。




配布資料は概ね、以下のとおりです。




英語教師の成長と「声」



柳瀬陽介 (広島大学)



1 はじめに

・「田尻科研」:田尻先生のからだの使い方、庭師メタファー、「その人になる」

・「ナラティブ科研」:声のpower多様な声の重要性

・日常観察から:考えない・感じない・身につけることができない。担任の違いで成績に大きな差。教師と生徒はどのような「質」の声を発しているのか? 感覚の疎外と数字の跋扈 → 本格的質的研究を!(質的研究に関する私的ブックガイド

・二つの問い:(1)教師と生徒は、日本語を「自分のからだからの声」として発しているか; (2)教師と生徒は、英語を自分の「身につけて」いるか

・仮説:知性は身体的; 言語はからだの営み; 授業のことばがからだに響いていない

2 ダマシオの神経科学

・古典的ロボット観(=近代的身体観)と、生物学のオートポイエーシス

・意識は、非意識の身体が、身体状態の重要な変化を自らに知らせる過程である。

・身体的言語観:言語は、身体状態の変化の「翻訳」である。←→記号的言語観



意識

自己

身心

位数

非意識

原自己

情動、情動の感情

第一次の神経パターン

中核意識

中核自己

意識化された感情

第二次の意識パターン

拡張意識

自伝的自己

言語化された意識

第三次の言語パターン

※拡張意識・自伝的自己は言語を使用する場合が多いので、表のような表現としたが、ダマシオは言語なしの拡張意識・自伝的自己を認めていることには注意。

3 野口三千三の身体論・言語論

・感覚といえばすぐに外的な五感を想起するが、むしろ感覚の本質は身体内部の感覚である。

・「こころ」にとっては、非意識こそが本来的であり、意識は必要に応じて非意識が出現させるものにすぎない。

・ことば・声は、からだの中身の変化である。

・その生命にとって重要なからだの変化が情報である。情報は主観的(生命的)である。
・からだの動きは、ことばにつける付録ではない。

・習いはじめの外国語は、からだの動きと分断されている(身についていない)

・ことばを使う時、原初的なからだの動きを大切にし、かつ選ばれなかったことばの余韻も大切にしなければならない。


4 竹内敏晴の言語論・教育論

・生徒の声はしばしば単調で無機的な音に過ぎず、宙に散っていくだけである。

・生徒のからだはぐったりしたものが多いが、それは教師のからだに対応したものかもしれない。

・生徒に届く声をもてず、喉を痛めたり、ドラ声やカン高い声でしかしゃべれなくなったりする教師も少なくない。

・仮にビジネスでは声も感情も切り捨てた声でよいにせよ(私は疑うが)、教育の声はどうあるべきなのか。

・教師は生徒をしばしば分析と操作の対象とみなし、問題解決手段を執行することを教育とみなす。

・若い教師には、上から言われたことをなすだけになり、主体性を失った身心になる者もいる。

・しかし教えるとは、一人ひとりの生徒の身心を理解し、その身心が新たになる学びの瞬間を共有することである。

・教える教師は、同時に生徒に教えられる。主客分離の近代的発想は、二者がそれぞれに主体でも他者でもある、教える/学ぶ体験で克服される。

・日頃生徒を抑圧しておいて、教師が望む時だけ生徒に表現させようとするのは無理なことである。

・話しことばは、からだの動きの一部であり、その動きは他者への働きかけである。

・しかし原初的なからだのことばは、しばしば社会からはね返される。

・とはいえ、社会に通用する制度的言語は、なかなか生徒の身につかない。

・制度的言語に命を吹き込むのは、原初的なからだのことばの働きかけである。

・からだのことばと制度的言語の相克を引き受けるのが(近代的)人間になる道である。
・ことばは、からだから出て、からだに対峙し、からだに問いかける。

・ことばを使う時の、からだの違和感を忘れた時にことばの疎外が始まる。

・からだとことばを分けた朗読の練習というのはありえない。

・思わずからだが動き、気づいたらその動きが仲間と共有されたという自由を、教師は何より自分自身で得る必要がある。

・教師は教師だけではなかなか変われない。だが、(教師からすれば)他者としての生徒に、(生徒からすれば)他者の教師である自分を、まっすぐに差し出すことにより、変化が生じる ―生徒のからだが生きていれば―。



(注)今回のプロジェクトは、

平成23年度科学研究費助成事業 (学術研究助成基金助成金 (基盤研究 (C)))
・研究課題「知的・創造的英語コミュニケーション能力を伸ばす進学高校英語授業改革モデルの開発」 (課題番号23531265、研究代表者・亘理陽一)
・研究課題「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」 (課題番号21520577、研究代表者・柳瀬陽介)

が共催をしております。






追記

気がついてみたら、結論部分で引用するはずだった竹内敏晴の言葉を、投影資料にも配布資料にも入れていなかったので、ここに追記します。

「今こそ教育者ということの意味が、明治以後はじめて根底的に問われているのだと言ってもよい」などということばは、下手をすれば安っぽい常套句ですが、竹内氏の著作を読んだ上で彼の言葉として読むと、ずしりと響いてきます。

また、このことばはおそらく1990年代末に書かれたものでしょうが、2011年の3.11を経験した今読むと、一層、重みが出てきます。日本は、富国強兵で明治期に植民地化は逃れたかもしれないけれど、戦前民主主義の暴走により国内外の多くの生命を失い、国土の多くを焼け野原にしてしまいました。

戦後民主主義は経済発展重視で、「過労死」という言葉までも生み出しバブルまでも経験しましたが、バブルの幻想が弾けると、社会階層や世代間の格差が顕になってきました。

特に若い世代は、今や多くが非正規雇用で働かねばならず、正規雇用された若者もうつ病などの病に苦しむ人も少なからずいます。先日は、日本の自殺者が14年連続で3万人を超えたニュースが報道されました。東日本大震災の死者数を超える人びとが毎年自ら死を選んでいるわけです。

また科学技術の頂点のように思われていた原子力発電も、実は権益のためのごまかしに満ちたものであり、多くの科学者や技術者が述べていた程には安全なものでないことも顕になりました。

近代の世界においては、軍事力・経済力・科学技術力の追求は必要です。それらを増大させることが近代の課題でした。しかしそれらの飽くなき追求が、必ずしも幸福を意味しないことを私たちは悟り始めました。軍事力・経済力・科学技術力などの影の部分もずいぶん顕になりました。

いや、既得権益に首までつかった大人は、そんな近代批判を拒むかもしれません。そして近代を転覆させてしまったり完全否定したりすることができない以上、そのような大人の保守的態度にも一理はあるでしょう。

しかし自らの生命とからだに敏感な子どもは、理屈でなく自らの生命とからだをもって近代を批判します。

教師とは、そんな子どもに日々接することで、近代的な自分を問い直されつつ、近代(あるいはポスト近代)のあり方を、次世代を担う子どもと共に探究する存在です。教師は、子どもと共に「今」を生きながら、過去を学び、未来を築きます。教師として子ども・生徒・学生とともに、からだで感じ、からだで考えて、ことばを紡ぎ出してゆきたいと思います。



この絶望に抗い、反乱したからだを内的な調和にまで持ち来たし、「人間になる」仕事を粘り強く手助けしようとしている教員たちが各地にいることも、多少は私も知っている。かれらは、その意味では、この、からだの荒野であるところの日本の教育界に、いわば魂の泉をひらく先駆者たちであるといえるだろう。今こそ教育者ということの意味が、明治以後はじめて根底的に問われているのだと言ってもよい。かれらだけではない。いのちを育て、癒えを助ける人びと -- そこには文字文化の表に出ない生活の根っこに、「からだ」から「からだ」へと脈々と生きつづけるからだと話しことばの文化がある。私は及ばずながらかれらに学び、共に働きたい。課題はいよいよ重く深く広い。(竹内 1999, 24)



ちなみにこの竹内氏の言葉は、ちくま学芸文庫として1999年に出版された『教師のためのからだとことば考』からのものです。

竹内氏の著書としては、『ことばが劈(ひら)かれるとき』が圧倒的に有名ですし、また実際、素晴らしい本ですが、教師がまず一冊だけ竹内氏の著作を読むとすれば、私はやはり『教師のためのからだとことば考』がいいのではないかと思います。










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