■NT君による「言語、文法の時間的な理解」(全文)
言語、文法の時間的な理解
今回の一連の講義の最後の方で出てきたものに「学習文法」というものがあります。これは、従来学校などで教えられてきたり、「文法書」などを見たりすればその説明を読むことができる「伝統文法」に対置されるものです。しかし、正直に言うとはじめて学習文法の説明を受けた時は「学習文法、学習文法と言うのはいいけれど、それが含む具体的な内容については何一つ説明がないな」という印象を私は受けました。ただ、文法の説明の仕方に関する具体例の説明を聞いて、少し腑に落ちました。これは、私の理解では文法の空間的な説明と時間的な説明との対比であると理解しました。このレポートではここから話をはじめて、文法や言語の時間的な理解について考えていきます。
文法の空間的な説明
さて、文法の空間的な説明というのは例えばこんな感じです。「××は主語だから、その右に動詞○○が来ている。その右に・・・」「動詞の隣には目的語が・・・」こうした説明の中に「右」「隣」という空間的な言葉が使われていることからもわかる通り、これは空間的な文法の説明です。
このような説明の欠点の一つは、教える側が最終的に伝えられる情報が、その文章の意味に加えて、そのトポロジーに限られてしまうということです。ここでトポロジーとは、ある文章において、その文章を構成する語群の機能に即した、「文法的に正しい」配置の情報のことです。たとえば“The quick brown fox jumps over the lazy dog.”
という文章があるとすれば、そのトポロジーの一つの例として“The quick brown fox (動作の主体)/ jumps over(動作) / the lazy dog(動作の対象).”
という感じで分節したものが考えられます。もちろん、これよりも細かいものを考えることもできるでしょう。受験参考書の中にもこのような感じで英文を分節するテクニックを説いているものがあります。確かにこうすれば文意を正確に理解できるのかもしれませんし、そうすれば志望校に受かりやすくなるのかもしれません。
けれども、このような空間的な文法の説明には、実際に発話される文章が生成される過程、そしてそれを受け手が理解する過程のダイナミクスを見落としてしまっているという点で非常に問題があります。このダイナミクスを理解し体得するための手掛かりは、空間的に言語を説明する文法の中にはおそらくありません。その傍証として、「英文を読むことはできるとしても、喋るのは(読むのに比べたら)苦手あるいはほとんどできない」という人間(私自身を含む)を日本の英語教育が生み出しつづけてきたという事実(多分)があります。
時間的な文法の説明
一方で、時間的な文法の説明とは「まず誰が何をどうするかの誰をいうねん」「そしたらな、英語ではその次に動作を表す語がきて、そしたら今度は・・・」というようなものです。
このような説明は、空間的な説明に対して、ある言語の文章が(話し手の立場からすると)生成され、(聞き手の立場からすると)理解されるダイナミックな過程を記述するものです。人間が言語というものを発明した瞬間からそれをどのように使っていたかを考えると、おそらく言語とは本質的には時間論的な現象です。したがって、ある言語を習得するために必要な「文法=言語という知識」というものもまた発話/理解のダイナミクスあるいは時間発展を記述するべきもののはずです。そしてそれこそが来るべき「学習文法」の中核になるべきではないかと私は考えます。
時間的な現象としての言語
時間という観点から言語という現象をとらえることで、たとえば「母語話者がほとんど無意識のうちに次から次へどその言語の文章を語りつづけることができる」理由を与えることができるのではないかと考えます。以下では、このことについて私論を述べてみたいと思います。
「母語話者がほとんど無意識のうちに次から次へどその言語の文章を語りつづけることができる」理由として、しばしば与えられる説明の一つは「十分な訓練・経験を積むことで、無意識的に(意識することなく)それが行えるようになった」というものです。しかしこれでは、
1) どのような種類の訓練/経験が必要かわからない
2) 無意識的にできるから、無意識的にできるのだというのは十分な説明ではない
という意味で問題が残ります。2)について今回提示したい仮説は
(意識することなく)語りつづけることができる
= 語るべき内容を時間的に先取できる
ということではないか、ということです。おそらく人間はその母語を習得する過程でまず体得するのが、先に挙げたような発話と理解のダイナミクスです。そしてそのダイナミクスを体得した上で、語彙やフレーズがある程度まで蓄積されると、それらが「口をついて出てくる」ということが可能になってくるのではないかと考えられます。これらのことを非常に大雑把にまとめてしまえば「言語の習得とは、言語的な時間操作の技術の習得である」と言うことができます。このようなことを、特に「詩」について着目した文章があります。
アナグラムと押韻は「あまりにふつうに行われているので、それについて誰も主題的に論じることのない詩法」である。
どうして、それは主題的に論じられないのか。
私の仮説はこうだ。
それはこの二つがいずれも「時間をフライングすること」だからである。
福原は吉川のこの問いの前の書簡で、英詩人の押韻についてこう書いている。「そこで私は、英国の詩人たちに、韻(ライム)は、君達にとってどうなのだと、いく人かに聞いてみたことがあります。(・・・)韻を踏む必要があるため に、自然、内容を制限されて、言いたいことも十分言えず、また余計なことばを加えて不自然になることもあるのではないか、と訊ねたのでした。例えば、ファ ウンテン(泉)という語を使うと、どうしても、それに押韻してマウンテン(山)という語をあとで使わざるを得なくなるだろう、そうするとどうしても詩的感 興の自由な正直な表現を欠くに至るだろうと申しました。すると彼らの一人が非常に適切な返事をしてくれました。『それはそうだけれどね、』と彼は答えたの でした。『ぼくたちはカプレット(二行並韻)を書くときは、二行一しょに考えているんだよ。』」(13頁)
「なぜ韻を踏むのか」を説く詩学が存在しないのは、「なぜアナグラムが存在するのか」を説く詩学が存在しないのと同じ理由による。
それは私たちが実は時間をフライングして未来にゆけるのだが、そのことをうまく説明できる「時間論」をまだ持っていないからである。
(「翻訳についての二つの対話」 内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2009/02/27_1053.php)
内田樹は「詩法とは、時間をフライングする技術」であると言います。
「二行並韻はいっしょに来る」というのは、押韻している行は同時に構想されているということである。例えばシェークスピア。
O! she doth teach the torches to burn bright.
It seems she hangs upon the cheek of night
Like a rich jewel in an Ethiop’s ear;
Beauty too rich for use, for earth too dear!
So shows a snowy dove trooping with crows,
As yonder lady o’er her fellows shows.
おお、燈火はあの娘に輝く術を教わるがいい!
黒人の耳を飾る目映い宝石さながら夜の頬に輝いている
手に取るにはあまりに美しい、この世のものとは思えぬ!
雪を欺く白鳩が烏の群れに降り立ったのか、
娘たちに立ち混じり一際燦然と輝くあの美しさ
(『ロミオとジュリエット』、福田恆存訳)
この6行では、bright と night, ear と dear, crows とshows が韻を踏んでいるわけであるが、シェークスピアはこれを二行ずつ書いていた、ということである。
つまり、一行目の最後がbright 「だったから」二行目の最後は同音の単語をスキャンして、nightをみつけたという時間の流れではなく、bright とnight は詩人に「同時に到来した」ということである。
同時に到来した二つの語を、シェークスピアは(どっちが先がいいかなと考えて)二行のそれぞれの末尾に配当したのである。
たぶん。
末尾の韻だけではない。
他の語や文字も、どれも実際には詩人の「詩魂」には同時に到来しているのだと私は思う。
(「人間的時間」 内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2009/02/28_1013.php)
詩人というものは、彼らの言語を扱うことにかけては詩人でないものの追随を決して許さない技術を持っています。日本語だろうと英語だろうと中国語だろうと、それぞれの仕方で他の言語話者には真似できない独自のやり方を誇っています。しかしその根本である「時間をフライングする」という技術は、詩人としての訓練をつむことによってしか得られないものでは決してなく、むしろその原型は、人間がはじめにその母語を習得する過程の中で自然に育まれているものではないでしょうか。おそらく、人が特に意識することなく
“The quick brown fox jumps over the lazy dog.”
という言葉を自然に発話するときには、まさに最初の口を開いた段階でその人の脳内には、実はこの文章のほとんどすべての部分が既に到来しているのでしょう。あとは、それを解凍して順番に発音するだけです。その内容もほぼ自在に変更することができます。たとえば
“The quick brown fox jumps over the lazy … cat!”
などと変えてしまうということも自然にできるはずです。このようにして、詩人も詩人でないものも「時間をフライング」しながら、日々言語を操っていることになります。これが「特に意識することなく言語を操作できる」という現象の一つの正体ではないでしょうか。
そして、このようなことをたとえば外国語話者として行えるようになるためには、やはり「言語生成/理解のダイナミクス」の理解を目指すことが大切ではないかと考えます。
■MTさんによる「『私』と『他者』」(全文)
「私」と「他者」
1.はじめに
今季の授業において最も難しかったが、それと同時に私が面白いと感じた題材は、ウィトゲンシュタインである。さらに、今回のこのレポートのテーマを考えるにあたって、ウィトゲンシュタインの哲学について触れている論文を探してみたところ、ウィトゲンシュタインの論文を引用する哲学者のひとつの特徴として、デカルト的二元主義(心と身体とを独立したものとみなす考え方)の克服への試みがあるということがわかった。
私たちが何気なしに使う「心とからだ」、「心の中」という言葉にも、デカルト主義的見方が潜んでいる。しかし、普段の私たちの生活において、他者との関わりをもたない「私」、あるいは社会との関わりをもたない「私」といったものは、考えることは難しい。そこでここでは、「『私であること』とは一体どういうことなのか」ということについて、いくつかのそれに関連した論文に触れながら、考えていきたい。
2.「私」とは
「私」の2つの用法
ウィトゲンシュタインは「私」という表現の「客観としての用法」(the use as object)と「主観としての用法」(the use as subject)を区別している。たとえば「私は3cm背が伸びた」とか「私の目の下にホクロがある」などというのは前者の用法であり、「私は山が見える」とか「私は足が痛い」は後者の用法である。前者は特定の人格が存在することを含んでおり、その人格が異なるという可能性をはらんでいる。例えば、鏡に映っている他人の目の下のホクロを自分のホクロだと取り違えることは可能性としてあり得る。一方で、「私は足が痛い」という場合、そこに人格の帰属先の問題はなく、その言及において他者と自分を取り違えるという可能性はあり得ないとウィトゲンシュタインは指摘している。
アンスコムの『第一人称』
アンスコムは「私」という表現の独特の機能を、他の人称代名詞や固有名詞、指示代名詞との比較を通して明らかにしている。以下はその要約である。
(1)「私」という表現は文法的に言えば人称代名詞である。しかし、「私」について命令することはできないという「主観としての用法」から考えると、「私」という第一人称は、三人称代名詞とは機能を異にする。
(2)また、「私」は代名詞でもない。私たちは他人の言動について「Xは~している」というように、Xを観察することによって代名詞Xを用いて事態を描写する。しかし、私たちはそのように観察に基づいて「私は手紙を書いている」とか「私はイスに座っている」と主張しているわけではない。私たちは「自己意識」に基づき、自己を「私」と呼ぶ。
(3)アンスコムによれば、「私」をめぐる混乱の源泉は、「私」が対象を指示すると考えてきたことにある。指示代名詞のように指示されている者が存在し、それをつきとめることが私とか自己の実態を解明することだと考えられてきたのである。その基準を最もよく満たすのがデカルト的自我であるが、もしそれが幻想の産物であるとしたら、「私」は対象指示表現ではない、としなければならない。したがって、「私はアンスコムである」という命題は同一性を表す命題ではない、というのがアンスコムの結論である。
「観察に基づかない知識」
アンスコムは、「自己意識とは自己についての意識ではなく、しかじかのことが自分に生じているという意識である」と定義し、「私はイスに座っている」、「私は立ちあがった」というような言葉で表されるものを「私-思考(I-thought)」と呼んだ。彼はこの、ウィトゲンシュタインで言う「客観としての用法」を通して自己意識を規定する理由を、以下のように述べる。
「私が行為、身体的状態、運動、意志行為の思考のみを取り上げる理由は、これらの思考のみが直接的で、非観察的であるとともに、人物アンスコムについて直接的に検証あるいは反証できる記述だからである。私自身を含め、誰でもその人物が立っているかどうか見ることができる」。
つまり、「私-思考」とは、私自身も「私は立ちあがった」と認識でき、また、他の人々も観察によって「Xが立ちあがった」と確かめることができる事態についての意識なのである。
この考え方は、アンスコムの身体論につながるものがあり、彼は「私の体」という表現には2つの用法があるとした。ひとつは観察の対象としての身体であり、もうひとつは私が観察に基づかないで知っている身体である。確かに私たちは鏡やレントゲンなどを通して自分の身体を観察している。しかし同時に、他人が私の身体を観察するのとは全く異なる仕方で自分の身体に関わってもいる。私たちは自分の身体の状態や動作を、五感を通して捉えているわけではないということである。これをアンスコムは「観察に基づかない知識」と呼び、「この身体が私の身体である」と言えることの理由として、「私は立ちあがった」という「私-思考」がこの身体によって観察され、検証されるからだとした。
3.「他者」とは
他者の存在の問題
永井均によると、「他者とは決して到達することのできないもうひとつの世界(の原点)であり、理解しあることも、助け合うことも、ついには不可能な、無限の距離をへだてた、あまりにも遠い隣人」である。それに対し山田友幸は、他者に対する到達不可能性と理解不可能性を重ねてしまい、理解可能な「他人」と到達不可能な「他人」を分断しようとする点に反対している。
通常の他我問題は、「隣人たちに囲まれて、世界の中に存在している」ということを出発点とする。しかし、永井によれば、他我認識の問題においては他者の存在が出発点において暗黙のうちに前提されているが、他者の問題においては、「問題はむしろ、その暗黙の前提がいかにして成立したか」にある。他者の問題の出発点となるのは、「私」は、「世界の―部分ではなく―限界」であり、同時にまた「世界とは私の世界である」という考え方である。したがって、ここで「私」は「私」の世界の中に登場する他人たちとはまったく異なり、この世界の中に登場しない。他人たちは皆この世界の中に登場するのに、「私」だけはこの世界に登場せず、その限界に存在するという点で特別なのである。永井によれば、誰もが「世界の―部分ではなくて―限界」であり、「世界とは私の世界である」と主張できるのではないかという問いが問われる。そこで、「誰もが世界の限界である世界」を想定することが不可避になるが、この「誰もが世界の限界である世界」と、初めに前提としていた「隣人たちに囲まれた世界」というのがしばしば同一視されてしまうこともまた不可避であると言う。
そこで永井は、次のように結論する。「他者とは、いつもつねに、隣人を持たないものの隣人である。それは、決して到達することのできない、根本的に異質な、もうひとつの世界(の原点)であり、理解しあることも、助け合うことも、ついには不可能な、無限の距離をへだてた、あまりにも遠い隣人なのである。<魂>に対する態度とは、それゆえ、それに向かって態度をとることができないものに対する、愛や共感や理解を越えた態度なのであった。」
永井は「他者とは、そもそも到達不可能なもの、認識不可能なもののこと」とみなしているが、この見解は他我問題をめぐる永井の見解と表裏一体をなしている。彼によれば、「なんらかのしかたで他我認識の十全性を証明することによって他我の存在を根拠づけ、独我論を論駁しようと努める」こと「によっては、他我の存在の承認にいたることは不可能である」。「それはまったく逆向きの努力」であり、「その種の努力は、むしろはじめから他我をその他我性においては否定している」。永井にとっては、「他我の存在を承認することは自分にとっては究極のところ不可知であるものの存在を承認すること」なのである。
永井が「他者」を実践的な関わりも不可能な「あまりにも遠い隣人」として語るのは、「他者」の理解可能性を主張することが他我の他我性を否定することに通ずるとみなしているからである。
他我問題の純化
永井は「かりにわれわれがなんらかのしかたで他人の心のなかに起こるすべてのことを即座にかつ確実に知りうるとしても、その知り方が自分自身の心のなかに関する知り方と異なってさえいれば、独我論は生じうるのではあるまいか」と述べている。この「私」の独我論が「自己であることと他者であることの存在論的な差異のみから生じ得るのではあるまいか」という問題意識の背景には、次のような指摘がある。
「ある人が別の人の心理的状態を体験することができないというのは経験的な事実の問題なのではない。それは論理的・概念的な問題、ウィトゲンシュタイン風に言えば文法問題なのであって、ある人がどのような体験をしても(どのような心理状態になっても)、われわれはその人が別の人の心理状態を体験したとは認めないのである。」
他者はどこにいるのか
永井は、「私の「世界に対する態度」の一部」であるようなものを他者と呼ぶに値しないとみなした。ここで注意すべきなのは、他者の到達不可能性を認めるためには、他者と私の間に文字通りの意味で「無限の距離」を想定することは必要ではないという点である。他者の体験は、彼が現実世界においてどれほど私の近くにいようとも、私が何を体験しても、その体験が彼の体験の体験であると認められることがないという意味で、私には到達不可能であることができるからである。
さいごに
以上、主にアンスコムと永井の「私」と「他者」についての見解について見てきたが、未だ「私とは何なのか」、「私と他者との違いは何なのか」という点については論争が尽きないようである。今回の考察においては明確に「私」と「他者」について定義することはできなかったが、このレポートを通して「私」という表現の二元性や、「他者」と「私」の境界線について改めて哲学的に見ていくことができた。
上にも記したように、ウィトゲンシュタインは「私」という表現の「主観としての用法」と「客観としての用法」という2つの用法を指摘した。これは私にとってまったく新しい考えであり、興味深いものであった。私が「私は身長160cmである」といえば、それはアンスコム風に言えば私が見ても、他者が見ても160cmであることを表しており、観察によって検証可能な、物理的な事態である。これは哲学に馴染みのない私たちにも、「私が私である所以」として分かりやすいだろう。
しかし、「客観としての用法」については少し注意しなければならない。たとえば「私は○○について考えている」と言ったとき、どうしてその「考える」といった述語が「私」に帰属していると言えるのだろうか。デカルト的二元論は、そういった意識の状態と、物理的性質はまったく別の主体に属する述語であるとしている。つまり、私たちが普通同じものとして考え、使用している「私」は、実は異なった2つの主体であるかもしれないということである。それが正しいとするなら、本当の「私」とは一体どちらの主体を指すのだろうか、そもそも「本当の「私」」とはどういうことなのだろうか、といった疑問が残った。
先ほどの例で用いた「考える」という行為も、確かに他者には観察によって認めることができない事態ではあるが、結局は「私」の頭、脳が「考えて」いるのであり、物理的なものとして考えることはできないのだろうか。もし「考える」や「意図している」といった意識の状態として考えられているものを、物理的性質として捉えることができるなら、「主観」と「客観」の2つの主格の帰属性の問題も解決できるのではないだろうか。
また、「他者」についてであるが、永井の「他者の到達不可能性」には納得できるものがあると感じた。たとえば他者が「お腹が痛い」と言ったとする。腹痛というのは誰にでも起こり得ることで、「私」も「お腹が痛い」という体験をする可能性は十分ある。しかし、その「私」の体験というのは、「お腹が痛い」と言っている他者の追体験であるとは認められることはどうしても不可能である。というのも、「彼はお腹が痛い」ということを知るのと、「私はお腹が痛い」ということを知るのとでは、「お腹が痛い」という心の中の状態に対する関わり方が異なるからである。そういった意味で、他者とは永久に到達不可能なものであると言えるだろう。しかし、この永井の考えに対しても「到達不可能な他者が存在するならば、それは実践的な関わりの相手とするには役不足である(現実世界において実践的な関わりの相手とするに足る存在には出会えないことになってしまう)」というような反論もあり、課題として残されているようである。
参考文献
『ウィトゲンシュタイン以後』飯田隆、土屋俊編
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