2012年2月21日火曜日

野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判




武術ヲタとしての興味関心で「野口体操」で知られる野口三千三(のぐち・みちぞう)氏の著作を、約20年ぶりに読み返したら、まあ、驚くほど面白かったです。私などが不器用に武術の稽古で模索している事が明確に言語化されており、神経科学のAntonio Damasioが述べている意識・非意識の構造が直観的に見事に語られており、言語についても私が薄ぼんやりと最近感じ始めていたことが明瞭に(神経科学的知見とも適う形で)述べられ、ポスト近代的な批判的考察も約40年前になされていました。まあ、すごい人というものはいるものだ、と感嘆せざるを得ません(私は野口氏の深さを20年前にはほとんど理解できていませんでした)。

とりあえず持っていなかった主要文献はすべて手に入れ、読み始めたらもう止まりません。一読した後で、アンダーラインを引いた箇所をノートに書き写していったらその分量は、2万字(原稿用紙50枚)以上になりました。そのうち、ここでは武術的関心ではなく、言語教育的関心から興味深いと思われる引用をごく一部だけご紹介します。(というより、この記事は、3月4日の京都での講演(生き方が見えてくる高校英語授業改革プロジェクト・シンポジウム「Intelligenceを高める英語教育を求めて」)と、3月11日のJALT広島支部での講演(Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts))の下準備です)。



■身体で納得しない限り言葉を発さない実践家

野口氏の経歴に関しては、自然の中で育ったこと、貧乏の中で猛勉強し優秀な成績で認められ東京体育専門学校助教授になったこと、敗戦で精神的虚脱に陥ったこと、身体を病み体育教師としては再起できないとまで思われていた中で、後年「野口体操」として知られるようになる身体運動を見出したこと、東京芸術大学で様々な出会いをしたこと、などなどたくさん述べるべきことがありますが、ここでは「野口体操」を見出した頃の以下の言葉だけを引用します。


今迄のすべての体操を、そしてその体操をとおして生きるという生き方を全部捨ててしまおう。他人がどう言ったとか、昔の人がどう言ったとか、そんなことはどうでもいい。とにかく、自分の信じられることだけ、自分が確かめられることだけで再構築していこう。これこそ今からの自分の生きる生き方だ、という確信が知らず知らずのうちに固まってきたのです。(野口 1977, 35)


3.11以降、多くの人が生き方を変えたと思いますが、太平洋戦争の焼け野原とその後の病気という強烈な体験は、野口氏の生き方を徹底的に鍛えたように思えます。私は現場で徹底的に具体的に考える実践家を尊敬していますが、野口氏はそのような実践家の中でも超一流の方であったと思います。



■運動の主動力は筋肉でなく重力。筋肉の働きは受容・調整・伝達

空手では、新垣清先生の『沖縄武道空手の極意―今よみがえる沖縄古伝空手の極意』の四冊シリーズが、空手の力は重力を主とするものであることを、理論的にも具体的にも詳しく示していますが、野口氏も「動き」とはまさに「重」さの「力」(「重」+「力」=「動」)であることを明確に述べています。

地球上でからだの動きの原動力は、からだの重さが筋肉の収縮力よりも、より基礎的で重要なものである。重さは意識しようがしまいが、望もうが望むまいが、たえず地球の中心の方向へ働きつづけている。重さがあってはじめて動きが成り立つのである。 (野口 2003, 270)

野口氏は、筋肉の働きとは、重力(と身体構造との関係)によって生じる力を受容・調整・伝達することだと述べます。



意識と筋肉とをもった人間が、からだの動きにおいて犯す最大の誤りは、動きの主動力が筋肉の緊張収縮だと思いこんで(意識)いることだ。筋肉の収縮力の主な役割は動きの主動力をつくり出すことではなく、動きのきっかけをつくり出すこと(平衡関係を崩すこと)、動きを収めること(新しい平衡関係へと導くこと)、増幅・調整することなのだ。更に大切なことは、他の部分から伝えられてきた情報(エネルギー・重さ)を受け取り、筋肉自体を導管・導線として次の部分に伝える。その間に適切な増幅・調整をするという仕事なのだ。この情報(重さ・エネルギー)の受容・伝導の能力の重大さを気づいていないこと、したがって、その能力の訓練をしていないことが大変重大な問題なのだ。(野口 1977, 224)




■運動能力とは差異を活かす能力

運動能力が高いことを、私たちはしばしば「運動神経がいい」と呼び、あたかも脳の一方的な指令がきちんと身体に伝わることこそが運動能力であるように考えます。しかし野口氏によれば、運動能力とは、身体の平衡関係を崩すことによって生じた重力の力を身体の中で精妙に感知し、その力がもっとも効率よく伝わる身体状態を次々に見出すことができる力です。

私は今ある武術を教えていただいている中で「力を抜いた動き」を教えられながらなかなか体得できませんが、その武術的な動きの記述としても、次の引用は膝をうちたいぐらいに得心できるものでした。


運動能力が高いということは、その動きに必要な状態の差異を、自分のからだのなかに、自由に創り出すことのできる能力である。自分のからだのなかにその動きに最適なエネルギーの通り道を空けることでもある。(羽鳥 2002, 60) および(羽鳥 2004, 28)




■意識のなすべきことは、非意識的身体がよく働く環境を準備すること

武術的関心からしますと他にも「生卵のように立つ」や「両側がどんなに重かろうと天秤の均衡は小指一本で崩すことができる」、あるいは「極小部分・極短時間・極小エネルギーの緊張」とか、「動きのエネルギーの主力は、空間的には、直接仕事をするある部分よりも、より地球に接する所(足場)に近い部分から出し、時間的には、仕事をするときよりも、より前の時間に出されていなければならない」とかなどなど紹介したいことはたくさんありますが、著作権とこのブログの性格を考え、ここからは意識論の紹介に移ってゆきます(野口氏の武術的といってもいい運動論の要約は、野口 (2003, 270-272) にまとめられています)。

武術でも外国語学習でも、私たちは意識を使ってうまく身体を動かそうとしますが、意識は身体の直接の主人ではないと野口氏は考えます。神経科学や神経倫理学(neuroethics)でも、意識(自由意志)と身体の関係を「象の上に乗っている少年と、乗られている象」や「飼い主と犬」の関係にたとえたりします。少年が本当にぎこちなく間接的にしか象を操れないように、あるいは飼い主が犬の行動を完全にはコントロールできないように(しかし飼い主は犬の行動に対して責任を負わなければならないように)、意識(自由意志)は身体の動きを間接的できわめて拙いやり方でしか制御できませんがとりあえずはagencyのありかとされています(意識の身体に対する不如意な関係はanomalous monism (Stanford Encyclopedia of Philosophy, Wikipedia) の考え方がうまく説明しているのではないかと私は考えています)。というより、むしろ意識(自由意志)が身体に対してできることは、身体が活動しやすい環境を整えることだけのようにも思えてきます。少なくとも第一言語獲得に関してはチョムスキーも同じようなことを述べていますが、私は第二言語獲得に関しても意識の限定性をきちんと考えるべきだと思っています。


意識的にやるとうまくいかない、ということは当然のことで「人間はもともと意識で思うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ」ということであり、「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」というところに、問題の鍵がひそんでいるのである。(野口 2003, 255)




■「心」の常態は非意識。意識は心の特別態。

私たちの多くはデカルト以来、自意識こそがすべての根底のように考える枠組みの中で生きていますが、神経科学が言うように、私たちの存在と活動の基盤は非意識的心身であり、意識はその非意識的心身の特別態だと考えるべきなのかもしれません。下も野口氏の言葉です(注:細かい話になりますが、下の「自己」の定義はDamasioの定義とは異なります)。


こころの主体は意識ではなく、非意識の自己の総体である。意識・意志・・・は、その非意識の作り出した道具であり機械である。(野口 2003, 48)


「意識と非意識」と言えば、前者が常態で後者が特別態のようにも思えますが、むしろDaniel KahnemanがThinking, Fast and Slowで述べるように、非意識の働きの方をSystem 1、意識の働きの方をSystem 2として、非意識(System 1) の先発性を常に明確に意識した方がいいのかもしれません。


私は、意識的自己というのは、生きものにとってむしろ特殊な存在状態であって、非意識的自己とは、その特殊な意識的自己という状態を除いたきわめて広いすべてを含んだもので、特別に下とか前とか深い所とかに限定されるものではなく、自分という存在状態にとって、いつでもどこでも遍満して在るというべきものだと考えている。意識はこの非意識的自己が必要とするとき、いつでもみずからの力により、みずからの中に創り出し、必要がなくなった時には再び非意識的自己の総体の中に吸収されるもので、意識は非意識的自己のひとつの存在様式と考えるべきだと思う。実際には意識という働きの必要性が絶えず起こっては消え、消えては起こるので、一定の意識というものが存在しているように、意識の状態にある非意識が意識するだけのことであろう。(野口 2003, 50-51)




■身体こそ自己の基盤

非意識が心身の基盤とはいえ、意識が重要な働きをすることは否定できません。しかしその意識とは、デカルトが考えたように非物理的存在ではなく、身体という物理的基盤で生じるものです。Damasioも言うように、身体(の状態の変化)こそが意識の基盤です。


からだを通して感じられる「実感」に基づいた自己の感覚を「身体的自己」とするならば、これこそが「私が私である」という意識の基盤となるものだという確信を、私は野口体操を通して発見することができた。(羽鳥 2003, 40)




■言語の基盤も身体

意識の基盤が身体であるのですから、意識を伴う言語も、その起源は身体にあります。身体の変化・動きこそが言語になって立ち上がってくるのです。


すべてのことば(抽象言語をふくむ)は、その発生をたどると、必ずからだの直接体験にたどりつく。(野口 2003, 5)




■言語はからだの動きの一部

日頃私たちは言語の記号性ばかり考えて、言語をもっぱら抽象的に考えてしまいます。しかし言語は身体の動きの表れなのですから、言語は、身体内部の蠢き・身体全体の動きの一部、呼吸と発声で顕在化された身体の現れと考えるべきでしょう。言語は身体全体の動きとともにはじめて十全に理解されます。


私は、音声言語・文字言語だけが言葉ではなく、からだの動きもことばであると考えている。そして、身ぶり、手ぶり、顔の表情などのように、外側に大きく、はっきり現れるものだけがからだの動きではない、とも考えている。身ぶりの本質は、心や内臓も含めたからだの中身の変化である。(中略)自己の中の原初生命体の情報という意味で「原初情報」と呼ぶのがふさわしいと私は思う。
 この原初情報がことばを必要とするときに初めて、ことばを選ぶ作業が開始され、そのことによって初めて意識の世界のものとなる。そして、ある言葉が選ばれる(内言)と、新しいからだの変化・動きが生まれてだんだん育ち、呼吸・発声となり、いわゆる音声言語(外言)となって現われる。からだの動きはもともとことばにつける付録ではなく、動きもことばそれ自体なのである。思考の便宜上、ことばと動きを分けていうならば、ことばはからだの動きであり、からだの動きはことばであると言える。もしこう言いきれないとすれば、その人にとってそのことばは、習いはじめの外国語のようなものであると言えよう。すべてのことばは必ずからだの動きを内に含み、それぞれのことばが内臓の働きや筋肉の運動その他、行動へのエネルギーをもち、独特な肉体感覚をもっているのである。(野口 2003, 224-225)




■言語的感性と身体的感性

人は身体の変化を言葉にします。言葉は一刻に一語しか述べられませんが、その一語が立ち現れるまでの身体の蠢き・動きの内的感覚を私たちは大切にするべきでしょう。言葉を大切にするというのは、言葉に伴う身体の変化 ―ほとんどは内的で微細で精妙な変化― に対して鋭敏であるということでしょう。


ことばを大切にするということは、ことばを選んでしまった後で(動きを選んでしまった後で)、そのことば(動き)をいくら大切にしても、もうおそい。ほんとうにことばを大切にするためには、ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。何かを選ぶということは、それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、捨ててしまったものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。その姿勢があるとき、それが選ばれたことばを発するときのからだの中身のあり方を決定し、その中身のあり方によってからだの動きが生まれ、捨てられたものをも含むような呼吸・発声となり、そのことばの微妙なニュアンスを含ませるものとなるのだと言えよう。(野口 2003, 225-226)



■近代の問い直し(ポスト近代的思考)

このような身体論・意識論・言語論をもつ野口氏は「近代」に対しても鵜呑みにしようとせず、批判的態度を保ちます。以下は、野口氏が警戒するものです(原文では、それぞれの項目に対して「~の誤り」と書いてありますが、「誤り」というのは断定的すぎるのではないかと私は考えましたので、下の引用からは削除しています。


(1) 「理性・意識(意志)」至上主義
(2) 「共通・普遍」至上主義
(3) 「論理・科学・学問」絶対主義
(4) 「分析・計測・数値・統計」偏重主義
(5) 「絶対値・最大値・平均値」偏重主義
(6) 「欧米先進」至上主義
(7) オリンピック競技的在り方
(8) 二元論及び二分法的発想、線形論理(野口 2003, 285)




■競争原理の問い直し

近代的発想の一貫として、野口氏は「競争原理」に対しても批判的態度を保ちます。教育界でも「競争原理」がますます無批判的に称揚されようとしている昨今、野口氏の言葉に耳を傾けることは重要であると考えます。


「競争原理がすべていけない」ということではない、ということを念頭に次の話を聞いてください。まず、基準がなければ競争は成り立たない。スポーツの競争原理を成り立たせているのは、数字で測れる時間・巻尺で測れる空間の距離なんです。そうして得られる「一つの価値基準」のなかで一番を競う。それ以外の言葉にできないものはとらない。そうして得られる「一つの価値基準」のなかで一番を競う。それ以外の言葉にできないものはとらない。数字やグラフに表せないものは切り捨てるわけです。基準にしていることが、人間の運動能力のうちから、極めて狭い範囲、それも極めて抽象的な概念によって抽出されたことだ、ということに気づかなくなっているんです。より高く・より速く・より強く・より大きく、というギネスブック・オリンピック的価値観に「感覚汚染」されているんです。確かに競争原理は、勝つか負けるかしかないわけだから、はっきりしていますよね。そこが落とし穴なんです。そうした価値観による競争原理が、教育の場に入り込むのは相応しくない、と誰にもはっきり理解されながらも、尚且つ、競争原理に押し切られている。(羽鳥 2002, 328-329)




と、野口氏の著作のほんの一部を引用して紹介しましたが、私としては私の拙い紹介がかえって野口氏の著作の真価を損ねてしまうことを怖れます。少しでも興味をもった方は、ぜひ下も参考にして、野口氏の著作(および動画)に接して下さい。竹内敏晴氏も影響を受けるだけあって、本当に深い人です。




■文献情報

・羽鳥操(2003)『野口体操入門』岩波アクティブ新書
・羽鳥操・松尾哲矢(2007)『身体感覚をひらく』岩波ジュニア新書
↑野口体操への入門書として最適。

・野口三千三(2003)『原初生命体としての人間 野口体操の理論』岩波現代文庫(1972年に三笠書房より出版。1996年に改訂版が岩波書店・同時代ライブラリー版として出版)
↑野口氏の主著。野口氏に興味があるなら必読。

・羽鳥操(2002)『野口体操 感覚こそ力』春秋社
・羽鳥操(2004)『野口体操 ことばに貞く』春秋社
↑野口氏の弟子である羽鳥氏によってまとめられた本で、野口氏の言葉が多く掲載され、解説されてある。

・野口三千三(1977)『野口体操 からだに貞(き)く』柏樹社(2002年に春秋社から再刊)
・野口三千三(1979)『野口体操 おもさに貞く』柏樹社(2002年に春秋社から再刊)
↑野口氏の思考の軌跡がよくわかる本。

・野口三千三・養老孟司(2004) 『アーカイブス野口体操―野口三千三+養老孟司 (DVDブック)』春秋社
↑DVDで野口氏の話しぶりと体操の様子が実際に見れるのは貴重。

※野口体操の公式ホームページの、野口体操WEB LESSON(http://www.noguchi-taisou.jp/noguchitaisou/weblesson.html)や、「アーカイブズ野口体操」(http://www.noguchi-taisou.jp/noguchitaisou/movie.html)でもいくつかの動画を見ることができます。




追記

上の記事を書いたことを契機に、私が敬愛している先生にひさしぶりにメールを書きましたところ、その先生からお返事をいただきました。先生の許可を得て、そのお返事の言語教育に関する後半部分をここに転載いたします(一部の語句は変えております)。


個人的には、野口先生のからだ観、人間観、体操観、が大きな支えとなって、稽古が進みました(たいしたことができるわけではないのですけれど)。

ここに、竹内敏晴先生の「声論」などが私の中でからんできます。どれだけ小さな声で教室いっぱいに声を届けることができるか、授業で試したものでした。
竹内先生も昨年亡くなりましたね。

教師をしていて、声が後ろまで届かない、生徒のからだに届かない授業を参観することがあります。

昨年も、某校での英語授業参観をしました。授業の進行そのものもひどかったのですが、何よりも、教師二人の声が散り散りで見学者の私のからだに届かなかったのです。働きかけの意図を持った声を、ことばを、からだを、教師自身が創っていないのです。どこに向いているのか?少なくとも、目の前にいる生徒ではないでしょう。ひょっとすると、自分の閉じたからだの中で響いているだけなのかもしれません。

昨年12月、■■に参加し、声の届き方で気づいた点を講師ご本人に話しました。筋肉の過緊張が見られたので話を聞いていくと、かなり精神的にきつい状況だったことを述べられました。からだは正直です。

(中略)

「それ、知ってます」という言葉を使う若手に、「知ってる、とできる、の差は大きいよ」と言います。どれだけできるのか、と問われたら赤面しますが・・・。


このような話をしますと、よく得意げに「それって、『英語教育』の話じゃありませんよね」と言って、話を切り捨てる人がいますが、私にとって自分の知的生活・実践生活に縄張りをはってそこから一歩も出ないことで自分のプライドを保っている方のことを理解するのは困難です。私はそのように頑なな方に個人的な親愛の情を抱いたことは一度もありません(はからずも、このことが私自身が頑なな人間であることを示しているのですが 笑)。「からだ」や「声」といった根源的な事柄についても英語教師として考え続けたいと思います。







追追記

上記の先生からまたメールをいただきました。このブログ記事で書かれている内容は、多くの読者には理解されないのではないかとご懸念でした。


内容がかなり濃いので、おそらく読んでもピンと来る方は少ないのでは?と思いました。

私の書いた部分だけを若い人に読んでもらったところ、「声が届くというのは、大きな声を出すということですね」と言われました。

「音は大きければ届くけれど、それで声、言葉が届くとは限らない」という、なにやら禅問答のようなことを言ってしまいました。

声について、発声法について、人前で語ることを生業にしている人がもっと関心を持っていいのでは、とずっと思っています。


この点で、まさに昨日経験したことを書きますと、私は所用で、某電気量販店の代表電話番号に電話をかけました。開店時刻の10時丁度にかけたせいか、呼び出し音を10回以上鳴らさないと応答がありませんでした。

しかも、その応答は「はい。○○本店です」というものでしたが、私はそれを聞いて思わず「もしもし?」と応答せざるを得ませんでした。私に呼びかけている声にはまるで聞こえず、機械音声の自動再生かと思ったからです。私は直接口にこそ出しませんでしたが、私が思ったのは「もしもし、これ人間がしゃべっているんですか?」といった疑念でした(考えてみればこの店だけでなく、大企業の電話オペレーターはしばしばこのような発声をします)。

上の言い方を借りると、この女性オペレーターの音は私に明瞭に届いているのですが、声としてまったくといいほど伝わってきませんでした。(おまけに、その後に私が所用を伝えても、一度ではきちんと理解してくれませんでした。ひょっとしたらこのオペレーターは、「丁寧」に聞こえるようなことば遣いはしているものの、まともに声を出して、きちんと声を聞きとろうとはしていないのかもしれません)。

竹内敏晴氏が言っていることも、このようなことだと思います。

人に声を、ことばを、伝えるという根源的なところは、やはりきちんと自覚し、必要に応じて訓練しないと、授業も何も成立しにくいのではないかと思います。




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