「ギターバカ」の学生さんは、実はある私立進学校の出身なのですが、その学校では教室に「目指せ偏差値70以上」と大書されたポスターが掲げられ、志望校に特化した受験指導がなされ、勉強について自分で考える必要はまったくといっていいほどなかったそうです。私のゼミ生は、そんな学校に行きながらも、時間はできるだけギターに使い、受験勉強には必要最小限の時間しか使わなかったそうです。
その結果、歩いていてもギター演奏のことについて考えているような自称「ギターバカ」になったそうですが、私は彼にギターがあって本当によかったと思っています。もし彼にギターのように自分の感性と思考のすべてを捧げられるような対象がなかったら、彼は受験には合格するものの、自分で感じることも考えることもできない「単に広大に来ただけのバカ」になっていたのではないかと恐れるからです(「バカ」「バカ」と乱暴な言葉を多用してごめんなさい。しかし少なくとも彼と私の間では信頼関係ができていますので、この言葉を使っています)。
彼(および他のゼミ生)は、それぞれの心身没入経験がありますから、それを基盤に感じて考えることができます。ですから、これから読書と執筆の経験を積み重ねてゆけば、学術的にも成長できるものと思います。ですが、もし学生さんが、これまで「砂を噛むような思い」あるいは「紙を食べるような思い」をして我慢しながら丸暗記を繰り返し、自分の感性を殺し、思考力を根絶やしにしていた結果、現在の大学に来たのでしたら、基盤となるべき自らの心身が育っていないのですから、言葉を振り回すだけのような文章を書くだけに終わるかもしれないと私は怖れます。
世間の多くの人は大学合格を、とりあえずの教育のゴールと考えますが、大学で教鞭を取る私からすれば、大学合格は単なる通過点に過ぎず、要はどれだけのことが「身についている・身につけることができるか」だと痛感しています。
身についていない丸暗記の学力では、対応力が育ちません。丸暗記だけの学生さんは、まさに頭でっかちで、身体的感性が育っていません。身体的感性が育っていないから、知的感性が乏しく、心の底からの内発的な学習意欲がありません。だから大学での勉強も、まさに「勉め強いる」ものとなり、単位を取るだけのためにできるだけ要領よく短時間で済ませ、後にはさっぱり何も残らないものになります(あるいは人に褒められたいがためという外発的動機づけでしか勉強しません)。ですから生きるための力はほとんど育っていないのですが、自分自身では学校で好成績をとったのだから優秀なはずだというプライドがあるため、余計にその落差に苦しんだりしかねません。
と、ずいぶん勝手なことを言いましたが、私の率直な意見を言いますなら、大学に来るまでは、できるだけ自分の心身のすべてを捧げて熱中するような経験を優先し、しかしそれだけでは世間的に通用しにくいから最低限の勉強と受験対策をしてもらった方が、後々伸びると思います。逆に、受験対策を最大化し、自分の心身で感じることも考える事も抑圧したままに大学に来ると、たとえ大学はこれまでの要領で卒業することができたとしても、その後の人生で何かと苦労するのではないでしょうか。
日本が人口増に伴い右肩上がりで安定的に経済成長していた頃は、「大学に合格さえすれば」人生の(経済的)成功は約束されたように思われてきたかもしれませんが、日本が人口減に向かい、さらにグローバルな資本主義競争にさらされている昨今「大学に合格さえすれば」と、若い人の心身をすり減らすような受験対策ばかりすることは実は非常に危険なことではないかと私は危惧します。
追記
そういえば、私は動画紹介サイトで、過去にこう書いていました。
私からすれば、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが、学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだと思います。この世界の中の身体を基盤とした直観知の発達を抜きに、ペーパーテストの点数だけ上げても、そんな「エリート」は現実世界で役に立たない(時に現実世界の障害になる)からです。
http://greatpresentationvideos.blogspot.com/2011/10/rsa-animate-divided-brain.html
からだをまるごと使った経験がますます少なくなり、塾ではどうしても即効的なテスト得点向上が目指されるだけに、体育・音楽・芸術・技術家庭などのからだと心をまるごと育てる科目がどんどん重要になってくると思います。昨今の「教育改革」は、まるで逆のベクトルをもっているようですが。
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