国立国語研究所での招待講演(単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ)を無事終えることができました。関係者の皆様、聴衆の皆様に感謝します。その時の音声ファイルを掲載しますので、ご興味のある方はスライドおよび予稿を見ながらお聞き下さい(講演は約60分です)。
■寄せられた質問への回答
講演の後にいくつかの質問が寄せられ、私はそれらに答えました。
Q1: あなたの言語観はヴィゴツキーやバフチンの言語論と大きく重なる部分があると思うのだが、どうだろう。
A1: ヴィゴツキーやバフチンについては、一時は非常に影響を受けたが、ロシア語が読めないので、きちんと勉強することを今は断念している。私が言語観で影響を受けたのは、ウィトゲンシュタイン、アレント、ルーマンである。
最近は(武術の関心もあって 笑)野口三千三を20年ぶりに読み、そこから再び竹内敏晴の言語観に強い興味を抱き始めた。また今回の講演で「過程」という言葉が出てきたが、そこからこれまた20年ぶりに時枝誠記の『国語学原論』を読み返したいと思っている。
これらの人々は、英語を中途半端な日本語にしながら考える私たちと違って、日本語で忠実に考えているから非常に面白い。竹内敏晴の例で、「手を出す」と「手が出る」や、「目をやる」と「目が行く」の違いがあるが、後者の日本語表現は、リベットの言う意識の後発性を例証しているようで非常に興味深い。これらの思想を、もしきちんと英語で表現できればこれはグローバル社会への一つの貢献と思っているので、日本に住む日本語母語話者としてこれらの作品は大切にしたい。また武術も含め(笑)、日本文化は本当に世界に誇るものをもっていると思う。
Q2:実在論的測定ばかりを強調しすぎるのはバカげているが、一方で存在論的探究を重んじると精神論がはびこるのではないか。言語は形あるものなので「測定」を放棄することは言語教育の敗北になるのでは。
A2: まったくその通りで、実在論的測定と存在論的探究の両方が必要。学生にもいつも「測れるものはきちんと測れ」と言っている。もちろん「ただし、その測定で考察がすべて終わるのかどうかは十分に吟味せよ」と付け足している。
付記:マックス・ウェーバーの「精神なき専門人 心情なき享楽人」(Fachmenschen ohne Geist, Genussmenschen ohne Herz)という言葉をふと思い出したので、ここにも書いておきます。上では「精神論」というのが悪い意味で使われており、私もそのように批判されるべき態度・言説があることは十分に承知しておりますが、他方で精神性といったことを放棄すること(時には冷笑すること)こそが専門家であるといった風情も時に見られます。「精神論」の無批判的な肯定・否定には共に警戒したいと思います。(2012/02/21)
Q3: 存在論的探究を授業方法に反映させるとしたらどういった方法が考えられるか。
A3: 評価を急がないことだと思う。私は先日、学部3年生相手のコミュニケーション能力論の半年間授業を終えたが、毎週の討議と感想提出、および期末レポートで学生それぞれと相互理解を深めることができたと思っている。その相互理解こそは、お互いの授業評価だと思うのだが、その一言では語れない理解も、制度上は「秀・優・良・可・不可」の5種類に分けなければならない。正直私はそれが苦痛だった。いろいろ言いたいことはあるのだが、例えば遅刻が多かったからなどの理由で評価を下げたりせざるを得なかった学生もいるが、その学生が後日「ああ、結局私は『良』(あるいは『可』)か」と、半年間(あるいはこれまでの三年間)で築きあげた「コミュニケーション能力」についての理解を単純な記号に還元してしまうかもしれないことが、私は非常に嫌だ。
Q4: 第二言語を学んで複合的言語自己が形成された場合、言語の特性によって人格そのものに影響が出るという研究はあるのだろうか。
A4:「人格」という概念は大きすぎるので、もう少し小さなレベルの例で答えたい。例えばLantolfが言っていることを、日本人を対象にして言えば、日本語は「歩いて行く」というように動作のmannerとpathを分けて表現することが多いが、英語ではそれらを"walk"という動詞一語で表現する。先日、田尻悟郎先生がNHKでティーンエージャー相手に英語を教えていたが、やはり「歩いて行く」というのは"go"を使わなくてはならないのではないかと思い込んで、すぐに"walk"という単語と結びつかなかったと言っていたが、これもそういった例として説明できると思う。
■シンポジウム全体総括の際にスライドで提示したキーワード(およびその簡単な説明)
・固定的状態の達成(終結的目標)か、均衡状態の維持発展(永続的目的)か:
要はendとorientationの違いをきちんと理解しようということだが(参考:「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」)、第二言語教育では、学習者はどの時点でも彼・彼女自身としての均衡を保っている存在として認められるべきであり、「言語知識がない欠損的存在」と見られるべきではないということは強調したい。どんな学習状態でも、学習者は複合的言語自己として、様々なコミュニケーションを取りうる存在である。
・コミュニケーションにおいて、 言語は重要な資源であるが、 目的ではない:
これは「言語コミュニケーション力の三次元的理解」(参考『危機に立つ日本の英語教育』所収論文)以来強調していることだが、コミュニケーションにおいて言語は重要な要素であるが、言語だけでコミュニケーションができるわけではない。言語知識を得ることが、それだけで言語教育の目的になるべきだとは考えない。
・「日本語母語話者」も「汚染」(デリダ)されているし、進化する:
以前のブログ記事(純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観)でも述べたように、理想化された「日本語母語話者」を固定的に考えることには批判的であるべきだと思う。どんな言語話者も他言語の影響を受けているし、またどんな言語も進化(変化)する。
・「多文化共生コミュニケーション能力」は「個人」に帰属できない能力:
「相互作用性」で述べたように、言語コミュニケーション力のある側面は、個人内だけに帰属する能力ではない。いわば「場」がもつ力というのもある(端的な例は、「べてるの家」でのコミュニケーションである)。
・相互作用における 両者の同調 (一つの系の二項):
合気道的な考え方だが(笑)、相互作用的にコミュニケーションをしている二者は、一つの系(システム)の中で構造的に関係づけられている二項(二つの要素)と考えることができる。
・「外国人」の日本語習得と、「日本人」の 日本語使用は連動しなくてはならない。 (「そもそも『外国人』、『日本人』とは何か):
The New York TimesのDebateでも今やアメリカ人などの英語母語話者は、実利的な点からだけからしても、非母語話者の英語に慣れる必要があるという論が出ていた。外国語としての日本語を学ぶ「外国人」が増えるにつれ、「日本人」の日本語使用もその実態に合わせて変わらざるを得ないのではないか。(そもそも「外国人」や「日本人」といった概念も、国籍の有無だけで考えるならともかく、丁寧に考えていくと非常に漠然とした概念であることがわかる)。
・ハーバマス的理想的対話状況か、 ルーマンの差異によるコミュニケーションか:
「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」でも述べたが、コミュニケーションにおいて、理解の共有を目的と考えるのか(ハーバマス)、差異が次々にコミュニケーションを生み出すことを目的とするのか(ルーマン)という点は、きちんとおさえておく必要があると思う。
・一方が主体で他方が他者(管理)なのか、両方が主体でもあり他者でもある(共生)のか:
これまでともすれば授業においては教師だけが主体で、学習者は管理されるべき他者(=教師からすればよくわからない存在)と思われてきたきらいがあるが、教育においては、教師は主体として働きかけるが学習者からすれば他者であるし、学習者も主体として参加(あるいは非参加)しているが教師からすれば他者に思えるという両義性をきちんと理解するべきだと考える。「私は、他者にとっての他者である」という認識は「共生」のために重要である。
・私的評価と公的評価(制度化と権力化):
ポスター発表の中で「私たちは私的な評価を日常的に行なっている」という指摘があったが、まさにその通りだと思った。その中で、私たちはある種の評価を公的なものとしようとする。公的なものとするため評価は制度化され権力化されるが、その中で何が失われるのか、そもそもなぜその評価が権力をもつべきなのか、といった考察は重要だ。
・規範の具体的提示 (promoting appropriation)と、規範の権力性を無理やり認めさせること(enforcing the norm)の違い:
評価に対して批判的な態度を取るといっても、それは評価の規範(例えば標準的な日本語表現)の提示を禁ずるものでは決してない。教育から規範性を取り除くことはできない。教育において規範は抽象的にも具体的にも示されなければならない。だが、その提示と、その強制は異なる問題であると私は考える。
以上を簡単な報告とします。関係者の皆さんに改めて感謝します。
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